硯友社飛び出す

 さていよいよ硯友社は、明治十八年に結成された。結成当初のメンバーは、東京大学予備門の生徒。尾崎紅葉こと徳太郎、山田美妙こと武太郎、石橋思案こと助三郎。これに外国語学校付属高等商業学校の丸岡九華こと久之助を加えた四人である。三月に同人誌「我楽多文庫」を創刊。肉筆回覧誌だった。
 私はうっかりと大学予備門を長いこと予備校だと思っていたのだが、むろんれっきとした公立学校である。のちに旧制高校になったのだが、彼らをいまの高校生みたいに思うのも間違いだろう。十八で入学、四年間勉強して大学へ進むということだから、ちょうど今の大学の教養課程を四年に拡大したのが予備門、大学の専門課程と修士課程を一緒にしたようなものが大学、と考えるのが妥当だ。さらに大学予備門や大学の学生数は今の大学生よりはるかに少なく、ものすごく恵まれたエリートだった。だから予備門生徒というと、政治演説のひとつやふたつ、新知識の紹介のひとつやふたつあるのがあたりまえで、れっきとした大人、というよりすでに指導的人物として社会から認められた立場だった。
 やがて会員の増加とともに回覧が難しくなり、明治十九年十一月の第九号からは印刷し会員に配布するようになった。印刷は金玉出版。むろんきんぎょくと読み、きんたまと読んではならない。山田美妙が以前に新体詩をここから出版した縁から紹介したそうだ。のち印刷所は同益社に変わる。どんな出版社かは皆目知らない。
 このときの新規会員に巖谷小波こと季雄、川上眉山こと亮、などがいる。同年八月に山田丸岡尾崎の三人で「新体詩選」を印刷発売したこともあって、このころからぼつぼつ注目されるようになる。
 明治二十年十二月の十五号では、山田美妙が「花の筏茨の花」の中で文章の語尾を「……でした」「……でありました」とし、これに外国文学で使われる「――」「?」「!」などの記号も使用、言文一致体の小説として注目される。
 明治二十一年の五月には我楽多文庫の一般発売をはじめる。さらに石橋思案と尾崎紅葉は東京大学を退学、思案は我楽多文庫の編集に専念、紅葉は筆一本で立つことを決意する。
 この八月には山田美妙が「夏木立」という作品集を出版(金港堂)。すでに前年、読売新聞に「武蔵野」を連載して作家として認められていた美妙は、これで売れっ子作家となるが、それとともに硯友社から離れる。それ以降は主に金港堂という教科書会社が出版する「都の花」の実質的編集長として、また同誌の看板作家として活躍する。尾崎紅葉によると、このころ文庫の書店への持ち込みや地方への発送、販売の手間がかかりすぎることと、「都の花」に押されていたことで、一時停止状態があったそうだ。
 明治二十二年には尾崎紅葉が「色懺悔」を出版(吉岡書店)、これで作家としての地位を確立する。我楽多文庫の売れ行きも増大し、とても硯友社連中ではやりきれないため、二月の十六号より、印刷から販売までの業務をすべて吉岡書店に委託する。同年に紅葉が読売新聞に入社、文芸欄担当となる。同時に硯友社の石橋思案、巖谷小波、川上眉山、江見水蔭が社友となり「読売の四天王」と呼ばれる。尾崎紅葉の文名はますます高く、この年に「露団々」「風流仏」でデビューした幸田露伴とあわせて「紅露時代」と呼ばれるようになった。

 おおまかに硯友社が売れるまでの略歴を書いてみた。
 無名の学生がわずか二、三年であれほどまでに一世を風靡したというのは、前回に書いたように、だれもが新しい小説を待っていた、しかしまだどこにも新しい小説はなかった、そんな状況を考えに入れないと説明できない。
 ちなみに硯友社が誕生した明治十八年、そのほかの(のちの)明治文豪が何をしていたか。
 二葉亭四迷は「小説神髄」を読んで興奮していた東京外語学校の生徒だった。幸田露伴は北海道で電信技師をやっていた。森鴎外は医学修行のためドイツ留学していた。夏目漱石は大学予備門で腹膜を悪くしていた。正岡子規はまだ野球も俳句も知らない、哲学かぶれの予備門生徒だった。田山花袋は群馬の田舎で漢詩を勉強していた。国木田独歩は裁判所に勤める父親の異動について銚子や岩国あたりをうろうろしていた。島崎藤村は共立学校(のちの開成高校)で馬場孤蝶、平田禿木、長谷川如是閑と一緒に、はじめて見るキリスト教というものにおったまげていた。徳富蘆花は熊本で、そのキリスト教にかぶれていた。樋口一葉は私立青海学校を退学して早くも貧乏に苦しみはじめていた。二葉亭四迷を除き、まだブンガクにこころざす気配は見られなかった。
 硯友社が売れ出した明治二十一年現在をみても、四迷が「浮雲」で言文一致小説を書いているのみである。露伴は電信技師をやめて上京したばかりだった。鴎外はまだドイツにいた。漱石は腹膜のため落第していた。子規は俳句は吐いていたがまだ血は吐いてなかった。花袋は上京したばかりだった。独歩は東京専門学校(いまの早稲田大学)に入学したばかりだった。藤村は設立されたばかりの明治学院に入学したばかりだった。蘆花はよくわからないが、熊本で学校の先生をしていたか、兄貴のツテを頼って上京していたか。一葉はあいかわらず貧乏に苦しみながら、死んだばかりの兄ともうすぐ死にそうな父に心を痛めていた。作品を発表しているのは、二葉亭四迷だけだった。

 余談だが、明治作家のペンネームについて。
 作家のペンネームは、江戸時代からの伝統で、硬派軟派のふたつの流派があった。
 硬派は漢詩人の伝統。自分の本姓プラス雅号である。江戸文学でいうと井原西鶴、滝沢馬琴など。
 軟派は戯作者や落語家と同じで、師匠の屋号をうけつぎ、それに師匠から一字貰った名前をつける。為永春水、柳亭種彦のたぐいだ。中には師匠とはまったく関係なく、もじりでふざけた名前をこしらえることもある。滝亭鯉丈(鯉の滝のぼり)、阿気羅観江(あっけらかん)など。
 明治初期の戯作者たちは仮名垣魯文、柳亭種彦、二世為永春水など、みな軟派のペンネームだった。その作風をひきついだ新聞小説家たちは、ペンネームだけは須藤南翠、饗庭篁村と、硬派のものを選んだ。坪内雄造は戯作っぽい「当世書生気質」を書くときは春廼舎おぼろ、評論「小説神髄」を書くときは坪内逍遙と、硬軟のペンネームを使いわけていた。
 硯友社の作家は尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華、川上眉山、みな硬派のペンネームである。硯友社以降の作家も、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石など、ほとんどが硬派のペンネームを選んだ。本名そのままという選択肢は、この時代まだなかったようだ。
 唯一例外なのが二葉亭四迷である。「文学だと? 馬鹿野郎、くたばってしまえ!」と父親から罵られた文句をもじってつけたそのペンネームは、どうなんだろう、当時「ふざけてる」とか批判されなかったのだろうか。


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