光秀と信長

 本能寺の変に至る直前、明智光秀は連歌の会を催した。そのとき、

時は今 天が下しる五月かな

 と詠み、天下取りへの意志を表明した、と言われている。
 しかし光秀は、本気で天下を取る気だったのだろうか。いやそもそも、この句はほんとうに天下を取る気で詠んだのだろうか。ひょっとしたら冗談ではなかったのだろうか。ギャグではあるまいか。

 文学史上に残るような歌人の主宰したものはともかく、むかしの普通の連歌には、たいがい笑わせ役がいたのだそうだ。
 連歌というのはご存知の通り、和歌の上の句、五七五を最初の人が詠む。すると次の人がそれに合う七七を詠み、さらに次の人が七七に合う五七五を詠み、そして次の人が……という具合に続けていく。だいたい百首の切りのいいところで終わったらしい。百首も読むのだから、朝からはじめて夕方までかかったという。
 もともと文学の一ジャンルとして始まったものだが、室町から戦国時代にかけては、これが社交のひとつになった。今の政治家や財界人がゴルフをやるように、当時の武将や豪商は連歌の会に参列した。歌のひとつも詠めないような人間は、上流階級の一員として認められなかった。
 とはいえ素人が多いのだから、歌といってもそうたいしたものではない。たいがいの歌は、古歌をちょっと変えた程度の、つまらないものだった。そのうえ連歌は長丁場だから、途中でだれることも多い。沈滞しがちなのである。
 そのような沈滞を防ぐために、連歌のメンバーの中に、ギャグ要員をひとり入れておくのだそうだ。とんでもなく突拍子もない句を詠むことによって笑わせ、沈滞した雰囲気を破り、活性化させる。いわば、「フィーリング・カップル五対五」における五番の男性である。

 という話を聞いて、ふと思ったのだ。
 あの有名な連歌における、明智光秀こそ、この笑わせ役だったのではないだろうか、と。

 あらためて連歌の状況をふりかえろう。
 周知のように、明智光秀は天正十年の六月二日、主君の織田信長を本能寺に襲い、殺害した。
 その直前、五月二十七日に、光秀は愛宕山の愛宕大権現に参籠している。翌日の二十八日には、大権現威徳院西坊に里村紹巴らを招いて、連歌を興行した。

 連歌の最初に詠む発句で、光秀はいきなり、

 時は今 天が下しる五月かな

 と詠んでいる。通説によれば、「時は今」は「土岐は今」、すなわち、土岐氏の流れをくむ明智が天下を取る意味にかけている、とされる。さらに、「天が下しる」とは、雨が降る、という意味と、天下を統べる、という意味にかけている、とされている。つまり、光秀は、おれがこれから天下を取りにゆく、という宣言をしたというのだ。

 これに対して威徳院行祐が、

 水上まさる庭の夏山 

 と受けたあと、ひそかに光秀の意志を感じた紹巴は、

 花落つる 流れの末をせきとめて

 と詠んだ。これは、「花落つる」という言葉に、ことは失敗しますぞ、という意味を、「せきとめて」に、光秀のこころみを止めますぞ、という意味をこめており、「失敗に終わるのだから、そのような無謀なことはお止めなさい」と光秀に語りかけているのだ。
 そういうことに、通説ではなっている。

 しかしながら、この解釈には無理がある。
 光秀ともあろうものが、謀反を事前に他人に知らせるはずがない。まだ家臣の明智光春にも斎藤利三にも、親しい武将の筒井順慶にも細川幽斎にも知らせていない段階である。それなのに、一介の民間人に秘密を漏らすようなことは考えられない。

 これはやはり、光秀が意図的に笑いを取りにいった、と考えるのが適切ではないだろうか。
 想像するとこんな情景になる。
 連歌の席で、みな若干緊張している。明智光秀はこの席の主宰者ということで、上座にいる。発句を考えているのか、難しい顔でぶつぶつと呟いている。
 しかし里村紹巴はじめみな知っているのだ。これが光秀の芸風であることを。優れたお笑い芸人は、自分が笑ってはならない。どちらかというと、笑福亭松鶴のように、苦虫を噛み潰したような表情が望ましい。
 みな知っているのだ。この陰気な表情から、光秀がとんでもないことをいって笑わしてくれることを。大善院宥源などは、早くもくすくす笑っている。
 やがて光秀が発句を詠む。

