その頃ウィリアム公は時間を稼いでいた。
領土欲に釣られた渡り者の騎士や、略奪強姦などの戦騒ぎが三度
の飯より好きな無頼漢の集団でもあった。騎士兵士約7千名、馬丁・
大工・鍛冶屋等の軍属約三千名であった。
欧州大陸にまで名が轟いていたハロルド王率いる約一万名と噂され
ていた大軍団は、主として直臣の地方郷士(セイン)を指揮官とした歩
兵集団で、よく訓練されていた。
これに比べれば、ウィリアム公の軍団は見劣りがしていた。
ハロルド王の親衛隊としては、更に猛訓練に耐えていた家中騎士団
がいた。彼らは機に応じ、動員した農民兵の指揮官となった。
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ウィリアム公としては、統制のとれたハロルド軍団に対抗するために、
このバラバラの集団を精鋭に仕立てる時間が必要であった。
敵地で戦いを挑むには、一人でも多くの兵と武器の準備が必要であ
る。ウィリアム公自身の家臣団は、徳川家康公とその旗本のように、
若い時から苦戦に苦戦を重ねて、精鋭となっていたが、ノルマン軍団
としてはハロルド軍団に劣る混成部隊である。
イングランド海峡という天然の要害を渡り、敵国へ上陸し、ハロルド王
の強力歩兵軍団を破るには、どうすればよいか。
ウィリアム公は、オド大司教たちと協議した作戦計画を次々と実行に
移していた。
槍騎兵軍団を組織し、弓隊を作り、鎖帷子など軍事用品が十分に準
備されつつあった。
大型の輸送船が建造され、砦の用材、ぶどう酒までも準備されていた。
(第13章問題の戴冠の作戦計画1ー4、5ー6を参照下さい)
大彗星が出現したのは、まさにこの準備の最中であった。
ノルマンディ公国の領民も、他の国々から集結している傭兵たちも、不
安気にこの大彗星を見上げていた。
ウィリアム公は、直ちに博識のランフランク師をルーアンに呼んだ。
ランフランク師はその時カーンの聖ステファン教会の僧院長に栄転し
ていた。
「教会に残ります古い記録や天文の書を読みますと、この大彗星の
ことが書かれております。私が申し上げられますのは、この大彗星が
出現します年には、必ずどこかの国で、大きな戦乱があるということ
です。
神が、何らかの啓示をされているのでしょう。大きな改革、それは旧い
体制が滅び、誰もが予期しない世が生まれることを意味します。
これからイングランドに攻め入ろうとする公爵閣下にとっては、まさに
瑞兆。
ハロルド王は、これを不吉の兆しと受取っているでしょう」
「ランフランク院長、まっこと吉兆か!
聞いたか、ウォルター、モンゴメリー、フィッツ・オズバーン!
ウィリアムに味方するというこの神の啓示を、直ちに領内に伝えよ!」
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その日のうちに、ノルマンディ中に伝令が走った。人心は落ち着き、ウ
ィリアム公の勝利を信じ、大彗星を見上げ、神に祈りを捧げた。
戦闘の訓練をしている陣中には、ウィリアム公から特別に上等のワイ
ンの樽が、前祝いとして届けられた。騎士や兵士たちは一斉に歓声を
あげ、酒杯を傾け、来るべき戦の勝利を語り気勢をあげた。
同じ星が、海峡を隔てて明暗二つの影響を及ぼしていた。
造船も、急速に能率が上がった。
オド大司教は、寺院の蓄えを割いて、120隻の船を供出した。弟ロバ
ート・モートン伯は100隻、ビューモントのロジャー伯は60隻、その他
の諸侯も10隻20隻3隻5隻と供出し、約800隻の大船団を組める見
通しがついた。
とかくするうちに、暦は6月となった。
日本とちがって、ヨーロッパの6月は雨期ではない。一年中で最も気
候のよい季節で
ある。初夏の太陽は、文字どおり燦燦と輝き、新緑は一層深みを増し、
薔薇が庭園に色どりを添える。「6月の花嫁ジューンブライド」まさに欧
州ならではの名言である。
大自然の美しさと人間生活の最も華やかさがこれほど調和をみせた
表現は少ない。
その風薫る6月18日、カーンの町で盛大な儀式が挙行された。
公妃マチルダが結婚の贖罪のため建立していた聖トリニティ教会が
完成したのである。
聖ステファン修道院長ランフランク師が奉献式を司式した。
聖トリニティ教会は中世ノルマン・ロマネスク風建築の傑作である。
カーンの町は、奉献式に参列する騎士諸侯や聖職者たちで溢れた。
ウィリアム公とマチルダ公妃にとってこの奉献式は、贖罪もさることな
がら、渡洋作戦を目前に控えた戦勝祈願式典でもあった。二人はそ
のつもりで巨額の寄進を行った。
ランフランク師も、騎士諸侯も戦勝を祈った。
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戦いの準備は全て整った。気運も高まった。
ウィリアム公は、大小の諸侯全員をルーアン城の大広間に呼んだ。
「諸卿!出陣に当たり、妃マチルダを臨時の摂政に、長子ロバートを
余の後継者に指名する。余と同様に忠誠を誓って貰いたい」
「オウッ!誓うとも!」
「次に留守家老の大役を、ビューモントのロジャー候に頼みたい。ま
たその補佐役を、モンゴメリーのロジャー卿と、アヴァランシュのヒュー
卿にお願いする」
「承知しました」
温厚な人柄のロジャー候は、深々と頭を下げた。諸侯誰もが信頼を
置いていたロジャー
候たちである。異存のあろう筈はなかった。
14歳の長子ロバートを残し、三男のルーフスを連れて行くことにした。
後顧の憂いは全くなかった。
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第15章大彗星出現(その4)へ
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