新年を迎えて

ロサンゼルスの正月はローズ・パレードで始まる。

パサディナのローズ・ボウルを盛り上げるため、バラの花などで美しく飾った出し物が出て、沿道には人々が押し寄せて熱狂する。朝早くから出かけても、前の晩から寝袋持参で席の確保をしている人がたくさんいて、ぽっと出には良い席の確保は難しい。東部からもわざわざこれを見物にくる人が多いらしい。

私も是非この機会に見てみたいと思ったが、主人は乗り気でなくて取り止めになった。

「その代わりに子供達が喜ぶ遊園地があるそうだから行ってみようよ。」

主人も学会を控えていたのでパレードより気分転換になると思ったに違いない。

子供達はクリスマス・ホリデーの間どこにも行けなかった為か、大喜びで園内を走り回っていた。健は日記に次のように記している。

「今日はマジックマウンテンに行きました。

初めに入場券を買って入りました。中の乗り物はただなので何べんも乗る人が多くて、大入り満員でした。僕たちは始めに塔にあがって、どんな乗り物があるかを見ました。どれにするか決めてから降りて、ロープウェイに乗って決めた所で降りました。丸い変なボートに乗りました。その後子供も運転できる自動車に乗りました。次はジェットコースターに乗りました。すごいスピードで走るので一寸こわかった。それからモノレールに乗って一周してからロッグライドに乗りました。次にギャラクシーに乗り、そのあとゲームをしました。次はぶっつかってもいい自動車に乗りました。その後又ゲームをしましたがぜんぜん入りませんでした。最後にもう一度ジェットコースターに乗って、満足して帰りました。」

翌日はノッツ・ベリー・ファームに行って、主人にとっては二日連続の家族サービスの日が続いた。ここは古の西部を模した乗り物に乗ったり、昔のジャムなど買ったり、アメリカのたどってきた歴史上もっとも華々しい瞬間を示したインディペンデンス・ホールがあったり、例のキャリコの炭鉱めぐりもあったが、子供にはあまり面白くなかったようだ。

主人が学会の為ヒューストンへ出かけている間に、長い間へこんだままにしてあった車を修理に出した。

12月の長雨でだいぶ痛みがひどくなっていたが2週間かけて返ってきた時には以前よりきれいになっていたので嬉しかった。ただこの間に学会で出会った増田彰正さんを主人が招待して我が家に二泊されることになり、修理工場から代車を借りたのだが、1955年製のドッジで天井は剥げていて布はなく、ブレーキはあまくて、うんと踏み込むとエンジンまで止まってしまうと言う代物だった。こんなわけであまり遠出は出来ず、サンタモニカの海岸へ案内するのが精一杯だった。海岸通りにザ・ハウス・オブ・パンケーキという軽食堂があった。

そこで一休みするために軽く食べることにした。海岸の眺めも、店の中もゆれる椰子の木と共に明るくさわやかだった。

「以前この店に入った時、スパニッシュ・オムレットを頼んだら、スピナッチ・オムレットが出てきて往生したよ。ポパイじゃあるまいし苦手のほうれん草だけしか入っていないのだからひどいもんさ。」と主人が失敗談を話していた。

この夜はヤング夫人に招待されていたので行きつけのヒューズ・マーケットに増田さんを案内してワインを一本買って帰った。ついでにこの夜のヤング邸でのメイン・ディッシュはコロラド・ビーフの炭火焼だった。付け合せにインゲンとアーモンドのソテーがあったのだけ記憶している。デザートはバナナとアイスクリームにブランディーをかけて火をつけてアルコールを飛ばした物だった。テーブルのローソク立てはS字型の銀製、暖炉の炎とあいまって不思議な雰囲気をかもし出していた。

1月の後半は健の日記によると音楽会に二度、ダウンタウンのミュージック・ホールへ行き、その後、博物館に寄ったり、美術館へ寄ったりしている。

子供にオーケストラを聞かせる目的の音楽会なので、分りやすいナレーションつきのものだった。主人に覚えているかと聞いたら、動物が色々出てきたというのでサン・サーンスの「動物の謝肉祭」か、プロコフィエフの「ピーターと狼」かなと思ったのだが、加奈子に聞くと蛙や蛇が出てきたというので曲目は分らずじまいである。

