月並俳諧        秋 尾  敏

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 月並とは、子規が明治の点取俳諧を侮蔑的に言い放った言葉である。旧派の俳諧が、文字通り月ごとに句を集めては点を付けていたので、それを月並調と称したのだ。
 もともとそれは月次と同じ意味で、特に否定的な意味合いなどなかった。しかし子規がそれを繰り返し否定するうちに、「類型的で平凡」というような意味の普通名詞や形容動詞を作り出していく。それはおそらく「並」という語のもつ別な意味の側面に引かれてのことでもあったろう。
 子規が月並調を排したのは、その作品が、俗受けをねらって模倣と言回しの工夫に終始し、類型に陥っていたからである。
 例えば、蕪村の「つり鐘に止まりて眠る蝴蝶かな」という句は、ごく浅く読んでおけばただの叙景句である。しかし少し考えれば、いつ鳴るかもしれない鐘の音とも知らずに寝ている蝶だということに気付く。すると、そこに多少の寓意というものが感じられるようになる。
 ここまではよい。しかし、だからこの句は危機に気付かずにのんきにしている人を表している句だと言ってしまったとたん、この句は文学作品ではなく、ことわざになってしまう。
 このように読めてしまう句を意図的に作り出す技術、それが月並の「理」であり「細工」である。蕪村の掲句などはぎりぎりのところで詩になっている。しかし例えば蓼太の「むつとしてもどれば庭に柳かな」などは、さらに露骨に「風に柳」ということわざの理屈を句に持込んでおり、詩としての品格や意味の深さを脇に置いて、日常生活の警句としての分りやすさを看板としてしまった。世界を認識する水準が、存在や精神の深みの発見にまで届かず、世俗的な生きる知恵のレベルに留まっているのである。これが「理に落ち」「細工に落ち」ということである。
 また「感情に落ち」ということも同様である。「感情」自体が問題なのではなく、それが従来の感動の仕方のパターンに「落ち」ていることが問題なのである。この後子規は『獺祭書屋俳話』や『俳諧大要』俳論をまとめ、そこでは「理」を排し「感情」を肯定する書き方をするようになるが、ここでは、現世のありように何らの個性的な批判もなく、伝統を反復する形でものごとに感動して見せる月並の方法を「感情に落ち」と批判しているのである。
 幕末以降の点取俳諧の流行の中で、そうした月並俳諧は、新しい表現の息吹が入るべき入り口も、また新しい表現の水準への出口もない閉じられた空間の中で、徒労のように再生産を繰り返していた。

  みの虫の蓑とも成るか散る芒            巖 月
  いつもかう有りたし屠蘇の酔心           長 和
  吾国の色香きはだつ桜哉              みき雄
                (『俳諧明倫雑誌』明治十六年二・四月号より)

