悪い知らせ

10月6日、早朝5時45分電話が鳴って、主人の父親(写真左端、右端は母)が危篤だと知らせてきた。そして8時に亡くなったと知らされた。享年75歳。平均年齢以上は生きられたが最後まで私達を助けてくれたことを思うと残念だった。

「あーあ、がっかりだなあ。幽霊に手紙が書けるなら,『おじいちゃん、もっと食べればよかったのに。』と書くんだけどなあ。」とは健のことばだった。手紙には「おばあちゃん、おじいちゃんが居ないで淋しいでしょう。でも元気で、僕が帰るのを待っていてください。こないだやっとディズニーランドに行きました。おもしろかったです。健より」、「おばあちゃん、おじいちゃんがいなくなって淋しいでしょう。でも、すんじゃったことだからめそめそしないで頑張ってください。めそめそしてる暇があったら、アメリカへ遊びに来てください。では、体をたいせつに。淳より」、「おばあちゃん、気を落とさないで下さい。近頃すごく暑い日が続いてみんなフー、フー言っています。それで、飲み物ばかり飲んでいます。真夏より暑く、外に出るとむんむんします。これをインディアン・サマーと言うそうです。では、くれぐれもお体を大切に。加奈子」「日本を出る時から何となく覚悟はしておりましたが、あの時のパーティーが最後になったかと思いますと何とも言葉がありません。・・・・中略・・・もし元気がでたら本当にロスアンゼルスの冬でも見に来ませんか。気分転換にいいですよ。均」

この日より暫らくして8月17日に主人が父親宛に出した手紙があて先不全で返ってきた。なんと静岡県清水市だけで出してあった。お見舞いの手紙だったけれど、届かなくて残念に思った。『秋にロサンゼルスに来られる話がお預けとなって残念です。』と書いてあった。

10月16日、「今日めずらしく雨が降って、雷が鳴り、途中から雹が降りました。」おじいちゃんがお葬式にも来ないから拳骨をくれたのかもしれません。

もっと大きな拳骨はその数日後もらうことになった。

その頃私はやっと路上テストに合格して運転免許証を手に入れたばかりだった。

ロサンゼルスは坂道が多くて、坂道でパークする場合前輪を上り坂では左に向けて、下り坂では右に向けて止まらなければならない。これがなかなか難しく一度目には不合格になった。二度目でやっと成功したわけである。

その日私は一人で買い物に行ったり、郵便局へ行ったりした。夕方、淳と健を連れてUCLAのキャンパスに主人を迎えに向かった時のことである。マルチレーンのウィルシャー・ブルバードからウエストウッドに左折していた時右手前方から走ってきた車が私達の車の右ドアーから後部横ボディーをえぐるようにへこました。この事故は夕方のラッシュ時でひとつは私の経験不足に起因していたと思うが、何よりも状況を説明できない歯がゆさがあって私はすっかりパニックに陥ってしまった。相手の車は若い女性ドライバーの日本車で、しっかりとウィットネスを確保していた。私は「Are you alright ?」と聞いている彼女に『I am sorry.』としか言えなくて本当に困った。後で聞いた話だが、このような場合、決して「I am sorry.」というべきではないのだそうだ。

左折の矢印が出た後に緑信号が出るのだが、私はもたもたと運転していた為にこのような事故を起こしてしまった。結果的には相手のウィットネス(目撃者)の証言が私のほうに有利に働いて$350の保険金を支払ってくれた。

イスラエル人_ザークさん一家

事故をものともせず私達は精力的に西海岸を見学して回った。

東側のニューへヴンに居た時は子育てに忙しくあまり自由に動けなかったので、こんどこそという思いがあった。カプラン教授の所にはイスラエルから3人研究に来ていたけれどそのうちのザーク・イスラエルとは子供の年齢が同じ位なのでよく一緒に出かけ、色々なことを教えられた。彼は地質学者で断層に詳しくて、この西海岸によく大地震をもたらすサンアンドレアス断層の露頭を見せに連れて行ってくれたり、1971年2月9日に起きたロサンゼルス地震の被害状況を見せてくれたりした。サンフェルナンドを中心に起きたこの大地震はM.5でフリーウェーのインターチェンジが倒壊して2人死亡、またサンガブリエル山脈近くの3つの病院が倒壊して多くの犠牲者を出した。病院は耐震性を考慮して建てられたものだったが、見事にひしゃげているのを目の当たりにした。又市街地の波打った被災状況、危険状態のダム湖など見て回った。

