ノルマンディー歴史紀行

バイユー暮色





戦火免れたフランスの国宝刺繍

 カーンからバイユーは急行列車で僅か16分である。3時42分に乗
り58分に着く。小さな田舎町であるが、バイユーは中世英仏史では
重要な町である。

 第2次大戦でのノルマンディー作戦では、幸運にも戦火に曝されず
にナチス・ドイツ軍から戦闘開始翌日の6月7日に解放された。

 ノルマンコンクェストの中心場面をを絵巻物にしたようなバイユー・
タペストリーは、ナポレオンによってフランスの国宝とされ、バイユー
市の管理下にあった。11世紀の生活が詳細に分かるこの刺繍が焼
失しなかったことはうれしい。

 バイユー・タペストリーは駅から600米ほどのウィリアム1世文化セ
ンターに保存されている。閉館までの約1時間、幅50cm長さ約70m
の刺繍の鑑賞に浸った。




英国製のバイユー・タペストリー

 バイユー・タペストリーは、18世紀ごろから「王妃マチルダのタピス
リー」とよばれ、日本の旅行ガイドブックなどでもそのように紹介され
ているが、これは誤伝である。

 ウィリアム公の異父弟、バイユー寺院のオド司教(仏名オドン)はノ
ルマン・コンクェストでは武将として重要な役割を果たしたが、征服後
歴史に残る貢献をしたのが、このタペストリー(仏タピスリー)の制作
である。

 タペストリーというから綴織と思うけれども、実際には灰褐色の麻の
生地に、8色の羊毛の糸で刺繍したものである。

 オド司教は1066年の征服後イングランドのケント公に叙任された。
彼は自分が司教を務めるバイユー寺院の再建式を、1077年7月14
日に開催した。その式に展示すべく、征服数年後の1070年あたりか
ら、ケント州カンタベリー大寺院に所属する工房の刺繍職人に作業さ
せたとみられている。
(バイユーに所在するからといってフランス製の刺繍ではない)


バイユー・タペストリーの制作目的

 バイユー・タペストリーは、1064年エドワード懺悔王の使者となった
ハロルド伯の船出遭難から始まり、1066年のヘイスティングズの戦
いで終わっている。
(刺繍の詳細は「見よ、あの彗星を」と「バイユーのタペストリー」および
「バイユーのタペストリー」複写刺しゅうを参照ください)

 したがって、一見するとこの激動の3年間をまとめたウィリアム公の
戦勝記念絵巻物のように思えるので、王妃マチルダがノルマンディー
の女たちに刺繍させたタペストリーと誤伝されたのも無理は無い。

 しかし、その制作目的は単なる戦勝記念絵巻ではなく、「神に誓約
した者がその誓いを破ると破滅する」という宗教的な教えの具体例と
して制作展示したというのが通説のようだ。

 つまり、ハロルド伯は神殿に手を置き、「イングランド王位はウィリア
ム公が継承することを承認し、その暁には自分は公に臣従する」と、
神に誓約しながら、エドワード懺悔王が逝去するや、誓約を反古にし
てその王位を自らが継承した。
 ハロルド伯がヘイスティングズの戦いで、ウィリアム公の軍団に敗死
したのは、神への誓約破棄の報いであると示した。
戦勝も布教とオドの故郷バイユー領の統治に利用されたのである。

 ノルマンディーのなかでも遠征にもっとも関わりの深い町のひとつで
あるバイユーの寺院で、因果応報を領民信者に説く具体例としては、
好個の材料であったといえよう。


バイユー暮色

 バイユーは中世の町並みがそのまま残っているように錯覚する小さ
な鄙びた町である。
 バイユー・タペストリーが歴史的あるいは美術史上価値あるフランス
の国宝刺繍だからといって、バイユー・タペストリー煎餅やイングランド
征服饅頭などがお土産になっているわけではない。

 戦火を免れたノートルダム大聖堂や旧司教館などがすぐ近くにある
が時間がないので、そそり立つ尖塔屋根を見ながら、暮れなずむ初春
のバイユーに別れを告げ、パリ行きの列車に乗った。

 秋山満著「フランス鉄道の旅」(光人社)では「・・・バイユーは町その
ものも非常に見応えがある。・・・」と書かれている。時間の余裕がある
旅人には、バイユー逍遥もお勧めしたい。



富士通「世界の車窓から」より「バイユー」
富士通「世界の車窓から」より「バイユーのタペストリー」



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