4 コントラクト・ブリッジ

ハミルトンで知り合ったインド人のムツスワミーとセイロン人のビクラマシーンは時々わが家に来てブリッジを教えてくれた。ムツスワミーはマドラスの出身でベジタリアン、ビクラマシーンはコロンボ出身の理論物理学者、共に国では最高の階層の人達だった。ブリッジはいろいろルールが決められていてややこしく、大体の事は理解したが、なかなか上達しないのでコールする度に叱られていた。インド人の英語は訛が強くてこれを理解するのがまた難関だった。しかし、テレビもない時代に彼等とカードゲームを楽しむ事が出来たのは大変良かったと思う。人間は接してみないとその実態は分かりにくいものだからだ。彼等の考え方はとても合理的で、収入の少ない人は高い人にたかってあたりまえというものだった。彼等の友人にジャギーというインド人がいて、ポーランド人のオスカルブスキー家に下宿していた。ナチのゲシュタポに痛めつけられてカナダに渡って来たポーランド人は極めて現実的で金銭的にだらしないジャギーはどうも気に入らないようだった。

日本から島さんが来られたのはこんな時で、この下宿を紹介した所、オスカルブスキー夫妻はそつのない島さんが大変気に入って、以来この下宿はずっと日本人が引き継いでいるらしいのには驚いてしまう。

移り変わる季節

ハミルトンの冬は寒かった。宿舎の前は厚い雪でおおわれ、時にブリザードが吹き荒れた。それでも子供達はは外で遊んだ。

寒い冬が去って暖かくなると宿舎の前に並んだクラブアプルの木が濃いピンク色の花をつけて美しかった。ロビンという胸毛が赤くて背中は濃い灰色の鳥がやってきて“ロビン、ロビン”と声高に鳴くのも珍しい眺めだった。ロビンは芝生の庭を物おじもせず散策して走り回ったり、庭木の中に隠れたり、とても楽しそうだった。オンタリオ湖の入り江もこの頃になると氷が溶けて、冬の間楽しんだスケートが出来なくなる。

ロック・ガーデンはハミルトンで一番見事に作られた庭園だったがやはり春が花も華やかでよかった。

冬の寒さから解放されて人々は一斉に野外生活を楽しむ様になる。オンタリオ湖畔のバーリントン・ビーチやプリンセス・ポイント、エリー湖畔等にくりだしてバービキュー・パーティーをしたりする。丁度この頃私は悪阻で気分が優れず、アイスクリーム以外は殆ど食べられなかった。せっかくエリー湖畔まで行っても自動車から出る気になれなかった。

私達のホーム・ドクターはドクター・マイヤという日系二世だった。日本語なら宮先生と云うことになる。日本語が分かるので好都合だった。予防注射もここで受けさせた。後に加奈子が気管支炎で妙に甲高い咳をして発熱したときには、ドクター・マイヤの紹介で市立病院の専門医が診察して、即入院の措置がとられた。日本なら、さしあたって薬を飲ませて安静にさせるだけなのが、いきなり酸素テントに入れられて隔離されたのだから、親も子も仰天した。加奈子は泣き叫ぶが、ガラスごしに眺めるしかなかった。

アルゴンキンパーク

1959年夏、カナダでもインデアン・サマーといわれる暑い日が続くことがあり、私達はオンタリオ州北部のアルゴンキン州立公園を尋ねることにした。ここには無数の湖が点在していて、多くのカナダ人はカヌー持参でやってくる。

私達はただドライブするだけだったが、自動車免許取り立てはそれだけでも満足だった。ハミルトンからトロントをへて北上し、レイク・シムコに立ちよって行ったが、一日がかりの行程だった。レイク・シムコにはカナダ建国の父と云われたシャンプランの銅像が建てられていた。ちょっとしたリゾート地で水に親しむ人々の姿が楽しげだった。ハンツヴィルから右にそれたところに湖がありその近くのモーテルに一泊した。アルゴンキン州立公園に達したのは翌日のことだった。車一台について3ドル支払って入った。今風に云えば自然保護林地域で色々な観察保護がされ、また展示されていた。私達もトレイルに沿って歩き、車で移動してはヴュウポイントで止まって眺める動作を繰り返して、一日中暗い森林の中をうろうろしていた。帰りは別のルートでピーターボロウまで一気に下りてきて一泊、ここのダムや水辺の風景を見てからスーパーマーケットに寄って食料を買い帰途についた。ハミルトンに近付いた頃、西の空に沈もうとしている真っ赤な太陽が目に入り圧倒された。思わず“ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、ぎんぎんぎらぎら日が沈む。まっかっかっか空の色、みんなのお顔もまっかっか、ぎんぎんぎらぎら日が沈む。”と口をついて皆で歌ってしまった。

