第三勢力出現

 えっと、お久しぶりです。
 まあ前回からいろいろと、怠けていたというか、まあ、やりたくないことはやりたくねえんだよゴルァとか、中絶していていろいろとすみません。いや別に妊娠したわけじゃなくて、投げ出したというか、あ、いえ、堕ろしたとかそんなんじゃありません私はやってません。
 ちょっとブランクが永井ので、あ、なんか今の誤変換気に入っちゃったからそのままにしとくけど、ブランクが長いので以前と同じような文章が書けるか心配、てゆーか、脳の治療とかしてるし、あ、いえたいしたことじゃありません。手術もまだやってません。入院もしてません。ベッドが一杯だって断られただけなんですけど、ガガガガガ、いや大丈夫です。先生も大丈夫治る可能性はあると言ってました。なんかいろいろ薬とか飲んで、ずっと家族に監視されてて、変な言動とかあったらすぐここに電話しろとか救急医療センターの電話番号教えてもらったらしいのですが、僕には教えてくれないチクショウ。あ、いや、大丈夫だから。藤川選手がホームラン打ったらボクも手術受けるって約束したし。ギギギ。

 余談ですが、尾崎紅葉率いる硯友社がそのまま日本文壇を制圧するかというと、バカが多い明治時代でもそうは問屋が卸さない。そういえば春陽堂も大正時代頃まではまだ書籍取次が小さかったので地方には春陽堂から直接発送していたそうです。だいたい尾崎紅葉という名前がダメだろ。学校で教えてなかったら十人中九人は「もみじ」と読むぞ(残り一人はえはと読んだおバカ)。吉原のソープ嬢の源氏名かよ。紅葉ちゃんと楓ちゃんと松葉ちゃんがいたら俺は躊躇なく楓ちゃんを選ぶね。松葉ちゃんはなんか剛毛そうでイヤ。そういえばふと思ったのだが、明治文豪を美少女にして萌え文学史ゲームを作ったら需要あるだろうか。眼鏡少女の逍遙ちゃんとか、体育会系ずん胴の紅葉ちゃんとか、ちょっと裏でなにか企んでいそうな美妙ちゃんとか、病弱できゃしゃな一葉ちゃんとか、毒舌ツンデレの緑雨ちゃんとか、巫女さんキャラで悟ったような露伴ちゃんとか、やたらに喧嘩っ早い不良の鴎外ちゃんとか、ちょっとメンヘルで癪の持病もある漱石ちゃんとか。しかしそもそも尾崎紅葉に文学を教えた坪内逍遙もダメだ。筆名が春廼屋おぼろってコンブかよお前は。藻類かよてめえは。そんな名前だから芸者の嫁にふにゃふにゃにされちゃうんだよ。コンブ野郎は早稲田大学なんか辞めて、沈んでろ。一生オホーツク海に沈んでクリオネとゆらゆらしてろ。さもなくばウミヘビと一緒に沖縄料理のダシになっちゃえばいいんだ。

 話は脇にそれるが、尾崎紅葉と硯友社には恐るべき獅子身中の虫がいた。山田美妙である。
 前回も書いたようにプロデビューは紅葉よりも美妙の方が早かった。明治二十一年八月、「夏木立」を金港堂という出版社から出している。しかも「嘲戒小説天狗」という小説は、日本初の言文一致体小説という栄誉を受けるに至っている。このような若い才能を放っておく手はない。金港堂はすぐさま、新しく出す小説雑誌「都の花」の実質編集長として山田美妙を招聘し、自信満々の山田美妙はそれを受けた。かくして山田美妙は硯友社の「我楽多文庫」に寄稿しなくなり、尾崎紅葉や硯友社とも疎遠になっていったのである。

 金港堂とはどのような出版社か。
 創業者の原亮三郎は嘉永元年の生まれ、春陽堂の和田篤太郎より九歳の年長である。美濃の庄屋の出というから、郷里も和田篤太郎とそんなに離れていない。明治五年に上京、翌年神奈川県の史生に任用され、主に教育畑で学区取締などを歴任した。このとき人脈を作ったのだろう、明治八年には神奈川県の小学教科書の一手販売権を手に入れ、官を辞して金港堂を設立。その後も関東一帯の小学教科書出版をほぼ独占し、十万円を超える資産家となった。博文館も春陽堂もそこまでの資産はない。
 この余勢を駆って乗り出したのが他分野への進出である。明治二十一年、まず新進気鋭の山田美妙を迎えて小説雑誌「都の花」を、文化教育雑誌「文」を創刊する。これが当たった。「都の花」の第一号は二千五百部完売したそうだから、
 この破竹の勢いには春陽堂もたまらず、「都の花」の対抗馬として「新小説」という小説雑誌を創刊するのだが、ほとんど売れずにわずか一年で廃刊。
 「都の花」は山田美妙、二葉亭四迷、幸田露伴、樋口一葉など錚々たる執筆陣を抱えて順調に見えたのだが、明治二十二年、実質編集長の山田美妙がスキャンダルに巻き込まれる。「国民の友」に掲載した「胡蝶」という作品の挿絵が裸婦を描いており、風俗紊乱だと問題になったのである。本来なら挿絵の問題で、山田美妙はまったく関係ないのだが、それまでの態度が他文士、特に硯友社の反感を買っていたこともあり、山田美妙も巻き込まれてしまった。
 これが関係したのかしなかったのかはよくわからないが、明治二十五年ごろからだんだんと雑誌の内容がマンネリ化して売上が減少。すると翌二十六年にはあっさり廃刊。以降、金港堂は文芸出版から手を引き、もとの教科書専業に戻った。

 山田美妙と金港堂には、そのあとさらに悲惨な末路が待っていた。
 山田美妙は「都の花」廃刊前後に国民新聞に移籍、そこで小説を発表していたが、浅草の魔窟を舞台に小説を書こうとして取材しているうち、そこの売春婦と深い仲になり、それを「万朝報」で報道された。このとき、「女とつきあっていたのは小説を書くための取材で、別に愛しているわけではない」などと弁解したのがかえって火に油を注ぎ、「早稲田文学」でコンブヤロウ、いや坪内逍遙に「不義者」と罵られる。この事件をネタにしてのちに小説化したのが菊池寛の「藤十郎の恋」という噂がある。
 その後、美妙は弟子の女流小説家・田沢稲舟と結婚するが、嫁姑の折り合いが悪くてやがて離婚。稲舟は服毒自殺する。これも「美妙が殺したのだ」という噂が立ち、ついに山田美妙は完全に文壇から失脚。辞典の編集などでほそぼそと暮らし、四十二歳で死去。

 金港堂は教科書一本に戻って堅調に業績をあげてきたが、何を思ったかふたたび他分野参入を企て、明治三十五年に「教育界」「少年界」「少女界」「青年界」「婦人界」「文芸界」「軍事界」の七大雑誌を同時創刊という暴挙をしでかす。
 また間の悪いことにこの年、「教科書疑獄」なるものが発覚し、金港堂が各県に当社の教科書を採用するよう賄賂を送っていた事実が発覚してしまう。これをきっかけに国定教科書制度が発足し、もはやホームグラウンドの教科書でも金港堂の独占はできなくなってしまった。
 こんな状態だから、他分野の雑誌などノンキに経営してる場合じゃない。明治四十四年には七大雑誌最後の「教育界」も廃刊し、かつての大出版社も凋落の一途を辿ってしまうのであった。


戻る