ビキニの灰(5)

春休み、三月十七日の宵の口、まだ帰っていないはずの彼が突然横の戸を開けて入ってきた。私は入浴中ですっかり慌ててしまった。

「ラジオのニュース聞いただろう。今焼津からの帰り道なんだ。」

「いいえ。何があったんですか?」

「だめだなあ。ビキニ環礁沖で原爆か水爆かの灰をかぶった第五福竜丸が今焼津港に停泊していて大騒ぎになっているんだよ。」

我家にはラジオも無かったので、世間のニュースには疎かった。

「木村研から池田長生さん、南研から佐佐木行美さんと僕の三人で灰を集めに行ってきたんだけれど、行って見たら甲板はすっかり洗い流してあって 灰は残っていそうもなかった。だけど船に近づいたら僕が持っていたガイガーカウンターは針が振り切れてしまって、佐佐木さんの最新式ガンマー線メーターしか役立たないものだから、報道陣は佐佐木さんばかり写して僕は写してもらえなかったよ。」

「灰は取れたのですか?」

「甲板の隙間とか、排気口の筒の中とか物陰などから半日がかりで丹念に集めたわけさ。灰は佐佐木さんに持って帰ってもらって、僕は家に一泊して帰ろうと思っている。それで一寸君の顔も見て行こうと寄ってみたんだ。」

彼がほんの一寸寄り道している間に、分析は本田助教授を中心に一晩のうちに殆ど同定を終えて、彼は残りの溶液を手渡されただけだった。

「酒井君、遅かったじゃあないか、みんな終わったよ。あとはこの中に何か見つかるかどうかだ。」

溶液にはまだ放射能が残っていた。彼は核分裂生成物に関する文献を片っ端から読んで、白金族元素は陽イオン交換樹脂を通過することを知った。彼はガラス器具を組み合わせて蒸留装置を作り、濃硝酸溶液中で通過溶液を過熱、蒸留して、半減期の測定からルテニウム103とルテニウム106の存在を確認したそうだ。木村先生からお褒めの言葉を賜わったと得意になっていた。

 

ケセラセラ  先のことなど分らない

サクラは人間界の出来事などお構いなくこの春も日本中を美しく染めた。

「日本平に行って見ようか?」

「そうね。サクラが綺麗かもしれない。」

終戦後清水市の村松辺りから登ってサクラ見物をした時のことを思い出しながら私は答えた。

彼とは有度山の茶畑を通る道を歩くことにした。母の実家の祖父が耕していた畑の道を通り、カラタチの柵を左手に見ながら歩く内、細いわき道が下へ吸い込まれているような所があるのに出くわす。

「狸が出てきて人を化かすんだってよ。」と従姉が教えてくれた所だ。

そこから更に進むと松林に入る。祖父と従兄に連れられてきのこ狩りに行った山道で、記憶をたどりながら道案内をした。かなり長い道のりで不安が増した頃目の前に開けた草原が現れた。これがかつての日本平だった。

現在は車でしか行けないように思っている人が多いと思うが、昔は歩いて登るしか手が無かった。隣の久能山東照宮へ行くのにもいったん地震で大崩を起こした崖を下って、改めて長い綴れ折の階段を登らなければならなかった。

「大根足は入れないで記念撮影をしよう。」

彼は最近手に入れた得意の蛇腹式セミレオタックスの写真機と三脚を取り出して二人の写真を撮った。

下山には村松へのルートをとった。茶畑が広がり眼下に駿河湾と三保の松原、折戸湾、清水市、そしてはるかに富士山を望む景色はまさに日本一と言える。鉄舟寺まで下りてきてどちらに行こうかと迷った。真直ぐ進めば有度村、右に行けば彼の住む清水市に行ける。結局我家の方に歩くことにした。

サクラといえば奈良に帰って間もなく私達動物学科は先生方共々吉野山へ花見に出かけた。電車を下りて千本入り口から中千本、奥千本と歩いた。今はケーブルカーでかなり上まで行けるようだが、源義経の気持ちを汲むにはやはり歩かなければと思うのは私の負け惜しみか。とにかくここのサクラはやはり日本一だろう。

和歌山県白浜にある京都大学臨海実験所へ稲葉先生に連れられて出かけたのは初夏の頃だったか、

ウニは幼生ができるまで正確に二等分していく細胞分裂を行うので、カエルと対比してよく教科書に載せられている。さすが教師養成を目的とした大学である。色々な経験をさせてくれた。

めがね岩を見ながら温泉に入るため歩いた道も懐かしい。

その頃彼は当時にしては最新の質量分析計で鉛の同位体を測定することに取り組んでいた。ドラフトの中で、毒性の強い四メチル鉛を抽出して、それを分析していたようだ。

「僕は危ない仕事をしているから長く生きられないかもしれないよ。四メチル鉛は脳細胞を破壊するから四十位で発狂する可能性があるそうだ。」

常識のある人間ならばここで手を引くのだろうが、恋は盲目、痘痕もえくぼと言われるように当時の私はそれでもかまわないと思っていた。

アルバイトでもルミナス産業と言う所でラジウムの分離作業をしていたと言っていた。ラジウムは蛍光塗料として、特に青函連絡船‘洞爺丸’沈没を機によく売れたそうだ。ここで働いていた女工さんに、顎の癌になる人が多かったのは、作業する時塗料を塗りながら筆をなめたり、弁当を温めるのに塗料を保管していた中に入れていたりしたのが原因と思われた。この頃に大崎上空でガイガーカウンターを持って放射性物質を探しながら飛んでいた理化学研究所の人が、針が急に振れたのを認めていた。一時期彼の白血球が急に減少したのはこの為だろうと思われる。

清水の彼のご両親は私達の挙動を心配して色々な方法で彼をけん制していた。そんなこともあって彼は長生きできないなど言ったのだと私は察していた。

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