3 日系カナダ人清水さん

私達が宿舎に来て一ヵ月位した頃、日系カナダ人のジェームス清水と名乗る人が尋ねて来てくれた。彼はマクマスター大学で長年働いていると云っていたが、和歌山県新宮出身で1908年にカナダへ入植されたそうだ。戦前はヴァンクーバー辺りで漁師をしていたのだけれど、戦争が始まると日系人は皆内陸のマニトバ辺りに移されて苦労したと云っていた。奥さんは早く亡くなり、男手一つで二人の子供を育て上げ娘さんはトロントに、息子さんはモントリオールの医科大学に進学していると語っていた。彼は私達がマクマスターにいる間ずっと何かと世話してくれて、ハミルトン在住の日系人に紹介してくれたり、日本の映画を見に連れていってくれたり、日本食品を売っている店を教えてくれたりした。当時すでに70歳近かったが、かくしゃくとして若く見えた。それでも数年後、ハミルトンからナイアガラへ行く途中にできたニッポニア・ホームという日系の老人ホームに入り暫くして亡くなったそうだ。

パーティー

カナダ最初のクリスマス・ディナー・パーティーはクリスマス・デイにファカルティ・メンバーが一同に会して大学本部のカンヴァセイション・ホールで開催された。加奈子を日系人夫妻にあずけて私達も出席することになった。

何処へ行けばよいか分からなかったのでお隣のエレノアに尋ねたら、“一緒にいきましょう。”といってほんの100メートルほど先のハミルトン・ホール横まで車で連れて行ってくれた。

殆どのご婦人方はミンクやテンの毛皮のコートを羽織って来て、ご主人にコートを取ってクロークに預けてもらい晴れがましくふるまっていた。。ドレスは勿論イーヴニングドレスで、背中まる出しだったり、肩や胸を思いっ切り出していたりで、今まで映画の中でしかお目にかかっていなかった私は唖然としてしまった。私は日本から持参した訪問着で出席した。逆に向こうも着物が珍しかったのか、“Oh, beautiful!”といってくれた。

ご馳走はローストターキーがメインで、いわゆる詰め物等が一緒にサーブされて、昔銀座でクリスマスイヴに食べたのとは大分違うなと思った。ケーキも果実やナッツがふんだんに入ったクリスマスケーキでとてもリッチで美味しかった。

隣の席の婦人が、“イヴには何を食べましたか?”と聞いてきたので正直に“サーモンのムニエールをたべました。”と答えたら笑われてしまった。全く文化の違いに圧倒された一日だった。

このパーティーの前後どちらだったか忘れたが、ソード教授夫妻が私達を御自宅に招待して下さった。

夕食後8時からで子供を連れてきてもよいということだったので、買ったばかりの乳母車を積んで行った。向こうでは、大体の場合夫妻揃って玄関先で客を迎え、コートを預かって別室に置いてから客を居間に案内する。私達の場合、ソード夫人は子供を乳母車ごと二階の夫妻の寝室に連れて行ってくれて、“子供はベッドに寝かせてもいいですよ。”と云われた。私は車に寝かせておけば良いと思っていたのだが、彼は云われたとおりに加奈子をベッドの真ん中に寝かせて下に降りた。

パーティーには私達以外に二組の夫婦が招待されていた。私達が入って行くと男性は立ち上がって挨拶し、女性は腰掛けたままで挨拶した。暫く平和な時が過ぎたがそのうち二階から加奈子の泣き声が聞こえてきた。私が立ち上がると、今まで腰掛けていた男性が条件反射の様に立ち上がったのには驚いた。この日は、およばれなので、真新しいおむつを当ててきたのが間違いのもとだった。いつもは漏れないのに、吸収が悪くて横漏れしてしまい、ソード夫妻のパッチワークの素晴しいベッドカバーからシーツに至るまで濡らしてしまう大失敗をした。この事実をどう説明すれば良いのかが次の難問で、彼は“ウエットベッド”とか四苦八苦で説明していた。しかし、ソード夫妻はにこやかに我々を送り出してくれた。後で彼曰く。”ソード夫妻は結局ベッドに入ろうとして初めて彼が何をいわんとしていたか理解したんだろうな!”