この前後どちらか忘れたが、彼は島さんとサドベリーのニッケル鉱山に出かけた。アルゴンキンより更に遠く大変だったろうと思うが帰ってきて云うのによると、

“危うく正面衝突するところだったよ。‘ピュ─────’ってクラクションの音がすれ違ってハッと気がついたら反対車線を走っていたんだ。島さんは何にも気付かずに眠りこけてるし、ヒヤッとしたよ。”というのである。彼は意外にドジな所があって、高圧電流にふれたり、走ってくる汽車の前を横切ったり、それも二度もしているのだから全くヒヤヒヤさせられる。サドベリーは寒い所なのに大きな蚊がわんさかいて大変だったそうだ。

淳の誕生

1960年1月23日は雪の多い寒い日だった。前日イートン百貨店で買い物して、ちょっと無理した為予定日一週間前だったが陣痛がおきてしまった。早朝5時頃便意を催して眼がさめ、しかしなかなか出ないので浣腸したのが悪かった。七転八倒の苦しみを味わう事になった。朝ドクター・マイヤに連絡がとれるまで脂汗をかきながら待った。

“今から家の方に行って見るから待っているように。”と云われたが、とても我慢できなくて雪道を病院へ急いだ。途中ドクター・マイヤと擦れ違ったがとにかく病院にと気はせくばかりだった。

病院はセントジョセフス・ホスピタルで、ハミルトン市街を見下ろす岡の中腹にあった。着くと早々に担架に乗せられ、分娩室にはいるやいなや分娩台に乗せられて慌ただしい数分だった。ドクター・マイヤが駆けつけたのはこのすぐ後だった。

“すぐ痛くなくなりますから我慢してね。”と云われたのは覚えているが、その後麻酔薬を注射されて意識を失った。眼が覚めたら、かたわらの酸素ボックスの中に頭を斜め下の方に向けられてうごめいている毛むくじゃらでオランウータンみたいな赤子がいた。記録によると11時15分出生になっている。8ポンド9オンスの大きな子だったので、新生児の入浴方法のモデルにさせられた。

病院の食事はレストランの様に自分で選べて、私は項目ごとに一つずつ選んでいたので退院までに丸々と太ってしまった。一方子供の方は母乳栄養児で、大泣きして連れて来られるのに私が抱くと安心して寝てしまう習性があって母乳を飲もうとしないので、退院した時は8ポンド1オンスに減っていた。

話しは戻るが、生後間もない頃ドクター・マイヤが来て、
“サーカムシージョンの手術をしますか、どうしますか?”と云う。
“男の子は皆するのですか?”
“99パーセントはしますが、”
“じゃあ、してください。”と頼んだ。後で聞いたら日本人は殆どこの習慣がないとのことだ。長男は帰国後温泉地で育ったが、自分だけちょっと違う事に気付きひけ目を感じていたらしい。しかし11歳でロスアンゼルスに渡ってこれは解消された。

名前は敬虔なクリスチャンでトロントに来ておられた吉野先生につけて頂いたが、沢山の候補名を下さったのでその中から淳をえらんだ。

淳はカナダ生まれなのでカナダ国籍をもらい、カナダ在住の間カナダ政府は毎月6ドルの補助金を下付してくれた。日本へ帰る時も念のためカナダのパスポートを貰って出国した。一方両親が日本人であるし、日本の戸籍にも登録したので、日本の国籍も持っていた。18歳になったら自分でどちらの国籍にするのか決めることができた。

“淳ちゃん、大きくなったら一人でカナダに行くんだよ。”と冗談で云ったら、しゅんとしたのを覚えている。

2月にはいって私も淳も大分肥立った頃、マクマスター大学のファカルティー夫人クラブ会長からカードが届き、“記念のナフキン・リングを持って次の木曜日午後3時半頃伺います。在宅してください。”と記してあった。私はどうしてもてなしたら良いか分からず困惑した。街の陶器屋を散策してイングリッシュ・ボーンチャイナのカップを三組買いその日に備えた。とりあえずお茶の用意をして待っていたが、会長と同行のパターソン夫人は儀礼的な挨拶を云って淳をあやしお世辞を云うと、 椅子にもかけずに帰られた。

