坂本龍馬はなかった

 勝海舟は不機嫌だった。
 世の中のすべてが、面白くなかった。
 なんて小物の国になっちまったんだい、この日本って国は。べらぼうめ。

 かつて海舟は、江戸幕府の高官だった。その幕府はとうの昔に潰れ、いまは天朝様の世である。
 いや、薩長の天下だ。旧薩摩藩、長州藩の人間たちが高位高官を占めている。
 それも、大物はみんな死んでしまった。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。幕末には敵味方ながらも、海舟と戦ったり交渉したり、その過程で魂をぶつけあった同士だった。互いにその人物を認めあい、腹を割って話し合える同志だった。
 いま生き残って時めいているのは、大物たちの子分だ。伊藤博文、山県有朋、松方正義、黒田清隆といった連中である。いくら総理大臣でござい、大蔵大臣でございと偉そうに髭など生やしたって、勝にとっては連中は、まだまだ洟垂れ小僧にすぎない。人格も識見も、西郷、大久保、木戸にはるかに及ばない。むろん、自分にも遠く及ばない。
 そんな小僧どもが日本を動かしている。藩閥をつくって人材登用をさまたげている。三井や三菱の大金持ちとつるみ、賄賂を取っている。日本をけがしている。まったく、冗談じゃねえぜ。
 おまけにその小僧どもが、自分のことをまったく無視してやがる。これがプライドの高い海舟には、たまらなかった。海軍卿だの枢密顧問官だの、肩書きだけはつけてよこすが、実権はけっして与えない。実権と利権は、小僧どもが分け取りにしているのだ。べらぼうな話だぜ、まったく。

 うちに来る連中だってそうだぜ。海舟の憤懣はつきない。
 氷川にある、海舟の家を訪れる訪客は多い。
 新聞記者、旧幕臣、そして伊藤や松方など、政府の首班もしばしば訪れる。
 みな海舟の話を聞きに来るのだ。
 記者はひきもきらず訪れては、歯切れのいい江戸弁でポンポンと政界を斬る海舟の座談を記事にする。なにしろ海舟に頭の上がる人間は政界にもいないので、総理大臣だろうが自由党総裁だろうが、遠慮会釈なしにやっつける。それが面白いと大人気なのだ。
 政府の首班たちは、斬り方をすこしでもお手柔らかにしていただこうと、海舟の家を訪れ、ご機嫌をとってゆく。
 しかし海舟は、言いたい放題に話していても、まだ不満だらけだ。
 伊藤や松方などの連中は、とりあえず爺さんのご機嫌を取っておこう、その態度が露骨で、おれの話なんか聞いちゃあいない。
 この俺が旧幕時代の政治の仕組みを説明し、参考にするよう忠告してやっても、ああ、また爺さんの長広舌と自慢話がはじまった、ともかく拝聴するふりでもしよう、なんて心の中では思ってやがるんだ、あいつら。
 いかに西郷、大久保が大人物だったか、お前らなんぞ足元にも及ばないほど立派な人物だったか、いくら口を酸っぱくして言い聞かせてやっても、はいはい、年寄りにとっては昔が一番なんだよね、なんて、心の中で舌を出してやがるんだ、あいつら。
 新聞記者だって、おれの話を面白がるだけで、浮き世離れした爺さんの寝言くらいに思っている。最近では「今彦左」などと、おれのことを呼んでいるらしい。

 そんな憤懣がたまっていたせいか、つい口が滑ってしまった。
 その日は薩摩の山本権兵衛、長州の佐久間左馬太が来ていた。山本は海軍、佐久間は陸軍の大将である。いわば薩長、海陸の大御所がここに見参、という図である。
 けっ、なにが日本海軍だい、山本権兵衛はもともとうちの居候だったじゃないか。おれにオランダ流海軍を教えてもらったことも忘れて、いっぱしの英国紳士気取りか、それに佐久間だってなんだい、大村益次郎の門人気取りだが、その大村だって村田蔵六と名乗っていたころはおれの家に洋書を借りにきた百姓医者じゃねえか。
 それがおれの家に来て、日本の将来を一身に担っているような顔で天下国家を語っていやがる。けっ、ろくでなしどもが。
 最初からそんな気分でいた海舟だから、山本と佐久間のちょっとした会話に敏感に反応してしまった。
「いや、なんといっても、今の日本があるのはわれわれの先人、維新の元勲あってのことでごわす」
「まったくその通りでありますな。貴藩の西郷閣下、大久保閣下。弊藩の木戸。この三人なくして維新は成らなかったでありましょう」

