上海・黄山・蘇州・杭州紀行


黄山の伝説・歴史・文芸




黄山から屯渓へ向かう前に、久保田博二写真集「黄山仙境」により
黄山の伝説・歴史・文芸をちょっと。

1 なぜ『黄山』と呼ばれるのか。

黄山は昔『「黒多」山いざん』と呼ばれていた。
「黒多」(一語い)とは黒鉛のことで、黄山の南に産地があった。
秦の始皇帝の時代にこの地に県が置かれて、。「黒多」山県と名づけ
られた。黄山は黄色い山ではなく、黒色が多い山であった。

「黒多」山が黄山と呼ばれるようになったのは、『黄山図経』(宋の無名
氏の作)によれば、唐の玄宗皇帝の天宝6年(747年)6月17日という。
玄宗皇帝は「玄」が道教の根本の道を意味しているところから、楊貴妃
だけでなく、道教にも心酔したという。

黄山に改名させたのは、この山に中華民族の伝説上の人物「軒猿黄帝」*
が住んでいたからだという。
黄帝は姓を公孫、名を軒猿といい、神農氏の世が衰えた時、乱れた世
を平定し、神農氏に代わり黄帝と称した。黄帝は登仙の術を学び、しば
しば神仙と交流したという。

この山が神格化された黄帝に、仙人修行の場所、すなわち「棲真之地」
と選ばれたのは、山の姿がまさに仙境そのものであるからであった。

仙薬を作る材料に欠かず、麓には温泉も湧いているのだ。
桃源賓館の付近を黄山温泉区という。山上は黄山風景区。



2 黄山を身近にした明の朱元章*

しかし黄山が南京や杭州からそれほど遠くない距離であるのに、中国
の人々の注目を集めるようになったのは、明の時代からという。
それまでは陸の孤島として交通不便な土地であったことと、道士が修行
する霊山として、近寄りがたい印象があったからだという。

明王朝を興した朱元章*(1328-1398)は、安徽省(黄山のある地方)の
出身で、元朝に対し抵抗運動をしていた頃、追われて黄山に逃げ込み
難を逃れた。黄山では追っ手も二の足を踏んだであろう。
新しい都を南京に置いたことからも、黄山は少し身近になった。
(黄山は今でも長距離団体バスを利用しなければならない僻地である)

しかし、山深く絶壁の黄山に登ることは、想像を絶するものがあるが、
中華民族はこつこつとよじ登り、詩を詠み、岩を削り、何世紀もかけて
麓から山上、尾根道まで全山を(!)石段にしてしまった。
パワー恐るべし。

3 この峨峨たる仙境を、訪れた詩人達の傑作

黄山は好し
   到る処ことごとく奇松
剄*質は霜に傲り また雪に傲る
まがれる枝は鳳かと疑い また龍かと疑う
羽*を振るいて天風を待つ          (丁寧)

十歩に一雲
五歩に一松
松は雲上に埋もれ
雲は松中に奄わる       (明、陳継儒)

眼を転ずれば 山は海に変じ
指を弾けば 島は峰に還る   (胡績偉)

雲峰遥かに望むべし
異境到に縁なし
曉霧開きてまた翳り
晴嵐断ちてまた連なる     (宋、劉漑)

五岳より帰り来たらば 山を看ず
黄山より帰り来たらば 岳を看ず    (明、徐弘祖)

黄山四千刃*
三十二の連峰
丹崖 石柱を夾む
蕾*金芙蓉

これ昔絶頂に登り
下 天目の松を窺えリ
仙人玉を練し*処
羽化余従*を留む        (唐、李白)

                          

第4日(8月26日) 石牌坊群を見て屯渓へ

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