早すぎた同人作家

 いま、漫画同人誌の世界では、制作費数百円程度の薄っぺらいフルカラー本に千円以上の定価をつけ、コミケットや同人誌委託販売店、通信販売などで千部単位で売りさばき、年間に1千万以上の収入を得ている同人誌作家が数十人はいるという。彼ら(彼女ら)は商業誌から声がかかっても、自由に描けて収入も多い同人誌を選び、プロデビューはしない。
 また冨樫義博のように、かつて少年ジャンプの看板作家でありながらも、同人誌に仕事の比重を移していき、商業誌での仕事は主に休載、という作家も存在する。
 彼ら(彼女ら)は現代はじめて現れた存在ではない。商業出版社からの出版社を拒み、自費出版に賭けたひとりの作家、島崎藤村が明治時代にいた。

 藤村ははじめ詩人として出発した。明治30年に「若菜集」を春陽堂から出版し、詩壇の注目をあびる。その後、「若葉集」「一葉舟」「夏草」を春陽堂から出版し、浪漫派詩人としての地位を確立する。
 しかし明治時代の小説家が生活に苦しむ以上に、詩人の生活は苦しかった。当時、詩が商業誌に掲載されても原稿料が支払われるのは稀で、藤村が雑誌社に原稿料を請求に行くと、「え、原稿料いるんですか?」などと言われることも多かったという。しかも当時、印税契約をしているのは鴎外など特別な作家のみで、藤村の詩は買い取り、いちど売ったら何千部売れても詩人の懐には一文も入らない。

 いくら名ばかり高くなっても、詩では食えないと悟った藤村は小説家への転身をはかるが、彼には詩人時代の、苦い想い出があった。
 のちに藤村の息子翁助が書いたものによると、

日本橋にあった春陽堂の店なども、旧い暖簾の奥深く、番頭さんや小僧さんが前だれをかけてきちんと坐り、奥の間に通されるのは流行作者だけだったという。泉鏡花氏などは自由に奥の間に通る作者の一人だったという。父は詩の草稿をたずさえ、この店先へ腰を降ろす度に、暖簾の奥に秘められた作者と出版元との封建的つながりを嘆じ、旧弊な戯作者の立場から一歩も出ていない小説作者の前進を思えば、身を挺してでも革新の風をもたらしたいと願う心持が「破戒」の自費出版の形となって現れたものだという。

 さらに藤村には屈辱と感じたことがあった。
 処女詩集「若菜集」を春陽堂から出版する際に、広告文も自分で書くように求められたのだ。
 それまで広告文は出版社か、少なくとも他の人間が書くものと思っていた藤村は断るが、春陽堂の番頭は、
「皆様そうして頂いております。どうして先生方の中には、本文よりも広告文の方に骨を折ってくださる方もおります」
 と、微笑しながら言い放ったのだ。これを藤村は、出版社から作者への嘲笑と感じた。

 これら藤村が屈辱と感じたことは、当時の文人なら、漱石や鴎外など極一部の例外を除き、誰でも経験したことである。
 しかし藤村は山国出身特有の、よく言えば粘り強い、悪く言えば執念深い性質だった。
 これらの屈辱を胸に秘め、小説のデビューはどこの出版社の世話にもなるまい、自分で作って自分で売ってやる、と決意したのだ。
 有名詩人島崎藤村が処女小説「破戒」を執筆しているという噂を聞きつけた金尾文淵堂の主人は、例によって「ゲンコウイタダキタシ」の電報を送ったが、藤村は黙殺した。

 藤村は出版費用の金策に走り回った。ときあたかも、日露戦争の真っ最中である。
 津軽沖にロシアの潜航艇が出没して商船を沈めているという噂におびえつつも、函館に渡り、妻、冬子の父親で、網問屋を営む秦慶治から400円の借金をする。
 さらに雪道を草鞋がけで歩き、小諸義塾で親友となった佐久の地主、神津猛に400円の借金を申込むが、神津も咄嗟のことなのですぐには融通できず、とりあえず手元にあった150円を借りる。のち、さらに60円を借りる。
 この610円を元手として、藤村は「破戒」の自費出版に乗り出す。