 この会話に、不機嫌な声で海舟が乱入してきたのだ。
「おいおい冗談いっちゃ困るよ。西郷、大久保、木戸、たしかに偉かった。でもな、あいつらがいなくたって維新は成ったさ。忘れてもらっちゃ困るな、薩長のそいつらなんかより、もっと大物がいたことを」
 そんなやつがいるもんか、とけげんな表情の佐久間。山本はあいまいな微笑を浮かべて海舟のご機嫌をとろうとする。
「あいや、すっかり忘れておりもした。勝海舟先生の維新における功、忘れてはなりますまい」
「そんなおべんちゃら聞きたくて言ったんじゃねえや。知らねえのか、西郷大久保木戸、この三人を足したよりもっとどえらい事をやってのけた奴を」
 もちろん口からでまかせ、勢いにまかせた嘘っぱちである。
「知りませぬ。どこの藩の方でござりますか」
 佐久間は真面目な顔で海舟と向かい合った。
 しまった、言い過ぎたかな、と海舟は後悔したが、ここでこの二人に降参するのは絶対にいやだ。えい、ここはすっぱり嘘をつき通してやろう、と覚悟を決めた。
 ええと、どこの藩だったということにしようか。薩摩と長州がここにいるんだ、この二藩じゃすぐばれる。肥前でもいいが、肥前の連中は理屈っぽいからすぐ抗議してきそうだな。かといって越前や宇和島では小藩すぎて説得力がない。となると。
「土佐だよ。土佐の高知」
「なんという名前の方でござりもすか」
 山本もなかば信じたような顔つきで、海舟に訊ねた。
 名前か、ええと、どうしようか……ここにいるのは山本と佐久間……さくま、やまもと……さくもと……さかもと……。
「姓は坂本ってんだ。名は龍馬」
 名前はいいかげんに威勢のよさそうなものにしておいた。
「聞いたことがござりませぬな」
 山本も佐久間も、真顔で首をかしげている。
 すっかり調子に乗った海舟は、ふたりを笑い飛ばした。
「あったりめえだよ。坂本龍馬はあんた、ペリーが黒船で浦賀に来た頃から、西郷や木戸といっしょに活動していたんだぜ。そのころあんたらは、まだ国元でハナ垂らしながら遊んでただろ。もったいなくも慶喜公が大政を奉還なされた時には、坂本龍馬は慶喜公と親しく相談したほどの人物だ。そのころあんたらは、やっと下っ端の兵隊で鉄砲かついでただろ。格が違いすぎらぁ。知らなくて当然だよ」
 土佐の志士、坂本龍馬の誕生であった。

 

 さて坂本龍馬を誕生させたはいいが、と海舟は思案に暮れた。
 嘘がばれないようにするためには、せめて土佐の人間を抱き込む必要があるな。
 さいわい土佐の人間は大半が明治維新までに死んでいる。死人に口なしだ。生き残った奴らのうち、半分は薩長の横暴に耐えかねて自由民権運動に走っている。残りの半分はまだ政府に残っているものの、やはり薩長に不満を持ちつづけている。
 おそらくこの芝居に乗ってくれるのではないか、と海舟は計算した。

 予想通り、土佐人の田中光顕と佐佐木高行は大喜びで乗ってきた。
 田中光顕はこのとき宮内大臣。かつて中岡慎太郎の率いる陸援隊で副隊長をつとめ、戊辰の役では各地で歴戦し、陸戦の指揮では随一と賞賛された。ずっと陸軍畑を歩いてきた人間が、場違いな宮中に放り込まれたのは、長州の山県有朋に逆らったためだと、もっぱらの噂である。
 佐佐木高行はかつて土佐藩の大監察として、他藩との外交、土佐藩の財政に従事していた。維新後はとうぜん外務省か大蔵省にいくべきだったが、わずかな期間司法卿をつとめたのみで、あとは宮中に追いやられた。そこでも明治天皇に天皇親政を訴えたということで長州の山県や伊藤から危険視され、元老院に体よく軟禁されたりもした。いまは宮中顧問官である。さしあたって明治天皇の言動を記録するほかに仕事がない。
 このような不遇の土佐人ふたりと海舟で、龍馬のキャラクター付けに熱中するのであった。

