上海・黄山・蘇州・杭州紀行


第4日目 裳鰔石牌坊群を見て屯渓へ




宿舎桃源賓舘で「黄山から裳鰔石牌坊群見学、屯渓へ」というコースで
車を手配してもらった。
多分100キロは走る道程であるが400元(6000円)。
(日本では10倍かかるであろう)

黄山の麓は有名な黄山毛峰茶の産地である。茶畑の中の一本道を淡々
とドライヴしていると、運転手がまたまた大きな建物へ駐車。
(来た時とは異なるので、運ちゃんによって連れこみ先が違うのであろう)
なかなか笑顔のすてきな美人の娘さんが商売上手で、結局高いお茶や
硯・墨・筆を買ってしまった。
(日本でも得がたいおだやかな笑顔であった)

車は一旦屯渓市内に入るが、そのまま目的地の裳鰔へ。
車は舗装していない、狭い田圃の中の農道へ入る。小さな村に着いた。
すぐに貧しげな風采の老女や子供が物売りにくる。

今は見る影も無く衰亡しているが、かってこの地は塩商人鮑氏の拠点で
学問や商業栄えた町であった。
塩の交易で巨額の富を得た鮑氏が町の入り口に寄付した、7基の石牌坊
(家をデザインした鳥居のような大きな高い石の門)が並ぶ。


裳鰔石牌坊群

世界遺産黄山のビデオで最初に映像が出てくる時に紹介される、音楽的
な見事な石牌坊群である。明の頃のものらしい。
安徽省には石牌坊が多いが、この裳鰔の石牌坊がもっとも美しいという。
安徽省は文具四宝(硯・墨・筆・紙)の名産地だけあって、その門に書かれ
てある書が圧巻である。楷書の美である。
中国は文盲をなくす為漢字を簡略化したが、簡略した書体では「美」にな
らない。様式美にならない。

ゆっくりと腰を下ろし、物音一つしないのどかな田園風景は、かっての日
本の田舎の原風景である。平素いかに音の氾濫にさらされているかと思う。
老女から買った「徽州」のパンフレットには風雅山水田園との副題。
まことにその通りである。
裸足の農夫が昼食休みのためか、大八車に子供を乗せ、引き綱を肩に
農道をやってきた。「ニイハオ」と声をかけたらにこっと笑って「ニイハオ」と
答えた。
(富裕な印象の上海と農村との経済的な格差は大きいと感じた)



屯渓に戻る途中には高い塔が畑の中に残っている。
かっては名のある遺跡であろう。パンフレットには明の文峰塔とある。
崩れた屋根には草や木が茂っているが、落雷で壊れたと説明にある。
(漢字の説明は何となく分かる)。
岩寺という仏教遺跡は国際的な資金で復興中であった。

屯渓の町に帰り、運転手の知り合いの屯渓老街傍の小さな食堂で昼飯を
とった。この地の名物は石鶏。黄山名物の渓谷に棲むカエルである。
平地のカエルは田鶏というそうだ。

渓谷の毒蛇の棲むところにいるので取るのも危険と言う。
蝦蟇ほどの大きさでグロテスクだが、白身でおいしい。
清流に住むためか泥臭さは無い。
(パリで食べたフランス料理のカエルは小さく淡白なこくがあったが、やは
り大きいだけ大味であると思った)
魚より鶏肉に近い味なので石鶏とか田鶏というのだろうか。
大皿に山のように出たが足先などそのままで、全部は食べきれなかった。
(カエルの骨は固く切り口が鋭いので注意して食べてください)

屯渓老街は古里町並み保存的な商店街で、大きな硯などを出している
文具四宝の店などがずらりと並ぶ。面白いのは飲食店は無い。
老街を出ると、大きな川の岸沿いに屋台から小食堂がずらりと並ぶ。
文具や茶に中華料理の煙のにおいが染みては商売あがったりだろう。
生活の知恵かと思った。



フライトは夜9時が遅れた。上海からの折り返しである。
韓国や日本人の団体で満席であった。韓国でも黄山は人気のようである。
日本人が高年のツアーに対し、韓国は青壮年のペアグループ。元気が漲
っていた。
夜11時上海着。タクシーで再び華亭賓舘に戻った。
(規定の場所に客待ちしているメーター・タクシーは安くて安全である)

                          

第5日(8月27日) 上海博物館と外灘――青銅器と現代中国――

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