時は今 天が下しる五月かな

 これを現代語に訳して表現すると、
 ぼくちんは土岐一族の総帥、明智光秀閣下なるぞ。信長も家康も、みなぼくちんの奴隷であるぞ。もちろんお主どももじゃ。ぼくちんの威光に打たれ、ひれ伏すがよかろう、ふはははは。

 これで場内爆笑である。
 たいして偉くもない奴が、意味もなく威張っている、その風景がとんでもなくおかしい。
 実際には織田信長を社長とすれば、光秀などは課長程度の格である。おまけに光秀は、信長の前に出ると萎縮して口もきけないような小心者である。それが信長のいない席で、天下を取ったような顔をしている。よく会社コントで、部長が出張で出かけると威張り出す課長というのが出てくるが、あんな感じだ。
「ぶわはははははは」
 宥源は涙を流して笑い転げている。
「なんか、むちゃくちゃ威張ってるよー。わはははは」
 昌叱も笑いが止まらない様子だ。
「やばいっすよそれー。信長殿に聞かれたら、殺されちゃうよー、わは、わははははは」
 紹巴はブラックなネタに弱い。お笑いを見る目の厳しさには定評のある彼も、つい笑ってしまった。
「あっそーれ、じゅーねん、たったーら、みっつひーでさーん!」
 行祐などはつい浮かれて踊り出している。

 そう解釈すると納得がいく。
 光秀は他にも、この連歌の席でさまざまなギャグを飛ばしている。
 句を詠むのを忘れてしまい、「本能寺の堀の深さは、どのくらいでござるか」と聞いて回るという、天然ボケのギャグ。
 さらには、粽の笹を剥かず、そのままむさぼり食うというギャグ。
 連歌の前日ではあるが、愛宕大権現に参詣した折りにも、「大吉が出ない!」と癇癪をおこして何本もおみくじを引き直し、あげくにおみくじの棒をべきべきべきとへし折るという、駄々っ子のような年齢退行ギャグも披露している。
 まさに、言葉と肉体をフルに使った、献身的なお笑いといえよう。コメディアンの鑑である。

 光秀は織田家の中では、ギャグマンとして知られていた。
 そもそも光秀が織田家に就職したのも、京風のギャグをふんだんに知っている人材として、期待されていたからだ。そして、光秀は期待通りの働きを見せた。
 しかし、織田信長と明智光秀の間は、うまくいっていなかった。

 困ったことに信長は、世間によくいる、「お笑いのわからない」タイプの人間だった。
 ギャグを笑いとして認識するには、常識が必要である。たとえばタキシードを着て髭を生やした紳士がバナナの皮に滑って転んだら、人は笑う。それは、「タキシード、髭=偉い」という常識が、「バナナで転ぶ=情けない」によって裏切られるからである。常識を持たない人にとっては、いくらバナナの皮ですっ転んだところで、単なる物理運動にすぎない。
 信長は常識を持たない人間だった。
 十倍の敵を相手にして勝てるわけがない、という常識がないから、桶狭間の奇襲戦法で今川義元の首をとることができた。大軍の大将は軍と共にゆっくり行動する、という常識がないから、朝倉浅井の軍に包囲された敦賀の陣から、単騎逃げ出すことができた。鉄砲は戦闘の最初で敵の先鋒を散らすのに使う、という常識がないから、鉄砲隊三段構えの陣で武田の騎馬部隊を蹴散らした。
 常識を持たぬことが信長の軍事的成功の秘訣だったが、しかしお笑いを理解するには致命的な欠点だった。

 そのうえ信長は、プライドが高く、自分が笑われることを極度に嫌った。
 たとえば、父親の信秀が死去し、その葬儀のときのこと。
 例によって常識知らずの信長は時間に遅れた。おまけにそのいでたちときたら、袴もはかず、ちんちくりんの小袖。さらに焼香のやり方も知らず、香炉の抹香をわし掴みにして、位牌に投げつけるありさま。
 この醜態を、家来の多くは見て見ぬふりをしたが、家老の林通勝は、耐えきれず、
「くっ」
 と小さく笑った。たったそれだけのことだが、信長は忘れなかった。ずっと根に持っていた。
 はるか後になって、信長は、この家老を、
「二十数年前のことだが、おれは今まで我慢してきた。しかしもう許せぬ。今日かぎり、織田家から出てゆけ」
 と追放してしまった。
 それほど自尊心が高く、傷つきやすく、人を許せぬ人間だった。
 今でいえば、学歴はないがカンが鋭く、アイディア商品で売り出した、中小企業のワンマン社長、といった感じの人物である。自分の独創性だけが頼りで、異常にプライドが高い。おまけに唯我独尊で、他人の言うことに聞く耳をもたない。その反面、学歴だとか教養だとかに劣等感があり、その部分のトラウマを突かれるとはげしく怒る。どんな分野にせよ、「わかってない」と思われることが、何よりも怖いのだ。
 お笑いには余裕が必要である。このような人間に、お笑いが理解できるはずがない。

