2 ハミルトンでの生活

大学職員宿舎2+1/2号に入る

かくしてオンタリオ州ハミルトンでの生活が始まった。彼が教えを請うソード教授はマクマスター大学ニュウクリア・リサーチ・ビルディングに席をおいておられた。私達の為に大学内の職員宿舎を用意して、とりあえず生活できるように手配してくれてあった。調理用電気こんろと冷蔵庫は備え付けてあり、その他のベットや整理箪笥、カード・テーブル、椅子二脚、調理器具、食器類、電気スタンド、カーペットなどはソード夫人が手配してくれたものだった。

宿舎はダンダスに向かうハイウエイに沿った岡の上にあり、白樺の林に囲まれていた。私の記憶に間違いがなければ、北側はオンタリオ湖の入り江のマーシュ(沼地)に続く深い森だった。

ダグウッドヒルと呼ばれていて、この辺り一帯はロイアル・ボタニカル・ガーデンと称していた。宿舎の大学寄りにはクラブアプルの樹が並んでいた。宿舎は以前陸軍宿舎だったのをここに持ってきて宿舎や研究室として利用していた。

私達の宿舎は2号と3号にはさまれた2と1/2号という妙な番号の部屋だった。今風に云えば1LKに当たる小さな部屋で、そのかわり家賃も安く月40ドルだった。

私達が着くとすぐに、3号のオルボウさんが1/2ガロンの牛乳を持って挨拶に来てくれた。そしてカーテンも貸してくれた。2号のカーマン夫人は子供達を連れて現われ加奈子に玩具を、そして私には雑誌や鍋、布巾など日用品を貸してくれた。サスカチュワン出身でご主人は心理学者だとか。4号にはドイツから来たフリッツ夫妻が住んでいて、

同じ研究室だったので特に色々めんどうをみてくれた。さしあたって子息のピーターの乳母車を貸してくれたのは助かった。

ここに落ち着くとすぐ、彼は日本からはるばる持ってきた塩汲み日本人形を持ってソード教授の部屋を尋ねた。そして色々な部屋を案内され、色々な人に紹介されて、更に沢山の手紙の束を持って帰って来た。大部分はMr. and Mrs.H. Sakai宛の招待状だった。

夕方近くの街なみを見学に行った。大学に通ずるステアリング通りは閑静な住宅が立ち並びむしろ寂しいくらいだが、しばらく行くとドラッグストアやレストラン、床屋、肉屋などが並んだ所にでる。木綿糸と針が欲しかったので雑貨屋らしい店で、

“コトンスレッドとニードルはありますか?”と聞いたのだが、全然通じない。絵を描いたり、縫う真似をしてみたが何を云っているのかという顔をしている。最後に

“おー、コートンならあの店だよ”と教えられて云って見るとそこはカーテン地を売っている店だった。ここで衝動的にカーテン地を購入することになった。58.5ドルは高いと思ったが、目隠しの為にも必要なのでやむを得ない出費だった。

カーテン屋の少し先にラブロウというスーパーマーケットがあった。何も話さなくてもレジでお金を払えば買い物できたのでこれは便利で私向きだと思った。

数日はあっという間に過ぎて10月31日になった。夕方2号室のカーマン夫人が尋ねてきてハローインキャンディーの袋を渡してくれて、夜になったら子供達が仮装して回ってくるから“Give small children one candy each as the bigger children will be around later.”という。ハローインの風習を知ったのはこれが最初だった。

しばらくして長椅子やベッドも何とかしたほうがよいと言うことになり、セカンドハンドを買いに行く事になった。買い物を手伝ってくれたのはロンドンから来たピアソンだった。彼は自分のサビッチ(サンドイッチ)を持ってきてわが家で一緒に昼食をとり、ダウンタウンの古家具専門店に連れて行ってくれた。彼はよく分からない英語を話し理解に苦しんだが、親切にアドヴァイスしてくれて私達は大変助かった。このときの支出はベッド32ドル、長椅子セット75ドルで持って来たお金は殆どなくなった。1958年当時日本から持ち出せる外貨は一人50ドル、連れは40ドルに限られていたので仲人の桜田さんが100ドル貸してくれて、私達はそれを密かに隠し持っていた。買い物の後、ハミルトン市街を見晴らせる岡の上の展望台に連れて行ってくれた。遥かに海のように広いオンタリオ湖が見え、港に近く工場地帯が広がっていて、眼下には落葉樹の紅葉に彩られた街がみえた。岡の上は大変寒かったが、これでもカナダでは暖かい方で通称バナナ地帯と云われているそうだ。

