私のホームページの話し

     

1 ホームページを作ろうとして挫折する話し

年金生活を始めてから今年で3年目になる。昨年暮れには出版できるかどうかも分からないまま書いていた原稿もほぼ終わり、一息ついた。原稿を書くためにインターネットを通じてNASA(アメリカの航空宇宙局)等のホームページからいろいろな情報を集めることをを覚えた。しかしホームページとは一体どんなものなのか、どうしてかくも簡単にわが家のマックの画面に現れるのか、実に不思議であった。初めはそんなものかと思っていたがそのうちになんとか自分でもホームページを作りたいと思うようになった。しかしどうしたらよいか見当もつかなかった。

私はいまだに週2回目白台の東大分院に通っている。家内と共に自動車で西葛西の自宅から深川に至り、永代通り(別名倒産通り)を堀り端まで進み、内堀通りに入る。それから九段下で靖国通りを横切り目白通りを通って分院に到着する。1時間ちょっとのドライブである。

帰りは日本橋あたりで丁度お昼となる。家内へのサービスも兼ねて高島屋の地下食堂で昼飯をとることが多い。2000円食べると駐車代は1時間半(といっても2時間以上でも文句は言われない)までただとなる。そこで向いの丸善までしばしば足を運ぶことになる。そんな時、日本橋の丸善のパソコン関係の棚で「ホームページの作り方」という本をいくつかみつけ、これだと思った。字が大きくて写真の多い一番易しそうな本を購入した。

これで私もホームページがつくれるぞと楽しみにして本を読み始めた。しかし直ぐ失望した。html語というのがやたら面倒でまず拒絶反応を起こした。さらに、もしそれらしいものができたとしてもそれがどうしたらホームページになるのかよく分からない。どうやらサーバーにホームページのファイルがあるらしいことは理解できたが、わが家のパソコンとどう関係するのか皆目分からなかった。というわけで「ホームページの作り方」は私の本棚の中に埋もれていってしまった。

2 人まねこそ成功の元

昨年の暮れ、いつものように長男夫婦と孫娘が泊まりに来たときホームページの話しが復活した。彼が私のマックの上に彼のホームページを呼び出したのである。これはある民間企業が提供するジオシテーと呼ばれるホームページの集落でだれでも無料でホームページを開設することができるという。そこで私も彼に頼んで私のホームページを彼のホームの隣につくってもらった。見ていると大変簡単である。あっと言う間に私のホームページができてしまった、もちろん数行の文章だけの簡単なものであるが、例の本を読んだ感じとは全く違う。

そこで彼に前にこんな本を読んだが、なんだか難しくて諦めたんだがと白状すると、彼は本をめくってこんな本があれば便利だよ、といいながら、何だ、色を変えるのはこうするのか、などなど感心した風情である。彼はそんな知識はほとんどない癖に他人のホームページの構造をそのまままねるという、私には思いつかなかった手法を使って自分のホームページを作っていたのである。

この方法を使えばホームページの原稿をhtml文法で作るのは全く簡単、というより作る必要がないのである。まずインターネットでこれはと思うホームページを見つけたら、そのソース文書を取り込む。これは例えばMSWORDで読むことができる。それをブラウザーで開いている元のホームページの画面と比べるとhtml文書のどこがどれに対応するかが分かる。それらを自分の文章で置き換えればよい。例えばタイトルの“火星ニュース”を“酒井家のホームページ”とすると言った具合である。又画像はどこにどんな風に入れたらよいかも一目瞭然である。分からないことは例の本の索引から調べることができるという発見もあった。一旦ある程度分かると確かにあの本は役に立った。

最大の問題はホームページをサーバーにどのようにはめ込むかであったがこれもサーバーに電話したら簡単に解決した。私のサーバーはアサヒネットであるが25Mbまで無料でホームページを開設できるのである。もっともよく聞いてみるとサーバー側で我々のホームページの容量を把握している訳では無さそうであるからかなり大まかな話しである。

文章や画像をアサヒネットの私のサイトに送り込むにはFetchというソフトを使う。サーバーから教えられた設定をしてFetchを駆動するとあら不思議サーバー内の私のサイトとマックが直結され、ファイルを送り込んだり、不要なものを消したり、逆に此方に取り込んだりできるのである。なんだかよく分からない内に事が運ぶのがハイテクである。

3 ホームページに関する哲学的思索

こうして曲がりなりにもわが家のホームページができあがったのが今年の初めであった。当然ながら私は大得意であった。しかし直ぐに問題がでてきた。そもそもホームページというのは何らかの情報を発信する使命を帯びているという事になっている。だが現役でもなく、大した趣味もない私には発信するものは何もない。何のためにホームページを作るのかという哲学的問題に直面したのである。

