マーフィーの法則のひとつに、「電球は必ずストックのないものから切れる」というものがある。これは考えてみるとわりと当たり前かもしれない。電球や蛍光灯が切れて新しいのを買いに行く場合、まず考えるのは、「こんど切れたとき困らないように、あらかじめ予備を買っておこう」と考えるものであり、また電球や蛍光灯は、2個か3個セットで割安に売っていることが多い。ストックが家にないということは、その予備も使ってしまった状態であり、ということは最後に交換してからかなりの年月がたっている可能性が高い。だから、その電球が切れやすいのは当然である。
しかし、と懐疑派は反論する。必ず電球を2個ずつ購入するという前提だとしても、最初の電球が切れるまでの期間と2つめの電球が切れるまでの期間は同じはずである。ということはストックのある電球とストックのない電球は、以前交換してからの期間は確率的には同じ、だから切れる確率もほぼ同じはずだ。むしろそれは「パンは必ずバターを塗ってある面から落ちる」と同じで、切れたときの心理的ショックが大きいため、よく覚えている、というだけの理由ではないか。
いや待て、と分析派は主張する。電球の使用頻度をまず考えてみるべきではないか。たとえば私の居住所の場合、机とパソコンとベッドと本棚がある総合引籠室の蛍光灯がもっとも使用頻度、使用期間が長く、したがってこの部屋の蛍光灯はほぼ1年ごとに交換している。それに対し物置と化している将来の嫁室はめったに蛍光灯を使用することがなく、たしか入居してから交換したことがない。まず各室の電球並びに蛍光灯の使用頻度、使用時間の実績を計測してからでないと、現実を踏まえた議論にならないのではないか。
そんなわけで、さっきまで暗闇のトイレにいた。
暗闇で人間がごそごそしている有様というのは不気味なもので、いや暗闇で節足動物がごそごそしている方が不気味だと主張する人がいるかもしれないが、そういう根拠のない虫嫌いは放っとくとして、ましてやそれが、暗闇のトイレでごそごそしているとしたらますます不気味である。見ている方だって不気味だが、ごそごそしている方だって不気味なんだ。わかって下さい。
私はトイレで本を読む性癖の人間で、さっきだって読みかけの本を持ってトイレに入って、大便を排出しつつ無意味な情報を吸収していたわけだ。それがいきなり暗闇になったのだ。暗闇はいつだって突然にやってくる。「もうそろそろフィラメントが切れますよゲージ」を電球メーカーもしくは家電業界が開発するその日まで、突然にやってくる。
幸いトイレというのは、自宅の場合ひとりで満員になるくらい狭いもので、しかも作業は単純なものである。便座カバーを開き、ズボンとパンツを降ろし、便座に座るという作業は、電球が切れるまでに既に済ましている。あとは排便後、トイレットペーパーホルダーに手を伸ばし、ペーパーで尻を拭いて、立ち上がればよい。パンツとズボンを穿く作業と、水洗レバーをひねる作業は、この暗闇に包まれた個室から出てからでもかまわない。
しかしこれが、ペーパーホルダーにトイレットペーパーの残量が僅少だった場合はどうする。
ペーパーは1回尻を拭いて使い切ってしまった。まだ尻は大便の残滓で汚れている。こんな場合は、かなり複雑な作業を必要とする。まず中腰で立ち上がり、ふりかえって頭上にある戸棚の扉を開き、中にあるトイレットペーパーの予備を取り出し、ふたたび便座に座って、トイレットペーパーをホルダーに設置する。という一連の作業が要求される。
しかも、今では何の役にも立たない、読みかけで開いた本を片手に持ちながらだ。
まず私は暗闇の中、中腰で立ち上がり、身体を斜め後ろにひねり、手さぐりで扉の取っ手を探そうとした。
じゃば。
慣れない作業の最中、片手に持っていた文庫本の中身が、カバーから脱落し、便器の中に転落したのだ。
読んでいた本は、「チャウシェスク銃殺 その後」であった。
あれからルーマニアがどうなったのか、だれも知らない。
「もうそろそろペーパーが切れますよゲージ」を便器メーカーにも開発してほしい。