 しかし困ったことに、織田信長といえば、その勢威ならぶものなく、その官位は摂関家に次ぎ、その権威は将軍をもしのぎ、その富力は南蛮人もビックリ、という人物だった。
 当然、皇族、貴族、大名、豪商など、上流階級の人間とのつきあいも多い。席上、相手のギャグに笑ったり、逆に笑わせたりしなければ、座談が成立しない。
 「お笑いを解さぬもの、人にあらず」が、上流階級の合い言葉である以上、信長もお笑いをやらねばならぬ。そこで呼ばれたのが、光秀であった。

 光秀はその使命を十二分に果たした。いや、むしろ果たしすぎた。
 貴族や皇族たちと、自分には理解できないギャグで笑う光秀を宴席で見るにつけ、信長の胸には、光秀に対する嫉妬がむらむらとわいてくるのであった。
 全員が笑っている宴席で、ただひとり笑えないでいる自分。その惨めさ、その恥ずかしさ。宴席を重ねるたびに傷ついてゆく信長の自尊心。それもこれも、
(すべて光秀のせいだ)
 と責任転嫁する自分を、信長はおさえることができなかった。

 信長もお笑いに理解がなかったわけではない。信長も彼なりにギャグを実践し、笑いを取ろうとした。ただ、その才能がなかっただけである。
 越前で浅井・朝倉の連合軍を敗り、両家を滅ぼした直後のことである。
 その年の正月、家臣たちが信長のもとに年始の挨拶に訪れた。信長は岐阜城の大広間に家臣を集め、上機嫌で年始の祝辞をうけていた。
 そのとき、近習が桐の箱を運んできた。信長はにやりと笑い、家老筆頭の柴田勝家に語りかけた。
「勝家、何だと思う」
「はて、なんでございましょう……茶碗でございますか」
「ふふふ、開けてみろ」
 勝家は首をひねりながらも、絹紐をほどき、箱を開けてみた。
 そこには漆の上に金箔を重ねた、杯のようなものがあった。
「何だと思う?」
「杯でございますな」
「ただの杯ではないぞ。これは浅井長政、朝倉義景、ふたりの頭蓋骨から作った杯じゃ」
 あっと驚いた勝家は、思わず杯を取り落としてしまった。
「これ、鄭重に扱え。これで新春の屠蘇を飲もうという趣向じゃ。どうだ、面白いだろう」
 面白いどころではない。
 あまりにグロテスクな発想に、家臣すべて声も出せず、青い顔で並んでいるのみだった。
「なんだ、面白くないのか。敵の髑髏で新春を祝おうというのだ。面白いだろう。え、どうじゃ秀吉」
 名指しされた秀吉は、ひきつった笑顔を無理に浮かべてみせた。
「……いや……まっこと、結構なご趣向で……ははは……あまりの面白さに、思わず言葉を失って……ははは」
「いやまったく……結構なご趣向……ははは」
「……は……はははは……」
 秀吉の言葉につられたように、その場にいた家臣たちは、みな無理に笑ってみせた。柴田勝家も、丹羽長秀も、荒木村重も。それは、スナックで上司が下手なカラオケを歌っているときに、部下が浮かべるのと同種の笑みであった。
 しかし光秀は、笑わなかった。
 光秀はお笑いに生きる人間だった。笑いには妥協できなかった。
「殿……それ、面白くありません」
 それは満座の全員が、言いたくても言えなかったことであった。
 信長の目が、ぎらりと光った。その視線は憎しみと狂気に満ちていた。
「ほほう。面白くないか……この信長の趣向が、笑えぬと申すか……そうか、では、これではどうじゃ」
 信長はやにわに光秀に襲いかかった。光秀を倒し、ふたつの髑髏杯で、交互に光秀の頭を殴りだした。光秀の額は、ぱっくりと割れ、血がだらだらとこぼれた。
「こういうのはどうじゃ。え、面白いか、面白くないか」
「面白く……ございません」
「笑えぬとほざくか。ではこれでどうじゃ。ほらほら。え、笑えぬか」
 いつまでも光秀を殴り続ける信長を、表情の消えた家臣たちはただ、見ているだけだった。

