エール大学の日本人

エール大学にもマクマスター大学と同じようなワイヴス・クラブがあって一月に一度位集まりがあった。私は子供を預けるのが大変なので滅多に出席出来なかったけれど、時々中井さんの美世ちゃんと一緒に預かって貰って出席した。

エールでは規模が大きかった為か、日本人だけで集まっていたように記憶する。それでもかなりの人数があり中には帰化して向こうの教授になっている人の夫人やアメリカ人と結婚した人もいて、様々だった。大学内のワイヴス・クラブ主催の天ぷらパーティー、庭付きの屋敷にすんでいた習字の先生宅でのガーデン・パーティー、Aid Society of the First Church of Christのミーティングに招かれてお茶セレモニーを披露したり結構楽しかった。

当時の名簿を見ると、現在皇后になっておられる美智子様の御兄弟のお一人も経済学部に席を置いて居られたことが分かる。

居住権を持っている人は8名、席を置いているだけの人は50名もいた。

音楽鑑賞

エール大学のウースレイ・ホールでは定期的に演奏会を開いていて、何回かヘレンが連れて行ってくれた。日本での演奏会と違うのはやはり観客の反応だと思った。

また、医学部の尾島さんの夫人は東京芸大のヴァイオリン科を出た方でニューヨークまでよく出かけて音楽を楽しんでおられたので、あるときメトロポリタン・オペラハウスへ一緒に連れて行ってもらった。演題は‘トリスタンとイゾルデ’、イゾルデ役はB.ニールソンだった。私達の席は最上階の立ち見席だったか、とにかく一番安い席だったけれど、音響効果が良かったからか、音楽はよく聞き取れて本場のオペラを楽しんで満足した。オペラを楽しむのは今も昔も一流の社交場に参加するようなもので、ここに集まるご婦人方を観るだけでも異文化鑑賞になる。フルレングスのファーコートをまとう淑女、幕あいにぺちゃくちゃぺちゃくちゃたわいもないことを話し合って自己満足する人々、様々で面白い。帰りがけにオペラハウスの裏口から出てくるミス・ニールソンを見つけてサインまで貰えたのは感激だった。お宝発見に出したら幾ら位になるのかと思ったりする。

ニューヨークで日本食品を買う

ニューヨークへはコネチカット・ターンパイクを通って行くと一時間半ほどで行けた。特に日本食品はニューヨークに行かないと買えなかったので味噌や醤油を買いに行ったものだ。店はセントラル・パークよりずっと北に位置していて日本で言えば下町の雰囲気をかもしていた。

或大雪の日、いつもの調子で出かけたら、ホルクスワーゲンがお尻を振ってなかなか進まず往生した。雪の上では車がスリップするのを初めて体験した。今思うとあの頃はスノータイヤに替えもせず、チェーンも着けなかったのは不思議だ。

島夫妻とブライアン・クラークが泊りがけで尋ねて来てくれたのもブランフォード在住中のことだった。皆でサンドイッチを持ってニューヨークへ行った。何をしたのか全く記憶がないのだが、夜帰って来てからブライアンがビルマカレーを作ってくれたのはよく覚えている。そばで手伝いながら作り方を覚え、以来今日に至るまで何回も来客に振る舞って楽しんで貰った。ブライアンは先ずベースの作り方を披露した後、材料の組み合わせやバラエティー、サーブの仕方など教えてくれた。ブライアンは子供時代を父親の任地ビルマで過ごしたそうだ。

ニューヘブンに引っ越す

夏が近くなって、私達はニューヘブン、ウインスロープ・アヴェニュー365番地に移動しなければならなくなった。ブランフォードを去るに当たって、冬の間に使ったセントラルヒーティング用のオイルを満タンにする決まりになっていた。大きなタンクローリーがやってきて、地下室のタンクを満タンにして行ったのにはびっくりした。費用もなかなか掛かり、やはりサマーコテッジを冬に借りたのは損と気付いた。ウインスロープの家は、静かな住宅街の一角の三階建の館で、古き良き時代のニューイングランド地方の面影を今に伝えているような建物だった。

