村瀬 洋一 日本学問界を批判する

   2010年04月24日   Version 8.0


ごあいさつ

 健全な議論や批判を避けていては、社会は進歩しない。学問の発展のために、あえて問題点について語ろうと思う。


学問の一般人への貢献

 私の某友人は、仕事中の事故で機械に腕をはさみ片腕を失って以来、自分の人生についていろいろ考えるようになった。それ以来、話しが宗教家のようで、人生について語ることが多くなった。先日話した時は、人が明るい気持ちで元気になるには、どうすればいいのかについて、最近調べているので、心理学を勉強していると言っていた。病院へ行くと暗い人が多いし、自分が医者と接していて感じたこともいろいろあり、明るく元気な人と、そうでない人の違いは、どこにあるのかに興味を持ったようだ。職場でも、頭が良くても暗くて元気のない人はいらない、というのが彼の意見。どうすれば明るくなるのかは、周囲の環境や、暗示や催眠も重要ではないかとのこと。それで、催眠術について勉強を始めたそうだ。

 やる気の研究ならば、社会心理学でいう達成動機の研究ということになると思う。しかし、やる気が出るかどうかの研究は、実は難しい。例えば仕事のやる気は、実際の生活では、周囲によい人達に恵まれるかとか、本人以外の要因がいろいろある。個人心理学や、催眠術のような研究で、本人の内面について研究しても、大した研究成果はなく、率直に言って、あまり研究が進んでいない。何か役に立つ研究はないか、ときかれても、学者は、大したことは答えられないのが本当のところである。こんなことで良いのか、というと良くはないのだが、今の人間の力では分からないこともたくさんある。誰しも完璧ではないので、理想的でなくても仕方ないと思っている。人間は、月にロケットをとばす能力はあっても、心理や社会については、あまり詳しくない。もちろん癌を治すこともまだできない。社会問題を直すことは、さらに難しい。しかし、いろいろな問題を、一般人へもきちんと説明できるよう努力した方が良いことは確か。達成動機や催眠術は私の専門ではないし、何もかも説明できるわけではないのだが。明るくなくても、暗い元気のない大学生が、結局は役に立つことがあるので、ただ職場で明るい人がいいわけではないのでは、と私が言ったら、彼は少し納得していた。彼が言うには、大学病院の医者達は真面目でいい人達だったが、暗い患者達を相手にするのにやや疲れていたそうだ。彼は明るいので、医者達にとっては良かったらしい。医者にとって、回復した患者とは、自分たちの大切な作品のようなものだというのが、彼の解説。


研究成果と手抜き

 韓国や台湾に住んでいた時に、いくつかの大学図書館の中を歩いてみたことがあった。行政学や都市問題、アジア研究、法学や経済学関係など、日本の雑誌が置いてあることもある。ちなみに社会学の雑誌はなかった。日本の社会学は、海外への影響力がないようだ。日本のいくつかの大学の紀要もあったりする。おそらく、交換協定のある大学が、日本から送ってくるのだろう。しかし、紀要の内容がかなりひどい。某大学の紀要にあった、日本企業の統治能力についてという論文は、中身を見てみると、その筆者が飛行機の中で、CAに名刺をくれといったのにくれなかったという愚痴と、航空会社の悪口をさんざん書いている。学問的な要素はない。まともな学者の文章とは到底思えない。こんなひどい文章を読んだら、韓国や台湾の人達は、日本の学問をどう思うだろうか。

 私が韓国と台湾に住んだのは、アジアの不平等を真面目に研究しようと思ったからである。予算があまりないので、渡航費や生活費は自己負担が多かった。だが、台湾に住んでいた時は、日本の学者が研究と称して遊びにきた話しもたまに聞いた。台湾の某大学教授によると、3月は日本の年度末で、予算消化のためらしく、日本から大学教授達が台湾の温泉にたくさん来て、科学研究費での研究会と称して豪遊して帰って行くそうだ。実際には温泉で遊んでいるだけで、研究の要素はまったくなかったとのこと。恥ずかしいことだ。ちなみに私は、科研費で遊んだり飲み食いしたことは一度もない。普通、海外で調査をやると予算が足らないので、毎年、自腹で30万円は出している。韓国で学生を雇って社会調査をした時も、学生達に夕食をご馳走とか、交通費が予定よりかかった分を払うとか、すべて私の自費である。大学の外で真面目に調査をすれば、予算通りに収まるわけもない。そもそも総額が足らないし、研究会などで予算を使うことはないのだった。しかし、大学の外で社会調査をやらないような社会学ならば、予算の使い道があまりないことも事実。予算が余るような分野の人達は自腹で研究会をやればいいのだから、科学研究費はつけないようにしてほしい。

