大東流合気柔術の歴史

 大東流の由来 口伝によれば、大東流は、代々清和源氏に伝わっていたもの を、11世紀ごろ、新羅三郎義光が集大成したものとされている。義光は前九年 の役、後三年の役で活躍した、源頼義の子であり、源義家の弟である。
 義光は家伝の武術に一段の研究工夫をこらし、当時、戦場で死亡した兵士の 屍体を解剖し、その骨格の組立を調べて逆極手の技を極め、さらに、女郎蜘蛛が 、その張りめぐらした細い糸の巣網の上で、自分よりも大きな獲物と闘い、つい にがんじがらめに搦み取る手練の技に暗示を受け、また、白拍子の舞にヒントを 得て、苦心研究の結果、合気の神髄を体得し、極意を極めたといわれている。
 義光の子孫が甲斐の武田荘に住み、武田姓を名乗ってからは、武田家家伝の 武芸として代々伝えられた。甲斐武田滅亡後、天正二年(1574)、武田国継が会 津に至り、この技法を伝えた後は、会津藩御留技として、藩内のみに伝承された 。会津藩では大東流を藩の御敷居内(御殿術)に改定して、家老、小姓、重臣、 奥勤者及び五百石取り以上の御敷居内者に修得させた。
 幕末から、戊辰戦争、そしてその後の混乱の中、多くのものが失われたが、 この頃、大東流中興の祖、武田惣角(1860〜1943)が大東流を学んだといわる。
 以上のことは、口伝であり、はっきり文字にかかれた文書が残っているわけ ではない。そのため、大東流の起源については研究者によってさまざまな説がで ている。
 だたはっきりしていることは、明治になって、武田惣角が現れ、明治31年か ら、昭和18年の死ぬまで、大東流の普及につとめたということである。
 惣角の家は北海道にあったが、一つの道場に長くとどまることはしなかった 。惣角はいつも日本国中を歩き回り、大東流を伝授していった。したがって、ひ とりの人に数年以上教えることはめったになかった。そのうえ、伝授法はほとん ど見せるだけで、細かい説明はほとんどなかったといわる。そのため、弟子達は 工夫し稽古するしかなかった。また、惣角は、教える相手の体格や武道歴などあ わせ、ちがった傾向の技を教えたといわれている。今日、日本にはたくさんの大 東流を名乗る組織があるが、それぞれが独自の技をもっているのは、このためで ある。
 武田惣角は大東流を誰かに伝授するとき、必ず英名録にその名前を書かせた 。また、謝礼を受け取った時には、謝礼録にそれを必ず記載した。今日我々は、 惣角がいつ、誰に、どのくらい大東流を教えたを知ることができる。


流祖・系譜

流祖  新羅三郎源義光
系譜  新羅三郎源義光───武田義清───武田信義───武田信光───
  ──武田信政───武田信時───武田時綱───武田信宗───
  ──武田信武───武田信成───武田信春───武田信満───
  ──武田国継───武田主税───武田信次…………………武田惣右衛門
  ──武田惣角───久 琢磨