ザークの奥さんはハンナといって彼女自身も微生物学者でイスラエルでは要職にある人だったが一緒にあちこち歩き回った。ピアノが上手で料理も美味しかった。

健の日記に「今日、タマール達とデビルスパンチボールに行きました。オメールが迷子になりました。僕たちに気が付かずにずっと駆けて行ってしまったのでした。

面白かった。」オメールは男の子で中学生、タマールは女の子で健と同じ年頃だった。二人とも頭が良くて、オメールはブラックホールに興味を持っているというのが父親ザークの自慢だった。タマールはロサンゼルスの様子を母国の新聞に投稿してそれが採用されたと、これも彼らの自慢の種でヘブライ語の新聞を見せてくれたものだ。ヘブライ語は右から左へ書くのは興味あることだった。

サンディエゴへのドライ

11月13日、土曜日。

サンディエゴに向けて出発したのは昼過ぎ2時半だった。私達が住んでいた西ロサンゼルスから約150マイル南南東、途中林立するたくさんの風力発電のプロペラを見た。それと大波と戯れるサーファーたち。ラホイァを通り過ぎて程なくインフォメイションセンターの看板を見つけたので立ち寄って色々な情報を得た。もう夕方近かったのでサンディエゴ・ミッションに立ち寄って、ホリデイインに泊まった。715号室、計21ドルだった。

翌日、「今日は朝起きて、ホルデイインを出てサンディエゴの動物園に行った。

いろんな見たこともない動物がいっぱいいました。ハチドリがおりの中に15羽ぐらいいました。羽の動きがすごく速かった。」この動物園は5500もの動物展示があり、野生動物1600種を集めてあるのは世界一を誇るものだった。128エーカーの広々とした敷地内の移動はトレーラーバスに乗らないととても大変だ。バス代は大人1ドル、子供50セント、入園料は大人1.5ドル、16歳以下無料、後一箇所ロープウェーに乗るところがあって、これが大50セント、小25セント、それに昼食にハンバーガー、フレンチフライ、ホットチョコレート、コーヒー計4.9ドル、全部で13.4ドル、随分安く楽しんできたものだ。

動物園を出たあと、私達はサンディエゴ湾のハーバー・クルーズに参加した。

一部は軍港なので、航空母艦エンタープライズはじめ、色々な戦艦、潜水艦などを眺める事が出来た。赤い夕日を浴びながらの一時間クルーズは何もせず、何も考えず、ゆったりとしていいものだった。

チャイニーズ・レストランで食事をして家に帰り着いたのは9時5分前だった。

車の走行距離は311マイル。私にしては細かな記録を残していたものだ。

Hitoshi, It's surprising! デスヴァレーでキャンプ 

11月25日から28日までデスヴァレーに行った。

それに先立ってザークが教えてくれた店でテント、寝袋、クーラーボックス、携帯用コンロ、ランプなどを購入した。テントが100ドルだったことだけ覚えている。

LA出発朝9時、何もないモハヴ砂漠を走りに走って、途中オウエンズレイク(塩湖)に立ち寄り、デスヴァレーキャンプ場に着いたのは4時30分だった。

キャンピングカーで来ている人が多かった中に、右ドアーをへこませた私達の車は乗り込んで直ぐに張り切ってテントを張った。健の日記には「デスバレーの入り口から30分かかってキャンプ場に着くと直ぐにテントを張りました。それからご飯にカレーライスを食べて、寝袋で寝ました。それで、朝早く起きてザブルスキー・ポイントに行きました。寒かった。」とある。