ナフキン・リングは銀製で、イニシアル入りの立派な品だった。

カナダでの子育ては入浴のさせ方も日本とは異なってドライバス方式で、石鹸をつけて濡れたタオルで拭きとり、最後にお湯につけて暖めるだけなので体力はあまりいらなかった。離乳食は2ヶ月目にはシリアル、3ヶ月目には肉の缶詰をガーバーやハインツが売り出していたのを食べさせた。おしめも大判の長方形、おむつカバーは綿の重ね織で蒸れず漏れず日本のより更に良いと思った。寒い日でも一度は外に連れ出して外気に触れさせるのも日課だった。近くのダンダーン公園はオンタリオ湖を見下ろす高台にあって、小鳥を飼育して見せていたので加奈子を満足させるためにもよく連れていった。

オタワーモントリオール

淳が生まれて数ヵ月たった頃、オタワに来ていた高草さん一家を尋ねて、オタワを案内して頂いた。丁度衛兵の交代を見る事が出来て、首都の厳粛な一面を見た気がした。木々に囲まれた日本大使館も見た。そういえばトロントの日本領事館には留学生として一度招待された事があった。オタワからモントリオールまでたしか高草さんも同行してくれた様に思うが、はっきりしない。

ただモントリオールにもノートルダム寺院が在ったのはよく覚えている。それから馬車に乗って見学したが、何処をどう見て回ったのかは忘れた。

モントリオールではリッツホテルに泊まったのだが、車庫入れをホテルマンに任せたら車の上に積んでおいた折り畳み式乳母車の柄を折られてしまい往生した。彼はホテルに苦情を申し立てたがどうにもならなかった。

嫌な思いを残して翌日セントローレンス川沿いに帰途についた。サウザンドアイランドと云われるだけあって大小様々の島が川の中にあり、著名な人々の所有地だとか別荘が見物の対象になったりしていた。中には国境をまたいだ島もあってアメリカとカナダの旗が立てられていて面白かった。川に架かる橋も興味深く幾つかの橋を渡って写真を撮った。川はオンタリオ湖に通じていて落差がかなりあったようで、船の運行の為にロックがあり中でもアイゼンハワーロックは大がかりで私達も時間をかけて見学した。

現在では中国の長江に更に大がかりの物が出来ているけれど、あの当時は感心して眺めたものだった。

ストーリーブック・ガーデン

もう一つ記憶に残っているのはハミルトンからデトロイトに向かう途中にパリやロンドンと云う小都市があって、 ロンドンにはスプリングバンク・パークという広い公園があり、その中にストーリーブック・ガーデンと云う子供向けの一角があった。ある時、インド人のチャタルジー一家と島夫妻を誘ってこの公園へ行った。たしかチャタルジー一家はハミルトンへ来たばかりで我々は親睦を兼ねて一緒に行ったのだった。

インデラーニと云う目の大きな女の子と加奈子は走り回ってよく遊んだ。カナダの公園はとにかく広くそれでいて夢があっていいなあと思った。

また国境で拘束された話

カナダでの期間が後半年位になった頃、彼はアイルランド人のブライアン・クラークとエール大学のジェンセン教授を尋ねる旅に出た。ナイアガラに隣接するバッファローからアメリカ入りして、ニューヨーク州を殆ど西から東へ走り州都アルバニーから更にニューヨーク・スルーウヱイを南下してニューヨークマンハッタンにはいる。それからコネチカット・ターンパイクを経てニューヘブンに行くロング・ドライブである。エール大学には彼の博士論文を検討してくれた小穴先生と中井さんがいた。後一年間エール大学で過ごす約束を決めて彼は帰って来た。

しかし開口一番、“だめじゃあないか。勝手に大切な書類を動かさないでくれ。おかげでまたモントリオール手前で足止めをくってしまったよ。何かないかと思って探したら、幸いソードからのインヴィテーション・レターが出てきてやっと解放されたんだ。お前には本当に困っちゃうよ。”と云うのである。ヴィザの延長を領事館でしてもらった時、係りの人がから渡された延長証明書を ‘なくさないように’と言われたので私がパスポートから取り出してしまっておいた為、カナダ再入国出来なかったのである。本来パスポートにもビザ延長の印を押すべきところを係りの人が忘れたことが事態を悪化させたわけで、あながち私だけの責任ではなかった。

 

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