 明治前期の俳句界を牽引していた三森幹雄の主宰する『俳諧明倫雑誌』の、これは子規が上京した年の作品である。子規が学業を志し、松山から東京に移ってきた頃、東京ではこのような俳諧が詠まれていたのだった。
 みの虫とすすきの外形の類似による陳腐な連想、俗に浸り切って感情に流された屠蘇気分、また「吾国」と桜の結びつきも明治維新以来の類型で、しかもこれらはみな宗匠と呼ばれる人達の作なのである。
 なぜ明治の俳諧がそのような事態に陥っていたかといえば、明治の宗匠たちの教養が、ただ俳諧の内部に閉塞していたからにほかならない。
 もともと俳諧は、他ジャンルからの変移として成立した文芸である。俳諧を支えるものは、他ジャンルの教養である。
 発句はまず俳諧連歌の発句であった。五七五という形式は、まず俳諧連歌からの変移によって生まれた。しかもその俳諧連歌も、連歌からの変移として生まれたものだ。
 俳諧連歌は、連歌の中に漢詩や俗語の文化を取り入れたところで成立した文化である。さらに俳諧は、中世以降の謡曲や音曲などさまざまな文化を吸収してその世界を広げてきた。
 だからこそ、例えば芭蕉に見られるとおり、近世の俳諧人のあこがれは、和歌の西行であり、連歌の宗祇であり、漢詩の李白や杜浦なのである。俳諧の世界は、考えられないほど多様なジャンルの上に成り立っている。
 そのため、ある個人の言葉の力量が俳諧を支えるほどのものかどうかということは、その個人が、俳諧以外のジャンルにどの程度精通しているかということと深く関わっている。斬新な俳諧は、常に他ジャンルからの要素の導入を必要としているのである。
 誤解をおそれずに言えば、俳諧はポップな文化である。
 ここで言うポップとは、音楽で言えば、西洋のクラシックやジャズやブルースなどの特異性の強い文化を混合し、一般の人々に受入れやすい形式にすることによって普遍性を獲得していくような文化のことである。
 語源的にも、俳諧の「諧」はこのポップという概念に近い。四世紀に書かれた最古の文学論といわれる『文心雕龍』には、「諧之言皆也。辭浅會俗、皆悦笑也。」とある。『新釈漢文体系』(明治書院)の訳を借りれば、「『諧』という言葉の意味は『皆』(みな)ということである。言葉が浅薄で俗受けするので、みんなが悦んで笑うのである。」ということになる。
 俗受けするとはいうものの、俳諧は、和歌、連歌、漢詩、謡曲などの教養に基づいて作られている。その元の知識を知らなければ句の裏の意味を解くことはできないし、また含蓄のある句を作ることもできない。
 江戸の教養ある人々は、それら元になる文化をすでに身につけたところから俳諧に入っていった。その歴史的な教養の上に、同時代の世相、歌舞音曲、悪所の華やかな文化などを包みこむことによって、新しい文化としての俳諧というジャンルを形成していったのだ。
 しかし一般庶民はそうではなかった。庶民は、俳諧というポップな文芸を通して逆に古典の世界の知識を獲得していった。一部の教養人たちを除いて、江戸の俳人たちは、後期になればなるほどそうした傾向を持つようになり、宗匠と呼ばれる人達の多くも、庶民的教養のレベルになり下がっていく。
 明治の宗匠たちの教養の基盤も、俳諧の中に閉塞していた。幕末から明治初期に活躍した萩原乙彦のように、文化の各方面に活躍し得た人物もいたが、初めから俳諧を出発点とし、終生その世界に閉じこもってしまうタイプの宗匠も多かったのである。それはまた俳諧という文化が歴史を持ち、それ自体でひとつの大きな文化圏を形成するようになった結果でもある。
 しかも明治期は、西洋文明が流れ込んで教養の基盤自体が変容していった時代である。俳諧が、時代時代のさまざまな文化を摂取し、融合させることによって成立してきた文芸であれば、明治期には西洋文明を取入れていく才能が必要だった。教養人たる資格が、漢文学からヨーロッパの学問へとシフトしていく過程の中で、英文学や近代科学の素養を併せ持った俳諧人が出現するのは、明治も後期になってからのことである。
 こうした明治の月並調は、江戸後期の俳諧が庶民に広まっていく過程に現れた傾向である。
 江戸後期の俳諧は、さまざまな地方俳壇も盛んで、その全貌を理解することは極めて難しい。その中で月並への過程をわかりやすく考えるには、多少単純化して、榎本其角に象徴される都会派と、地方の蕉風とに分けて考えるとよいだろう。
 芭蕉は俳諧に、漢詩の比喩法、語彙、語法、思想などを取入れて、その表現力を圧倒的に高めた。芭蕉の関心は、言葉の表現力を高めること自体にあったから、その俳諧を遊戯の道具とするような点取俳諧を弟子に行わせることはなかった。
 点取俳諧と言うのは、なにがしかの手数料を取って俳諧を集め、宗匠の選になった作品に賞金を出すというような形式の俳諧のことである。
 ところが芭蕉は、其角にだけは点取を許した。それは其角の句の存在理由が、江戸という町の点取俳諧という文化を排しては考えられないものであったためだろう。

  切られたる夢はまことか蚤のあと            榎本其角(花摘)
  棹鹿のかさなり臥せる枯野かな             服部土芳(猿簑)

