1 カナダへ 初めての飛行機旅行

1958年10月23日、羽田空港からカナダ太平洋航空のターボプロップ機でヴァンクーバーに向けて出国した。羽田には両親を始め、大学関係の教授や友人達が沢山見送りに来て下さり、今改めて当時の写真を開いて見ると、今をときめく錚々たる人々が並んでいるのに驚く。まだ海外渡航の少ない年代だった為か、パスポートは皮張りで、時の外務大臣藤山愛一郎のサイン入りだった。公用旅券は濃い緑色、一般旅券は濃紺で風格があった。

そして私達も日本を代表している自覚があり、常に見られている事を意識して行動するようになった。南教授は‘エチケット’と云う本を下さり、先にフランスへ渡航された一国さんは洋式便所の使い方を詳しく教えてくれたのを思い出す。

飛行機はC.P.Al.インドから香港を経由して飛行してきたのか、インド人や中国人がかなり目に付いた。スチュワデスも香港人のようだった。初めての海外旅行、初めての飛行機、

それも生後6ヵ月の子連れの旅で私達は体力も神経も摺減らしていた。初めての機内食が出てきたのは、8時過ぎだった。あまり食欲もなかったけれど私は母乳を出さなければならなかったから頑張って食べた。彼のほうは、デザートのライスプディングですっかり気分が悪くなって大変だった。

“牛乳をかけて甘くしてある米は食えたものではない。”と云っていた。

ヴァンクーバーに着いたのは日付変更線を通過したので同日の3時だった。日本時間では午前6時、所要時間は12時間でかなり長かった。

カナダに着いて最初に入った空港の部屋で指紋押捺をさせられた。インドのサリーをまとった女性が手に着いた墨を真っ白な壁になすり付けて行くのが目についた。行儀が悪いなあとそのときは思ったけれど、ただそれだけだったのかと今は思う。部屋の隅に私達を見張るように立っている人がいた。

“ミスター酒井はしばらくそこに残って下さい”というアナウンスがあり、何の事かと私達はその場に残ったが、その後何の音沙汰もない。狐につままれたような気分だった。

“あれは多分面通しだったんだ”と彼は云った。

その夜は航空会社のサービスでスカイラインホテルに一泊した。落ち着いて先ずしたのは、紙おむつの買いだしだった。張り切って出かけた彼は大きな箱を二箱抱えて帰って来たが、4、6ドルもしたと云うので驚いた。当時日本から持ち出せる外貨は一人50ドルに限られていたので、いきなり4.6ドルも使ってしまい不安だった。水洗便所も初めての経験で、座り方は一国さんのメモで知っていたが、詰まる物を流してはいけないとは気付かなかったので紙おむつを流す大失態を演じてしまった。いくら流しても流れず、流せば流す程外に溢れて、しまいには廊下のじゅうたんまで濡らしてしまった。そこでボーイを呼んで後始末してもらい事なきを得たが、1ドル、チップとして渡した。

翌日の飛行機は乗り合いバスの様な小型機で、和気藹々を通り越しておしゃべりが騒音に聞こえる程だった。朝8時出発、1時間余ですごい山肌のロッキー山脈にさしかかる。雪が眼に痛かった。そこを過ぎると一面の平野、古い湖や川、今にも干からびそうな泥炭地帯、蛇のように曲がりくねった川が多く、それらが延々として広がっているのには驚いた。また、上から見ると碁盤の升のように正確に耕された畑や刈り取られた草原が美しかった。街は赤、青、緑、黄色など様々の屋根が区画整理された通りに並んでいて、おとぎの国を見るようだった。途中エドモントン、サスカチュワン、ウイニペーグ等に止まり、トロントとハミルトンの中間にある、目的地モルトンの空港に着いたのは夜中の1時半だった。人気はなく、出迎えはなし、加奈子は泣き叫ぶし、宿泊予定のハミルトンホテルは無いと空港の掃除夫から聞くに及んで、全くお手上げの状態だった。しかし、たまたま居合わせた軍服姿の旅客に聞いてハミルトンホテルはシェラートンコンノート・ホテルと分かったが、そこにたどり着いたのは午前3時だった。

翌日は午前11時にやっと眼が覚めた。ホテルの窓から見下ろした街のたたずまいは古風な英国調のいかめしさを備えていて、ひっそりと紅葉に包まれて美しかった。外国へ来たんだなあと感慨無量だった。

彼は休む暇もなくソード教授に電話して到着を知らせた。そして大学へ出かけて行った。3時過ぎに帰ってきたが一緒に来てくれたのは思いがけなく日本人の岡本さんとドイツ人のフリッツだった。

目次へ戻る

2章へ

定子のページへ戻る