ここは標高わずか710フィート(216,5メートル)だが砂漠地帯の早朝はやはり寒い。朝日が昇ってくると山肌に劇的な陰影をつけて美しいのでその瞬間を狙って多くのカメラマンが集まっていた。私達も金色に輝く光のページェントに圧倒されながら写真を撮った。

キャンプ場に戻って朝食を済ますとこの日は北の端にあるスコッティーの城に行った。この城を建てたウォルター・スコットはテキサス生まれ、天性の芸人根性によって一念発起、何もないデスバレーをカラフルな場所に変えようと試みた。カウボーイの様なショウ・サーキットをしたり、金鉱探しをしたりの突飛な思いつきの行為をいつもカバーしてくれたのは百万長者のアルバート・ジョンソンだったそうだ。その最たるものが10年をかけて建てられたスペイン・ムーア風のこの城だった。

トラは死して皮を残し、スコッティーは死して城を留めるというべきか。

城で昼食をとった後、約3000年前に激しい火山性爆発を起こしたUbehebe Craterを見物、更に悪路を26マイル南下してレーストラックに行った。

昔湖だった所が干上がって真平らな粘土質の広いレーストラックを形成している。面白いのは、トラックの真ん中あたりに尾を引いて転がっている岩である。

重さ600ポンド(270キログラム)の岩がどうして動くのか、しかも毎年新しい岩が登場すると言うのだから神秘的である。私達が到着した時はもう夕方で、私達の歩く影が長く尾を引いて薄気味悪い感じがした。人影はなく、もしここに取り残されたら大変だと思った。

翌27日はデスバレーのハイライト、「一番面白かったのは塩の塊が一杯あったこと。」とあるように中央部の海抜0メートル以下の辺りを主に見て歩いた。

朝、これらを見渡せるダンテのビューポイントに行き,まさに『神曲』を連想させる展望を垣間見てすごいなあと思った。ここからはアラスカを除くアメリカ最高のホイットニー山(14495フィート)と最低レベルのマイナス282フィートの所が一望できるのだ。

帰途ライアンの硼砂で栄えたゴーストタウンを眺め、そこで小さな店を出していたおじさんから健は半分に切った鉱物の塊を1ドルで買った。

キャンプに戻って朝ごはんを食べると手近な硼砂工場跡、マスタード・キャニオンを簡単に見て、塩水の川(Salt Creek)に沿って南へ行くとだんだんぼこぼこの半分干からびた塩の塊を形成している所になる。

悪魔のゴルフコースとはよく言ったものだ。更に南に下がると海抜マイナス282フィートの地点が現れる。その更に南にBad Waterという水溜りがあるが、常に同じような水量を保っているのは、ブラック・マウンテンから染み出る水が流れ込んでいる為だと思われている。水質は高濃度の硫酸マグネシウムや硫酸ナトリウムを含んでいる。ここは車で到達できる西半球最低の地点(マイナス279.8フィート)である。

その後アーチスト・ドライヴを通り、ストーブパイプ井戸村を訪ね、多分ここで食事をして、近くの砂丘や、昔デスバレーを渡ろうとして果たせなかった人々や幌馬車の残骸などを見た。その他かつて使用されていた硼砂運搬用汽車のレプリカも展示してあった。私達は物見高くあちこち見て回ってキャンプ場に戻った。

28日、テントをたたんで8時に出発。テキサススプリング・キャンプ場から一番近い脱出ルートでデスバレーの出口に行き、記念撮影をした。そこからデスバレー・ジャンクションまで行き、ルート127を南下、30マイルほど行った所にテコパと言う温泉場があった。小屋があって湯気が漏れていて、バスタオルを手に出てくる人達がいた。

「温泉に入れそうだから行ってみよう。」ということになり恐る恐る覗いてみたら、とにかくOKで、シャワーを浴びて大きな日本のお風呂のような深い浴槽につかるだけだが,疲れが取れる有難い温泉だった。