 こうして比べてみれば、其角の句の特徴はすぐに理解されよう。内容もリズムも軽快で、洒落気があり、江戸の町の気風がストレートに伝わってくる。都会派の作風なのである。その江戸という新興の都会で句を作るということと、点取を興行するということは、分かち難く結びついたひとつの文化であったに違いない。
 都会派の側から言えば、俳諧には粋と野暮とがあるということになり、逆に地方の蕉風の側からいえば、俳諧には正風と雑俳があるということになろう。
 正風というのは、正しい句の姿ということであって、雑俳などの単なる言葉遊びの句ではないということである。
 一方蕉風というのは、芭蕉の流れを汲む正統の句風であるという意味である。
 蕉風はむろん正風であるが、蕉風ばかりが正風であるということにはならない。現実には蕉風は正風とほぼ同義に理解されていたが、其角ら都会派の句は、正風とは言えても蕉風とは言い難いものも多い。
 蕉風は発句を重視する。発句はいうまでもなく連句のはじめの句であり、作品としての自立性と格調を求められる。しかし、格調を重んじ過ぎると形式主義となり、類型に陥っていく。先人がまったく言わなかったことを言う冒険を避けるようになるからだ。あたらしみがなくなり、啓蒙主義に陥って、妙に倫理的でつまらない解釈が横行するようにもなる。
 一方、都会派からは、遊びの点取俳諧や雑俳が生まれる。雑俳は連句の平句が独立性を持ったものであるから、本来、前の句との続き具合を楽しむべきはずが、遊戯性が高じ、その句自体で点を稼ごうとする中で、逆に独立性が高まってしまう。こちらは、その表現が新奇であるうちはそれなりの価値はあるが、点を取るための方法論などがまかり通るようになると、こちらも類型に陥っていく。
 こうして、ふたつの流れがともに類型化したものが、天保以降の月並である。幕末以降はこの二つの流れが混濁し、さらに訳が分らなくなってしまう。蕉風を名乗る点取、点を競うのに類型。明治の点取に応募された句には雑俳と正風が混在している。
 例えば明治二十一年に催された『故月之本為山翁七年祭并ニ立机披露四季混題句合』を見てみよう。
 これは、明治十一年に七十五才で物故した月之本為山の七年祭とともに、だれかの立机の披露をしようという句合わせである。
 月之本為山は、文化元年(一八〇四)年に江戸で生まれ、幕府の御用左官を勤めた人であるから、いかにも幕末の江戸っ子を代表する文化人である。
 為山は桜井梅室の門で、その梅室は加賀金沢の伊勢派の代表格であった希因の流れを汲み、しかも京に芭蕉堂を立てた闌更の弟子であってみれば、これはれっきとした蕉風の人であろう。
 また立机というのは、宗匠として認められ、その位を象徴する文台を与えられることである。これがだれの立机であったのかよく分らないのだが、選者の最後が「自笑庵君評」ということになっているので、その人であるかもしれない。いずれにしろ蕉風の流れを汲む宗匠が一人増えたのである。
 さて、そうした句合わせの趣旨から言えば、これはかなり蕉風の句合であるべきで、たしかに言葉遊びとは言えない蕉風の句の入選も多いのである。
  開き得て冬白玉の椿なり
  雲の下筑波は晴て夏の雨
  水切れし糸瓜のつるや後の月
  残る香や六日の風呂の菖蒲屑
 どれも類型的ではあるが、とりあえず蕉風の真面目さと格調とを求めた風ではある。ただし「開き得て」の句は、あきらかに芝居の台詞の口調のよさの受けをねらっている。さしずめ子規ならば、「開き得て」が理屈だと批判するであろうが、次の「雲の下」や「水切れし」などは、作者が当時の子規であってもおかしくはない。
 一方、これらの句に混じって次のような句も応募され、とりあえず選に残っている。