 こんないい加減なことがまかり通るのは、とくに文科系に関しては、研究について競争がなさすぎるからだと思う。どんなに研究で手を抜いても、多くの私立大では、まったく何の制裁もないし、教育さえやっていれば昇進もほぼ問題ない。研究予算は、調査もやらず研究会をして理論研究だけのような計画も、申請すれば予算がついてしまう。米国の大学のように、研究上の競争ばかりが厳しく、教育が手抜きになるのもまずいのだけど。それにしても、日本の場合、研究への評価も競争もなさすぎると思う。

 ちなみに、2009年に米国社会学会で、アメリカ人の院生と話したら、日本の社会学では、未だに古い古典の研究が多いときいたが本当か、ときかれた。確かにそんな人もまだ多いと答えると、鼻で笑われたのだった。今さら、プロテスタンティズムとか自殺論とか研究してもあまり意味ないし、米国ではそんな研究はもはやない。古典は、因果関係の考え方や分析法が間違っていて役に立たないものが多い。古典だし海外のものだから正しいに違いないと、未だに信じている人が日本に多いが、困ったことだ。しかも、学者が実際に、海外へ行って情報収集することはあまりない。したとしても、現地の図書館にこもるくらい。私は毎年、海外の学会に出ているが、そのような努力をしている社会学者は、日本の社会学者のうち1割もいないことは間違いない。国際的学会では、日本の社会学者をほとんど見かけないのである。日本には、国際派は少ない。むしろ、海外へ行こうとすると妨害されることが多い。困ったことである。


大学経営の私物化

 私が台湾でお世話になった大学は、すべての建物に人の名前が付いていた。誰か有名な学者の名前なのだろうと思っていたが、よくよくきいてみると、何と理事長が、自分の息子や親戚の名前を勝手に付けまくっており、さすがに台湾でも、私物化がすぎると話題になっているとか。

 日本の場合、ここまで露骨ではないのだが、知り合いの某教授にこの話しをしたら、日本でも、小さな私立大学は理事長一家が私物化しており、実態としてはあまり変わらないとのこと。大規模な私立大でも、某O一族で有名な関東のTK大学とか、某M一族で有名なTK大学とか、理事長が勝手に人事を決めてしまうことで有名なところもある。多くの受験生から金を集め、公共的組織としての責任もあるのだが、実体は同族経営である。政府も監視しきれないし、監査役も株主総会もない中小企業のような組織になっている。

 知人が勤める某M短大は、乗っ取り屋グループのような変な集団に理事会が乗っ取られたことがあるそうだ。経営者一族が、数年間かけた裁判の末、取り返したが、その時には、学内の資金は使い込まれており、行方不明になっている資産も多かったとか。もともとは、受験生や学生達から集めた授業料のはずである。経営者一族の同族経営は問題だが、乗っ取りやグループよりはまだましだったとのこと。困った話しだが、これは最近の事実である。公共財としての大学をきちんと管理するための方法を考えた方が良いのではないだろうか。


データは誰のものか

 社会調査データは、外部に公開されないことが多い。調査をした人間がデータをかかえこみ、他人が分析することは、多くの場合、不可能なのである。日本政府の各種世論調査や国勢調査も、集計結果が公表されるだけで、元のデータファイル(個人レベルのマイクロデータ)を研究者が分析することはできない(米国では可能である)。

 しかし、研究において、追試はとても大切である。同じテーマで同じ分析をすることによって、過去の分析の間違いや、新たな事実が発見されることがある。自分と同じテーマでの分析をいやがる愚かな研究者が、世の中には存在するのだが、テーマの選択は各個人の自由であり、同じテーマで悪いこと理由など何もない。

 かの有名なSSM調査のデータも、やっと一部が公開されたのだが、まだ全面公開ではない。したがって、日本人は海外の各種データを使用可能だが、外国人が日本のデータを使用したくても無理な場合が多い。私の知り合いの某氏が、これはバッドマナーだと、国際学会で言われたそうだ。それはそうだろう。多くのデータは、多数の人の協力により、税金を使って学問のために取ったデータである。個人の財産ではないし、全面公開するのが当然なのだが。