 つまりは信長にお笑いのセンスが皆無だったのである。そして光秀はお笑いのセンスが抜群だった。
 光秀の当意即妙の機知、光秀の古典を踏まえたパロディ、光秀の間の取り方、光秀が駆使する滑稽な京言葉、すべてが信長にないものだった。
 光秀のギャグ、光秀のお笑いが、信長にはうとましかった。憎かった。

 たとえば甲斐の武田を滅ぼしたときである。
 故信玄の育てた武田の騎馬部隊が、信長の鉄砲三段構えの陣によって壊滅させられたのち、武田氏は自壊を続けてきた。重臣の離反や裏切りが相次ぎ、ついに織田軍勢の猛攻の前に武田勝頼は自害し、武田氏は滅亡する。
 その陣に、光秀も参加していた。
 もっともたいした役割は果たしていない。武田攻めには、信長の長男信忠が出陣していた。徳川家康と北条氏政が援軍を出した。勝頼の首をとったのは滝川一益の軍だった。光秀はただ、後から出陣した信長のそばに従い、ぼさっとしていただけだった。
 もはや武田氏の滅亡は見えていた。かつて武田に属していた土豪は、あらそって織田氏に鞍替えし、その領地の安全を図った。ひきもきらず織田の陣に参上するそれら土豪を見て、光秀は言った。
「甲斐の平定も間近ですな」
 光秀の横には、筒井順慶が立っていた。順慶は、光秀がまたなにかやるな、と内心にやりとしながら、ツッコミ役を買ってでた。
「ほんまでんな。殿様もこれで、日本の半分は手に入れられた。いやほんまにめでたい」
 光秀は、その謹直な無表情を崩しもせず、言ってのけた。
「これも私も、長年苦労を重ね、智恵を絞り、勇をふるった甲斐があったというもの」
 順慶は、ここで坊主頭をふるわせ、思わず吹き出してしまった。そして、思いっきりの力で、光秀の胸のあたりを叩いた。
「ぶはははは。勇をふるった甲斐やて。あんた、甲斐では、何もやってへんかったやんけ!」
 順慶だけではない。この漫才を聞いていた周囲のだれもが、大爆笑していた。笑っていないのは光秀と、もうひとり、いつごろからか後ろに立っていた信長だけだった。
「光秀ッ」
 信長は光秀のえりがみをつかんだ。
「おのれがいつ、どこで苦労した! おのれは甲斐のどこで戦った。この嘘つき野郎! 長篠で戦ったのはおれだ。勝頼の首をあげたのは滝川だ。おのれは朋輩の功を、主の功を盗むか!」
 そのまま信長は、光秀を押し倒し、その頭を地べたに打ちつけた。光秀は抵抗もせず、されるがまま。
「殿、光秀殿が申されたのは、ギャグでございます。本気ではございませぬ」
 順慶がおろおろと制止する声も聞かず、信長は光秀の頭を打ち続けた。光秀の額がまたもぱっくりと割れ、地面を紅に染めた。
 この出来事で光秀はまた、「不屈のギャグマン」としての名声をあげ、その分、信長の株が下がることになった。信長の憎しみは、いっそうつのるのであった。

 しかし、そんな信長にも理解者が現れた。
 安国寺恵瓊である。
 彼は禅僧ではあったが、毛利家の外交官として、織田家の人間とたびたび折衝を重ねてきた。
 その彼が、主君の毛利輝元に書き送った有名な書状がある。
「信長の代、五年三年は持たるべく候。来年辺りは、公家などに成らるべきかと見及び候。左候ふてのち、高ころびに、あふのけにころばれ候ずると見え申し候」
 つまりは恵瓊は、信長の暴力的で理不尽なツッコミを評価したのである。「信長の代」つまり信長流のお笑いがこれから数年間は主流になるだろう、そして京の公家階級にも、そのお笑いが受け入れられるだろう、と予測している。
 さらに恵瓊は、信長のお笑いが進化するであろう、とまで予測している。今はツッコミ一方の信長だが、のちにはツッコミからボケに進化するであろう、そして「高ころびに、あふのけに」見事にずっこける芸も修得するであろう、と予測しているのだ。ツッコミと思われていた信長が、あふのけに転ぶ。これこそ、ツッコミとボケの弁証法的融合。そのとき、お笑いは新しい時代を迎える、そう恵瓊は予言しているのだ。
 新時代のお笑いとして、信長に寄せる期待。
 安国寺恵瓊の熱き期待を、そのまま伝える名文である。

