概説 | 海老ケ島城は明野町大字松原字城之内を中心に築城された平城で、松原集落の周囲は現在でも田地が取り囲んでいることから戦国期も深田で守られた水城的な防御体制だったと考えられる。海老ケ島城は、寛正2年(1461)12月から構築され始め応仁元年(1467)に、結城成朝の嫡男秀千代が10歳で居城したと言う。この城は、結城本領から離れ、その宿老の下館の水谷氏、下妻の多賀谷氏の外側に位置し、桜川をはさんで筑波山麓の小田・真壁両氏と対陣する状況下にあった。結城方と小田方との境界的位置に出城的存在として、結城勢の出撃拠点として多数の軍兵が駐屯できるような面積をもって形成されたように思われる。海老ケ島城は小田氏勢の攻撃を受けたが、とくに、天文年間には俊元が小田氏と結んだ宍戸四郎通綱に攻められ、板橋城主(伊奈村)月岡播磨守や牛久城主(牛久町)岡見治部太夫の支援を受けたが、天文15年(1546)に落城し、一族は姻族の岡見氏のもとに逃れたという。[『明野町史』より] |
龍泉寺墓地南側の水堀と土塁 |
海老ケ島城残存遺構図(クリックで拡大) |
その他の写真 |
訪問記 | [2002/11/24]潮風さんに海老ケ島城、四保城、村田館を案内してもらった。なんとこの日は四保城探索の火付け役である『群馬の城郭』の大村さんもごく近くでお仕事されていたようで、われわれの車を遠目で確認されて悔しがっていたそうです。 [2004/12/13]新善光寺の周辺には堀・土塁がかなり残っていると言える。その延長で西側を流れる大川への排水経路まで辿ることができた。龍泉寺の南側の土塁は潮風さんも言うようにかなりの大きさではあるが、民家北側の防風土塁としての目的で残されていたようでわずかしか残っていないのが残念だ。集落東側の倉屋敷という地名にある民家の東側にはしっかりとした土塁が残るようだが、今日はご不在だったため近くまでは寄れず遠目で眺めただけだった。この土塁はかなりのものだと目を付けたので次の機会に期待したい。集落の北東部に「大門跡」という地名が残るが『明野町史』によると「竜泉院の第一山門があったため、村人たちは大門(でえもん)と呼んでいる」とあり、城館時代の地名とは限らないようである。ただ、この道はしっかりした土塁で守られており、戦国期にも虎口があったことは考えられる。また、『明野町史』によると「海老ケ島城の西北方に、今館と呼ばれる地点があり、出城的遺構が見られる」とあり、海老ケ島城周辺の城館配置を考える上で考慮したい点である。 ともかく松原周辺は住宅が入ってしまい、城館遺構残存は決して良いとは言えない。堀・土塁の残欠を図面に落とし、それらを繋ぎ合わせても縄張の推定が可能かどうかと言ったところであろう。尚、前回潮風さんに案内してもらった「家臣屋敷跡と思われる遺構」は柵で囲まれており確認が出来なかった。今日は体調不良もあり1時間ほど松原集落内を散策しただけなので残存遺構のすべてを記録できていないので、近い内に再訪したいと思っている。 |
所在地 | 茨城県真壁郡明野町松原。松原十字路の東側集落一帯。 |
参考書 | 『明野町史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』 |