ノルマンディー歴史紀行

カーン逍遥(2)


征服王ウィリアム鎮魂の町



サンテティエンヌ教会と男子修道院

 カーン駅は市のはずれにある。まずはタクシーを飛ばして、征服王
ウィリアムゆかりのサンテティエンヌ教会と男子修道院を訪れた。

 ノルマンディー公ウィリアムが、フランダース辺境伯ボールドウィン
5世の息女マチルダと結婚することを、ローマ教皇庁は認めていなか
った。二人は血縁はないが、戸籍上は5親等であったからである。

 名僧ランフランク修道院長のとりなしで結婚は追認されたが、贖罪
と教皇庁への感謝の意味をこめて、二人はカーンの町に僧院と尼僧
院を建立し寄進した。
 ノルマン・ロマネスク様式の傑作サンテティエンヌ教会修道院と、トリ
ニテ教会女子修道院である。
 サンテティエンヌ教会は13世紀に正面部分にゴシック様式が取り入
れられ、2つの四角い尖塔が立っているが、まだシンプルである。

 この寄進により、ノルマンディー公ウィリアムはローマ教皇庁との関
係が親密となり、イングランド征服に際しては、聖ペテロの旗幟を頂い
た。この旗幟がイングランドのキリスト教徒に与えた影響は大きかった。
(詳細は「見よ、あの彗星を」邂逅をご覧下さい)

 ノルマンディー公ウィリアムは、1066年懸案のイングランド征服を
成し遂げ戴冠した。しかし、その後の人生も波乱に富んでいた。
 イングランド王兼ノルマンディー公という2カ国にまたがる覇権を握っ
たが、運命は過酷であった。

 嫡男ロバートはフランス王と結託し、再三父ウィリアム王に反抗した。
フランス王を掣肘せんと、マント(パリとルーアンの中間)を攻めた。
町に火をつけたが、馬が驚き、王は腹部を鞍で強く打ち、落馬した。
 ルーアンに帰ったが、傷は日に日に重くなり、1087年9月9日郊外
の丘の小さな僧院で没した。波乱万丈の60年であった。

 遺体はカーンに運ばれ、ウィリアム公が創建したサンテティエンヌ教
会に埋葬されたが、その葬儀は哀れであった。
(詳細は「われ国を建つ」に掲載しますが、一部は「談話室」No  に
掲載しますのでご覧下さい)

 ウィリアム公はカーンの町を愛したようである。
ルーアンはハイ・ノルマンディー地方の中心都市としてパリに近かった
が、庶子として、ロー・ノルマンディーの田舎町ファレーズに育ったウィ
リアム公は、やはり身近なカーンがよかったのであろう。

 「男子志を立て郷関を出で、古里に眠る」というべきか。


王妃マチルダ建立のトリニテ教会

 サンテティエンヌ教会と男子修道院からテクテクと、サン・ピエール通
りを散策した。途中には僅かに戦火を免れた、古い典型的なロー・ノル
マンディー地方風の建物があった。今は郵便・通信技術博物館とか。



城とサン・ピエール教会の前を抜けてトリニテ教会に着く。



 カーンは第2次大戦のノルマンディー上陸作戦の激戦地である。
ロンメル将軍率いるドイツ軍団は勇敢に死守、米英連合軍との攻防は
2ヶ月に及んだ。そのためカーンの町の建物は75%が破壊焼失した。
しかし、征服王ウィリアムとマチルダ王妃ゆかりの2つの教会と修道院
は戦火を免れた。
 修道院は攻撃しないとの暗黙の了解があるのだろうか。



    Dデイのカーン攻防激しくも戦火に残る尼僧院訪う  憶良

 マチルダ王妃はフランス王室の血縁もありプライドが高かった。
「庶子(正式な結婚をしていない女性に生ませた子)と結婚する位なら
尼にでもなるわ」といったそうであるが、ウィリアム公と結婚し4男6女を
生んでいる。

 マチルダもまた自ら創建したトリニテ教会に埋葬されている。
こじんまりとした教会であるが、正面の飾りは少なく、シンプルで優雅、
典型的なノルマン・ロマネスク様式である。はるばる来た甲斐があった
と疲れがとぶ。赤いステンドグラスが、いかにも尼僧院風である。

 マチルダもまたロンドンのウェストミンスター寺院で王妃としての戴冠
式をあげたが、その王子たちの骨肉の争いは激しく、安らかな後半生
とはいいがたい。
モン・サン・ミッシェル大修道院(3)―ノルマンディー公と島―に記載)
 フランダースから遥遥遠いノルマンディーに嫁ぎ、何を考え、何を祈
ったであろうか。

 再びテクテク歩き、6月6日大通り(つまりDデイノルマンディー上陸作
戦の記念の命名)を駅まで歩いた。



バイユー暮色

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