本年度ひとり言 98年度ひとり言

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アクセス数11000突破記念 三大奇襲合戦

アクセス数12000突破記念 一般参賀に行く

アクセス数14000突破記念 念願のカメラ購入

アクセス数15000突破記念 播磨赤松氏について

アクセス数16000突破記念 謎の播州光明山城

アクセス数17000突破記念 今年を振り返って


アクセス数17000突破記念 今年を振り返って

こんにちは。すっかり御無沙汰してしまいました。 このままだまって年を越すわけにはいかないので、ちょっと挨拶程度に今年を振り返ってみます。

今年は公私ともに大変な年で、の方は長年務めた部所が廃止になり、転勤は免れたもの全く新しい環境で仕事しています。まぁ、こちらは不満は無いのですが、皆がバラバラなった精神的ダメージが結構あるかなぁ? でも会社が倒産したわけではないので贅沢いっちゃいけません。

の方は双子の娘が目を離せなくなり、共働きを強行するため、嫁さんの育児休暇明けに保育園に通うようになりました。このため朝が非常にはやくなり、会社から早く帰れば帰ればで子供にメシくわして、風呂入れて云々であり、遅く帰れば帰ればで嫁さんの機嫌が悪くなだめるのに大変です。 休みも当然子守が基本であり、城どころじゃないです。トホホ

まぁ、こんな訳ですが、来年も近場の城へチマチマ行って、HPもチマチマ更新してみます。 子供が大きくなれば一緒に行けるのだか..

では、皆さん良い年末、年始をお迎え下さい。 そして関ヶ原戦後400年記念のミレミアムな年に御会いしましょう。


アクセス数16000突破記念 謎の播州光明山城

こんにちは。すっかり秋めいてきました。いよいよ山城の季節ですが陽が短いのが残念です。HPの更新はすっかりサボっていますが、城にはチマチマ行っていますのでチマチマ更新していきます。

今回は大層なタイトルですが、兵庫県の相生市と龍野市の境にある光明山城という城は御存知でしょうか?西ヶ谷恭弘氏(日本城郭史学会代表)の著書、監修の城の本に畝状竪掘の例で良く出てくる城で、下図縄張の赤い矢印が畝状竪掘群です。(縄張図参考:日本史小百科「城郭」 西ヶ谷恭弘著 近藤出版社)

光明山城 縄張図

この縄張図に魅了され城の見学を決心したんですが、地図には光明山の記載はあるものの城跡マークや、山に達する道も記載されていません。 相生市の観光協会にTELすると教育委員会の方が話しをして下さり、城への道のりと城の現状を聞く事が出来ました。

城への道のりは相生駅からひたすら北に向かうもので、徒歩で2時間ぐらいのところに光明山山頂がありこのあたりに、石垣はないが堀、土塁などの遺構があるという事です。 相生駅の改札を出るとラブリーな観光案内の大看板があり、光明山城の表示もあったため、これで安心して見学に挑んだ訳です。

山道は舗装されていないものの車一台ぐらい通れる幅があるため、数人のモトクロスのライダーに会いました。「こいつらもしかして城の畝状竪掘群で練習してんじゃねーのか? もしそうだったら相生市に訴えてやる。」とか思いつつ登山に励んでいたのですが、1時間半程歩くと最高位のようなところに達し、もう30分ほど歩くと完全に北側(龍野市側)の展望が開けてしまいました。 そうなんです。城の指標はもちろん光明山の指標も無かったのです。

慎重に様子をうかがいながら帰ると、確かに最高位のあたりの薮の中に無名の石塔や、郭に見えてしまう平削地などあるにはあるのですが、もちろん整備は皆無で、指標が無いため遺構とも断言できず、消化不良のまま下山してしまったのです。 期待をかけていた城だけにショックでした。

ちょくちょく訪れる事ができるなら、市役所で相談して出直すことも出来るのですが... もし読者の方でこの城の事を御存な方がいれば情報下さい。


アクセス数15000突破記念 播磨赤松氏について

諸々の障害により更新の方も停滞し、カウンタはすでに16000を越えちゃってますが、いくら遅れてもコラムはちゃんと書こうと決心したのだ。

最近、兵庫県の赤松氏の城を見学して思ったのですが、この家は一度、嘉吉の乱で将軍暗殺により断絶になっていながらも、よくまぁ戦国初頭期に再建が出来たもんだぁと疑問に思ってたのですが、いろいろ調べているうちにこの再建はなるほど納得のいくカラクリがあったのです。

赤松再建を願う家臣団は遺児の法師丸を主とし、官僚細川勝元の力添えもあってか、元服して政則と名乗り間もなく応仁の乱が勃発します。御存じのとおり応仁の乱は、山名家による西軍、細川家による東軍によって、京を巻き込んだ市街戦が展開されたもので、戦国時代の幕開けとされる事件ですね。

序盤戦は山名宗全率いる西軍が優位に展開し、ほぼ幕府を手中にします。 対する東軍の細川勝元は京で直接西軍と争うことをやめ、赤松政則を嘉吉の乱後播磨を統治している山名軍と戦わせることにより、京の西軍の軍営を手薄にさせ、幕府を占拠する事に成功するのです。