  手の冷を見せて割込む火鉢かな
  一口に女と言えず大根引き
  裏門のぬけがけ出来ず年の関
  成行と浮世苦にせず厄落し
  虫歯から一枚へらす蒲団かな

 どうも蕉風と呼ぶにはふさわしくない句風である。浮世の面白さを詠んだものとしても、すでに江戸の雑俳や川柳で詠み尽くされてしまったもののなぞりでしかない。そこには精神の高さも、点取の新しみの面白さもなくなっているのだ。
 これらふたつの系列の句が平然と混在し、しかも選に残っている。これが明治の月並の姿であった。
 明治中期のこの急激な俳諧の混乱を作り出したものは何であったのだろう。
 まず明治二十年頃に、幕末に活躍した宗匠たちが相次いで亡くなり、指導者の質が急激に落ちていったということが挙げられる。特に、明治十九年には、春湖、乙彦、湖水、精知といった幕末期の俳諧を支えた世代が相次いで旅立った。
 また、明治十年代の不景気が徐々に回復し、都市の人口が急激に増加する中で、俳諧を楽しもうとする人々もまた急激に増えていったという事情も、俳諧の混乱に拍車をかけたと言えるだろう。都市の経済が活発になれば、出版や娯楽もまた事業として成り立つようになる。
 京都では、近江屋又七、湖雲堂近江屋利助、点林堂山鹿福三郎、馬場利助、風月堂風月庄左衛門らが数多くの俳書を出版し、また大阪では、金尾文淵堂、松雲堂鹿田静七、積善館らが活躍していた。
 一方東京では、大手の出版社のほか、下谷の稲見悟友、牛込の鈴木重雄、京橋の岡田新蔵、長屋定吉、鈴木節誠、芝の森富三郎、増島知雪、神田の真田金治次郎、前橋栄太郎、直井朝太郎、浅草の重田景福、小島剛道、清水新八、猪爪素吉、徳野覚斉、日本橋の吉村欽太郎、細井松夫、西田種三郎、鈴木伝次郎、本郷の坂知孝、辻忠興、駒込の日向義徳、本所の関川照真、村田昌興、米沢一郎、植村清八、大竹新造、麻布の原田達七らが数多くの木版摺りを出版している。ここにはごく一部の人の名を挙げたに過ぎない。
 これらの人々が俳書を出版することで生計が保たれるほどに、当時の俳諧に関わる人口は多かったのである。
 それまでの指導層がいなくなり、参加者が激増したのだから、俳諧が混乱し、それまでの伝統がなし崩しになったのも当然のことであった。
 だが、そのように混乱した状況が、新しい俳諧が再構築される可能性を生み出すのである。それが時代の変わり目というものである。
 改革が必要であったのは、表現の内容だけではなかった。
 宗匠がいて弟子がいるという前近代的な組織、座の運営の仕方、表現のメディアの使い方や使用する語彙、表現の対象、レトリックの方法……それらのすべてに関して、まるごと近代の構造に整合させる力を持った天才が必要だったのである。
 歴史は、一人の天才をどうしても登場させねばおかない状況を作り出していた。子規の天才は、ちょうどその間隙をぬって登場する。
 子規は、その漢文学と国文学の素養をあわせ持ち、さらに新しい西洋の「文学」に触れた先駆者として登場するのである。
 子規は伝統的な漢文や国文の素養と、明治の新しい学問の分析的な視点のふたつの武器をもって、俳諧を外側から見直し、俳諧に出口を与えようとした。
 子規には中国の古典詩の教養があった。明治二十二年、子規は漱石と出会うが、二人は互いの漢詩や漢文の力量に驚き合うのだ。
 また、子規には新しい西洋近代科学の分析的な視点がある。子規は近代教育を受けた第一世代の一人である。学制の開始とともに小学校に入学し、明治二十五年に大学を退学するまで新しい学問を学び続けている。
 例えばこの時期、子規は英文のレポートで芭蕉を論じ、レトリックにおいてもっとも簡単なものが最良のものだという法則がなりたつなら、我が発句こそ「(the) best of literature」だという意見を述べている。これはスペンサーの文芸理論からの緩用と考えられているが、この、「レトリック」という視点を定め、「簡単」という尺度をもって対象を把握しようとするような態度こそが、分析的な見方というものである。またこれを『桜句合せ』に戻して言えば、「理に落ち感情に落ち細工に落ちて」という見方が、極めて分析的だということになる。対象となる文芸を、「理」「感情」「細工」という視点から評価しようとしているからである。
 この漢文学と西洋文学の二つの素地を持っていた子規は、明治の俳諧に新たな息吹きを吹込む可能性を持って現れた人物だったのである。
 西洋と東洋、このふたつは子規の内部で矛盾することなくひとつの文学の基準を作り出していたようだ。子規は漢文の表現論と西洋近代の表現論に共通する方法論を当たり前のように持っていた。つまり子規は、和漢洋の文学に共通する普遍的な価値が存在するという前提を持っていたのである。
 おそらくそれは子規が、少なくとも文字言語において、中国語と日本語のバイリンガルであったことと関係が深い。
 子規にとって俳諧は、初めから世界の俳諧でなくてはならなかった。それは、西洋文学の価値観からも、また中国文学の価値観からも文学として認められるものでなければならなかったのである。
 実際子規は、それを裏付ける作品を近世の俳諧の中からいくらでも見つけ出すことができた。だからこそ子規は、日本の伝統文芸の本質を復活させる行為が、そのまま日本の近代化につながるのだという前提を持ち続けることができたのだ。そうであればこそ、そのエピゴーネンになり下がった明治の俳諧を、そのまま認めるわけにはいかなかったのである。
 子規は、模倣の精神を否定する。それは、俳諧を近代に即応させる必要からも、また個人が自分の意識を持つという近代の精神からも、当然の主張であった。
 明治二十九年に刊行された『俳諧問答』の中で、子規は次のように述べている。

 美術の標準は吾人の主観中に一定して動くものにあらずと雖も客観的に之を見れば同一の美術品にして時と場合により価値に差異を生ずることあり即ち吾人の標準中には斬新を美とし陳腐を不美とするの一箇条あるが為に客観的に変動するを免れざる也例へば昔は面白き絵画なりと評せられしその意匠も今日に在りて之を模倣せば人皆陳腐として之を斥けん或は今日に在りて斬新なりとてもてはやさるゝ詩文小説も後世に至り同様の意匠を為す者多からば終には陳腐として厭嫌せられんがごとき類なり

 子規はここで、美というものには「斬新を美とし陳腐を不美とする」法則があるのだという論法で説明を試みている。しかし今から見れば、子規のこの主張の背後に、個人が個人的体験を述べることを価値とする近代文学の潮流を見ることができる。時代は個人的な意見を述べる方向に動いていたのだ。


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