5 ドライブインシアター

アメリカに移る前暫くの間、私達はドライヴイン・シエターに度々出向いて映画を楽しんだ。街はずれの林の中に、どでかいスクリーンが立っていて、その前に車ごと乗り込み専用のレシーヴァーを取り付けて映画を鑑賞する。テレビジョンがあまり普及していない頃だったから子供連れ家族や若いカップルに人気があった。

ここに乗り込むと、ポプコーン、ハンバーガー、ホットドッグ、フレンチフライそれにコカコーラ、セブンアップ、ビールなど思いのスナックを買い込んで大画面の映画を楽しむ訳である。私達は子供向けのデズニー映画をよく見た。淳は後部座席に寝かせて、加奈子はトランクルームの中がお気に入りの場所だった。‘101匹わんちゃん物語り’を見たときは小犬が追いかけられるシーンで加奈子が泣き出して困った。その当時は犬がかわいそうで泣いていると思っていたが孫が怖いものを見ると泣くのを知って、あの時加奈子は追いかけるクルエラが怖くて泣いたのだと気付いた。

ハミルトンからニューヘブンへ移住

カナダ最後の一日はとても忙しかった。‘立つ鳥後を濁さず’と教えられて来て、日頃の手入れが行き届かない私だったので、最後の掃除に手間取り朝の出発予定が夕方にずれこんでしまった。ハミルトンを去る前に、ソード教授宅へ挨拶に行ったら、

“ヒトシ、事故を起こさないように気をつけて行きなさい。”と云われた。

夕飯は通い慣れた中華料理店へ島夫妻と行きご馳走になった。島夫妻がいてくれたのでハミルトンの生活は大変楽しかったし、心強かったと感謝している。島夫人が別れ際に彼女の持っていたハンカチを何の為だったか忘れたが渡してくれた。島さんは私達が枕をもって行ったのを覚えていると云うことだったが、何でも必要な物は詰め込んで座る所がかろうじてある状態だったのは事実だった。

ハミルトンを後にしたのはもう暗くなってからだった。私達は走り慣れたクイーンエリザベス・ハイウエイをナイアガラに向けて走り、手ごろなモーテルを見つけて泊まったと思う。この記憶はあまりはっきりせず、ナイアガラからバッファローへの道は明るいうちに通ったので多分そうだろうと思うのである。

バッファローで入国手続きをしたのは10月21日だった。私達はニューヨーク・スルーウエイをしばらく行ったスタッフォードと云う小さな村のモーテルで一泊した。

翌日は紅葉を楽しみながらフィンガーレイクの方に南下して湖畔の林の中に備え付けてあるテーブルに持参のランチを広げて一服した。子供達は狭い座席から解放されて大喜びだった。しかしそれも束の間慌ただしく車に押し込んで、更に南へ走った。当時は私も運転免許証を持っていたが、高速運転はいつも彼の役目だったのでさぞ疲れたに違いない。

コーニング・グラスセンターに着いたのは夕方近くの午後4時頃だった。ここの圧巻はパロマ天文台の巨大レンズの型が展示されていた事だった。ガラス工房も二階から眺められる様になっていた。見事な手捌きで大きなガラス玉を操る職人芸に眼を見張ったものだ。陳列室も整備されて眼を楽しませてくれた。彼は仕事柄ガラスに大変興味を持っていたので、この後もガラスといえば見学したものである。

コーニングからルート17を通って、その日はオウエゴの近くで見つけたモーテルに泊まった。翌日はニューヨークを目指して走り続けたが、昼食に立ち寄った街で淳に白熊のようなコートを40ドルで買った。多分衝動買いだったに違いない。加奈子は既に裏にボア着きの分厚いコートを持っていたので買う必要なかった。

ジャパニーズレストラン富士

ニューヨークのビル街を遠望した時は興奮した。ニュージャーシーからリンカーントンネルを通ってとにかくマンハッタンに出た。前にブライアンと来た時、日本食堂を見たから、久しぶりに日本食を食べようと云うことになり、一方通行の多い道を右往左往して三軒ほど見つけたのだが、車を止める所がなくて結局‘富士’という名前のレストランに入ったのだった。セントラルパークの近くだったと思う。狭い入り口を入るとそこは日本的な飾り付けで覆われていて、しかし日本人ならこんな飾り方はしないだろうと思われて、異質文化の世界だなあと思った。私達が席に着くと、女将らしい人がやって来て“どこからきたの?”とか、“なにをたべたいの?”とか色々聞いて、挙句の果てに身に着けていた精工社の薄型時計を自慢していた。この当時すでに日本人商社マンはかなりいて、地道な活躍をしていたと思われる。それらしき日本人が沢山目についた。私達はすきやきを注文したがその高かったこと!一人前50ドルもしたので目をむいてしまった。支払いこそしたがびっくりしてチップも置かずに出てきてしまった。とにかく早くニューヨークを脱出しなければと思って、ニューヘブンに向かって頑張ったけれど、夜も更けてきて心細くなりブリッジポートで宿を見つけて泊まった。

ブランフォードに落ち着く

エール大学には外国人を受け入れる為のボランテイア組織があって其の中の一人が私達の手助けをしてくれると云う手紙をくれていたので、そこを目指して行った。其の家はニューヘブンよりちょっと先のブランフォードと云う所にあった。4歳位のポーラと云う女の子と大きな犬が一匹いたのを覚えている。

