明治一多作家伝

 尾崎紅葉から一足飛びに夏目漱石まで行ってしまったが、紅葉と漱石の間には、さまざまな出来事があった。
 紅葉の死後、硯友社は解体する。もともと主義主張で集まったわけではなく、仲良しクラブ的団体だったから、親分の死と共に解散することは宿命だった。
 かつて「風流仏」「五重塔」などで人気作家となり、明治30年代前半、紅葉と並んで「紅露時代」とまで呼ばれた幸田露伴は、だんだんと書く内容が難解になって読者を置き去りにするようになる。明治38年に出版した詩集「出廬」は特に難解で有名で、当時の高校生は寮の食事でよく出る、なんだかわからない材料のごった煮のことを「出廬煮」と呼んでいた。30年代後半には小説の筆を折り、その後は博覧強記の随筆家として名が知られる。斎藤茂吉が露伴をへこませてやろうと、万葉集のある歌について下調べをして行ってガリ勉の結果を披露すると、黙って聞いていた露伴がその作者の人生について詳しく講義したエピソードは有名である。
 紅露時代のあとには、自然主義全盛時代が来る。硯友社出身の徳田秋声と川上眉山、入社希望者だった田山花袋、小諸で学校の先生をしていた島崎藤村、それに天下の奇人岩野泡鳴などが中心となって始めた「ものごとをあるがままに書く、心の真実を赤裸々に告白する」自然主義小説は文壇を席捲した。ときの京大文学部教授、上田敏は「文学は不良少年どもの手に落ちました」と嘆息する。
 森鴎外は明治30年代には小倉に左遷されたり、また東京に呼び戻されて日露戦争の準備をしたりなどで、小説を書く暇がほとんどなかった。

 ここでは文学史についてふれるわけではないし、筆者にその資格もないので、その辺はあっさり流すとして、紅葉と漱石の間に存在した、春陽堂と関係の深い、あまり知られていない作家について書く。
 高木健夫「新聞小説史 明治篇」によると、明治時代の小説発表篇数ベスト5は、1位江見水蔭618編、2位徳田秋声216編、3位広津柳郎183編、4位小栗風葉173編、5位渡辺霞亭169編とある。あまり知られていない名前が並んでいるのは、徳田秋声以外はいわゆる通俗作家、大衆小説家で、文学史に名前が残りにくいからだ。それにしても、2位をトリプルスコアでぶっちぎっている江見水蔭は凄い。

