春から夏へ

ロサンゼルスには殆ど四季がない。日本から郵送した冬服はほとんど送り返すことになった。しかし庭の植木の中では尾長が雛をかえして猫がくるとビービーとけたたましい警戒音で鳴きたてるようになった。

スズメも今年二回目の雛を洗濯干し場の筒の中でかえしていた。桃やアプリコットの花は何時の間にか終わって、早くも新緑の季節を迎えていた。

5月6日はメキシコの独立記念日で、かつてこの辺りはメキシコ領だったこともあってあちこちでメキシコの祭りが催された。ディズニーランドでも特別のパレードがあり私達も物見高く見学に行った。メキシカンがたくさん来ていて、どのアトラクションも長蛇の列で混雑していた。

翌7日はUCLAのリクレーション・センターで各国の歌や踊りの披露があり私達も見聞に行った。といっても淳と健はセンター内の温水プールで初泳ぎをしていたし、加奈子は前日に捻挫をして動けなかったので家で留守番をしていたのだが。

日本の舞楽が古式ゆかしく披露されていた。衣装などどうしたのか不思議だった。色々な国の色々な踊りを見て楽しい一日だった。音楽ではアフリカの打楽器とリズムに感銘した。数学の教授が面白いリズムで始めてみる太鼓を叩いていたのが印象に残っている。

5月11日、主人はUCBまで月の石に関する相談ででかけ、私は小学校のオープンハウス(参観日)で一日中忙しかった。なにしろ参観の後では皆でお茶会を開いておしゃべりをする慣わしになっていたからだ。それぞれ分担を決めて飲み物やケーキを焼いて持っていかなければならなかった。私はスポンジケーキを焼くのが不得意で、朝から悪戦苦闘の末生クリームでごまかして何とか持っていく事が出来た。日本人にはケーキ作りは10年早かったようだ。残ったケーキは売りさばいて学校の資金にするとか。

翌12日は中学の参観日だった。こんどはパーティー料理を用意せねばならなかった。絵も展示されていて加奈子の絵は6枚もあり見事だった。

サンフランシスコから帰った主人が言うのに「思ったより近いから一寸手前のサンタクルスまで行って見ないか?」というので又遠征することになった。おそらく名前に興味を持ったからだと思うが、古い商店街が目にとまっただけで、加奈子は「通り過ぎただけ」と言うし、淳には「何だか寂れた所だった」と言うだけの印象しか残っていないようだった。とにかく車を止めて近くのレストランに入り、さて帰ろうとして驚いた。鍵を閉じ込めてしまっていたのである。オートモビルクラブAAAに電話したら、先が引っかかりやすくしてある棒を持って来ていとも簡単にロックをはずしてくれた。健はこの事を覚えていた。サンタクルスの思い出はこれ以外殆ど霞んでしまっている。

セコイア国立公園からキングスキャニオンへ

5月最後の週末にはザーク一家と一緒にセコイア国立公園とキングスキャニオン国立公園へキャンプ旅行をした。

10年前に通った道をたどって行ったのだが、やはり10年の歳月を諸所で感じた。前回にはあまり熱心に見なかったジェネラル・シャーマンやジェネラル・グラントなどの樹をつくづく大きいなと思って眺めた。これらの樹は何千年の間雷や火災にも、又干ばつや腐食にも雪の被害にも遭わずに立ち続けていたわけで羨ましい生命力と思わざるを得ない。

キャンプ場に着いたのはもう夕方だったのでテントを張る場所探しが大変だった。本来予約が必要だったのに私達はぶっつけ本番で入っていったので無理ではあった。たまたま見つけた格好の広いスペースがあったのでザークが掛け合ったが断られた。子供がたくさんいたのが理由らしかったが、「あの人たちはドイツ人だから。」とザーク夫人がささやいた。彼らに言わせると見ただけでそれと判るのだそうだ。次に見つけた所はメキシカン一家が陣取っていた所で子供たちもたくさんいて賑やかだった。ザークが又交渉して「OK」と言われやっとテントを張る事ができた。バービキューにポプコーンなどで楽しんだ。

朝起きてみるとすぐ側にとうとうと流れる川があった。男の子たちは早速釣竿を出して釣りにかかったが、流れが速いので私はひやひやしながら見ていた。ザーク夫妻も恐る恐る川沿いを歩いていた。

キングスキャニオン国立公園はセコイア森林地帯と、堰を切ったように流れるキングス川と渓谷、シエラネバダ山脈の高く美しい堂々とした山肌が織り成す景観でよく知られている。道はセコイアの森林を縫ってくねくねと続き、はるか下の方に川を見下ろす所も通って登って行った。私達は観光スポットで車から降りては写真に収まったものである。