 信長流のお笑いは、たしかに受け入れられつつあった。
 武田攻めも無事完了し、駿河から徳川家康が、戦勝の祝賀にやってくることになった。
 信長は光秀に、家康の饗応を申しつけた。信長は嫌でたまらなかったが、織田の家中では、こうした儀礼的な行事をつつがなく行える人間は、光秀以外にいなかった。
 わずか十数騎の少人数で安土城を訪れた家康は、さっそく饗応役の光秀のもとに、挨拶に出向いた。このころの家康は腰の低い、慇懃な人物であった。
「このたびは私どものような軽輩に、過分な饗応をくださるとのこと、まことにもってありがたきこと」
 うやうやしく挨拶しながらも、家康は光秀の様子が妙なことに気づいた。
 いつもにもまして表情が暗い。泣き出しそうな表情である。
 これは何か仕掛けるつもりだな、と、家康は内心身構えた。
 驚いたことに、光秀はその沈痛な表情のまま、がばりと土下座し、家康に向かって頭を床にこすりつけるではないか。
「まことにもって申し訳ない。じつは、徳川殿へ饗応の鯛、これが、折からの炎暑にて、みな腐ってしまいました」
 家康ははじめ呆然とし、やがて微笑がこぼれた。
 三河の田舎者ではあるが、家康は幼少のころ、今川家で育てられた。
 今川の当主義元は、京の文化が大好きで、京のお笑い芸人も多数呼び寄せていた。あるときなど今川吉本と改名しようとしたくらいで、これはさすがに家臣に止められた。
 そんな環境だったから、家康も京風のお笑いはわかるのである。
 ここでツッコまねばならんな、と、家康は考えた。
「腐ったら、食われへんやないか」
 光秀はにやり、と一瞬顔をほころばせたが、すぐに元の泣きそうな表情に戻り、家康に臭気のする魚を突きつけた。
「これ、この通りでござるよ」
 家康はここで、思わず笑ってしまった。
「いや、さすが光秀どの。鯛が腐ったとは、は、ははははは」
「なんとも不調法なことにて」
「はは、はははは、ははははははは」
 これを見て激怒したのが、またもや信長である。
「おのれ、大事な客人を迎えて、膳のものが腐るとは不行き届き。光秀、成敗してくれるわ!」
「いや信長どの。鯛が、腐る、はははは、これが面白いところで」
「うるさい、殺してやる!」
「お許しつかまつれ」
 ぼかぼかぼか。
 ということになって、またも光秀は信長にドツかれた。

 しかし、ここで受けたのは、むしろ信長のドツき芸、ツッコミ芸であった。
 城下町の大衆は激怒する信長を見て爆笑し、殴りまくる信長に喝采し、押しまくる信長の芸を歓迎した。
 歓迎するあまり、「その後、信長は腐った鯛を安土城のお堀に捨て、そのため城下町全体が臭くなった」などと、嘘の後日談を言い伝えたくらいである。
 光秀の老練なお笑い芸を評価するのは、もはや家康など、少数派になっていた。

 ちなみに家康はこの事件の後、「鯛が腐っちゃったギャグ」がお気に入りとなり、自分でも再三演じてみせていた。
 その死因も、やはり腐った鯛をテンプラにして食ったための、中毒死だった。七十五歳という年齢には、このギャグは体力的に無理だった。身体を張ったギャグは、若くないと無理なのだ。