 江見水蔭は岡山生まれで硯友社出身。もともと杉浦重剛の塾に通っていたが、杉浦先生に「こういうのは江見も好きそうだから」と我楽多文庫を見せられた縁で硯友社に入社する。それ以前にも明治20年、弱冠19で「日本文学雑誌」に「賤のふせや」でデビューし「日本之女学」にも「桜かな」という小説を連載していたから、商業誌デビューでは尾崎紅葉よりも先輩になる。
 硯友社の面々は尾崎紅葉を筆頭に、洋書を読んで外国文学の研究に余念がなかったが、江見水蔭だけは和漢洋いずれの本も読まずと自分で断言している。その理由として、ひとりくらい無学の作家がいてもいいではないか、無学でどこまでやれるか実験してみるつもりだったと書いている。
 硯友社ではしばらく芽が出なかったが、だんだんと金港堂の「都の花」、春陽堂の「新小説」に掲載されるようになり、紅葉が読売新聞に入社した際には、石橋思案、巌谷小波、川上眉山とともに読売新聞社社友となり、「読売四天王」と呼ばれた。同時期、報知新聞にはのちに書く村上浪六が村井弦斎、遅塚麗水、原抱一庵とともに「報知四天王」と呼ばれていた。このころはいわゆる文学的な作品を読売新聞に掲載、大衆むけの時代小説を「中央新聞」に連載するという使い分けをしていた。
 春陽堂の和田篤太郎社長からは「小説がくだらない」「雑誌に載せるレベルではない」とたびたび怒られていたらしく、その場ではシュンとしているが、会社から出ると「あの髭に文学がわかるもんか」と陰口を叩くのがいつものことだったという。
 水蔭は「自己中心的明治文壇史」という本に金銭的な細かい記録を残していて、後世の人間にとってはありがたい。それによると明治23年、「流行作家が濫作している」と批判された水蔭でも原稿料が1枚25銭。年間収入が117円で、母子の暮らしが成り立たなかったという。実家から80円借りて、ようやく生活していた。
 明治27年には中央新聞社に入社。読売新聞でないのは、紅葉から離れて自立したかったためだろうか。意匠部に所属し、出社は隔日、その代わり新聞小説を書くという条件で月俸20円。のち「日清戦争談」が大人気になって50円に昇給。この年の年収は519円。このころ春陽堂主人和田篤太郎に「いまに紅葉の時代は去り、俺の時代が来る」と豪語。
 水蔭の最盛期は明治28年。代表作とされる「女房殺し」もこの年の作品である。この年の年間収入は803円64銭で、もっとも稼いでいた文士のひとりだった。なのに生活が苦しかったのは、これは女遊び、茶屋遊びの放蕩のためで、尾崎紅葉からも再三「生活を改めるように」と面と向かって忠告されたり、手紙が届いたりしている。
 それでも生活が改まらなかったらしく、翌年の明治29年、中央新聞社から「爾後出社に及ばず」とクビにされている。理由はサボリ。隔日すら出勤しなかったらしい。やむなく紅葉に泣きついて読売新聞社に入社。年に6ヶ月分の新聞小説を書いて送れば出社しなくてもいいという条件で月俸30円。しかし翌年の明治30年には小説の不人気のためクビになる。
 明治31年には神戸新聞社から破格の月俸100円という条件を提示され飛びついたが、これは実際に新聞紙面の編集まで含めた仕事で、しかも編集助手の給料は月俸からの自腹で払うという条件。しかもすぐに月俸80円に減額される。たまりかねて明治33年には逃げだし、春陽堂のライバル、博文館に就職。明治40年には二六新聞に転職と、就職先を転々としている。このころから文学的小説を諦め、大衆小説専門になる。
 のち考古学に興味を持ち、考古学知識を援用したSF小説「考古小説 三千年前」などを発表。「少年世界」「探検世界」等の主筆を勤めたりしながら明治大正昭和の三代を生き抜き、昭和9年に没する。

 江見水蔭に比べると村上浪六はベスト5に入っていないが、これは書いた物のほとんどが新聞連載の長編小説だったためで、明治期に出した本は69冊。大正でも35冊、昭和にも14冊と、こちらも三代にわたって書きまくった多作家だった。
 書いたのはほとんど時代小説で、代表作は「原田甲斐」という、歌舞伎「伽羅先代萩」などで悪人として書かれている原田甲斐が、実は伊達藩のことを思いやる忠臣だったという、山本周五郎「樅ノ木は残った」のネタ本のような作品。
 村上浪六という人は新聞社の校正をやっていて見出され、処女作を春陽堂から出版する条件として「当時の最高額の3倍の原稿料をよこせ」とほざいて和田篤太郎を唖然とさせたエピソードしか最初知らなかった。たかが校正係が偉そうにと思ったが、調べてみるとこの人、凄い経歴である。
 村上浪六は慶応元年、大阪は堺の生まれ。幼年時代から札付きの悪ガキで、暴力行為のためたびたび退学させられ、小学校を転々とする。しかし学業は優秀で、明治14年、堺県知事(当時、河内、和泉、大和は堺県に属した)の税所篤に認められ上京。税所と同じ薩摩出身の吉井友実・高崎五六など政府高官の書生となる。
 そのままおとなしくしていれば高級官僚への就職は間違いないところだったが、何を思ったか明治16年、面白半分に岡山の警察に傭として就職。警察の傭は通常月俸2円40銭、警部の月俸20円の時代に、なんと24円の高給だったというから、政府高官のお声がかりなのは間違いない。
 明治17年、警察の仕事に飽きて辞職し、再上京。政府高官のお声がかりで農商務省に勤めるがすぐ辞職。どういうわけか故郷の堺に戻り、相場師になって大儲け。その金で2年間遊んで暮らす。
 明治19年、金が尽きたので上京するが、贅沢な生活が祟って脚気になりまた堺へ帰郷。明治21年、脚気も完治し、また相場を張るが今度は失敗。朝鮮に渡ろうと策すが果たせず。金が尽きたので明治23年に上京し、報知新聞の校正係となる。月給5円。翌年の明治24年、報知の編集長、森田思軒に見出され「三日月」でデビュー。