旧本領で捲土重来をもくろむ赤松軍の働きは目覚しく、一気に播磨を制圧した後は置塩城を本城として、再び播磨守護大名の地位に復活します。 が、その栄華は初代政則のみで、群雄割拠の時代に突入すると凋落の一途をたどってしまうのでした。

なんだか今回は固い話しでしたね。 HP更新の方も双子の幼児にじゃまされながらも頑張ろうという思いだけはあるのだが... ネタも尽きてしまうのでまた旅にも出たいなぁ(嫁さんには内緒)


アクセス数14000突破記念 念願のカメラ購入

お久し振りです。13000突破記念は休ませていただきました。 掲示板が消えちゃったりして御迷惑おかけしてますが、これに懲りずにいろいろ書いちゃってくださいね!

今回は城の話しじゃ無いですが、3ヶ月に渡る嫁さんへの洗脳活動により念願のカメラを購入する事が出来ました。私はたいしてカメラには詳しくないですが、なんかとってもうれしいので今回はそのカメラの話しです。私はこの十数年に渡りM社のα7000を使用していました。長年故障もなく十分満足していましたが、山城の写真を撮るようになり、特に影になっている石垣などがどうも黒くつぶれてしまう傾向があり、その露出に少し疑問が出るようになったのです。もちろん露出を補正する技量は私にはありませんので、「今のカメラならもう少し賢くなっているんしゃないかな?」と思い、カメラのカタログを読み漁りました。

で、やっと購入したのがN社のF100です。ただの自慢話になっちゃいますがこれがとても良いのです。下記写真は逆光どころか、おてんとさんがもろに入っている状態です。 たぶん旧カメラだと天守が真っ黒になったと思いますが、新カメラだと何とか天守がつぶれずに残っています。この程度でいたく感動してしまいました。>古い人間ですね。

会津若松城天守

しかし、晴天時の城の写真には限界があり、特に逆光の石垣は絶対に写りません。これからは露出補正が出来るよういろいろ試したいと思うのであります。 あと作品作りにもチャレンジしたいなぁ!>また嫁さんにブツブツ言われそうです。


アクセス数12000突破記念 一般参賀に行く

こんにちは。お久し振りです。今回は少し古いネタですが、今年の1月2日に義弟と一般参賀に行ってまいりました。私の興味は参賀ではなく通常立入禁止区域内の吹上御所内で、西の丸大手門、伏見櫓、富士見櫓などの写真を撮る事でした。見学は大勢の行列の中、大勢の警備に監視されながらで不自由なものですが、通常見れないアングルから写真が撮る事ができました。

左写真は、二重橋の奥の橋を渡る直前から撮った伏見櫓です。ほぼ正面から撮る事ができました。伏見櫓というのは二重櫓と多聞櫓の間が少し切れていたのです。新しい発見でした。

右写真は、天守閣亡きあと御三階櫓となった富士見櫓です。参賀のあとこの櫓の真下を歩き、内桜田門から外に出るコースで帰りました。 いや〜この富士見櫓は大きいス! 丸岡城、丸亀城より大きいでしょう。 結構みなさん写真を撮っていました。外人さんも多かったです。本丸は休園だったので行かれる方は御注意下さい。

伏見櫓 富士見櫓


アクセス数11000突破記念 三大奇襲合戦

明けましておめでとうございます。今年も頑張って更新しますのでよろしくお願いします。 今回は城の話題ではないのですが、戦国史上で三大奇襲合戦と呼ばれるものがあるのを御存知ですか?

  • 厳島合戦 : 弘治元年(1555年) 毛利軍 VS 陶軍
  • 桶狭間合戦 : 永禄3年(1560年) 織田軍 VS 今川軍
  • 私は、三大奇襲合戦で上の二つは知っていましたが、あと一つが何の合戦であるか長い間分かりませんでした。 が、最近やっと分かりました。

    河越とは現在の川越のことです。
    北条氏綱の死がきっかけで、関東管領の上杉憲政(山内上杉)は、河越城を北条氏から奪回することを決意。呼集に応じた扇谷上杉軍や、古河公方軍あわせて10万の軍で、北条綱成が籠る河越城を包囲します。
    氏綱を継いだ氏康は、8千の兵で河越城を救出に向かい、長期の滞陣を装いながら急遽夜襲にて大軍を蹴散らし、救出に成功したという戦です。

    事実関係はさておき、面白いのは信長にしろ元就にしろこの戦で、本人がメジャーデビューを果たしたものですが、氏康の場合は二代目のデビューって感じですね。(ホントは三代目)
    奇襲の状況は、”大軍が狭間で休息”と、”大軍が長陣で油断”とで、限りなく桶狭間に似ています。 厳島合戦も”大軍が島で休息”には変わりありませんが、大軍を島に閉じ込める策略や、村上水軍を懐柔するなどの過程があってのことなので、他の2つより戦略的要素が高いと思うのです。
    河越の夜戦を御存知の方には、つまらない話しでしたが、一般的な関西人はほとんど知らないと思いますよ。


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