帰途サンフェルナンド・ヴァレーからの長い登り坂では大変な暑さに見舞われて、エンジン加熱で立ち往生している車をたくさん見かけた。私達は途中の牧場で一服してきたのでエンジン過熱は避けられたけれど。

6月は学期末の月である。淳は12日卒業式を迎えた。女の子はロングスカートでおめかしをして、男の子もそれなりに正装して式に臨んだ。式場では一人一人がメッセージを残すことになっていて、淳は何と言うのか心配だったが、ちゃんとした英語で自分の立場を説明していて驚くと同時に安心した。一人いつも怒られてばかりいた男の子が「僕は少しも楽しくなかった。こんな学校は早く出て行きたい。」と述べていたのには感心した。日本人ならこんなに堂々と言えないだろうと思ったからだ。所変われば品代わるとはもっともだ。

式の後、淳は野球の試合に出て、他校のオールスターと対決して6対5で逆転勝ちしたと得意になっていた。

加奈子は14日にレポートカード(通信簿)が出てまたオールA、オールEを貰って帰った。当然ゴールド賞を二枚貰えるはずだったが帰国した為貰いそこなった。ちなみにAは学科に対する評価、Eはマナーに対する評価である。

健も学校は16日までだったが、まだサマー・スクールでフルートを習う事が出来た。練習用のフルートを貸してくれて、家で練習できた。こうして健は帰国後もフルートを習うことになった。

愛車の最後とフォルクスワーゲン・キャンパー

2444番地の家ではこの頃桃がたわわに実って、アプリコットもほぼ色づきはじめていた。桃はあまり美味しくなかったけれど、UCLAのリクレーション・センターで出会って、その後毛糸を買いに行った店でまた出会った古賀さんに「ジャムにでもしてください。」と押し付けがましく持っていった。そうしたら代わりにアボカドの大木の下でのバービキュウに招待してくれて、アボカドを下さった。楽しいひと時だった。 

 

6月半ばの週末、私達はパロマ天体観測所へ行った。かつて(1961年)ニューヨーク州を移動中に、コーニング・ガラスセンターで200インチの反射型望遠鏡レンズの型を見てその大きさに驚いた事があった。このレンズはパロマ天体観測所に納められたもので当時(1976年まで)世界一の大きさを誇っていた。せっかく近くに住んでいるのだから見てみたいという欲求にかられて出かけた。ウィルソン山と同じようにナショナル・フォレストの中にあるパロマ山(標高6140フィート=1871メートル)にそれは設置されていた。再びロサンゼルスからルート5を南下してオーシャンサイドから内陸に入って暫らく山道をくねくねとたどって行くと目的の大きな白い天文台が表れる。

中を見学することは出来なかったが、建物の周りをめぐってとりあえず見たことにして写真を撮ってここを去った。

どの位走ったか、山を下りて一寸走った田舎町だったと思う。突然「カラン、カラン」と聞きなれない音が連続して聞こえるようになった。

「一寸おかしいんじゃあない?」

「そうだな。止まって調べてみよう。」

結局どこが異常なのか判らず、ガソリンスタンドで聞いてみたら、「多分エンジンの回転部分が破損して中のベアリングが飛び出しているのだろう。」という事でエンジンを取り替えなければ駄目だと分った。取り替えるのはとても高くつくので思案の末、走れる所まで走ってその先はそれから考えることにした。

詳しいことは忘れたが、結局廃棄処分することになり、主人と淳がジャンクヤードに持って行き、記念にプレートとラジオを持ち帰った。タイヤは帰国前にカナダまで遠征するつもりだったので取り替えたばかりで惜しかった。

6月24日より主人はニューハンプシャ州プリマウスでの学会に出かけ、ついでにペンステイト、ハミルトン、シカゴ、デンバー、オクラホマなどに寄って7月6日に戻る計画をたてた。

その間車がないのは不便なのでレンタカーをしたら、パワーが違って馴れないために路上駐車をしてあったお向かいの車にぶっつけてしまい又大損をした。

この後、ボブ・スウィーニーが帰国まで彼の愛車ホルクスワーゲンのキャンパーを貸してくれて大いに助かった。

彼はちょうどこの6月にダルリーンと結婚式を挙げて車がひとつあいたのだった。

ところがこの車はなかなかの年代もので、主人が大学から帰る途中、突然ウィルシャー・ブルバードの一番高速側でエンストを起こして止まってしまい危険な目に遇った。原因はガソリンタンクが空であった。悪いことに予備タンクまで使い切っていたからどうしょうもなかった。高速で近づく後続車にはブーブーやられ、どうしたらよいか困惑していたら、誰かが反対側のレーンに止まり発煙筒を投げてくれた。ガソリンがないというと“shame on you”と罵られたそうだが、親切な男でポリスカーに連絡してくれた。そのうちポリスカーがやって来て先導されながら少しずつバックして低速側に移動したそうだ。なぜバックかと言うと、そこは上り坂だったから、ニュートラルにして移動するしかなかったのである。