<P_G_[ル大学の大学院の学生のアパートを夏休みの間借りることにしたわけで、家具も着いていた。エンゼルフィッシュ5匹の入った水槽まであって、これにはかなり神経を使った。部屋主の夫人は声楽家でピアノも着いていたので嬉しかった。彼女いわく、“銀製品とクリスタルは納戸にしまっていくので使わないで下さい。他の物はどうぞお使い下さい。食料品も残っているのは使って下さい。そして部屋を出るときは使いかけの品を残して行って下さい。私達はそれを使いますから。”と云うのである。部屋は三階だったので、急な階段の登り下りや、窓からの転落が無いように気を使った。三階と云ってもいわゆる屋根裏部屋で、夏の三か月は暑くて住みにくかった。当時はクーラーは無く、大きな扇風機が唯一の頼みであった。洗濯物はなぜか室内に干す様に云われたが、それでもすぐに乾燥した。私は手がすくと子供達を近くの公園に連れて行き、おすべりやブランコで遊ばせた。あちらのブランコは乳幼児でも乗れるように前後左右に支えが着いていたので安心して乗せられた。

公園の近くに同じ研究室で一緒に仕事をしていた大学院の学生のロジャー・エイムスの家があった。エイムス夫人はもと幼稚園の先生だったので、公園で出会うと加奈子や淳におすべりの滑り方を怖がらないように上手にてほどきしてくれた。始めは両手で支えて滑らせ、徐々に手を離していくのだ。ロジャー家に招待された事があった。何処の家でもそうだったがご馳走はごくシンプルながら奇麗に磨かれた銀食器が光っていた。エイムス夫人は通称スーと呼ばれていたが、彼女の場合結婚記念に両親から銀製品を贈られたそうである。孫には銀のカップとスプーンが贈られるそうで、彼等のピーターも銀のスプーンを振り回して食事を楽しんでいた。彼の回りはしっかりプロテクトされて、自由に食べさせていた。ピーターは当時2歳位だった。自立への教育はこんなところでもなされていて感心した。

ニューハンプシャーからボストンへの旅

日本へ帰る日が近づいた頃、ロジャーとスーは彼等の故郷ニュー・ハンプシャーへ私達一家を連れて行ってくれた。ハートフォードを通って真直ぐ北上、バーモントからニューハンプシャーへ入った。早くから開拓された土地にはそれなりの趣があって大木の目立つ街路がほっとする雰囲気をかもしている。スーの両親は共に医者で子供達を送出して優雅な生活をしていた。広い裏庭は芝が奇麗に刈られていて後ろの林へと広がっていた。

盆栽の世界に住む私達には誠にうらやましい限りだった。着いた当日はチキンの脚のバービキューで、翌日はロブスターを海草と一緒に豪快に茹で上げたのが振る舞われた。私達には始めて味わう大西洋のロブスターで裏庭のテーブルでの解放感もともなって忘れられない思いでになった。スーの家には彼女が幼かった頃に愛用したぬいぐるみや玩具が保管されていて子供達に貸してくれた。ロジャーの家も直ぐ近くにあって、ロジャーのブロックを子供達に披露してくれた。どちらの家庭でも私達を暖かく迎えてくれたのがうれしかった。次の日はスーの家の別荘に行った。 気張った接待とは違うが自然態でのびのびと休日を楽しむ事ができた。

ニューヘブンへ帰る途中、私達はボストンへ寄ることにした。欲を出してメイン州の海岸をちょっと見て行こうとしたが行けども行けども代り映えがないのであきらめて取って返した。ボストンには東大化学教室の先輩や同級の広田さん等が留学しておられた。

私達は不破さんを尋ねてアメリカ独立戦争の発端となったレキシントン広場の古戦場やリンカーンが暗殺された劇場、魔女刈り当時の魔女の館などを案内してもらった。 昼食に中華料理を頂いたが、寝込んでしまった淳を抱いて貰ったのを記憶している。その上帰りの旅費が不足だったので100ドル借金を無心して帰った。

淳が頭に怪我をしたのはこの旅行中のことだった。何処か忘れたが、モーテルのベッドに淳を座らせて私がその横に腰掛け、何かの拍子に立ち上がった時はずみをくらって淳が後ろ向きに転がり落ちた。運悪くそこに鉄骨がむき出しに延びていたので淳は後頭骨に達する大怪我をした。宿に着いてほっとした瞬間の出来事でその場は一瞬にして騒然となった。

“元どおりにしてかえせ。”と云い様主人は淳を抱いて医者に直行した。私は加奈子と部屋で待ったが、その長かった事。

“幸い骨には異常なかったよ。三針縫った。中味に影響しなければいいけれどな。”翌朝ぬいぐるみを抱いてモーテルの回りを歩き回る淳を見ていて、いつもと変らないなと思いほっとしたものだ。

ボストンからの帰路、せっかくだからケープ・コッドの先端まで行って見ようということになった。今では殆どが霞んでしまったが、先端の砂浜や柵の向こうに何かが見えたとかがぼんやりと浮かんでくる。