日本の大学はなぜ古い

 大学はとても保守的だという。確かに、新しい分野に取り組もうという、やる気のある学者は少なすぎる。とくに社会学は、相変わらず理論と歴史だけの古い分野の研究者が多い。社会学者の大半は、大規模な統計的社会調査はできない。無作為抽出をやったことがない人が8割を超えるのではないか。せいぜい、小規模なインタビューを質的調査と称して行う程度である。これは社会学者でなくてもできるようなものである。日本にも、優秀な社会調査の専門家もいることはいるのだが、ごく一部である(SSM調査や国民性調査は世界的な成果として有名ではある)。国際学会では計量分析が盛んでも、日本の学界だけは、国際動向とはまったく関係なく古い研究を続けている。これは社会学に限らず、日本の文科系の学問は、大体が同様である。日本の教育は、高校まではとても質が高いと言われているが、大学は、まったくそうではない。

 こうなってしまう原因は、大半の学者が国際学会に出席したことさえない、という事実が一つだろうが、根本的な原因はどこにあるのだろうか。おそらく、論文を書かなくても、国際学会に行かなくても、学会発表をしなくても、何の制裁もなく、評価も競争もないという大学のシステムに、問題があるのだろう。多くの文科系の大学は、最高峰と言われる私立大であっても、研究というほどの研究はやっていない教員が大半なのである。国際学会での発表などまず無理。査読制の雑誌論文掲載もあまりない。私の周囲には、学会の出している雑誌に、査読を突破して論文を掲載した学者が多いから、ましではあるが、無審査の学内紀要のみの学者も多い。

 このような現状を打破するには、何らかの評価システムを大学に持ち込むことが不可欠だと思う。ただ、短期的に、経済界の利益に結びつくような論文ばかりが評価されるのでは、それもまずい。しかし、10年前とまったく同じ研究をしているのもまずい。最低限、3年間で1本も論文を書かなかった教員は、研究費や研究休暇ポイントを減点するとか、大学院担当ははずれてもらうとか(その分、その他の仕事をやってもらう)、ルールを決め手はどうだろうか。少なくとも、研究成果リストをネット上で公開するべきだと思う。ただ、公開すると、この数年間論文執筆ゼロという教員がたくさんいることがばれるので、多くの大学は恥をかくのではあるが。私学の雄と呼ばれるようなところの教授と話しても、あまりに論文数が少ないため、大学院設置の時などに差し障りがあるとか、恥ずかしくて外には言えないような事実があるとのことだった。

 このような評価システムの問題は2つある。一つは、まじめに大学の外にでかけて、活発に社会調査をやっているために論文が少ない教員と、他人のデータを使うだけで独自の調査はやらず(大学の外でやる社会調査はとても労力がかかる)理論的な論文をたくさん書くような教員では、まじめな前者が不利になるということ(独自の新しいデータが少なくなったら社会科学には致命傷である)。これは、調査データを完成させて公開した学者には、多くのポイントを与えるなど、工夫すればよいだろう。もう一つは、評価が厳しいような職場には、よい研究者が集まらないということである。米国では、普通のサラリーマンは1年契約でいつ首になるか分からないが、大学教員は終身雇用権(テニュア)があり、給料が低くても優秀な人材が集まる仕組みになっている。日本では、普通のサラリーマンの雇用保障が大きいし、米国型の雇用慣行にすると、ますます過労死が増えて、社会的に弊害が大きすぎるだろう。米国のように、広い国土と十分な資源をもとに、豊かな生活をしている社会とはそもそもの構造が違う。これについては、サラリーマンよりは何らかの形で大学教員の待遇をよくするなど、工夫しないと難しいだろう。やる気のある学者には、多くの研究費と研究時間が集まる仕組みを作ればよいのだが。

 私など、予算を取って(これがかなり大変)社会調査をやり、アメリカ社会学会で発表し、論文も書いているし、大晦日も研究室にこもり、努力はしているつもりなののだが、かと言って、研究費が増えるわけでも雑用が減るわけでもない。こんなことでは、大学には優秀な人材は集まらないと思う。ただでさえ、大学院を出て30歳前後になるまで、収入もなく奨学金も少ないのに。文部科学省の政策としても、研究予算を増やすのでなく、まず大学に人材を集めないと、効果がないのである。




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