「まずだな、坂本龍馬の性格をどうするか、だな」
「土佐藩には武市半平太という偉人がおられました」
 佐佐木高行は静かに言った。
「おお、土佐勤王党の首領だな」
「坂本龍馬は武市さんの子分、いや弟分だったということにしましょう。土佐では一流の筋目になります。土佐のみなが尊敬します」
「それなら話が面白くなるように、武市さんの正反対の性格だったということにしましょう」
 田中光顕が口をはさむ。
「武市さんは真面目で礼儀正しい人でした」
「よぅし、そんなら龍馬はずぼらでちゃらんぽらんな奴だったということにしよう。そこにかえって魅力があるというような」
 海舟は笑った。
「武市はおれは会ったことがないが、なんでも頑固で意見を変えない奴だったそうだな。坂本龍馬はその逆だ。そうだ、おれんとこへ斬り込みにきて、そこで意見をころっと変えて開国論になっちまったことにすると面白いぜ」

「むろん、坂本龍馬は、薩長がやったと言われている偉業を、じつはひとりで成し遂げた、ということにするんだ」
 海舟は宣言した。佐佐木と田中は目を輝かせた。
「いいですな。たとえば薩長同盟なんかも」
「うん、坂本龍馬が西郷と木戸を説得したことにするんだ」
「それから大政奉還も」
「ありゃ、坂本龍馬が土佐の後藤象二郎を動かして慶喜公に提出したわけだ」
「ついでに五箇条の御誓文も、坂本龍馬が書いたことにしましょう」
 佐佐木高行はぼそりと言った。五箇条の御誓文を起草した土佐の福岡孝悌とは、司法省時代に喧嘩して仲が悪かったのである。

「おい顕助(田中光顕の旧名)、おまえの師匠の中岡慎太郎、あいつのやってた陸軍の隊、なんて名前だったっけな」
「陸援隊、でしたな」
「ようし決まった。竜馬の隊は海援隊という名前にしよう。中岡が陸軍だから竜馬は海軍だ。船を使って貿易もやってたことにしよう。それで」
 海舟はにやりと笑った。
「竜馬が死んだあとの海援隊を引き継いで、弥太郎が三菱をおこしたことにするんだ」
「なるほど、三菱の手柄を奪うわけですな。そして福沢も」
 田中光顕も、にやりと笑った。
 岩崎弥太郎が創始した三菱は、このころ福沢諭吉の慶應義塾と密着していた。
 慶應義塾を出て三菱に入社する、それが財界のエリートコースだった。
 もともと勝海舟と福沢諭吉は同じ幕臣の出身だが、口もきかない犬猿の仲となっていた。
 その理由はいろいろあるが、福沢は新時代の思想家として政財界でもてはやされている、それなのに自分は棚上げされている、という海舟の嫉妬が根本にある。
 海舟は岩崎弥太郎の三菱の功績を奪うことによって、同時に福沢諭吉へもダメージを与えることを狙ったのだ。

 こうして土佐の生んだ維新の英雄、坂本龍馬のイメージは、あっという間に社会に広まった。
 威張りくさった薩長の高官や三菱に代表される成り上がりの富豪に対する、強烈なアンチテーゼ。薩長の連中が神と崇める西郷、大久保、木戸よりも、さらに一枚も二枚も上の人物。栄光も富貴も求めないその無私。おまけにずぼらで不精で、庶民にもなんとなく親しみがもてる人柄。同じように清貧だが、真面目すぎてどうにも親しめない吉田松陰などとは正反対である。
 薩長嫌いの人間たちによって、坂本龍馬の事績は、逸話は、つぎつぎに語られていくのであった。

 曰く。坂本龍馬はかつて千葉周作の北辰一刀流の免許皆伝をうけ、塾頭にまでなった剣豪だった。千葉の北辰一刀流、斉藤の神道無念流の対抗戦のさい、坂本龍馬と木戸孝允はともに大将として戦った。すばしこい身動きでみみっちく小技を稼ぐ木戸に対し、坂本龍馬は一歩も動かず泰然として、やがて凄まじい気合いと共に突きを一本。これをまともに食らった木戸は道場の端まで突き飛ばされ、ぶざまにも失神したという。

