概説 | 本城跡は清明川中流縁辺の舌状台地突端部と、低地を挟んだその裏山丘陵に防塁を構築した、戦国様式の丘城である。主郭部の地点は地名「たて」であり、この部分の成立は古いらしい。主な遺構は本郭・IIの郭・帯郭・堀・土塁・隅櫓跡・井戸跡等であり、最近の破壊以外は良い形で残っている。城の歴史については不明であるが、遺構の様式や周囲の関連からみると、末時は土岐勢力の出城と考えられる。また付近に結界石もある。[現地解説板より] 海抜30m近い台地の突端部に構築された連郭式で、清明川流域を一望に収めている。遺構の残存は非常によく、本郭、二の郭その他の郭及び精巧な土塁と、畝堀を備えた堀に守られたまま、当時の面影を今に伝えている。北側には低地を挟んで丘陵があり、この丘陵北斜面は三重構造の堀土塁で厳重に固められている。本郭のある南側の丘陵と、北側の丘陵の中の低地は字名本郷で、当時は家臣団の居住区であろう。なお地形より判断すると水の手郭の可能性がある。[『阿見町史研究第6号文化財特集』より] 城の歴史については記録・文献などはなく明らかでないが、伝承に城の主は館野氏であったといわれるが、これはたて時代の主か少なくともたての中に居た人を指し、改造以前の館主かと推測される。信太一円より小田一族の去ったあとに、これを領有したのは、土岐氏であるため、この城の大改造及び新式防御法を取り入れたのは、土岐の手によるものと判断される。[『阿見町史』より] |
北側丘陵の三重構造の土塁・堀![]() |
その他の写真 |
訪問記 | [2000/11/13]本郭のある南側を歩いた。君原公民館を右手にみて直進すると道は左へ曲るが、その角に案内板がある。しばらく直進し山道へ入って行き少し右へ降りるように左へ廻り込んで行くと土塁の切れ目になる。左へ進むと稲荷社のあるたてと呼ばれる二の郭跡がある。二の郭の西に本郭跡がありその西側土塁の外側に畝堀がある。 [2001/04/23]今日は、塙をたまたま通りかかったので畑で作業をしている方に「裏山の三重の土塁や堀を見たいのですが登れますか?」と尋ねたところ、偶然にもその裏山全部を持っていらっしゃるご本人でした!そしてご親切にもご本人に案内していただき、すばらしい三重の土塁を堪能できました。もし竹が刈られてきれいに整備されていたらここはものすごい遺構ではないでしょうか。 |
所在地 | 稲敷郡阿見町塙字館。 |
参考書 | 『阿見町史』、『阿見町史研究第6号文化財特集』 |