かってある心理学者が老人のうつ病についてこんな事を言っていたのを思い出した。趣味を持たないまじめ人間によくあることであるが、定年後趣味を持つとよいといわれて例えば写真を始める。しかし、そのうちに写真とは何のために撮るのか等と考え出して悩みはじめ、遂にうつ病にかかるというのである。幸い、私はそんなまじめ人間ではないと見えて何のために作るかという根本的な疑問も直ぐに忘れ、ひたすらホームページを作るという満足感に浸っていった。

しかしホームページを作ると他人に見せたくなるのが常である。内容が家族の写真が中心であったからまず子供たちに連絡した。孫の写真は好評であった。今では孫達の絵や作文まで写真付きでのっけてある。私も若いときそうであったが、子供たちも今が働き盛りで彼らの子供たちの作文や絵などをゆっくり見たことがなかったのであろう。私のホームページでじっくりと見て、初めて、あいつこんなこと書いていたのかと感心する始末であった。

次ぎは昔の仕事仲間の若い連中にイーメイルで連絡し、すぐ見て感想を送ることを強要した。その1人から直ぐに返事が返ってきた。イーメイルの時代、こういうやりとりは迅速である。だが返事にいわく、「先生、これは困ったホームページの典型ですね!」 火曜会のメンバーではイーメイルを開設したばかりの高橋昭君が閲覧して、感想を送ってくれた。その他のメンバーにはまだ報告していない。こんなつまらないもの忙しくて見ていられるか、と一蹴されるのが恐かったのである。しかし、我慢できずにこの文章の最後にアドレスを載せるので興味のある人はお暇なときに見て欲しい。

4 季節に追われる花のホームページの話し

わが家は江戸川区の埋め立て地にあり周囲には緑で囲まれた散歩道や公園が多い。暇な毎日の時間つぶしと病後のリハビリをかねて家内とよく散歩する。埋め立て地であるから由緒ある木や花畑ははないが、逆にいろいろな木や花が上手に植え分けられ季節の移り変わりを楽しむことができる。そこでホームページの一角に“散歩道の花”というサブページを作り、わが家の周辺の花の写真を載せることにした。昨年購入したデジカメは昨年の火曜会で皆さんにも紹介済みであるが、このような目的には大変有力な武器である。

しかし花の写真を取り初めて分かったことは花の種類が実に多いことであった。家内は昔から花が好きであったから歩きながらこれは“ひいらぎなんてん”、あれは何と教えてくれるが私には殆ど初めてお目にかかるものばかりであった。私がそう言うとこれもあれも三朝や山形の家の庭にあったじゃない、と笑われることが多かった。恥ずかしながら私は今まで花については殆ど無関心であった。

デジカメで撮る花の写真はどんどん増えていった。3月だけで20種類以上あったろうか。花のページのタイトルを初めは“3月ー6月の花”としていたが直ぐに“3月の花”に変えた。しかしこれによって事態がさらに悪化した事は直ぐ分かった。花の写真と名前、簡単なコメントをホームページに入れるのはかなりの手間である。作業の内容は単純であるが時間がかかる。その上、よくつまらないミスをして時間を無駄にする。3月の花をすべていれ、体裁を整え終わるともう4月である。散歩道の花は次々に新たになり、或いは盛りを迎えていく。自然(人工のであるが)がこんなに変化するものであることを初めて知った。これを書いている現在(6月6日)まだ5月の花がホームページを飾っている。散歩道にはつつじに代わって紫陽花が現れている。気は焦るがーーー。

5 ホームページの国際化を計る話し

3月の終わりから4月にかけてはニュージーランドのタウポで開催された「第9回水ー岩石相互作用国際会議」に出席した。私は第4回を三朝で主催したことがあり、又長いこと委員長を務めさせられた関係で友人も多く殆ど毎回出席している。今度は私費での出席で論文発表もなく、もっぱらデジカメで会議とその後の私たち夫婦のドライブ旅行の模様を記録しニュージーランド旅行のサブページを作った。これは日本語だけでなく英語のページもいれ、8カ国の主だったメンバーに見ることを強要した。目的はこの会議のホームページを誰かに作らせることにあった。私のページは大変好評で反響を呼んだ。現在アメリカ地質調査所のグループがこの会議の正式なホームページを作るべく努力している。

6 東京幼年学校の思い出をホームページに入れる話し

ニュージーランドから帰るとまだ桜が咲いていた。桜とニュージーランドのページ作りで4月はあっと言う間に過ぎていったが、それに拍車をかけたのが“幼年学校の思い出”である。清水中学の卒業50周年を記念して同窓会誌を作ることになっていて原稿の締切が4月であった。

