タイ人を弁護する

 タイはスマイルと嘘とぼったくりの国だ、という人がいる。これはかなり偏見のある見方だと思う。以下の小文で、それを正していきたいと思う。

 スマイルには異論のある人はいるまい。客に対するタイ人の笑顔は美しい。特に若い女性の笑顔は美しい。笑顔だけでなく、態度も献身的である。見返りを期待しての行動であると貶す人もいるが、決してそんなものではない。タイ人のフレンドリーシップというものなのだ。笑顔にほだされてついこちらの財布の紐が緩んでしまう、それだけのことだ。これを原因と結果という観点からどう論ずるかは、もはや論者の品位の問題であろう。
 なかには仏頂面のおじさんやおばさん、それどころか悪相ここに極まれり、という感じの人間もタイには存在する。南方ドラヴィダ系の血が混じっているのだろうか、仁王のような顔、というのならまだしも、仁王に踏みつけられている悪鬼のような顔つきの人間がいるのだ。まあしかし、顔の話はやめておこう。筆者もタイ人からどのような感想を持たれているか、知れたものではない。

 タイ人は嘘をつく、とよくいわれる。たとえば、寺院や博物館、王宮など、ありとあらゆる観光名所にはタクシーやトゥクトゥクの運転手がたむろしている。また観光客と称する人物がいて、親しげに声をかけてくる。
「どこへ行くんだい?」
 これにどう答えても、向こうの言うことは決まっている。
「残念だな、そこは今日は閉まっているんだ。それより別のところを案内するから、どうだい? 20バーツでいいよ」
 むろん、その場所が閉まっていないことは言うまでもない。まさかと思うであろうが、本当にみんな、冗談のように口を揃えてそう言うのだ。
 これを嘘と非難する人が多いが、それは間違いだ。タイ人のフレンドリーシップの発露とみるべきだ。
 彼はあなたに本当に楽しんでほしいのである。そのためにはあなたが目指す目的地ではなく、自分の案内するところのほうが優れていると、本当に信じているのだ。現地の人のほうが正しい、あなたは私に任せたほうが楽しめますよ、と、彼はそう主張しているのだ。
 そのために嘘をつくのはいかがなものか、とあなたは言うかもしれない。しかし、アジア人は全般に、正直をさほど美徳とは思っていないのである。ほら、日本にもあるでしょ、「嘘も方便」という言葉が。より大きな善をなすためなら、小さな嘘は許される、それがアジアの思考である。
 たとえば日本においても、政治家、雑文家、上司、部下、女性などは正直であることが求められない、というか、むしろ正直でないことが奨励される。少なくとも日本人には、タイ人を嘘吐きと呼ぶ資格はないであろう。

 タイ人の商行為をぼったくりと呼ぶのは言い過ぎであろう。確かに、さっき貴方が100バーツで買ったのとまったく同じ商品を、地元のタイ人に60バーツで売っているのを見るのは、腹が立つことである。しかしながらタイ人に比べ外国の旅行者は金持ちである。だからやや高めの料金を請求する、何の不思議もないことである。中国やベトナムでは、これがいっそう徹底して、鉄道や飛行機の切符も外人と地元民は窓口を別にして、外人には倍の料金を請求すると聞く。その代わり外人用窓口は空いていて清潔で、係員の愛想もよい。こうしてバランスをとっているのである。
 またタイではスーパーマーケット等一部の例外を除き、正札というものが存在しない。価格は売る人と買う人との間の合意によって形成される。売る人がどうしても売りたいなら価格は下がるし、買う人がどうしても買いたいなら価格は上がる。また売手と買いての緊急度、貧富などの要素によっても価格は変動する。これはきわめてケインズ的な光景であって、経済学の実習として日本にも導入したいくらいだ。
 また日本でも、正札販売などというものはつい二百年前、三井が呉服販売を始めるまでは存在しなかったことを思うべきであろう。しかも正札が大勢を占めたのは戦後のことだ。日本でもその歴史は浅い。日本人はもともとかけひきが上手なのだ。交渉ごとは苦手だ、などとぼやかず、経済学的行為に邁進すべきであろう。