私達が訪ねたホールはドロスィー・チャンドラー・パビリオンで、エントランス・ホールに見事なシャンデリアが三つさがっていた。

美術館も博物館も入場料無料で一般に公開されていた。どちらも素晴らしいコレクションで、二回訪ねたように記憶している。中でもインドの細密画にはため息が出るほど驚かされた。米粒一粒に描かれた絵画を見れば誰だって感心せざるを得ないだろう。モネーの睡蓮の絵も大きくてよい絵画だった。

しかし何よりもこれらの収集品を一般に只で公開しているアメリカはすごいと思わざるを得ない。

同時に興味をひいたのは、これらの前庭で繰り広げられていた色々なパフォーマンスだった。パントマイムあり、レゲー・ダンスありでどれも玄人はだしで楽しめた。

1月30日、「今日は船に乗ってくじらを見に行きました。船長はくじらが顔を出すとすぐに猛スピードで行くのでした。」

夏の間北の海で豊富な餌にありついていた灰色くじらがこのシーズンになるとバハ・カリフォルニア沿岸の浅い海で子供を育てる為に南下してくる。アラスカ海流にのってロサンゼルス沖を通るのがちょうどこの頃からで、鯨ウォッチングの船がお客を乗せて繰り出すのである。船は何台も出ていて不意にすれ違ったりすることもあった。海はタールを流したように滑らかで薄黒く、船に弱い加奈子には幸いだった。鯨は述べ10頭ぐらい見えたが、私達が出かけたのは少し早かったようで、なかなか暗い海から姿を見せてくれず、遠くの方で潮を吹くと必死に追いかけたが満足に全体像を見ることはできなかった。

他事多忙 _ 遂にグランドキャニオンに行く

アメリカでは新学期が2月にはじまる。前期と後期の二期制で子供たちもそれぞれに新しい科目をもらって張り切っていたが、毎週暇を作ってあちこち見聞を深める日が続いた。

「2月6日、今日は自動車を見に行きました。ロールスロイスが三台もありました。古い自動車や、スポーツカーのチャンピオンがいっぱいありました。

次は飛行機を見に行きました。日本のはやぶさもあった。ライト兄弟の飛行機もありました。」

次の週末はグリフィッス天文台とライオンの国へ行った。グリフィッス天文台はハリウッドの少し先に位置する高台にあり、プラネタリウムもあり、ロサンゼルスを見渡す夜景が美しかった。主人はこの後何回もここに通って天体の講義を受け、受講証明書を貰って喜んでいた。淳も土星をみて天体に興味を持ったようだった。

ライオンの国は放しがいのライオンや、ダチョウ、シマウマ、象など動物の群れの中へ車で入って行くのだが、とても暑い日で窓を締め切って走るのは大変な苦しみだった。おやと思うかも知れないが、30年前の私達の車に冷房装置は付いていなかったのだ。エンジン加熱で立ち往生している車もあった。シマウマ模様のパトロールカーも時折見回りをしていて、こんな人達を助けていた。

この頃私が書き送った手紙によると、主人はまた財布を無くして大騒ぎになったとある。バンクアメリカード、運転免許証、大学に入る証明書、保険証など全て取り直しの憂き目に会った。おかげで私のバンクアメリカードも無効、自動車はいつも私が運転しなければならず不便だった。

ちょうどこの頃から私は成人学校で油絵を習い始めていた。毎週一回、夕方から加奈子の通っている学校へ出かけた。講師はUCLAから派遣された人で、ペンポイント・スケッチ、一筆書きによるスケッチ法、水を使ったぼかし方、静物画の構図の取り方、人物画の描法、油絵の具の扱い方などさまざま教えてもらった。

