美浦村周辺に残る伝承

美浦村周辺(江戸崎町・阿見町を含む)に残る伝承を集めてみます

『親から子へそして孫へと語り継がれている伝承は、何代位正確に伝えているものであろうか。何百年もの昔より続いている部落などには、近辺で起きた昔の大きな出来事を、おぼろげながらも語り継いでいる場合がしばしば見受けられ、これを追求分析すると、非常に興味深いものがある。伝承による合戦、これはただ漠然とした要領の得ないものであるが、しかしこの漠然とした要領の得ない答えほど、鮮明にして且つ要領の得ているものが外にあるだろうか、書き写した一片の紙きれもなく四〇〇年もの長い歳月を経た答え、即ちこれが真の伝承と考えられる。[阿見町史研究第3号、大竹房雄「謎の古戦場天神原」より]』
目次
◎舟子城をめぐる合戦 ◎天神原の合戦 ◎赤熊丸のこと ◎保科長者 ◎稚児松塚 ◎成敗塚 ◎姫道

伝承伝承内容
舟子城をめぐる合戦[美浦村]
(その1)観音山の合戦。舟子軍敗北す。
(その2)清明川附近の合戦。小田軍、清明川を付け替え、木原へ攻め込む。
(その3)清明川堰の攻防戦で木原軍敗退。島津軍が木原城を攻撃、勝利を収む。清明川の付け替え、合戦場、勘定地面、死込(地名)のこと。
(その4)島津軍、清明川の畔で木原軍と戦う。死込、弔塚のこと。軍兵の留守を竜ヶ崎軍につかれて落城する。
(その5)木原落城の時、逃れて来た落武者が、泥田に落ちて死亡した場所を死込と呼ぶ。弔塚があった。[『塚原古墳群第1号墳調査報告書』より]
天神原の合戦[阿見町]
赤熊丸のこと[美浦村]
 木原城落城の際、城主近藤薩摩守利信は血脈の絶えることを憂い、江戸崎土岐家から客分として来ていた伊藤筑後に一子赤熊丸を託して城を脱出させた。筑後主従は何年かの潜行生活を送った後、木原へ戻ったが、佐竹派の詮索の目をくらますためと、潜行中から武家社会に嫌気がさしていたこともあり、筑後はおのれの孫娘を赤熊丸と夫婦にさせ、近藤家の花畑跡の低地に一戸を構えさせて馬医を開業した。以来伊藤家は一六代馬医を業とし、明治にはいって農業を営んだという。[ふるさと文庫『茨城の城郭4』より]
保科長者[江戸崎町]
 まとまった長者伝説といったものはないが、ただ長者がこのあたりに住んでいたという伝承がある。
 (1)下君山鹿島神社の西に布目瓦、礎石、焼米、石棺などが発掘されたあたりに長者が住んでいた。神社の裏手にあたる辺りに船着き場があり、小野川の流れを利用しての往来が盛んに行われていた。
 (2)この地に駅家があった。駅家の長であった保科長者の屋敷が長者峰にあった。長者は駅家の長の務めだけでなく、調の務めもしていた。小田氏治の女を娶ったとき、いわゆる常陸大道に対し、下君山のこの地から一直線に阿見町若栗に至る道路を新設した。里人はこれを保科街道と呼んだという。[『江戸崎町史』より]

 ところで、なんでここに小田氏治が出てくるのだろうか???
稚児松塚[江戸崎町]
 沼田の稚児松に三坪ほどの塚があった。この塚は天正年代(1573〜92)に江戸崎城が佐竹軍の芦名氏に攻められて陥ちたとき、城から遁れて来た土岐の殿様がここまで来て、自害なされたところという。現在は、耕地整理による河川改修の為に、その場所は水没している。[『江戸崎町史』より]
 今となっては場所も定かではない。スーパータイヨー西側へ延びる水田の中を流れる沼里川のどこかだったろう。
成敗塚[江戸崎町]
 江戸崎城下での犯罪人成敗の地、成敗塚が沼田道祖神の裏手にある。[ふるさと文庫『茨城の城館4』より]
姫道[江戸崎町]
 信綱(治綱の誤り)の男頼英は生来病弱で父祖の志をつげず、今の河内村(新利根町)太田に隠居し、叔父胤倫の女虎姫を妻としここに生涯を過ごした。虎姫の幼時、菩提寺寒天寺(管天寺)への墓参に、小袖姿もういういしい共人にかしずかれて通ったといわれる姫道が田宿にある。[ふるさと文庫『茨城の城館4』より]
 現在のバス通りから東の台地下へ降りる小径の上部のほんの一部がその名残と云われる。


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