 明治39年、藤村ブランドの「緑蔭叢書」第一篇として自費出版された「破戒」は、漱石や抱月に絶賛され、たちまち初版1,500部を完売した。2年後には第5版も残500部を数えるようになったから、1版1,000部として5,000部となる。定価70銭だから、3,500円が藤村の収入になったことになる。
 これだけ見ると藤村自費出版で大儲けのようだが――実際、嵐山光三郎や坪内祐三はそう思っているらしいが(余談だが、坪内のこの発言があった「週刊SPA!」に掲載された坪内と福田和也の対談「文壇アウトローズ世相放談」には、尾崎紅葉の死後の家族貧窮など、事実誤認が多い)――、どうもそうはうまくいかなかったようである。
 その証拠に「破戒」出版の1年ほど後、藤村はまたも神津猛に借金申込みの手紙を出している。大意は「『破戒』の5版は500部を残すのみとなったが、この売上だけでは、次の小説『春』が完成するための生活費にはとうてい足りない。なんとか200円貸してもらえないだろうか。でないと家族が飢え、『春』の執筆もおぼつかない」というものだった。
 これに対して太っ腹な神津猛は、言われるままに200円を藤村に渡す。
 どうやら自費出版は、藤村のプライドを守ることはできたが、金銭的には成功とはいえなかったようだ。

 ちなみに神津猛はこのときも含め、藤村のパリ生活費など、トータルで1,080円を藤村に貸しているが、返ってきたのは660円だったという。そのうち400円は、昭和2年に返済された。神津猛が頭取を勤める滋賀銀行が、金融恐慌にまきこまれて倒産。神津は家財もなげうって貧窮しているという話を聞き、もはや文豪となって金に困らぬようになった藤村が至急送ったものである。友情物語と言うべきか。

 小川菊松は「出版興亡五十年」のなかで、藤村の自費出版をこう評している。
「出版屋との利益をヌキにして、ご自分の実収を多くしようとせられたのであったら、これは決して、賢明の策ではなかったと思うのである」
 やはり餅は餅屋。「破戒」くらいの傑作だったら、しかるべき書店に預ければ、大々的な宣伝もするだろうし、販売策も考え、もっと売れたはずだという。さらに単発の自費出版のため、継続的に集金する出版社と違って、集金率は低かっただろう、というのだ。
 当時はコミックマーケットのような、同人誌作品の宣伝と販売を兼ね備えた便利な展示会などなかった。これが藤村の不幸であった。

 のち藤村は、大正2年にフランスへ洋行するとき、緑蔭叢書の「破戒」「春」「家(上巻、下巻)」「微風」「後の新片町より」計6冊の版権を2,000円で新潮社に売却する。詩集の版権は春陽堂に50円で売却する。春陽堂の買い取り価格があまりに安いように思うが、「若菜集」など初期の詩集は既に買い取りで版権が春陽堂にあったのだろう。
 大正5年に帰国したとき、新潮社はその版権を藤村に返却したらしい。これについて瀬沼茂樹は、「評伝島崎藤村」の中で、「新潮社は帰朝後、藤村に版権を返却して私することがなかった。同じ出版社でも、春陽堂の態度と異なるところである」と、春陽堂にイヤミを書いている。どうも藤村研究をしていると、藤村の執念深さが研究者にも憑依するらしい。
 藤村本人も、大正6年ごろ田中宇一郎に、「いくら売り払ったにしろ、増版の場合に、幾部か本を著者に贈るだけでもしてくれないものかね」と春陽堂に不満を漏らしている。
 島崎藤村のような執念深い人間に、根に持たれてしまったことが、春陽堂の不幸であった。


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