You could be a great painter!”とおだてられて一生懸命通ったものだった。

もう一つ、学校の成績表がこの頃渡されたのだ。加奈子はここでも成績抜群でスカラシップ・ゴールドアワードとエクセレンス・ゴールドアワードの賞状を頂いてきて私達を喜ばせた。隣のビッグ・マイクに聞かれて、”She gat all A and all E.”と答えると、”Oh, shit !”とさもいまいましそうな表情をされた。淳もよく出来ると校長先生に褒められ、健はどういうわけかもって帰るテストが殆ど万点だった。

それに放課後のサッカーボールやキックボール、ハンドハンドボール、ソフトボール、75ヤード・ダッシュ、400ヤード・ダッシュなど色々がんばって良い成績を残していた。淳が言うのによると、黒人にはとてもかなわなかったそうだ。やはり、アフリカの大草原を走り回っていた人種と、島国日本でのんびり育った人種の差だろうか?

2月18日、三連休を利用してグランドキャニオンへ行った。実際には4泊5日の大旅行だった。

サンベルナルディーノを通って、モハーブ砂漠を延々と走って、ラスベガスに到着したのは、もう夕方だった。

砂漠の中にとつぜん燦然と輝くイルミネーションの嵐が現れた時は全く目を奪われた。加奈子の手紙には、「あまりのネオンの美しさに見とれてしまいました。食後、ゲームセンター・・・といってもカジノですが、そこに歩いていきました。ネオンを見ながらのんびり歩いていたら、二度も交通事故に遭いかけました。一度は横断歩道を渡っている時、タクシーが突っ込んできました。あと20_30cmで車にぶっつかりかけてヒヤッとしました。二度目は信号が青になったので、これも横断歩道を渡ろうとしましたら、車が曲がって来ました。おばあちゃんも気をつけてよ。

マナーの悪い車がふえて、ほんとーに危ないから。ダディーも時速120キロメートルで車をすっ飛ばしているので、マミーは青い顔をして、手を前にふんばり、障害物がないかどうかいつも前を睨んでいます。子供達はそんなことはどうでもよく、チューインガムをかんで、景色を見たり、言い争ったりしています。」健の日記には、「今日グランドキャニオンに行く途中でラスベガスのロイヤルインと言うところに泊まりました。それからサーカスサーカスに行って遊びました。」と書いてある。ザーク・イスラエルの勧めで、子供にはここが良いと教えられていた。子供たちを寝かせてから、二人でデューンのカジノ・ド・パリへショウを見に行った。いわゆるヌードショウを見たのは初めてだったので本当に驚いた。本物の馬が5頭、舞台で走るのも迫力があった。ラスベガスに行ったら、ショウを見なければ意味がないと聞いていたが、全くだと思った。ここ

で知ったもう一つはチップ次第でよい席がもらえることだった。

「その次の朝、グランドキャニオンに向かい、やっと7時に着きました。今度はモーテルに泊まりました。」私の記憶では、途中フーバー・ダムに立ち寄って、気が遠くなりそうなダムの底を見たと思うが、詳細はかすんでいる。宿はフレッド・ハーベイと言う所だった。

「次の朝、グランドキャニオンの谷へ下りました。次に色々なビュー・ポイントを見てからインディアンの見張り台を見に行きました。そしてキャメロンと言う所に泊まりました。」グランドキャニオン・ヴィレッヂ近くの対岸に向かうトレイルを少しずつ下りて、「もう止めようよ。」、「いや、せっかくだからもう少し先まで行ってみよう。」と言い合いながらかなり下まで下りた。下りるに従って岩肌の色が変化するのを実感した。

時折大きなリュックを背負った人々とすれ違ったりした。この人達は谷を渡るつもりなのだなと理解できた。この当時、かなり道は良くなっていて、ブライト・エンジェル・キャンプグラウンドがレンジャー・ステイションと共にコロラド川の側に設置されていた。しかしまだ危険をはらんだところもあって大変だと聞いていた。

見張りの塔は10年前には見かけなかったガラスがはめられていて、しかもワイドに拡げられていて、昔見かけた危なっかしい階段や雑然とした雰囲気はなく、時の流れを感じさせられた。ここで健は星型の赤い鉱物が浮き出た石を一個買った。

