深大寺町に住む

帰国後しばらく清水市の実家で過ごした後、私達は東京都調布市深大寺町1207番地に住むことになった。三鷹駅から上蓮雀行のバスに乗って20分ばかりすると産業道路のような広い道路に出るが、航空宇宙研究所のすぐ近くのバス停で降りる。そこからだらだらと長い農道を15分程南に歩くと右手に椎の木で囲まれた鎮守様が現われる。そこで左に曲がって1分位で新しいが小さな家が10軒並んで建っている区画に到着する。手前から数軒目が私達の新居だった。 

家主さんは田村さんと云う農家のご主人で、農地の一部に家を建てて家賃収入を得るようにしていた。

家賃は一ヵ月12千円だった。畑を耕して収穫するよりはるかに手っ取り早い現金収入の方法だったに違いない。その頃すでに空き地を造成するブルドーザーが近くの丘陵地に出没していたから、蜘蛛の子が散るように東京都下の農地は住宅地へと変貌して行ったと思われる。

“今あそこの土地を買っておくといいですよ。”と姑が云ったけれど、先立つものがないのにどうして買えるのかと思った。

主人はここから本郷の大学や、その頃はまだ川崎の溝口にあった地質調査所に通って将来の見通しを立てていた。雨が降ると農道はぬかるみ雨靴が必要だった。一度ぬかるむと何週間も乾かず、雨靴が何時までも必要だった。晴れた日の都心を雨靴で歩くのは奇異でじろじろ見られてかなわなかったそうだ。

私達親子にはここはのんびりした田舎で、農道沿いに散歩したり、空き地で子供達を走らせたり、椎の実や松ぼっくりを拾ったり結構楽しい所だった。

ただ、農道には所どころに肥え水を湛えた溜め壷があったので、うかつに子供を走らせるのは危険だった。

毎日ご用聞きの人がやって来て、“今日は。毎度ありがとうございます。何かご用はありませんか?”と云う。近くに店らしいものはなかったから、いつもこの人に頼んで持ってきてもらった。淳が真似をして、鉛筆を耳に挟んで手帳を持ってきて、“ちわ!まいまいまーす。何かありませんか?”と云うので、“そうね。じゃあ卵三個と魚一匹持ってきてね。”と返事をするとすぐにそれらしいものを持って来て、“はいどうぞ、これです。じゃあまた。”というのだった。

そのほかここには色々な人が現われて宣伝を試みていた。

NHKの職員も逸早く回ってきて、視聴料を払えと云ってきた。あいにくアメリカからはるばる持ち帰ったテレビはNHKの放送だけが受信不能だったので、主人は“払う必要はない。”と頑張った。

編物の機械を持ってきて編方をデモンストレイションする人もいて、その速さに魅了された私は、つい早急に10か月の月賦でこの機械を手にいれてしまった。結局数枚のセーターを編んだだけでその機械は押入の中に放置されるはめになった。 無駄な買い物だったと後悔した。

まもなく加奈子がストロフルスという奇病にかかった。足の皮膚に粟粒の様な水疱ができ、強い痒みをともなうので知らずにかきむしり、かじると飛び火となって拡がっていくので毎日医者通いをして治療しなければならなくなった。この病気は外国帰りの子によく発生すると云われたが、長旅の疲れで衰弱しきっていた為に生じたものと思った。

その頃、実家の母はすでに会社を55才で定年退職し、家で小原流生け花を教えたり、和服の縫い方を教えたりして細々と生活していたので、長期間無理させる訳にはいかなかったが、やむなく母に来てもらい医者通いを手伝ってもらった。母は加奈子を背負って毎日田舎道を行ったり来たりすることになり、“お医者さんからお菓子をもらうといつもご機嫌になるんだよ、この子は。”と報告するのだった。良く手伝ってくれたと今でも思う。

広場を挟んで隣に吉岡さん夫妻が住んでおられ、子供さんに恵まれなかった故か淳を殊の外可愛がって下さり、ある日“氷川丸を見せて上げたいから一日淳ちゃんを連れていってもいいかしら?”と云われた。彼等には自家用車があって、淳も車に興味があったのか喜んでついて行った。吉岡夫人は常々“淳ちゃんほど伸び伸びと育っている子は見たことないわ。ずっとこのまま成長していくといいわね。”と云ってくれていた。 吉岡信さんと云われたご主人は何処かの銀行にお勤めのようだった。奥さんは東北の訛があったので福島あたりの出身かなと思ったけれど、故郷の押し花を壁に飾っていたのが印象に残っている。

健の誕生

健が生まれたのは314日。予定日は3月末日だったので大事にして4月に入ってから生んだほうが子供の負担は少ないと思っていたけれど、丁度この日に深大寺小学校で乳幼児の為にポリオの生ワクチンを飲ませると云う通知が来たので農道を歩いて連れて行った。今でもある吉祥寺からのバスに乗れば良かったのかもしれないが、バス停まで歩く距離と農道を近道するのとは大差ないと思い、つい油断したのがいけなかった。

その夕方から陣痛が始まりおかしくなってきた。丁度母が手伝いに来てくれていたので、子供達を預けて入院した。

当時、電話を持っている家は少なくて、いざという時どうしようかと心配だったが、幸い斜め前のお宅で電話を使わせて下さり助かった。

病院には担当医はおろか当直の医者もいなくて、産婆の免状を持った看護婦さんが2人いただけで、なんとなく心細かった。

しかし案ずるより生むが易しで、真夜中近くに大きな産声をあげたのだった。産声に関していえば、健のは画期的だった。加奈子のはか細く、淳のは眠らされていた為聞こえなかった。“我ここに誕生せり。”と宣言しているようだった。

病室は6人部屋で満杯だった。

加奈子の時は気張って身分不相応に一等室に入った為、看護人の布団は持ち込まねばならず、おむつも肌着も皆自分で調達しなければならなかった。三等室は何の心配もなく完全看護で安いのだからこんな良いことは無いと思った。お隣の人とも話せるし時にはお菓子等頂くこともあった。同室の人達の話しは概してたわいのない事ばかりだが、取り上げてくれた医師の噂話しはおもしろかった。“私は絶対あの先生に診て貰いたい。”といれあげている人もいた。

私のすぐ隣のベッドに同じ314日に出産した人がいた。

梅津さんという丸顔で美人の奥さんだったが、妊娠腎炎で大変だったそうだ。私も“注意しないと入院することになりますよ。”と云われていたので人ごとではない気がした。その奥さんの息子さんは‘透’と名付けられた。ご主人は英語を教えている高等学校の先生で当時武蔵野市在住だったと記憶している。数年して三朝へ尋ねて来てくださった。鳥取県の出身でお墓参りにきたついでだということだった。

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