武田惣角 

 大東流合気柔術中興の祖といわれる武田惣角源正義は万延元年(1860)10月10 日福島県会津坂下町に武田惣吉の次男として生まれた。父・惣吉から幼少の頃よ り剣術、棒術、相撲、小具足などの手ほどきを受けた。特に武田家では、相撲が さかんで、今でも惣角の生まれた家には、土俵が残っている。
 戊辰戦争後、会津藩の消滅、さらには武家社会そのものの崩壊という明治維 新のめまぐるしい変化の中で、惣角は会津坂下町の渋谷東馬に就いて小野派一刀 流を学び、更に各地を武者修業し、明治6年(1873)には、幕末の剣士・直心影流 の榊原鍵吉の内弟子になり剣術の修業をつんだ。
 明治8年(1875)兄・惣勝の死により、武田家神職を継ぐことになり、父・惣 吉にともなわれ、福島県東白川郡都々古神社宮司保科近悳(西郷頼母)を訪ね神 官見習いに入るが、読み書きが大嫌いであった惣角は神職を継がず、武芸一筋の 人生を歩むことになる。
 明治12年8月惣角は近悳を訪ね、付き人として水汲み、庭掃除、風呂炊きな どをする一方、大東流御敷居内を学んだと言われている。
 明治31年、惣角は霊山(りょうせん)神社に参詣し、宮司となっていた保科 近悳と再会している。近悳は、再会を喜び、惣角に大東流御敷居内および小具足 を教授し、惣角に会津藩に伝わるこれらの秘技の継承を諭す。このとき近悳は、 惣角の英名録に一首「しるや人川の流れを打てばとて、水に跡ある物ならなくに 」と記した。この歌は、「もはや剣の時代ではない。これからは大東流合気柔術 を後世に伝えてゆけ。」という気持ちをうたったものとされている。
 その後、惣角は大東流合気柔術と小野派一刀流の二流をもって全国を巡回指 導して歩いた。 武田惣角の英名録と題する門人帳には西郷従道大臣をはじめ、 将校、裁判官、警察署長など、明治、大正、昭和にわたり、有識者や著名な人物 が署名捺印をしており、惣角の武芸の実力を知ることができる。 昭和18年4月25 日(86才)青森で客死するまで、武者修業に出て70年間他流を含めた申し合いに負 けることがなく、これらに関して各地で多くの逸話を残している。

久琢磨

 久琢磨は明治28年11月3日高知県安芸郡佐喜浜村に生まれ、成器商業を経て 、大正4年苦学して神戸高商(現神戸大)に入学し、相撲部主将として活躍した 。学生相撲の創設者の一人で昭和40年学生相撲名誉8段を授与された。卒業後、 鈴木商店に就職したが、倒産のため神戸高商の先輩石井光次郎に誘われ、朝日新 聞社に入社した。

 昭和初期、朝日新聞社はテロリストの襲撃を受けたため、自警団を組織する ことになった。そこで、昭和9年、大阪朝日の庶務部長の重職にいた久は、石井 光次郎の紹介で東京の植芝盛平を招き大東流合気柔術を学ぶこととなり、昭和18 年同新聞社を退職するまで修業した。当時植芝盛平は流名を名乗らず、朝日でや っているから旭流柔術と名づけているが、大東流そのものであった。
 昭和11年6月惣角が来阪し、「我は植芝の師である、植芝にはまだ十分教え ていないからわしに習え」と言われた。植芝は惣角に会うことなく、門人を引き 連れて大阪を去った。その後、久は惣角を師として指導を受け、大東流合気柔術 の修練をつづけた。惣角は大新聞社で辣腕をふるう久に昭和14年3月26日免許皆 伝を授与し、大東流を後世に遺すように伝えた。
 久が惣角から指導を受けた際、惣角は日に二〜三手しか指導せず、また同じ 技を二度と教授しなかった。聞き返すと機嫌が悪く、とても覚えきれないので、 久は稽古の後、惣角を風呂に案内して背中を流している間に、他の者に教わった 技を写真に収めさせた。この写真、11巻を「天・地・人」に分け「総伝」技とし て記録保存した。著書に「惟神(かんながら)の武道」「女子護身術」「捕技秘 伝」及び久監督の映画フィルムに「植芝の指導風景」がある。

 昭和18年新聞社を退職、神戸製鋼の厚生部長を勤めた後、一時郷里で網元と なる。その後矢次一夫主宰の国策研究会関西事務局長として活躍するが、昭和34 年退職の慰労会の席で、石井光次郎より「君しかできない大東流合気柔術を後世 に伝えるように」と激励され、久は大東流合気柔術の指導に専念する決意をかた めることになる。
 同年10月、関西財界の支援により、関西合気道倶楽部を設立した。しかしな がら指導半ば36年秋脳卒中で倒れた。再起不能とまで思われた病を、強靭な意志 力で克服し、指導を再開した。昭和40年2月妻を失った後も道場に寝泊まりして 指導普及に努め、多数の門人を育成した。健康を気づかった家族の説得により、 昭和43年東京に転居し、同倶楽部は閉鎖された。
 昭和50年8月、門弟たちの総意により琢磨会を結成。久は森恕を琢磨会総務 長に任命し、事後を託して、昭和55年10月31日神戸で84才の生涯を閉じた。門弟 たちは久琢磨の遺志を継ぎ活躍している。

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