 タイ人はみな、驚くほど英語が上手い。街の屋台のおばちゃんでも英語をしゃべる。それもそのはず、幼少時から英語教育が徹底しているのだ。北方の少数民族の村の学校を訪れたことがあるが、小学校からタイ語とラオス語と英語を教えるのだそうだ。私がゴジラとジラースとベムラーの描き分けに苦慮していたころ、彼らは英語とラオス語とタイ語の書き分けに苦慮しているのである。素晴らしいことではないだろうか。
 ただしその発音はよいとは言えない。タクシーの運転手が「ティッシュ、ティッシュ」と言うので何かと思ったら、タクシーのことだったりする。またバーでウィスキーのオンザロックを頼もうとして、「オンザロック、オンジロック、ウィスキーウィズアイスキューブス」などと言ってもなかなか通じず、やっと通じた相手が笑顔で、「オゥ、オージロー」と言ったのにはめげた。
 また会話が得意な彼らも書くのは苦手である。証明書を作るのに、私の姓名や所属をローマ字で書いて渡したら、苦労したあげくとんでもない綴りにしてよこした。
 しかしながら生活に密着した英語、それはどんなにか素晴らしいものであろう。綴りが出来ないくらい、それが何だというのだ。私は、日本語で全ての用が足せる豊かな日本に生まれず、外国語である英語を覚えないとろくな就職口もないタイに生まれていたらどんなにかよかったかと思われてならない。
 まあ、中には英語の苦手なタイ人もいる。私の英語が通じなかったのではない。彼が英語が苦手だったのだ。そこんところ間違えないように。さよう心得よ。彼との会話はこんな具合になる。
私「えくすきゅーずみー、でぃすクラッシュドアイス……うぃずココナツミルク」
店員「dhfoarjkljgkjvknklbfghj?」(意味不明)
私「わからん……ぱるどん?」
店員「foih drighbyh89gtfvhdrfhtjdht?」
私「ううむ、くらっしゅ、あいす、ここなっつ……」
店員「fuih erinthvubry7tuyvbeufvbtgkfb5rtysdctfgeyws5?」
私「………………ぺぷし、ぷりーず」
店員「10バーツ、サンキュー」
 これではまるで私が小心者のようだが、実際そうだからどうしようもない。

 またタイ人はとんでもなくお節介である。人の私生活にどかどかと土足で上がり込んでくる。バスに一緒に乗り合わせただけという薄い縁の老婦人に、「どこの国だ?」「どこに行くつもりだ?」「タイはどうだ?」などと聞かれるのは、ま、外交辞令と言うものだろう。しかし、「何歳だ?」「結婚しているか?」「なぜ結婚しないのだ?」となると、大きなお世話だ、という気分になる。さらに、「結婚しないのか、できないのか?」「結婚できない原因が、何かお前にあるのか?」となると、いい加減にしろばばあ、と言いたくなる。
 しかしこれも悪気あってのことではないのだ。観光バスのガイドと帰途よもやま話をしていて、同行の人がふと、「君の家には家族が何人いる?」と聞いた。その人は単に、彼が夕食を家で取るか、外食か、それだけを聞きたかったのだ。ところがガイドは、父親は死んで、母親は田舎、兄弟五人がバンコクにいるね、私は次男。長男はどこそこに勤め、三男と四男はまだ高校生、と事細かに説明を始め、しまいには、妹、大学生。でも大学に通っている途中でオナカ大きくなったね。男に騙された。妹、娘産んだ。男、逃げた。いま妹、子供を親戚に預けて働いているね、などとあけすけな打ち明け話を始めてしまった。車中の雰囲気がいっきに暗くなってしまったのは言うまでもない。このようにタイ人というのは、隠し事が嫌いな民族なのだ。

 タイ人に寄せられた非難の多くが根拠のないものであることが、読者諸兄にも分かっていただけたであろうか。以上、私としてはできるだけ私情をまじえずに記述したつもりだ。タイ人に対していささかの含むところもないことを、ここに特記しておきたい。決して騙されたりぼられたりしたことを恨んでのことではない。ないんだよ。ないってば。いや、基本的にはいい人だと思うのだよ、奴等も。基本的には、ね。


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