第2部 反 乱

第4章 ケントの反乱





 ケント州はロンドンから南東の地帯である。温暖な気候と豊かな丘
陵に恵まれたこの田園地帯は、東端はドーバー海峡南端はイングラ
ンド海峡に面している。この地理的に恵まれた環境から、紀元43年
に大陸から古代ローマ軍団が、次いでアングロ・サクソン民族やデー
ン人、ノルマン人が侵入してきた。

 ケント州は隣り合わせのサセックス州とともに、「イングランドへの侵
入路」"Gateway to ENGLAND"と呼ばれてきた。

 海岸にはドーバーやサンドウィッチなどサンク・ポートと呼ばれた五
大港が、英仏間の交通や軍事の要衝として古くから重要な役割を帯
びていた。

 さらにケント州が政策的な重要拠点であるのは、この地方の中心で
あるカンタベリーの町に、イングランドのキリスト教の総本山ともいうべ
きカンタベリー大寺院が建築されていることである。



 カンタベリーは、サクソン人の時代には"Cant-wara-birig"(The
borough of the men of Kent)と呼ばれていた。文字通りケントの男達
が集まってい町だった。紀元597年に、聖人オーガスティンが布教に
渡来し、当時のケント王エセルバートが改宗して、教会を建立したの
が総本山となった起源である。

 ウィリアム王は、対教会政策面や軍事戦略面で重要なこの広大な
地方の統治に、異父弟オド・バイユー司教をあてて、ケント公に任命
していた。

 王は、イングランド西部の辺境ヘレフォード伯に、信頼の置ける親衛
隊長フィッツ・オズバーンを叙任していたが、同時にこの両名を、王が
ノルマンディーに帰国している間の摂政にして留守の統治を任せてい
た。

 サンク・ポートの中でも英仏間の交通の要衝は「イングランドの鍵」と
呼ばれていたドーバー港であった。

 王は、オド司教に特にこの港の管理を厳重にするように命じ、町を見
下ろす丘に聳えるドーバー城を大幅に改築して警備兵を増員させ、防
衛力を高めていた。

 占領地の最も大事な地域で、予想もしなかった反乱が起こったので
ある。反乱を起こしたのはケント州の住民たちであった。しかしこれに
加担した人物にウィリアム王ならずとも英仏両国の人々は驚いた。



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