雪の円環

 暖炉では勢いよく、炎が踊っている。外では同じくらい勢いよく、雪が舞っている。
 私はかまどを覗き込んだ。こちらでも火が勢いよく燃えている。天板の上の鶏は、もうすぐ焼き上がるだろう。ソースの焦げる香ばしい匂いがただよう。パンはすでに焼き上がり、籠に入っている。そして葡萄酒のびんとグラスがふたつ。
 娘がもうすぐ帰ってくる。何年ぶりだろうか。街の中学校に通った娘は、そのままこの家に帰ってくることもなく、都会の女学校に入った。そして、今まで帰ってこなかった。こんな片田舎の生活がつまらなくなったのだろう。
 帰っては来なかったが、手紙は定期的に届いた。最近では書くこともすっかり大人びて、丸っこかった文字もすっかり達筆になった。母親の字に、よく似ている。
 そして、最後に届いた手紙を私が握りしめている。
 娘は帰ってくる。そして、すぐ出てゆく。結婚相手を、みつけたというのだ。

 娘はいつか他人のものになる。いつか家を出ていく。あたりまえのことじゃないか。
 こんな片田舎で、年老いた父親とふたり生きる、そんなのは馬鹿げたことだ。
 そう言い聞かせながら、私はとにかく、できるだけのことをした。家の前の雪も取りのけた。家の中も掃除した。じゅうぶん暖かくした。食事の用意もした。娘の夜具も数日前から陽に当てた。全部やった。
 まるでやることがなくなるのを恐れるように。

 

 私はふと、窓の外を眺めながら、今は亡き妻のことを思いだしていた。
 こんな夜だったな。あれがここに来たのは。この寒風の中、うら若き女性が、たったひとりで。
 ひどい風邪を引いていた。あやうく死ぬところだった。この家がなければ。私がいなければ。
 しばらく療養するうち、春になった。健康になっても彼女は、出ていかなかった。そして夏になり、教会でたったふたり、結婚の誓いを交わした。
 あれがどこから来たのか、どこの出身なのか、何も知らなかった。親戚も来なかった。気にしなかった。どうせ私も天涯孤独の身だった。

 それからの五年、幸せだった。五年目に妻は身ごもった。冬に娘を産んだ。しかし母親は死んだ。そう、それもこんな、風が強い雪の夜だった。
 最後に妻は、細い声で、娘をお願い、といった。そして奇妙なことを言った。
 あなた、ありがとう。言わないでくれたのね。
 私は何のことだかわからないまま、ああ、言わなかったよ、と答えた。だから元気を出すんだ。
 忘れたのね、と微笑して、妻は涙をひとつぶこぼした。あの雪山のこと。
 あのときあなたを救ったのは、わたしでした。それを誰にも言ってはいけない、と命じたのもわたしでした。あなたはそれを守ってくれた。ありがとう。
 息を引き取る前に、妻はいった。円環を閉じないで、と。

 

 すっかり物思いに耽っていたらしい。いきなり、ドアを叩く音で、われに返った。
 娘が帰ってきた。私はのろのろと足を引きずり、玄関へと向かった。
 鍵を外す。重いドアを引き開ける。
 吹き込む風が雪を運んでくる。そして、娘が入ってくる。
 すっかり成長した。ちょうど母親と同じくらいの背丈。そう、あれもあの時、あんなコートを着て、そして……
「…………サラ!」
 私の口をついて出たのは、妻の名前だった。
「アロン」
 私の名前を呼ぶのは、あの時の妻だった。
 私はすべてを諒解した。なぜ彼女がここに来たのか、なぜ彼女がここから去らなければならないのか。彼女が誰なのか。円環が何なのか。
 ふたりは、かたく抱きあった。

 

 いま、私はひとりで、この暖炉に向かっている。妻も娘ももういない。天涯孤独の身だ。
 しかし、寂しくはない。あの五年間の想い出があれば。
 あの五年間の想い出を作るために、私は生きてきた。
 あの五年間の想い出を守って、私は生きてゆく。


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