 光秀はふかく憂えていた。
 信長の芸は自分より上なのか。私の芸は、もはや時代遅れなのか。
 光秀のみるところ、あきらかに信長のお笑いは邪道であった。
 たとえば比叡山延暦寺を焼き討ちして一山の老若男女すべてを惨殺したり。
 たとえば伊賀攻めでやはり皆殺しにしたり。
 荒木村重の謀反を制圧してのち、村重の親族縁者すべてを磔にして殺したり。
 信長のギャグは、血なまぐさすぎる。シャレになっていない。
 呼吸もはからない、ただ攻めるだけのギャグは、芸と呼べるのか。
 それより困るのは、そんなギャグでも、繰り返し演じていれば、いつしか世間に受けるようになってきたことだ。なかには、これこそ革命的お笑い、新時代のお笑い芸だと勘違いしている者さえいる。
 このままではお笑いが変質する。お笑いが曲がってしまう。
 なんとかしなければ。
 やはり、ここで私が。
 本物の芸を、みせるしかあるまい。

 そして運命の本能寺。

 中国地方で毛利と戦う秀吉の加勢をするよう申しつけられ、光秀は軍勢を率いて亀山城から出発した。その直前に愛宕山にこもり、冒頭のような連歌の会を催している。
 一万三千の軍勢を野条で休憩させ、光秀は重臣たちを呼んだ。明智秀満、斉藤利三、溝尾庄兵衛、藤田伝五らである。
 光秀の性癖を熟知している秀満たちは、光秀の顔色を見て、すぐピンと来た。光秀の表情が、いつにも増して暗い。
「すでに薄々感じているかもしれぬが、わしは信長を討つ」
 ぷっ、と耐えきれず藤田伝五が笑いをもらした。委細構わず、光秀は続ける。
「止めても無駄だ。もし反対ならばやむを得ぬ。わしひとり本能寺に駆け行って、本能寺で腹を切る」
 ぶはっ、と空気が動くような音がした。もう耐えられない。秀満も利三も、みな笑い転げている。
「ぶははははは。ひ、ひ、ひとりで本能寺ってー」
「ひゃはははは。何ができるっていうんだよー」
「わははははは。信長、で、殿下を討つってー」
 本陣でひとしきり笑い声が聞こえたのち、斉藤利三が軍勢の前に出てきた。兵隊にいきなり、おふれを出す。
「今日より殿は天下取りにならせられる。敵は本能寺にあり」
 しばらくの沈黙ののち、一万三千の爆笑が山中にとどろき渡った。

 わずかな手勢だけで本能寺に宿泊していた信長は、あけがた、騒がしい物音にとび起きた。宿直のものに聞く。
「何事じゃ、足軽どもの喧嘩か」
 聞かれた小姓や女房どもも、さっぱり様子がわからなかった。
「さっそく見て参ります」
 走り出た小姓の開けた蔀戸から、炎上する建物が見えた。銃声もどこからか聞こえる。信長はようやく、これがただの騒動ではないことに気づいた。
 やがて信長の側近、森蘭丸が駆け込んできた。
「と、殿、む、謀反にございます!」
 蘭丸を追うように、雑兵どもが攻め込んでくる。小姓どもはけなげにも、打ち物とって敵と戦う。その隙に蘭丸は、信長の手を引いて奥へと逃げる。しかし寺のなかは敵兵で充満し、その乱戦の中、いつしか信長は、大広間の中にたったひとり取り残されていた。
 室内が煙で充満してくる。この屋敷にも火がかかったらしい。信長は誰も聞くものがいないまま、焦慮にかられて叫ぶ。
「して、敵は、敵は、なに奴じゃ!」

 そのとき、絶妙のタイミングで光秀が顔を出してきた。
「殿下。私めにござります」
 絶句する信長。すぐに首をひっこめる光秀。
 炎上する大広間の中にぽつんと取り残されて、なぜか信長は、腹の底からこみあげてくるものを感じていた。
「……ふ。うふふ、うふふふふ」
 そうか、これが光秀のお笑いだったか。これがお笑いというものか。人生の最後になって、ようやくわかってきたような気がする。なるほど、こういう面白さなんだ。
「はは、ははははは、わははははははは」
 炎に包まれながらも爆笑しつづける信長。
 このタイミング、この呼吸だったのか。
 押すだけでない、引くことによって生まれる笑い。
 これがもっと早くわかっていたら、わしは光秀と仲良くできたかもしれん。そうすれば、完全に天下を取れたかもしれん。そう考えると、ますます笑いがこみあげてくるのだった。
「はははははははははははははははははははは」

 信長の最期の言葉、それは一説によれば、
「あんたとはやっとれんわ」
 だったと伝えられる。


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