 曰く。薩長同盟の土壇場で、西郷と木戸が些細なことからつむじを曲げて、同盟は破談になりそうになった。そのとき坂本龍馬は、西郷と木戸を呼びつけて、「ご両所、日本の将来が危ういというのに、薩摩だの長州だのちまちました料簡でこの同盟を壊すというなら、この場でご両所を斬ってわしも腹を斬る!」と怒鳴った。この一喝に西郷と木戸は平伏し、その場で薩長同盟の盟約が交わされたという。

 曰く。大政奉還が成って明治新政府が設立される際、坂本龍馬が新政府の草案を書いて西郷隆盛に渡した。薩摩、西郷隆盛、大久保利通。長州、木戸孝允、伊藤博文。土佐、板垣退助、後藤象二郎。肥前、江藤新平、大隈重信……最後まで読んでも坂本龍馬の名がない。「おはんの名前がないようじゃが……」といぶかる西郷に、坂本龍馬はさらりと、「わしはちまちました日本の役人になる気はない。海援隊の船に乗って、世界へゆくんだ」

「うけましたな」
「おれも龍馬の話がこんなに受けるとは思わなんだ」
 氷川の海舟書屋にて。またも田中光顕、佐佐木高行のふたりを相手に、勝海舟は上機嫌である。
「みな薩長を嫌っておりますからな。薩長の連中を笑い飛ばす坂本龍馬こそ、今の英雄です」
「そういえば先日、行友なんとかいう物書きが来ておった。なんでも幕末の芝居をやりたいので、名前は武市半平太をもじって、性格は坂本龍馬でいきたいとか」
「まさに今黄門、今佐助といったところですかな」
「それはいいな。いっそ坂本龍馬漫遊記でもやるか。助さんこと陸奥陽之助と、覚さんこと菅野覚兵衛をお供につれて、全国で草莽の志士を助け、悪代官を挫き」
「いや、それはちょっとやりすぎかと」

「ところでな」
 海舟は声をひそめ、ふたりに囁いた。
「おぬしらふたり、宮中には顔が広いだろ。そこでだ。なんとか天皇陛下か皇后陛下が、坂本龍馬を夢に見た、って噂をひろめてくれねえか。これでまたぱっと評判になるぜ」
「面白そうですな」

 海舟のこの陰謀はのち、日露戦争のさなかに実現した。
 バルチック艦隊がどのルートを通って日本海にやってくるか、日本海軍は捕捉できず、朝野あげてこの話題に終始していた。
 皇后陛下もバルチック艦隊について思い悩んだあげく、ある夜夢を見たという。
 長身蓬髪の白衣の武士がうやうやしく頭を下げ、夢の中で皇后陛下に言ったという。
「私は土佐藩でかつて陛下のために多少の働きのあった坂本龍馬と申します。露艦隊のこと、心配するに及ばぬと存じます」
 皇后陛下はこの夢を宮内大臣だった田中光顕に告げた。田中が坂本龍馬の写真を皇后陛下に見せたところ、「確かにこの人だ」ということになって俄に評判となり、坂本龍馬の名はまた全国に響きわたったという。
 むろん夢のことは、それまで田中光顕や佐佐木高行など陛下側近がそれとなく話題にしていたことが夢となったものに過ぎない。写真は、皇后陛下の話を聞いて、それらしい人物の写真を見つくろって持っていったものだ。
 もっともこの時には、勝海舟はすでにこの世にいなかった。

 明治三十二年一月十九日、勝麟太郎安芳号海舟、伯爵、正二位、逝去。
 その死の五日前、床についた海舟を見舞った雑誌記者、巖本善治が、いちどだけ訊ねたことがある。
「先生、最後にひとつだけ、お伺いしたいことがございます。先生のおっしゃる坂本龍馬とは、本当に実在した人間なのでしょうか」
 疲労のため終始瞑目していた海舟だったが、このときだけにやりと笑い、巖本に顔を向けて言ってのけた。
「当たり前さ。坂本龍馬……あんなに面白い男はいなかったよ」


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