 以上の経歴からもわかるように、浪六はただの校正ではなかった。報知新聞の校正なんて、当座の小遣い稼ぎにやっていた腰掛けの仕事にすぎなかったのである。いままで知事・大臣クラスと接していた浪六の目からすれば、春陽堂主人といえども吹けば飛ぶよな小商人にすぎなかったのだろう。だからこそ、かような大口を叩けたのだ。
 その大口通り、小説は大人気、たちまち春陽堂のドル箱作家となる。ところが明治28年、「海賊」を春陽堂と青木嵩山堂に二重売りするという事件を起こし、春陽堂から絶縁処分される。そのため、昭和2年に出た「浪六全集」にも、春陽堂から出した初期の作品は収録していない。
 春陽堂に絶縁された浪六は出版社を青木嵩山堂、やがて駸々堂、至誠堂に移すが、大正12年には「時代相」という小説を自ら版元となって出版し、至誠堂と明文館から発売させ、売上の多い方に縮冊版(いまの文庫本のようなもの)の権利を与えるという破天荒な試みを打ち出す。
 大正10年頃からあとは、「講談倶楽部」に主に執筆。当時、講談社という会社は、現在でいうライトノベル並に文壇からは蔑視されていた。明治20年代に活躍した須藤南翠も大正に入ると「講談倶楽部」への執筆が多くなり、知人から「『講談倶楽部』にだけは書かないでください。沽券に関わりますよ」と忠告され、「でも、あそこだと大きな広告で、巻頭に載せてくれるんでね」と淋しく笑っていたという。しかしその講談社でも浪六は、「菊池寛以下の稿料では書かない」と駄々をこねた。
 昭和19年、下痢がもとで老衰死。
 息子の村上信彦によると、浪六は維新という大バクチで勝った薩摩の政治家の影響を受けすぎ、地道な努力が大嫌い、冒険的な大バクチが大好きで常識無視。相場、新聞発行、映画館経営、家主、ウナギ養殖などさまざまな事業に手を出してほとんど失敗した。女性関係は息子の自分でもわからないほどで、死後、少なくとも3人の妾が遺産争いを繰り広げた。浪六には自伝「我五十年」があるが、「彼の筆はたやすく事実を曲げる」とのことで、書いていることに創作が多すぎ資料としては使えないとか。