「次の朝、走りながらインディアンの家を見ました。つぎに山の上にあるインディアンの家を見ました。それから木がメノウになって転がっている所まで行きました。そしたらもう後45分で閉まるところでした。それからウインスローと言う所に行って泊まりました。」インディアン・リザーベイションの中を走っていたのかどうか、土と棒と布で囲ったお粗末な小屋をいくつも見た。インディアンの土産物店があったので入って器を二個買った。「作っている所は見られないか?」と聞いたら、「ホピ・インディアンのリザーベイションに行けば見せてくれるかもしれない。」そこで私達はおそるおそる近くの平たい台地(メッサ)に登って行った。

上はかなり広くて集落が密集していた。丁度傍らで土器を焼いている家があったので、入って作り方を教えてくれと頼んだ。おばあさんと孫らしい子達がいて困った顔をしていた。仕方なく写真を一枚撮らせてもらって、お金を渡して外に出た。驚いたことに子供達は皆眼鏡をかけていた。土器は薪の上に置いてあるだけのきわめて初歩的な焼き方で全く驚いた。色付けも木や草などの汁を利用していると言っていた。デザインも大昔から大して進歩してないのも驚きだ。

メッサを後にしてペトリファイド・フォレスト・ナショナル・モニュメントまでどのように走ったか覚えていないが、主人も私も10年前に見たあの素晴らしい天然記念物をもう一度見てみたかったし、子供達にも是非見せたいと思って必死で退屈な南西部の町や砂漠を走った。

到着したのは夕暮れ迫る頃で、ゆっくり見て回るわけにはいかなかった。それだけでなく、以前確かにあった珪化木のブリッジも長い幹そのままを残していた景観もそこにはなく、わずかな証拠品が転がっていただけで、がっかりした。

「次の朝、クレイターに行きました。その次にウオルナット・キャニオンに行きました。次にモンテズーマ・インディアン・ルインに行きました。次にバーロー・モーテルに泊まりました。」メテオクレイターも10年前に訪れ、この機会に子供達にも是非見せたい所だった。気のせいか周りの盛り上がりが少し減ったように感じたが、隕石孔そのものは変わりなく広大であった。アリゾナは夏走るところではなく、以前はとても大変だったのを思い出したが、この時も2月とはいえすっかり真夏の暑さだった。インディアン・ルインはこの辺りに多く、前にウパツキとトントを見ていたので今回は別のこの辺りでは有名な遺跡をみた。

ウオルナッツ・キャニオンは急斜面の横穴を住居にした群落で日本の縄文人も同じような事をしていたし、世界中あちこちに見られる初期の住居形式ではなかったかと思うと、インディアンこそこの大陸に最初に土着した民族と思っても不思議ではない。モンテズーマの遺跡は時代を経て人工の日干し煉瓦を重ねて作ったものの様だった。見事な建物が崖の窪みにはめ込まれていた。ちょうど、三徳の投げ入れ堂のように。

「次の日は帰る途中インディオと言う所で遊んでから一気に帰りました。」

帰途ランチをとる為に立ち寄った町がインディオだった。ここでたまたまデイト・フェスティバルが開かれていて、ラクダやダチョウの競争が見られると言うのを知った。

「面白そうだから行ってみよう。」

椰子科のデイトの木が林立している傍らに、広いトラックがあって、そこでレースが行われていた。ラクダは途中で座り込むのが出て、ダチョウは逆さの方角に走り出したりするのがいて大笑いだった。

どちらも人間が乗って走るので、双方真剣そのものの表情が面白かった。レースの後、アラビアン・ページェントという美人コンテストをかねたパレードがあって、アラビアン・ナイトに出てくるようなシースルーの衣装をまとった美女たちが出てきたのを覚えている。ここは砂漠の中の町でとても暑いところだった。近くに高級リゾート地で知られたパームスプリングスがある。

デイトの実は砂糖漬けにしてカリフォルニア土産の一つになっている。台湾の人が若い実を石灰と一緒に噛んでいたビンロウジュとよく似ているなと思うのだが、台湾で食用になったものは見た事がない。

 

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