パトカーで救急病院へ

エール大学ではジェンセン教授の元で研究していたが、そこで知り合った当時大学院生だったエリック・チニーとロジャー・エイムスにはずいぶん世話になり、現在に至るまで家族ぐるみのお付き合いをしている。

帰国間際の或夜、エリックから電話が入って
“Hitoshi cut down his arm. He has an operation now.”というのである。私はてっきり腕を切り落としてしまったものと勘違いして青くなった。帰ってきた彼を見ると包帯でぐるぐる巻きにされた腕がついていて、とりあえずほっとした。

“ガラス管の端であっという間に切ってしまったんだ。11針縫ったよ。抜糸は旅先でしなければならない。エリックと救急車の替わりにパトカーに乗せて貰った。サイレンを鳴らして格好良かったよ。”と云っていた。

エリックの勧めで私達は最後の一ヵ月を大陸横断に費やすことにしていて、オートモービルクラブに通ってルートを検討していたのだが、出発直前に妊娠している事が分かり、大幅な変更を余儀なくされた。淳の風邪で行くのを断念した首都ワシントンも私は諦めて、後からミネアポリスまで飛行機で行き、合流することになった。

大陸横断旅行については30歳の時に書いた記録があるのでここでは省略するが、とにかく大変な旅行だった。この計画を立てた時丁度家に遊びに来ていた人の誰かが、数人で交代に運転して3日で横断したと云っていたが、本当に出来たのだろうかと思ったものである。

いよいよ帰国

荷物は一部船で送る事にして、ニューヨークのブルックリン埠頭までトレーラーを借りて運んだ。医学部の尾島さんと一緒に運んだが、トレーラー立ち入り禁止の所に入ってしまったり、尾島さんの車が動かなくなったりトラブル続きでとても大変だった。

ともかく目的を達して、ついでにニューヨーク42番街をぶらついていたら、時を同じくして帰国しようとしていた三島の遺伝研究所のご夫妻が下駄ばき姿で黒いこうもりを持って歩いておられるのに出合い感服してしまった。今では日本でも珍しくはないが、女性用のまともには見ていられないようなブラジャーやパンティーを展示している店もあって、度肝をぬかれたのを覚えている。

大陸横断の後、当初の予定ではサンフランシスコからプレジデントラインの客船で帰国する予定だったが、港湾ストライキで出航のめどがたたず、急遽パンアメリカンエアーライン機で帰ることになった。当時はジェット機が就航するようになって間もない頃で、そのジェット機に乗れるのは時代を先取りしているようで嬉しかった。機体にはN702P??と書いてあったが、機種は分からない。まだターボジェットの時代で安全はパイロットの飛行経験と腕に掛かっていた。

当日の天候は晴れ。私達は万感の思いで機上の人となった。息子は一人はしゃいで、“パンナメリカン!ジェットパイロット!パンナメリカン!ジェットパイロット!”と連発していた。後に航空機産業を志し、エンジン開発に携わるようになった彼の原点(三つ子の魂)はこの時形成されたと私は思う。

飛行機は5時間程してハワイ、オアフ島に着陸した。砂浜に一本の滑走路があるだけで、金網のフェンスが見送りの人と私達を隔てているだけだった。平屋の小さな土産もの屋があったので、記念にプルメリアのレイとアンスリウムの花一箱、子供にキャンディーのレイを買って記念写真を撮った。レイは島を離れる時、海に流すともう一度此処に戻って来られるということだったが、せっかく買った甘い香のレイを捨てる気にはなれず日本迄もって帰った。

ハワイの次は東京と思っていたら、燃料補給のためにウエーク島にたち寄った。海岸には日本海軍の軍艦が無惨な姿をさらしていた。皆外に出て見物していたが、私はめんどうでもあったので機内から眺めるだけにした。南太平洋の海と空はどこまでも青く、島の緑が眩しかった。

羽田国際空港に3年ぶりに降り立った時はすでに夕方近く、見覚えのある懐かしい人々との再会はやはり心踊るものだった。彼の両親と私の母、お仲人の桜田さんも見えた。皆二人の子供達に興味を持ってくれてなにやかやと話しかけていたが、淳はただ“ノー。”“ノー。”を繰り返すばかりだった。

三年前と同じ道を車で宿に向かったが、アメリカの道幅を見慣れてしまった私は信じられない位狭くみすぼらしい日本の風景に唖然とさせられた。それでも日本に帰れた事は嬉しかった。

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