「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第2部 ノルマンディ公台頭

第8章 邂逅



人生には運命を左右する邂逅(出会い)がある。

1047年秋、20歳のウィリアム公は生涯の伴侶を慎重に選んでいた。
「鞣革屋の孫」と囁かれる庶子の負い目を、婚姻によって打ち消した
いと考え,容姿や肉感より血筋と性格と才知と健康を重要視した。難し
い条件であった。
ウォルターは、コントビール子爵ハーロウィン卿夫人となっている姉ア
ーレットと慎重に嫁探しをした。

「隣国フランダース地方の大領主、ボールドウィン辺境伯の令嬢マチ
ルダ姫は、身長4フィート(130糎)と著しく小柄なため縁談がありませ
んが最適の候補です。
ボールドウィン家はイングランドと親密であり、姫の生母は前のフラン
ス王の王女ですから、フランス王室とも縁ができます」

「しかしマチルダ姫と余は血はつながらないが、5親等になる。教会が
何というか」
「反対しましょうが、今のわれわれに必要なのは形式ではなく実利で
す。辺境の安泰を希望するボールドウィン伯も乗り気です。教会は粘
り強く説得をしましょう」
「わかった。婚約を進めよう」




教会勢力は予想通り反対した。
1049年10月、シャンパーニュ地方の都市ランスで開かれた宗教会
議で、時のローマ教皇レオ四世は、この婚約に不賛成の意を表明した。

1050年初、ハーロウィン卿からアーレットが危篤との知らせがあった。
立場をわきまえて幼いころからほとんど会ったことのない実母である。

かっては父ロバート一世と自由奔放な愛を謳歌したアーレットも、ハー
ロウィン卿に嫁いでオドとロバートの二人の男子と一女を生んで、すっ
かり貴婦人になっていた。
が、背後では常にウィリアム公の身辺に意を注いでいた。
アーレットの気持ちを察し、ハーロウィン卿はウィリアム公に早馬を出
したのであった。

ウィリアム公は生母アーレットの手をしっかりと握っていた。
「ウィリアム、よく来てくれました。気にかかるのは公の妃。マチルダ姫
と早く結婚し、政争の世界で生き残ることを考えなさい。愛情は連れ添
えば湧きます。古い教会にも新しい波が立っています。新しい考えの
聖職者に直接あたって、道を拓きなさい」

「わかりました」
「私とハーロウィン卿の間に生まれたオドとロバートは公には数少ない
血縁の者。オドは荒々しく大きなことを望む性質で反抗期の青年です。
ロバートは誠実です。どうかよろしく・・・」
「ご安心ください」




ハーロウィン卿はグレスティンの町に聖母マリアに捧げるノートルダム
寺院を建立し、アーレットを手厚く葬った。

ウィリアム公は19歳のオドを、ルーアン大寺院の大司教につぐ高い
地位のバイユー大寺院の司教に任命した。

戦乱の世であったから、ウィリアム公は広大な教会領の管理のため
に、聖職者の教育をろくに受けていない騎士や俗人を次々司教に任
命した。この結果、教会は富裕となり、ノルマンディ公の治世を助ける
こととなった。




翌1051年春、ウィリアム公はノルマンディとフランダースの国境に近
い田舎町で、マチルダ姫と華燭の典を挙げ、華美な行列を仕立てて
、首都ルーアンへ花嫁を連れ帰った。

フランス王ヘンリー一世は、合従連衡のような形になったノルマンディ
とフランダースの縁組みに、密かに不安を感じはじめた。
王からみれば一家臣にすぎないウィリアム公が、王の支援したヴァ・レ・
デューヌ平原の戦いで勝利を得た後、日一日と力をつけていく様子に、
目に見えぬ圧迫を受けた。

ノルマンディの中部、ル・ベックという小さな町に修道院がある。
このル・ベック僧院長ランフランク師も、結婚不承認を唱えた一人で
あった。

ランフランク僧院長はノルマン人ではない。北イタリアの出身であるが、
ノルマンディ西部の町アヴァランシュに来て法律を教えていたが、ル・
ベックに旅したとき修道院の建築現場に行きあわせ、そのまま出家し
ていた。