私は中学3年の4月、東京陸軍幼年学校に入学し終戦までの5カ月間を将校生徒として鍛えられた。学校は市川から疎開し今の中央線高尾駅(当時浅川駅)の近くにあった。終戦間際の8月1日、180機のB29による八王子市の大空襲があり幼年学校にも3万発の焼夷弾が落下し校舎は全焼、10名の生徒と教官が死んだ。私は焼夷弾の炸裂する校庭を逃げまどい、今から思うと本当に死線をさまよったわけである。

中学の同窓会誌にその時の思い出を書いた。書いている内にだんだんと興奮してきた。今まで忘れていたことが思い出される一方、又どうしても思い出せないこともあった。中学の同窓会誌は紙数が限られていた。そこで私は書きたいだけ書き、その一部を中学に送り全文をホームページに載せることにした。幼年学校の制服に身を固めた当時の私や仲間たちの写真もデジカメで撮ると若干の修正で見られるものとなったのでこれらも載せた。

当時の幼年学校同窓生の内2人が八王子周辺に住み、しかもインターネットを使える立場にあったので早速彼らに電話し、私の幼年学校の思い出を見てくれるように頼んだ。彼らは私の記憶違いを直したり、私が忘れていた事柄を思い出させてくれただけでなく、かっての幼年学校の跡地の案内を買ってでてくれたのである。

53年振りにかっての浅川駅である高尾駅に降り立った。案内の1人は現役の会社社長であり、運転手付きの車で今は都の住宅団地となった跡地をまわってくれた。終戦直前の7月末、休暇で清水に帰り3日を過ごした。その帰途、浅川駅から甲州街道を幼年学校に向かって歩きながら涙があふれて困った。後ろから自転車できた幼年学校の下士官が追い越しざま「貴様、将校生徒のくせに何事か」とどなっていった。この事はホームページに書いてある。案内の社長に「おい酒井、この辺でお前は泣いたんだぞ」といわれて感無量であった。

この時の様子も又“52年後の幼年学校”としてサブページを構成している。

7 筍狩りのホームページを作る

5月半ば、中学の同窓生があつまり清水の山奥で筍狩りをした。私もデジカメを抱えて初めて参加した。お天気が悪く竹林には行かなかったが山の上の同窓生の家で30人くらいが集まり竹酒や焼き筍などで愉快な時を過ごした。この時も全員の写真を始め竹の子を焼く友人、絵を描く男、などなどの写真を撮りそれぞれに私の感想を付けてホームページに載せた。同窓会の名前は午羊会であるのでサブページも“午羊会”とした。同窓生の中に1人だけインターネットにアクセスできる男がいた。彼が“午羊会”のホームページをコピーし出席者全員に配ってくれた。私が写真に付けたコメントはこの事を予想していなかったので必ずしも総ての人に快いものではなかったと思うが皆さん大いに喜んでくれた。

彼はまたホームページに載せた全員の写真をみながら1人1人の名前を教えてくれた。それを元に私は写真に名前をつけホームページに入れ直した。中学の同窓生の顔と名前はなかなか覚えられなかったが、これで少なくとも筍狩りに出席した30人の顔と名前が一致した。

8 子々孫々にホームページを残す話し

ホームページを作る内に気がついたことがある。初めは他人に何かを発信すると思っていたが、それ以上にホームページは自分の資料を整理・検索する為にも大変役立つということである。私は今自分のマックの中にホームページのファイルを作りいろいろな写真や画像をコメントを付けながら蓄えている。

家内も最近ワープロを使って自分史(といっても私の悪口もかなり入っている)を書いているがこれも昔の写真とともにホームページに入れつつある。何でもかんでも一緒くたに入れておいてもhtml語で指定してあるからブラウザーで例えばyonen.htmlを開けば幼年学校の思い出を写真とともに見ることができる。またtaiwan.htmlを見れば台湾・高雄生まれの家内の台湾時代の思い出や最近の台湾訪問記が写真と共に現れる。

このようなデータをまとめてMOやCDに収めておけば息子たちが将来何かの拍子に親のことを知りたいと思ったときの資料になるであろう。私も若いときは親のことなどあまり気にせずに過ごした。いま両親ともいなくなって一体彼らはどんな風に生きたのかを知りたいと思っても写真もあまりないし、あっても分散してしまっている。親父は自分の一生をテープに残しているが今のところ再生できない。

私の子供たちも今は親のことなどあまり気にしないがやがて定年となり他にすることがなくホームページでもという時が来るであろう。その時、彼らはホームページを残した私に少しは感謝すると共に彼らの話を次ぎの世代のために続けて入れてくれるかも知れない。

9 結論ーホームページの効用

こう言うわけで、はじめは何のために作るか分からなかったホームページだったが作る内にいろいろな効用がでてきたというのが今回の結論である。

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