ブランフォードは大西洋に面した避暑地で、冬の間大部分の家が空き家になって貸し出されていた。そのうちの一つが月90ドルで借りられるがどうかと打診された。見に行くと意外に大きな家で、庭やガレージも家具も着いていたので直ぐに気に入ってしまい、ここに住むことにした。尤もすぐに電気、水道、ガス等が使えず、其の夜はポーラの家に泊めてもらった。世話をしてくれた人の名前は失念してしまったが、エール大学で一緒に仕事をしていたエリック・チニーの親戚だそうで、暫くして離婚したといっていた。

家には名前が着いていてクレアーコテッジと呼ばれていた。住所もウエイバリーロード、ブランフォードだけでよかった。家主はニュージャーシー在住の人だった。二階にはサンルームと寝室が三部屋、バスルームがあり、一階はリビングルーム、食堂ともう一部屋寝室があって、地下がボイラー室と洗濯場になっていた。

こんな大きな家には一生住めないだろうと思いながら生活を始めた。二階の窓から海が見える部屋を子供達の寝室にした。海の中に小さな島があって、潮の満ち干で現われたり隠れたりしていた。加奈子のベッドからそれがよく見えた。海を見ながら二人で“海は広いな大きいな、月が登るし日が沈む。”と歌ったものである。

エール大学は車で30分程の所にあり、毎日ガレージの戸をあけてブルーのホルクスワーゲンが出て行く日が続いた。少し歩いて行った所に小さな雑貨屋があり、散歩を兼ねて子供を連れて良く買い物に行った。海岸通りを通って行くのだが、この海岸はプライベート・ビーチと云われていて、私達も入る事が出来た。尤も寒い季節なので人影が無いのはあたりまえではあった。

スキナー一家

ウエイヴァリー・ロードの一番海岸寄りにテネシー州、メンフィスからエール大学に来ていたスキナー一家が住んでいた。私達がここに住むようになって間もなくわざわざ挨拶に来てくれた。南部の人らしく間延びのした話し方で好感がもてた。

以後時々お茶の時間に招待してくれた。だいたいこの時間には淳が昼寝していたので加奈子だけ連れて行ったが、加奈子は緊張していたのか、何か云われると大きく肩でため息をつくのだった。ヘレンというこの夫人は見事な金髪の美人で、子供三人は燃えるような赤に近いオレンジ色の髪をしていた。赤毛のアンもおそらくこんな色の髪をしていたのだろうと思った。末娘のサリーは5歳、やんちゃ盛りでいつもきゃっきゃっとさわぎまくっていた。ヘレンが“Play outside !”とよく叫んでいたのを思い出す。長女のシンディーは9歳、真ん中は男の子でクレイグと云った。上の二人はおとなしく聞き分けの良い子達だった。三人共よく加奈子や淳と遊んでくれた。

裏庭の向こう隣にもジョアンヌ、シオン、スーザンなど遊び友達ができてよく家の庭に来て遊んでいた。一階のベッドルームは子供部屋にして玩具を置いて遊ばせた。

テレビを買った

ここブランフォードには6月頃まで滞在したと思うが、洗濯機とテレビを買った記憶がある。洗濯機はオートマチックで当時はえらく感激した。テレビも19インチのスマートな薄型で、これは日本までもち帰ったのだが、残念ながらNHKは見えず、わずかな民放が映るのみだった。

ブランフォードでは昼間から色々面白い番組が楽しめて、‘カモフラージュ’というクイズ番組は線画の中に動物が何匹隠れているかと云ったもので、加奈子も一緒に楽しんだ。漫画は‘フィーリックス’、‘フリンストン’、‘ポパイ’等、大人向きには‘ハワイアン・アイ’、‘77サンセットSt.’、‘ルート66’、‘ペリー・メイソン’、‘アンタッチャブル’等古き良き時代のアメリカらしい番組が多かった。加奈子がテレビに興味を持ってなかなか寝ようとしないのには困った。或時、業をにやして彼が片手を持って二階に引きずり上げたら、脱臼して肩から先がぶらっとなってしまった。憮然として彼は動こうとしないので、私が夜道をニューヘブンまで地図を頼りに運転して行き、医学部に留学中の尾島さんに診て貰った。腕を持ち上げてちょっと動かしただけで、意外と簡単に手が動く様になった。そのときはあーよかった、と思って帰ったのだが、最近ふっとあれは加奈子のポーズではなかったかと思ったりしている。何しろ様子を見ていて人の顔を見ると泣いたりする賢い子だったから。

ここでの淳ははいはいで階段を登るのが好きで、そのくせ登ってしまうと下りられなくて泣き出すので手が掛かった。10ヶ月で完璧に歩けるようになったので、近所の子供たちが面白がって両手をつないでよく歩き回ってくれた。そんな或日、あめ玉を皆に配って淳にもやったら淳が喉をつまらせてしまい、大変びっくりした。幸い逆さにして背中をたたいたらぽろっと出てきてほっとしたのだが、以来淳は飲み込む事が苦手になり、肉の塊は呑めず、カプセルもだめといった具合で苦労させられた。子供には棒のついたローリーポップが良いのは一理あると思う。

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