当時オンタリオ州ではライセンス無しで酒を買う事は出来なかった。酒は全て一見何もない倉庫の様なところで指定したものだけを購入することが出来た。私達のようにどんなものがあるのか知らないと、何を指定すればよいのか見当がつかない。

そこで思いついたのは‘日本のさけ’だった。瓶入の酒を予想していた私達の前に現われたのは缶入のパッケージだった。丁度知り合った人達を招待したいと思っていたので、‘酒パーティー’を開く事にした。色々な国から来た人達が色々と意匠をこらしてやってきた。今から思えばお粗末なご馳走しか用意できなかったと思うが、皆楽しんでくれた。しかし、一人ベルギーからきたクイストウオーターが悪酔いしてのびてしまったので、此の人を下宿に連れて行くのが一騒動だった。英国から来た岡本さんも一緒に行って、後で“ベッドに寝かせてズボンを取ったら、パンツもはいてないのでびっくりしましたよ。”と云っていた。向こうの人は、ワイシャツの裾の部分をパンツ替わりにしてズボンをはくのだと誰かがいっていた。

ビヤホールと事故

ビヤホールも変っていた。街の一角に男、女と書いた入り口がある建物があり、公衆便所かと思ったが、それがビヤホールなのである。男でも女連れだと女、男だけだと男の方にしか入れない。男の方には椅子が無くて立ったまま飲まなければならないので女性同伴を皆好むわけである。

あるとき加奈子が寝てしまったのを見届けて、二人でダンダスのビヤホールへ出かけた。車ではすぐ近くだったのでまあいいだろうと思った。雨が降っていて、いやな予感がしたけれど、ビールを一杯飲んでその場の雰囲気を楽しみ、帰る時の事だった。車が二回ほどふらっとふらついたのを感じた後、突然大きく傾きながら一回転して中央フェンスにぶっつかった様に思った。実を云うと一瞬何が起こったのか分からなかった。“大丈夫か?”といいながら彼は外に出た。私も外に出て驚いた。前と後ろのバンパーが両側に伸びて、タイヤはパンクしているのでえらく車が長くなったように感じた。一緒に飲んでいた大学院の学生のクラッグとブライアンが後ろから来ていて助けてくれた。パトロールカーが近づいて来たとき、“酒を飲んでいるのが分かると具合悪いからおまえはタイヤ交換をしているポーズをとれ。俺が話してくるから。”と云ってポリスマンに掛け合ってくれた。車は保険に入っていたおかげで出費100ドルで元どおりになったけれど主人の運転は怖いという気持ちは以後ずっと心の中に残った。

トロント

カナダの雪は降り積もるより吹き飛ぶ雪で、吹きだまりにはそれなりに雪があったが、ないところは殆どないと云った具合だった。こんな凍り付くような寒いある日、私達はトロントの知人を尋ねてクイーン・エリザベス・ハイウエイを北上した。オンタリオ湖の岸辺は凍り付いて、狭くなった水面に鴨がひしめくように浮いていた。知人というのは私達の結婚に際して仲人をしてくれた桜田さんが、何か困った時には相談するようにとの配慮で、日本を出る時に土産を持たせてくれたのを届ける先の人だった。地図を頼りに尋ね当てた人は、日系二世で美容師をしていた。都市整備の及ばない所の様で雑然としていた。私達はせっかく土産を届けに来たのに、長いこと待たせられていささかうんざりした。そして二度とそこを尋ねようとは思わなかった。

トロントには東大化学教室から吉野助教授も夫人同伴で来ておられたので、その後何度も遊びに行った。吉野さんの部屋は、大きな館の一角にあったが、干物を焼いたら煙が立ちこめて困ったとか、たくわんを食べたら嫌な顔をされたとか苦情を云っていた。私達の方が増かなと思った。吉野さんは冬のナイアガラを見たいと云われて、

ハミルトンに立ちよって下さった事があった。その日は運悪く大雪で車を出す事が出来ず残念だったが、あのナイアガラの滝が冬には凍ってしまうのだからその寒さは推して知るべしといえる。

ラクーンとスカンク

カナダに来て出くわした動物は色々あるがラクーンと云う大きなあらいぐまにはびっくりした。夜な夜なわが家のギャベッジ缶(くずいれ)を荒す者がいて、困り果てて紐で蓋をふさいだら、そのまま転がして持って行ってしまった。なんとそれは隣の建物の縁の下、つまり床下の入口にころがっていたのである。その晩、見張っていたら子連れのラクーンがぞろぞろそこから現われて金色の眼玉をぴかぴかっと光らせていたので驚いた。人間の住居の下は動物にとっても快適居住地だったのだ。