お巡りさんに頼んでオートモビルクラブAAAに救援に来てもらったのはそれから更に何十分か過ぎてからであった。ところがAAAの車が来たのに財布が空っぽでガソリンを分けてもらう事が出来そうもない。何とか頼んで家に帰るまでに必要な量を只で貰う事が出来た時は本当にほっとしたと主人は語った。

このキャンパーにはもう一度怖い目に合わされた。フリーウェーを走っていた時、バシッと言う音がして、暫らくするとオーバーヒートを起こし、止まらざるを得なくなった。エンジンを冷やす為のファンベルトが切れてしまったからだ。またAAAに来てもらい、修理工場まで牽引してもらった。

とにかくこの車は、ハンドルは硬いしアクセルを踏むのも力がいったので、肩はこるし足も突っ張って大変だった。しかしレンタカーを借りるよりはましだった。

ハリウッド・ボールの野外音楽会を聞きに行ったのもこの車でだった。遅くから始まって夜中まで演奏が続くので健は眠りこけてしまい、終わった時点で車が一斉に動き出すのでなかなか出られず、帰宅したのは真夜中の3時頃だった。チケットは二回分買ってあり、子供達はもういいと言うので知り合ったばかりの坂野夫妻を誘ってみた。

坂野さんは名古屋大学から来ていた植物学者で、夫人は大阪万国博覧会のコンパニオンを務めていた才女、新婚ほやほやのカップルだった。確か黒い色のマスタングを持っていて、ハリウッド・ボールへ連れて行ってもらった。運転は上手だがめまぐるしく、レーンの変更が激しくて、その都度後ろを確認する、(これはカリフォルニアの運転では義務付けられていた)のでひやひやした。

ちょうどこの季節に、カリフォルニアの海岸に産卵の為に押し寄せるシシャモのようなグラニオンと言う魚がいることを教えてくれて、連れて行ってくれたのも坂野さんだったように思う。

ジョーン・バエズの演奏会はUCLAの3万人収容できる体育館で開催された。ベトナム戦争に反対する歌をギターを奏でながら歌う彼女に3万人が酔いしれる、非常に不思議な雰囲気を共有する事が出来た。歌詞の内容は分らなかったが、声は繊細で美しかった。

帰国_ロサンジェリスからシアトルへ

いよいよ帰国も迫った7月、私達はもうここへは帰ってくることも無いだろうと思い、ロサンゼルス周辺を出来る限り見て回ることにした。ダウンタウン、ハリウッド、ファーマーズ・マーケット、ヒューズ・マーケット、リッチランド・アヴェニュー・スクール、ウェプスター・ジュニアハイスクール等一年間なじみのところを写真に収めてまわった。

ロサンゼルス発祥の地と言われるオルベラ・ストリートでは土産物を色々買った。ここに有る大木に200年の歳月を感じながら‘El Pueblo de Nuestra Senera la Reina de Los Angeles de Porciuncula’ の立て札を見た。天使たちの女王の集落と言う意味らしい。

家では子供たちに来てもらってさよならパーティーを開いた。ピツァハットからピツァを取り寄せて、プレゼントも用意して皆に楽しんでもらった。

ロサンゼルスではピツァ、タコス、メキシカン・ライス、エンチラーダ、トルティーアなど今まであまり馴染みの無かった味にもめぐり合えたし、何と言っても異文化の中で異なる風習にも触れて子供たちの視野は大いに広がったと思う。Viva Los Angeles である。

8月7日朝9時、LA空港発の飛行機でサンフランシスコへ向かう予定で、荷物を出してボブ・スウィーニーの車を待ったがなかなか現れず、マンゼーラ夫人に空港まで送ってもらうことになった。デオも一緒に空港まで来てくれた。サンフランシスコに着くとすぐレンタカーをして、ウミネコの飛び交う海岸へ行き、アメリカ地質調査所へ挨拶に立ち寄り、ジム・オニールやアル・トゥルーズデルとハンバーガーを一緒に食べて、その後ゴールデンゲイト・ブリッジや水族館など見学した。確か夜はチャイナタウンへ行って食事をしたと思う。

翌日は山の上に行って、白いサンフランシスコの町を眺め、くねくねと曲がった花の道を下り、昔泊まったYMCAの辺りをぐるぐる回り、昔日の思いを新たにした。日本庭園もみた。

空港で車を返して又飛行機でシアトルに向かった。シアトル空港にはエール大学時代同じジェンセン教授の研究室で仲良くしてもらったエリック・チニーが迎えに来てくれた。エリックの家に3泊させてもらい、スペース・ニードル・タワーや科学博物館、有名な鮭の遡上を可能にしてあるロックの見学、ワシントン大学のキャンパス、トーテンポールを作るアメリカインデアンの博物館などを見せてもらった。