温泉の近くに小さな溝を流れる小川があり、めだかぐらいの小さな魚が泳いでいた。高温の中で泳ぐ魚を見たのは初めてで驚いた。

「帰りがけにキャリコのゴーストタウンに寄りました。そこで初めてロバに乗りました。」

1881年、‘毛布一枚とロバ一頭’きりの三人の山師がここへやって来て山の麓を堀始めた。そして莫大な鉱脈を掘り当てた。山師は今まで見たこともない鉱物だった為地面に投げ捨てていたのだが、シェリフJ.C.キングによってこれが素晴らしい銀の鉱脈であると確認された。噂はぱっと広がって、あっという間に人々が押しかけ,店が出来、幌馬車隊が来るようになり、サロンが出来て、3000人以上が群がる町になった。東部の実力者がここの利権を握って、その後15年間銀価は高騰を続けて8600万ドルを稼ぎ出した。

しかし、銀価の暴落によって、突然集まった時と同じように人々はこの地を離れて行った。

現在サンベルナディノ(San Bernardino)郡が管理、運営しているが、それ以前に最初に発見した山師の一人の甥に当たるウォルター・ノッツと彼の家族が管理して消失するのを防いだ事を忘れてはならない、とパンフレットに書いてある。ちなみにこのノッツ・ファミリーはノッツ・ベリー・ファームでよく知られている。

サンベルナディノの山を越えて、ロサンゼルスに帰ったのは夕方7時だった。車の走行距離は1007マイルに及んだ。夕食はやはり和食が最高、‘博多’というなじみのレストランに押しかけた。

翌日大学に行くと、カプラン教授(写真左2人目、右二人目はボブ・スイニー)が言ったそうだ。

Hitoshi, It's surprising!

休日のたびに遠征するのに感心したのか、それで研究は進んでいるのかと言う意味だったのか?その後、彼も奥さんにつつかれて「週末のドライブはどこが面白いか教えてくれないか。」と言ってきたそうだ。

均の仕事について

この辺で主人の研究経過について書いて置く事にする。

アポロ14号の石の硫黄と窒素と炭素の分析するに当たって、UCLAはクリーンルームを要求どおりに用意してくれたのはさすがだと感激していた。

そこで分析用のラインを組むのが次の仕事だったと思うが、得意のガラス細工は全部テクニッシャンがやってくれたらしいので、主人はもっぱら英会話に磨きをかけていれば良かったと思われる。石は厳密に重さを量って紛失しないように保管されていたと聞いている。

私に分っている事は、この時に組んだラインが後にサカイラインとして大いに利用され、NASAにも多少の変化はあったが進出していたという事ぐらいだろうか。この貢献によって後にアメリカ地質学会の名誉会員に推薦された。

正月月6日これまでの成果の発表の為に主人はヒューストンに出かけた。

子供たちの遊び

Is Ken here ?

お隣のデオとリトルマイクは学校から帰るといつも裏口にやって来て声をかけた。彼ら兄弟はミッションスクールに通っていたので遊ぶのは帰宅後に限られていた。

日本では喘息ばかり起こしていた健がアメリカではいたって健康で、淳のほうが風邪ばかり引いて体調を壊すことが多かった。それに英語圏ではジュンは女の子の名前だった為か、

遊びの天才健の天性によるものか、お誘いはいつも「Is Ken here ?」だった。

グランヴィル・アベニューはサンタモニカ・フリーウェイに遮られた袋小路になっていたので子供の遊び場にはもってこいの場所だった。まだ英語がよく分らない頃に、ジェリーと言う日系二世の男の子が現れて通訳してくれたのは助かった。ジェリーは数軒先のピコ・ブルバードとの交差点で日本料理店を開いている羽田レストランの一人息子だった。「

遊びしない?」とか妙な日本語だったけれど役に立った。

三朝から持ちこんだ‘缶けり’を教えて皆で遊んでいたこともあったけれど、そのうちラグビーをするようになり、またマウンテンバイクでどこかへ遠征するようにもなった。後で聞いて肝を冷やしたのだが、サンタモニカの坂道をマウンテンバイクで駆け下りて遊んでいたのだそうだ。ビッグマイクに連れられてボーリング場に行ったこともあったようだ。

