犬の生涯

 タイは犬に満ちあふれている。街角に道路に、商店の店先へ、レストランの店内にまで入り込んでいる。誰もとがめない。時折うるさく思った人間が蹴飛ばすくらいなものだ。
 犬の種類はよくわからないのだが、たぶん柴犬とかそんな感じの血統が基本なのだろう。それにわずかに洋犬が混じる。もちろん雑種である。だからビーグルの顔だちをしたポインターの体色の犬とか、どう見てもレトリーバーなんだけど足が妙に短い犬だとか、珍妙な奴がときどきいる。

 犬はきわめて礼儀正しい。公共の場で吠えることはまずない。むやみに喧嘩もしない。たまに、酔客に蹴飛ばされた犬が悲鳴をあげるくらいだ。レストランでも、客から料理を奪ったり、吠えついたりは絶対にしない。食べている客の足元にうずくまり、訴えるような悲しげな目で見つめるだけだ。こうすると心優しい客、とくに日本人は鶏の骨でも投げてやらなければならないような気になってしまう。

 犬は好き嫌いがない。牛、豚、鶏、魚、宗教の制約がないのでなんでも食べる。タイ料理はきわめて濃い味付けが多いが、人間でも悲鳴をあげる辛いものも平気で食べる。トムヤムクンの海老も食べる。
 確か猫に海老の尻尾を食わせると腰を抜かすはずだが、こちらの猫は平気で食べる。腰を抜かすような軟弱者はいない。今度あわびを食わせてみようかと思う。
 鶏の骨は噛み砕くと破片が胃に突き刺さるので、犬や猫に与えてはいけないと聞いたような気もするが、それも平気で食べる。タイの犬猫はタフでなければ生きていけない。

 これほど遍在する犬ではあるが、暑いのは苦手だ。犬は人間のような汗腺がないため、温度調節は舌を出してはあはあするしかない。それでも追いつかなくなった場合は、じっと寝るしかない。昼間には商店の店先などで、これは皮かしらと思うくらい平べったく伸びた犬が、わずかに鼻先だけを動かしている。

 タイでは猫のほうが犬よりも地位が上なのだそうだ。そのせいか、タイの猫はお高くとまっているような気がする。喉を撫でようとしても気高く拒否し、ゆっくりと逃げてゆく。
 それに比べ犬は愛嬌一本槍である。いつでもにこにこと尻尾を振っている。頭など撫でてやると、喜んで尻尾をちぎれるほどに振る。殴られて追い払われても、三メートルほど離れてこちらを見やり、気が変わったらいつでもどうぞ、私はいつでも貴方のお役に立てる準備は出来ていますよ、と尻尾を振る。
 タイの犬は特別あつらえなのか。よほど躾けがいいのか。そういえば、あれほど犬が多いわりに、道路で轢かれた犬の死骸を見たことがない。タイのドライバーは運転が荒っぽいので有名なのに。犬はいつも、道路の脇に座って、車が途切れるのをおとなしく待っている。そして道路を横切っていく。

「いや、やっぱり轢かれる犬もいますよ」
 タイに数年住んでいる日本人は、そう答えた。
「やっぱり日本と同じで、どん臭い犬とか、馬鹿犬とかいます。でもね、そういう犬はさっさと死んじゃうんですよ」
 タイの犬世界は適者生存の世界であったのだ。日本とタイの犬の賢愚の割合は、誕生時では同じである。しかし日本の馬鹿犬は馬鹿なりに保護され、天寿を全うする可能性が高い。しかしタイでは、馬鹿では生きていけない。

 車のスピードを測り損ねた馬鹿犬は、生後一年で道路を渡り損ねて轢き殺されるかもしれない。人間の機嫌を判断できない間抜けな犬は、生後三カ月で酔客に腹を蹴られて内蔵破裂で死ぬかもしれない。機転のきかない犬は、餌を人間から貰うことができず、生後半年で飢え死にするかもしれない。体力に問題のある犬は、生後二カ月でマラリアで死ぬか、生後三カ月で熱射病で死ぬ。あるいは生後一年二カ月で鶏の骨が胃壁に刺さり、苦しみもがいて死ぬかもしれない。

 これらの難関をくぐり抜けて成犬となった犬は、いわば犬界のエリートだ。利口でおとなしく、機敏なのは当然だ。そんな犬しか生き残れなかったのだから。無投票当選の日本の犬とは違うのだ。
 そうした話を聞いて、私はタイで犬に生まれなくてよかったと、つくづく感じた。私だったら生後三日以内に死んでいたこと、保証付き。


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