一日は朝から火山レーニエ山に向かい車で行ける所まで行って、ランチを山の中でとって帰った。夜は近所の人達をよんでパーティーを開いてくれた。

バンクーバからカルガリーへ、そして帰国

次に向かったのはバンクーバーだった。ハミルトン時代から知っているラッセル夫妻が面倒を見てくれた。

空き部屋に4泊させてもらい、B.C.大学、スタンレー・パーク、山の上からの夜景、ヨット・クルーズ(このヨットはラッセル氏が東京で購入したもので、‘赤とんぼ’と名づけられていた。)、郊外へのドライブなどいっぱいの思い出をもらった。バスに乗ってダウンタウンへ行ったのも一つの経験で記憶に残っている。

815日、再び飛行機でロッキーを越えてカルガリーに移動した。

ここでは三朝に来て研究を共にしたロイ・クラウス夫妻が出迎えてくれて、3泊お世話になった.ロイは汽車が好きで、ベースメントいっぱいにミニチュアの列車を走らせて楽しんでいた。

奥さんのアイリーンは大きなターキーを焼いてもてなしてくれたが、息子さんのドナルドが抱えてきたアイスクリームのボックスの大きさには本当に驚いた。

カルガリーから車でバンフへ行った。ゴンドラに乗って山の上まで行き、下界のパノラマを眺め、珍しい動植物を見て一時を楽しんで山を下りた。勿論もう一度ゴンドラに乗って。それから温泉プールに入って、暗くならないうちにカルガリーに戻った。この温泉はバンフ自然科学ノートによると、1883年の冬、カナディアン・パシフィック鉄道の職員がボウ川の南側に立ち上る一筋の蒸気を見つけたことに端を発している。調査によって地下の大きな洞窟にたたえられた温泉プールが発見された。治療効果があることでだんだんに知れ渡り、これに伴って現在の19箇所に及ぶ国立公園を含むカナダでも一番素晴らしいと言われる景勝地が見出されたのであった。

カルガリーは恐竜の骨が出たことでも知られていて、公園には色々な恐竜が復元されていた。塔の上のレストランで周りの景色を眺めながらどでかいステーキをご馳走になったのも忘れられない。  

私達は19日午後4時発、ジャパン・エアーラインで東京に向かう切符を持っていた。

それに遅れないように18日早朝にレンタカーでカルガリーを発った。当初の予定では飛行機でバンクーバーに行く筈だったが、ロイ・クラウスの勧めでロッキー山脈内のコロンビア・アイスフィールドを見て帰ることにしたのだ。再びバンフの方角に車を走らせて、氷河の先端に到着したのは昼頃だった。年々先端が後退している様子が立て札で分った。氷河の上をキャタピラで走る観光用雪上車が走っていた。時間もお金も無い私達はそれをパスして氷河の一端にタッチするだけにして、氷河が傷つけた石ころを一つ記念に持ち帰った。

この先にはグレイシャー・ナショナルパークがあったがこれもパスして、道に沿って唯一レストランらしい店があったのでそこに入って昼食をとった。

氷河から流れ出る水は微粒子を含んでコバルトブルーとなり川も湖もレイク・ルイーズのような色に染まっていた。

幾つかの山を越えてバンクーバーへの道を急いだが、意外に距離があって、予定していた宿に着いたのは夜遅くなってからだった。主人は足がつってとてもくたびれたそうだ。朝起きてみたらそこまでの道は切り立った崖の上で、無事でよかったと思った。バンクーバーの町並みが見えてきたときは本当にほっとした。

しかし、これで難儀が終わったわけではなかった。飛行場に着いて一息ついた時、レンタカーのカウンターに航空券、パスポートなど重要書類が入っていたアタッシュケースを忘れたことに気が付いたのである。主人の慌てようは大変なもので、電話して届けてもらおうとして電話機を探して飛行場の中をぐるぐる走り回っていた。すぐ側に電話が有るのに気がつかずその周りを「電話、電話!」と叫びながら走っていた。やっと電話機にたどり着いて聞いた所、その時すでにレンタカーの人もアタッシュケースに気づいて飛行場に持って来てくれていたのだった。

ジャパン・エアーライン、フライトNo.11は予定通りの運行で羽田に午後7時10分に到着した。到着前の機内食のすしとそばはほっとする味だった。

夜の羽田空港には清水からわざわざ姑が出迎えてくれたが、一年の間に更に小さくなられたのには驚いた。そしてタクシーで清水市の家まで連れて帰ってくれた。当時の姑の心意気を思うとなんとも言えない気持ちになる。

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