世俗的な金もうけの法曹界に嫌気が差し、神に仕え、恩寵を広めるた
めに、生きようと最下級の聖職者から出発していた。敬虔清廉な生き
方と卓越した識見で、当時欧州一円の真面目な聖職者が推進してい
た教会刷新運動、クリュニー派のリーダーであった。

門下生には後にローマ教皇となるアレキサンダー二世やカンタベリー
大司教となるアンセルムなどの俊秀がいた。




「ルーアン大寺院の大司教ならともかく、田舎町ル・ベックの僧院長
風情で不承認を唱えるか。ランフランクとかのイタリアンに会ってみた
いものだな、ウォルター」
「相当の人物のようです。ローマ教皇庁へも顔利きとか・・・。お会いさ
れては」

粗末な、だががっしりとした樫のテーブルに二人は座っていた。
ウィリアム公は今までに経験したことのない穏やかな気分になってい
た。
田舎の村長のような風采のあがらぬこの聖職者に、人を抱擁する大
きな心と、底知れぬ叡智が潜んでいることを見極めていた。

ランフランク僧院長はウィリアム公と対面した瞬間から、非凡な若者と
見抜いていた。生まれて初めて巌にあったような、腹にズシンとくる手
応えがあった。

ウィリアム公は教会法を犯してもマチルダ姫と結婚したい意図と、イン
グランド王として統治してみたい雄大な構想をランフランク僧院長に
語った。

「余は汝を必要とする。ローマ教皇のお許しを取り付けてくれ」
「私とて賛成しかねていますものを・・」
それから更に二度、ル・ベック修道院を訪れ、三顧の礼を尽くした。
(ノルマン・コンクェストの真髄ともいうべき二人の息詰まる会話の詳細
は拙著を)




ランフランク僧院長は、壮大な夢を胸に秘めている、この年若い男に
妙に惹かれるものがあった。ランフランクにとっても、胸に秘めた壮大
な布教を実現できる端緒になるやも知れぬと考えた。

ランフランク僧院長は、ローマ教皇にウィリアム公が、熱心なキリスト
教徒であり、キリスト教の布教を後援する将来の大器となるであろう
と説いた。

ランフランクは公に一書を送った。封を開くと、ただ一行「心すべきは、
天の時、地の利、人の和」とのみ書かれていた。




教皇庁にはウィリアムの結婚に反対の枢機卿が多かったが、ランフラ
ンク僧院長の友人で、クリューニー運動の推進者ヒルデブランドが枢
機卿の中で発言力があったことと、高弟アレキサンダー二世が教皇に
近い座にあったことは幸運であった。

ヒルデブランドは後に教皇グレゴリウス7世となり、神聖ローマ皇帝ハイ
ンリッヒ4世を破門、「カノッサの屈辱」をさせたことで有名である。

ランフランク僧院長は、ウィリアム公にマチルダ姫との結婚が、教会法
に触れる罪深い婚姻であることを認めさせ、その償いとして、公と公妃
が僧院と尼僧院を寄進することを約束させた。

教皇庁は更に、娘が生まれたら生涯この尼僧院の院長として、両親の
贖罪に当たらせることも約束させた。




今なおカーンの町に残っているサンティエンヌ僧院はウィリアム公が、
また聖トリニティ尼僧院はマチルダ公妃が寄進したものである。
後に三女セシリアは終身尼僧院長の生涯を送った。

このようにしてウィリアム公はようやくローマ教皇の承認を取り付けた。
その間8年の月日がかかったが、ローマ教皇庁と太いパイプができた。

ランフランク僧院長は、後にイングランド侵攻についてもローマ教皇の
承認取り付けに奔走し、更にカンタベリー大司教となって、征服後の
統治を側面支援している。いずれにせよウィリアム公は宗教界の一人
の実力者を惹き付けた。


第9章 激闘の日々

「見よ、あの彗星を」Do You Know NORMAN?へ戻る

いざないと目次へ戻る

ホームページへ戻る