ガイ・フォークスの火薬陰謀事件とその背景



(前頁より)


(6)ガイ・フォークス(Guy Fawkes)

ガイ・フォークス(Guy Fawkes)は1570年にヨークシャーのプロテスタント
の家に生まれたが、英国イエズス会と知りあいカトリック教徒になった。
1593年、彼は相続した財産をすっかり浪費して、フランダースに渡り、ス
ペイン軍の傭兵となった。23歳であった。
エリザベス女王治下のイングランドよりも、カトリックのスペイン軍の傭兵の
方がまだ過ごしやすかったであろう。

当時フランダースはハプスブルグ家の所領からスペインの領地に変わっていた。
金が目的の荒稼ぎをする冒険的職業軍人(a soldier of fortune)として、その
の後10年ほどの経験を積んでいた。
今流にいえば爆破などに経験の深い腕の立つ特殊工作部隊下士官といえよう。

1604年春、カトリック教徒のRobert Catesbyを首謀者として、Thomas Winter
とJhon Wrightが加わり、ジェイムズ1世暗殺が計画され始めた。
さらにThomas Percy,Robert Winter,Sir Everard Digby,Rookwood,Toresham
それにイエズス会のガーネットなどが参加した。

当時フランダース(オランダ・ベルギー)にいたガイ・フォークス(Guy Fawkes)
も勧誘され、帰国し参加した。
ジェイムズ1世を暗殺し、議会を爆破しようと計画したカトリック陰謀派にと
っては、英国イエズス会とも関わりのあった彼は信頼できる実行者(The agent)
であった。


1605年夏、爆破・暗殺計画は十分検討された。
国会議事堂に隣接する地下の葡萄酒倉庫に多量の爆薬が密かに運び込まれた。
さらに議事堂の真下に仕掛けられるのである。

実行日は11月5日と決められた。この日、しばらく停会していた議会が、
国王ジェイムズ1世と皇太子プリンス・オブ・ウェールズの臨席のもとに開会
される予定であった。
爆破と同時に、若いチャールス王子とエリザベス王女は逮捕され、国中で反乱
が起きる手はずになっていた。

しかし、首謀者の一部にカトリック系上院議員の生命を心配する者がいた。
その上院議員のMonteagle卿のもとに一通の手紙が届いた。
「議会の開会式には出席しない方がよい」との警告状であった。

密告の手紙を出したのはToreshamといわれている。
Monteagle卿は、この手紙を王の重臣ロバート・セシル(Robert Cecil)卿に
渡した。



11月4日、セシル卿は議事堂周辺の徹底的な捜査を命じた。議会の地下に
仕掛けた爆薬が発見され、ガイ・フォークスは逮捕された。

首謀者たちはばれる事態もかねてから警戒していたので、直ちにダンチャーチ
避難した。そこには仲間のSir Everard Digbyが屈強なカトリック教徒を多数
集めていたからであった。そこから皆思い思いの方角に姿を隠した。

首脳部はいったんイングランド東部ボストン郊外の辺地Holbeachで抵抗しよ
うとした。だが、爆薬の暴発事故で多数の負傷者を出した。
首謀者のRobert CatesbyやThomas PercyそれにJhon Wrightは脱走の途中殺さ
れた。他の幹部は皆逮捕され、投獄された。


ガイ・フォークスたちは、翌1606年の1月から2月にかけて裁判にかけ
られ処刑された。

裁判のもっとも長引いたのがイエズス会のGarnetであった。
1606年5月3日、彼の処刑が実行された。その断頭台で彼は
「自分が積極的に情報を提供したことはない」と叫んだ。

火薬陰謀事件はかくして未遂に終わったが、カトリックとプロテスタントの
抗争は現代まで続く。

次頁へ

「UKを知ろう」の目次へ戻る

ホームページへ戻る