北海道道南の中世

(1)道南十二館
 松前氏の先祖以来の歴史を書き綴った「新羅之記録」には後述の「コシャマインの戦い」に関する叙述の中に和人の館として12の名が記されている。それをとって道南十二館と呼んでいる。
 蝦夷地への和人渡来については諸説あるが、道南十二館の構築は、ある資料によると15世紀の半ばとなっている。しかし、実際に和人が蝦夷地に渡来した上限は館が構築される以前であることは容易に想像できる。ただ、館を構築した豪族やその一族郎党や配下にあった和人が渡来するにあたっては種々な経緯があったであろう。鎌倉幕府の陸奥、出羽攻略によって故郷を追われた者、豪族間の争いに敗れて渡来した者、罪人として蝦夷地に流刑された者、大きな望みをもって渡来した者、この人たちが蝦夷地北海道の歴史の推移に大きな役割を果たしてきた。しかし、道南十二館の興亡の中で蝦夷地の中世社会を大きく動かしていくのは下国安東氏であった。

 左の地図では道南十二館を二重丸◎で、その他の館を黒四角■で現してある。

 また、それぞれの館の現況については『道南の城館・チャシ』をご覧下さい。

(2)安藤氏一族の蝦夷島への渡海
 永享4(1432)年、津軽十三湊(青森県市浦市)の安藤泰季(安藤氏の惣領)が、三戸の南部氏(南部氏の惣領)との抗争に敗れて蝦夷島へ没落、一旦は室町幕府の和睦命令によって十三湊へ帰還するが、嘉吉2(1442)年、ふたたび南部氏との抗争に敗れて津軽北端の柴館(青森県小泊村)へ逃避し、翌年小泊から再度蝦夷島へ没落した。泰季は津軽を回復すべく南部氏と戦うが失敗、文安2(1445)年に病死し、享徳2(1453)年にはその子義季も死去、安藤惣領家は滅亡する。嘉吉2年に泰季が南部氏に再度津軽を追われた後、その庶流で外が浜の潮潟(青森市)を本領とする安藤道貞の孫政季(はじめ師季)は、八戸南部氏によって八戸(八戸市)へ連行されるが、やがて南部氏の傘下にあって田名部(青森県むつ市)を知行するようになる。そして、そこで実力を蓄積し享徳3年、下北半島北端の大畑(青森県大畑町)の湊から蝦夷島へ渡海し、南部氏の統制を脱却して独自の歩みを開始する。この時、政季に従った一族や武将は、舎弟の茂別八郎(式部大輔)家政と武田信広・河野政通・相原(粟飯原)政胤らであった。

 蝦夷島に渡った政季は、安藤惣領家の継承者を自認する一方、一族で秋田湊を押さえる安藤尭季の招請を受けて、康正2(1456)年に小鹿島(秋田県男鹿市)へ渡り、間もなく米代川(野代川)中流域の檜山城を本拠として檜山安東氏を興したのであった。そして、政季が蝦夷島を去る時、下国の支配を舎弟の家政に、同じく松前は一族の山城守定季(松前大館の館主)に、同じく上国は蠣崎季繁(花沢館の館主)に委ね、さらにそれぞれの補佐役として河野政通(宇須岸館の館主)・相原政胤(松前大館在住)・武田信広(上国洲崎館の館主、のち勝山館の館主)を配置したとされる。

十三湊安藤氏の系譜
 −−又太郎宗季−+−高季(師季)−法季−盛季−泰(康)季−義季<断絶>(十三湊安藤氏)
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         +−鹿季−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−(湊安藤氏)
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         +−道貞−重季−+−師季(のちに政季)−−−実季(檜山・秋田安東氏)
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                 +−家政−−−−−−−−−−−−(蝦夷島・下国安東氏)

(3)コシャマインの戦いと武田信広
 前出の「新羅之記録」によると、中世蝦夷におけるアイヌと和人との最大の戦いであるコシャマインの戦いについては以下のように記されている。
 康正2(1456)年春、志苔の鍛冶屋村で短刀を注文したアイヌの少年と和人の鍛冶との間で、品物の品質や価格をめぐる口論から、鍛冶が短刀で少年を突き殺してしまう事件が起きた。これがきっかけとなってアイヌと和人との対立が激化、その年の夏から戦闘が始り、翌長禄元年5月には大首長コシャマインによって志苔・箱館の両館が攻略され、以後次々に和人の重要な館が陥落、ついに下ノ国の茂別館と上ノ国の花沢館が残るだけとなった。当時、花沢館の館主は蠣崎季繁、そしてその客将・副将格として27才の武田信広がいた。この若い信広がコシャマイン父子をはじめアイヌ軍多数を倒し、和人を勝利へ導いた。そして、蠣崎季繁は主人安藤氏の娘を季繁の養女にもらいうけ、信広を娘婿として蠣崎家を譲ったのだと「新羅之記録」は説いている。この信広が実質上、後の松前氏の初代となる。
 信広は蠣崎氏の後継者になると、花沢館の北方、天の川の河口をこえた北岸に洲崎之館を建てここに住んだ。その後寛正3(1462)年継父季繁の死後、洲崎之館から花沢館に入った信広にとって、古い館は手狭で使い勝手も悪いので、新たに夷王山の中腹に大規模な館を作って本拠とした。これが勝山館だったと思われる。

(4)蠣崎氏の松前攻略
 蠣崎武田信広が上之国勝山館に自立して蝦夷島の覇権を目指してから、実際に蝦夷島の主として蠣崎氏が松前に住まいするまでには50年を超える歳月が必要だった。その経緯は「新羅之記録」他によれば次のようになる。
 永正9(1512)年に、宇須岸(箱館)・志苔・与倉前の3館が「夷族」に攻め落とされ、下之国守護代河野氏は宇須岸を放棄せざるをえない状態になった。これによって下之国方面はアイヌ人の掌中に入ったことになる。翌年永正10年6月には「夷狄」(アイヌ人)が松前大館を攻め落とし、守護相原彦三郎季胤が生害せしめられるという事態になり、松前方面もアイヌ人の手に落ちることになった。
 さらに翌々年永正11年3月には蠣崎信広の遺志を継承した光広・良広の父子は「小船180余艘」に乗って松前の大館へ移住するという事態になる。これにより、蠣崎氏は、上之国方面ばかりでなく、松前方面における覇権をも掌握することに成功し、和人勢力の中で最大の実力者の地位に到達したことになる。
 永正11(1514)年、蠣崎光広・良広の父子が松前大館の主になって間もなく、その纂奪劇について事後承認を得るために、檜山「屋形」(安東太尋季)へ報告したが、この纂奪劇は屋形の意に沿ったものでなく、なかなか承認が得られなかったが、ようやく屋形から「よろしく国内を守護すべし」という御墨付きをもらえた。
 以後、蠣崎氏の本拠は松前と定まったが、勝山館は依然として重要視され、「新羅之記録」によればおおむね蠣崎氏一族中の有力者が城代としてこの館を預かっていた。

[参考文献]
(1)富澤嘉平 蝦夷地の戦国時代 「箱館昔話第10号」(1998)
(2)市村高男 茂別館跡についての考察 「地域史研究はこだて32」(2000)
(3)入間田宣夫 北方海域における人の移動と諸大名 「北から見直す日本史」(2001)
(4)入間田宣夫・小林真人・斉藤利男[編] 「北の内海世界」(1999)
(5)長谷川成一[編] 「津軽・松前と海の道」(2001)


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