 最後に自然主義派のひとり、岩野泡鳴について書きたい。
 彼の小説はめちゃくちゃ面白い。自然主義というと田山花袋「布団」とか島崎藤村「新生」など、暗い辛気くさい陰気な告白ものばかりだと思って読むと、ある意味裏切られる。泡鳴の小説はたとえるなら、町田康の小説の登場人物が現実に存在して、自分の珍妙な行動をそのまま、私小説に書いたようなものだ。おまけに「手めぇマイナス気違いイクォル死だ」などという捨て台詞がすばらしい。
 泡鳴は兵庫県淡路島の生まれ。明治学院を1年で中退後、就職に困っていると、仙台神学校で欠員あり、募集中と友人から聞く。なけなしの金をはたいて仙台へ行き、校長に会うと、欠員は教師ではなく、生徒だったことが判明。帰りの汽車賃のない泡鳴はしかたなく、生徒として英語を学ぶ。学費をどうやって払ったのかは定かではない。
 その後大倉商業高校で念願の英語教師になり、月給25円を貰う。年上の女房を娶って子供も作るが、そんな中でも馴染みの田舎芸者を東京で女優デビューさせようと画策してみごとに失敗、芸者からも振られるという結末に終わる。これをほぼ事実通りに書いた「耽溺」を春陽堂の「新小説」に発表。これが認められ、文壇にデビュー。「発展」「毒薬を飲む女」などを書き、子供の死に「死んじまったもんなんか、掃きだめにでも放り捨てればいい」などと放言して、すすり泣く女房を見捨てる。
 やがて「小説では儲からない」と考えて樺太で缶詰工場の経営を思い立ち、女房や妾をうっちゃって単身来道。当たり前のように大失敗して一文無しとなり、友人宅に居候する。演説会で伊藤博文のことを語るが、だんだん熱が入るにつれ声が大きくなり、「俺が宇宙の帝王だ。否、宇宙そのものだ」と絶叫して爆笑され、激怒して会場を飛び出す。そのため発狂したという噂が流れ、妾が心配半分、移された性病の治療代請求半分で北海道にやってくる。金も将来もない同士、自殺を試みるが失敗。ようやく金をかき集め、妾を仙台に置き去りにして自分だけ東京に戻り、体験談を「放浪」「断橋」「憑き物」に書く。「発展」から「憑き物」までを泡鳴5部作といい、代表作とされている。
 北海道から零落して戻ってきた直後、正宗白鳥宅を訪問、いきなり「とりあえず原稿を売ることと、女を手に入れることを考えているんだが、原稿はいいとして、女はひとりが蕎麦屋の娘、ひとりは教育のある女だが、どっちにしようか迷っている」と言い放って白鳥を驚かせる。やがて「教育のある女」こと女性運動家の清子女史と結婚。清子は結婚の条件としてセックスレスを持ち出すが、泡鳴がそんなものに縛られるわけがない。新居には前妻と妾も押しかけてきて慰謝料を請求するが、そんなことを気にする二人ではない。
 再婚後、大阪の池田に住むが、ここで養蜂業を営もうとして例のごとく失敗。ここらで清子夫人も愛想を尽かしたか、哲学者田中玉堂といい仲になる。激怒した泡鳴は、探偵まで頼んで2人を尾行したあげく、「汝薄のろの哲学者よ、兎角汝は人の亭主の留守を狙いたがる」と誌上でタンカを切る。さらにその後、今度は泡鳴が筆記者の蒲原英枝と同棲し、「姦夫姦婦」と新聞ネタにされる。清子は当然ながら激怒して同居請求を提出、泡鳴も負けじと離婚承諾請求を提出、法廷闘争となるが、泡鳴は敗訴。しかし、持ち前のムチャクチャな行動力を発揮し、家から家財道具一式を持ち出して新聞種にされたりの大騒ぎを起こす。
 晩年は半獣的神秘主義、刹那主義、日本主義を標榜して「日本主義」という雑誌を創刊するが、自分勝手でおまけに薄っぺらい知識に基づいた議論ばかりなので、ほとんど売れなかったという。このころの代表作とされる「征服被征服」は春陽堂から出版され、徳田秋声、正宗白鳥、野口米次郎、西条八十、岡本かの子など60余名を集めて出版記念会が催されている。
 この人も多作というかとにかく書きまくった人で、それも依頼されて書くことはほとんどなく、新聞雑誌社への持ち込みだった。正宗白鳥は「泡鳴全集は全18巻出ているが、47で早逝しなければ50巻100巻を数えただろう。また、書いて持ち込んだが採用されず、活字になっていない文章はこの3倍はあるのではなかろうか」と書いている。
 とにかく一生、自分を反省することなく、自分が正しいと信じ込んでいた人だった。こういう小説家も珍しい。


戻る