ソード夫人の訪問は突然だった。荷物を整理していたらドアーをノックされ、裸足で歩き回っていた私は瞬間どぎまぎとしてしまい靴をはくのももどかしいくらいだった。ドアーを開けると菊の花束と花瓶を抱えた婦人がにこやかに立っていた。私には彼女が誰なのか、何と云うべきなのか分からず、言葉に窮して思わず

“Who are you ?”と云ってしまった。そしてノートとペンを差し出した。彼女は“Mrs. Thode I brought a few flowers and a base to put them in. Also a few more dishes. I thank you very much for the present you so kindly brought me.”と記された。私は瞬時に悪いことを口にしたと思ったが後の祭で、自分の英語力の無さに愕然とした。夫人は二三の質問をしたりして帰って行かれたが、後にパーティーで私がもたついていると“She says English so badly.”と説明してくれたものだ。

気温は日を追うごとに低くなりラブロウへ買い物に行くのが厳しくなってきた。寒さは爪先から徐々に上にあがって、帰宅する頃には腰まで冷えてしまう。想像以上に寒く、窓は二重にしてあったが、夜の間に厚い氷が張り付くようになった。洗濯物を外に干すと洗濯物は片っ端から凍っていくようになったのである。何処に干すのか聞いて見たら、共同洗濯場の室内に干すのだという。私は面倒だから自分の部屋の風呂場に紐を張って干すことにした。宿舎はセントラル・ヒーティングで半袖でも過ごせる様に調節されていたから乾きも速かった。

愛車フォルクスワーゲン購入

外に暫くいると鼻の先や耳が意識をなくしていくのが分かる様になって、彼は必要に迫られて自動車の運転練習をインストラクターに付いて習い始めた。始めのうちは良かったが、日が経つうちに雪まじりのブリザードが吹くようになると練習不可能になる日もあり、正式に免許証を得たのは正月過ぎだった(下の写真は2度目の書き換え後のものである。)

それでも岡本和人氏よりはましだった。彼は一高から東京教育大学に進んだ理論物理学者で数年英国に留学の後カナダに渡って来た。彼は運転が大変下手で、もう十数回路上テストを受けていたのに免許が取れなくて困っていた。 車はフリッツの勧めでフォルクスワーゲンを買うことにした。空冷式だからこの地方向きだし燃費もよいというのだ。新車で1624ドルを一年半の月賦にして毎月109ドル支払う事になった。ここでの年俸は手取り4500ドルだったから、贅沢をしなければぎりぎりやっていける支出だった。

青い流線型の新車はまばゆいばかりに美しく見えた。近所の人達が信じられない顔つきで、
“あの車はおまえ達のものか?”と聞いた。

車を手にいれた日、彼は喜び勇んで、“ドライブに行こう。”と言い出した。
“まだ免許取り立てだから危ないよ。”と渋る私を無理やり引っぱり出してドライブに出かけた。道路は広く、車も少ないので、始めのうちはまあまあだったが、とあるメインロードの坂道にさしかかった時、突然エンジンが止まってしまい、うんともすんとも云わなくなってしまった。彼はパニック状態で暫く慌てふためいていたが、やがて後続の運転手が我慢出来なくなってやってきて、”ガス欠だろう、ソリンはいつ入れたか?”と聞いた。ここで彼は初めて自動車を買って以来ガソリンを買ってないことに気付いた。ガソリンのことは全く意識しなかったのは誠にお粗末なことだった。

当時のホルクスワーゲンにはガスメーターはなく、代わりに予備タンクがついていて、ガス欠の場合は予備タンクを開ければ数十マイルは走れることになっていた。しかし予備タンクを開くにはどうしたらよいか、なかなか判らない。使用説明書をさがしたが見つからない。それもその筈、私が大事なものと思って家に置いてきてしまったのだ。彼は必死であちら、こちらのノブをひねってはエンジンをかけていたが、やっとエンジンが懸かったときは長蛇の車の列が後ろに出来ていた。そして走り出すやいなや坂道の頂上のガスステーションが見えてきた。

彼はこの時から12年後にも、ロサンジェリスでガスリンメーターのないホルクスワーゲン・キャンパーで、同じ失敗を繰り返すことになるが、それは後の楽しみとして残しておく。

免許取得から数ヵ月は練習を兼ねてあちこち走り回った。オンタリオ湖畔に面したダンダーン・キャッスル、ボタニカル・ガーデンの名勝地ロック・ガーデン、古戦場ストーニー・クリーク、土地の陥没で出来たデヴィルス・パンチボール、流れの美しいダンダス・フォール等観て回った。

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