同じように目についたのはりすとジャック・ラビットだ。いわゆる野兎で、ピーター・ラビットといえば“ああ、あれか。”と理解されるだろう。脚が長く丈夫なので走るのも速い。人間を見ても怖がらないので捕まえようとすぐ近くまで忍びよって行くと様子を見ていてさっと逃げてしまう。スカンクは月夜の晩に地べたを這うようにそろりそろりと移動するのを見た。この動物は脅かさないのが一番で、危険を察すると相手に尻を向けて強烈な一発をくらわせる。大体の動物はこの一発をくらうと失神してしまうそうだ。

ある時、このスカンクが大学近くの民家に入り込んでしまい、大々的な追い出し作戦が展開された。穏やかに出て行って貰うのにかなり時間がかかった。ガスを出されたらその家には住めなくなってしまうからだ。

メイド・イン・ジャパン

カナダの生活にも大分慣れた頃、宿舎の人達が集まってインターナショナル・ディナー・パーティーを開くことになった。ブリテッシュ・コロンビアから来たカナダ人はサーモンの姿煮を銀の器に入れて持ってきた。スコットランドのモイラはスコッチエッグ、イギリスのギレスピー夫人は蜂蜜をふんだんに使ったケーキを、フランス人やドイツ人が何を持って来たか忘れたが、私はすきやきを持って行った。牛肉の薄切りを手に入れるのが一仕事だったし、葱、豆腐、こんにゃくは無くて、ないないづくしのすき焼きは美味しく出来るわけがない。おまけに向こうの牛肉はわらじを噛んでいる様に味気ないから、正直云って自信がなかった。皆つまんでいたが妙な顔をしていて、お世辞に“おいしい”と云ってくれる人もいたが信じる気にはなれなかった。

食事の後でジェスチャーをした。私に出された問題は‘made in Japan’だった。私はメイドの真似をしてすき焼きを持ち上げた。答えは直ぐに出てきたが、当時‘made in Japan’と云えば安かろう悪かろうの代名詞だったから、ひどい侮辱を浴びせられた気がした。

ヤン・モンスター

同じ研究室のテクニッシャンにオランダから来たヤン・モンスターと云う人がいた。“黒沢明の‘七人の侍’が上映されているから見にいこう。”と誘われて一緒に行ったのを機会に色々親切にしてくれて、車が来る前には度々買い物に連れて行ってくれたりした。クリスマスには家に招待してくれてターキーをご馳走してくれた。ヤンの家はゲイジ・パークの近くにあって、大学からはちょっと遠い様に思った。家は一戸建てだが男の子は3人とも成人に近く、女の子も9才、7才、3才と子沢山なのでむしろ狭く感じた。奥さんは名をハニーといって堂々とした風格はさすがに6人の母親だと納得出来た。私達がお邪魔しても慌てる素振りもなくご馳走は大丈夫なのか心配になったが、すでにちゃんと整っていて、心のこもったもてなしに感激した。奥さんは末娘のマーシャのお古の洋服を沢山加奈子にくれた。古着等使う習慣のなかった私にはちょっと抵抗があったけれど、使ってみると惜しげもなく便利でいいものだと考えが改まった。その後私にもマタニティー・ドレスを下さり重宝した。

ヤンは硫黄の同位体比を測る為にカドミウムを用いて硫黄を硫化カドミウムとして分離する作業をしていた。彼はカドミウムの怖さを知らず、作業の途中で紙巻きタバコを巻いて吸うのを常習していた。後にカドミウム中毒となって他界したのは気の毒なことだった。

 

国境で拘束される

ナイアガラはハミルトンから車で一時間半の行程にあった。日本からのお客は大体ナイアガラ見物を兼ねて来られるので、私達は、特に彼は、何度も案内かたがた見物していて四季折々の滝の表情、また夜間照明が始められたばかりの夜のナイアガラなど堪能していた。或日、南先生が入院されたので弟子達の声をお見舞に届ける目的で、

山県登さんが録音機を持って来られた。例によって彼はナイアガラまで案内してそこで山県さんと別れれば問題なかったのだが、車の流れるままに走ってつい橋を渡ってアメリカ側に入ってしまった。行きはよいよい帰りは怖いとはこのことで、山県さんを置いて橋を戻った所で拘束されてしまった。運悪く彼はパスポートを持っていなかった。島国育ちの我々は国境の何たるかをあまり理解していないので、うっかり渡ってしまったのかもしれない。ソード教授に電話して、なんとか解放されたということだった。

これは余談になるが、山県さんはその後何年か忘れたが、チベットの山中で客死して鳥葬にされたと聞いている。大好きな旅先での出来事で本望ではなかったかと誰かが言っていたがはたしてそうだろうか?

 

目次へ戻る

4章へ