ある時百科辞典の数冊を持ち帰ってデオ達と中をくりぬいてトリックブックを作っていたので「どこでこんな立派な本を拾ったの?」とたずねたら、「ジャンクヤードに捨ててあった。小学校の図書館が新しいシリーズと取り替えたのだ。」というのである。「全部揃っているなら貰っていらっしゃい。」というと皆で大挙して出かけて,重い百科辞典を持ち帰った。中一冊は真ん中に四角い穴があけられていたのでデオに渡して残り全部を三朝まで持って来て、結局東京に引っ越す時捨てたのだから、随分無駄な努力をしたものだ。

もう一つ、色鮮やかな電話線の束を拾ってきて遊んでいたので聞くと,「工事の人が捨てたものだ。」という。中身は銅線でかなり重かった。アルミ缶を集めてリサイクルを始めているのに、銅はいらないのかと思った。(リトゥルマイクは時々アルミ缶を集めて回ってそれを足でぺしゃんこに潰してして楽しんでいた。)この銅線も日本まで持って帰った。飛行場で「これは何か?」と質問されて答えに窮したのを覚えている。

草刈に苦労している我々を見て,ビッグマイクは「5ドルで草を刈って上げようか?」ともうしいれてくれた。勿論喜んでやってもらうことにした。ビッグマイクは遊びながらお小遣い稼ぎができて一挙両得だったに違いない。

アメリカのこども達はディスカッションも達者である。当時ニクソンとマックガーバンが大統領選を争っていたが、このどちらが良いかを堂々と言い争っていたのを聞いていてすごいなあと思った。日本の小学生が政治について論じているのを見たことはなかったから。

今ひとつ忘れられないのはゲイラカイトと言う凧である。ホビーショップで買えると聞いてわざわざ買いに行った。風の強い日など2000フィートも上昇するので、フランクリンみたいに雷にふれないかと心配だった。電線は地下を走っているので大丈夫なのだが。

レドンドビーチで釣りをする

12月18日、ビッグマイクを連れてボブ・スウィーニーとまた釣りに行った。この時はボブの“シークレット・ポイント”で立ち入り禁止の私有地だった。

「見つかったら銃でズドンとやられるから気をつけて。」と言いながら降りていった。銃社会のアメリカではありそうなことである。

「急な坂道を降りる途中僕はサボテンの刺が刺さってすごく痛かった。加奈子とマイクとペッパーも刺されました。ペッパーは足に刺が刺さったので、口で必死になって取ろうとしたので口の中にも刺さってしまいました。マイクが降り道を見つけてやっと降りました。それで釣りをしました。ボブが8匹も釣りましたがほかの人はぜんぜん釣れませんでした。」

しかしこの岩場には鮑や蟹がびっくりするほどたくさん生息していて、「これはほんとうの鮑だろうか?」と思いながらバケツ一杯取ってしまった。こんなにたくさんどうしようかと思案していたら、ボブが「小さな鮑は取ってはいけない。」というので、日本なら十分大きいうちだと思ったけれど、全部もとの海にもどした。後で一つぐらい持って帰ればよかったと思った。その代わりに蟹をバケツ一杯採って帰った。夜、それをゆでて食べてみたが、一寸石油くさくて美味しくなかった。

ビッグマイクの後日談を書いてこの章を一段落させようと思う。

私達が帰国して間もなく、デオからとどいた手紙に、「ある日、ここグランビル・アベニューの袋小路に殺人犯が逃げ込んできて、ビッグマイクが屋根に登って眺めていたら、ポリスマンがマイクを犯人と間違えて危うく撃たれるところだった。」というのである。このデオは大きくなったらポリスマンになると言っていたがどうしているだろうか。

ロサンゼルスの夏はサマータイムで夜は10時まで明るく、お天気が続き、宿題もあまりなく子供達にとっては遊びの天国であったと思う。もっとも、12月半ばに数日の雨天がつづいたのを覚えているが。

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