硯友社前夜

 前回からながながとご無沙汰していたのは、私の怠惰のせいもあるが、話の成り行きからいって硯友社について語らなければならないのが原因でもある。
 なにしろ私は、硯友社のものをまったく読んだことがない。川上眉山、巖谷小波はおろか、尾崎紅葉の「金色夜叉」すら読んだことがない。わずかに読んだことがあるのは泉鏡花を数作だが、あれは硯友社そのものというより、硯友社残党というか、また別のものだろう。
 まあ、ここは硯友社の文学について語るところではなく、硯友社がいかに売れたか、社会に与えたインパクトについて語るのだと自分を納得させ、なんとか書いていこう。

 硯友社はいまではほとんど忘れられている。その総帥尾崎紅葉も「金色夜叉」でその名をとどめているだけで、それも私のように名前とあらすじだけ知ってるという人が多いのではないだろうか。川上眉山は太宰治の「眉山」という短編で名前だけ知ってる人が多いような気がする。巖谷小波は昔話を書いてた人、山田美妙は言文一致をはじめた人、広津柳浪は広津和郎のお父さんというくらいの認識で、あとの、石橋思案、江見水蔭などは名前すら知っている人が少ないのではないか。しかし彼らは当時、明治二十四年に東京新報が行った「明治十八文傑」に選ばれるほどの著名人であった。硯友社の総帥、尾崎紅葉は、「菊池寛以前、菊池寛以上の文壇の大御所」と呼ばれ、すべての新聞雑誌を牛耳り、紅葉が首を横に振ればどんな作品も日の目を見ない、と評判されたほどであった。
 なぜ硯友社がそこまで文壇を制圧できたか、ということを考えるためには、硯友社以前の文学界について見ていく必要がある。

 まず明治初年から十年までは、ほとんど新しい動きはない。
 物語の書き手は、江戸時代以来の古い伝統を引きずる戯作者であった。仮名垣魯文を筆頭に、柳亭種彦、二世為永春水などである。彼らはそれぞれ弟子をとり、仮名垣派、柳亭派、為永派などの流派を作って、昔ながらの人情本、読本、滑稽本などを書いていた。
 この中で特筆すべきは仮名垣魯文くらいか。魯文はジャーナリスティックなセンスがあり、新聞記者や新聞経営にも才能を発揮した。作者としても「西洋道中膝栗毛」「胡瓜遣」「安愚楽鍋」など、昔ながらの手法で新しい風俗を語る作品が評判を呼んだ。
 しかしなんといっても意識と手法の古さはどうしようもない。三人とも明治二十年から三十年代に死に、その後継者にはもはや活躍の場はなかった。

 戯作者たちの流れを一部引き継いだのが新聞小説家、須藤南翠と饗庭篁村である。これに明治二十年代のデビューながら、村上浪六を加えることができるかもしれない。
 南翠は改新新聞に籍を置き、政治小説から毒婦実録まで、そのときの読者の人気に応じてなんでも書く器用さが受けた。篁村は読売新聞。やや固めだが風刺や風俗描写にすぐれていた。坪内逍遙と交友があり、逍遙や門下の学生に教えてもらった外国小説のネタを翻案して評判を呼んだ。明治二十年までは、「改新の南翠、読売の篁村」の二大文豪と並び称された。
 彼らの共通点は下っ端からの叩き上げということ。南翠も篁村も新聞社に文選工として入社し、そこから認められて新聞に連載するようになった。浪六も校正出身である。
 しかしその出身のせいもあり、作品の内容もキワモノ的だったりエログロ色が強かったりして、どうしても彼らには、低俗という評価がつきまとっていた。

 明治十年代からもうひとつ、政治小説というジャンルが誕生した。
 西南戦争以降、自由民権運動が盛んになり、その主義主張や政府攻撃を、じかに小説化しようと試みたものである。さきの南翠をはじめ、矢野竜渓、末広鉄腸などが代表選手。多くは野党系の新聞に連載され、これまで小説など読まなかった壮士や政治学生にまで読者を広げることに成功した。
 しかし手法的には旧態依然で、主義主張が強すぎるだけに、かえって小説としては薄っぺらくなりがちなところがあった。

 もうひとつ、明治十年代から登場したのが海外小説の翻訳である。
 前出の篁村がポーの小説を翻案したのをはじめ、森田思軒はヴェルヌを、織田純一郎がリットン卿を、坪内逍遙がスコットやシェイクスピアを翻訳した。その他にもデュマ、ボッカチオ、イソップなどが紹介され、西洋の小説はこういうものだと世間に知らしめていた。しかし、そういう西洋の小説のようなものを日本でも、という悲願はまだ達成されていなかった。

 そんな中で明治十八年に登場したのが、坪内逍遙の「小説神髄」である。
 「小説神髄」で逍遙は西洋の小説を紹介し、これまでの日本文学、特に戯作者流の小説を批判し、これからの日本の小説は西洋のようになっていかねばならぬという指針を明確にした。
 しかし逍遙自身はその指針通りのものが書けなかった。「当世書生気質」は大評判になったが、やはり昔ながらの戯作を引きずっていた。逍遙は十代のころ、貸本屋に日参して、馬琴、三馬、一九、春水、種彦、種員などを読みふけっていたという。その影響からどうしても抜けられなかった。
 また逍遙自身、批評家としては優れているが創作者としてはいまいち、という、いわゆる眼高手低であった。逍遙自身、のちには「書生気質」を「旧悪」として嫌っている。ちょっと江戸川乱歩に似たところがある。

 逍遙が大評判になったもうひとつの理由は、その身分と学歴である。東京大学卒業、東京専門学校(のちの早稲田大学)講師というその肩書きは、それまでの戯作者流とはまったく違っていた。なんせ「学士 春廼舎朧(当時の逍遙のペンネーム)」である。学士といえば今の博士よりもエリートで、将来は日本を背負って立つ、政治経済科学技術の指導者になるのは確実だった時代である。小説家といえば落語家やタイコモチや遊び人と同類だと思われていた時代である。げんに仮名垣魯文などは、三遊亭円朝などの落語家や、米八、善幸といった幇間、海老蔵や小団児などの歌舞伎役者や、川竹黙阿弥という歌舞伎作家、落合芳幾などの浮世絵師、などといった連中と一緒になってつるみ、大金持ちにたかってタダ酒を呑ませてもらっていた。そんな時代に学士様が小説を書いたのである。最高学府の学士様、師表たるべき先生ともあろうものが、こともあろうに文士に身を落とした、という非難は大きかったが、それと同じくらい、小説家という身分の世間的評価を上げることにも貢献した。
 坪内逍遙の「小説神髄」によって、「文学は男子一生を捧げる価値のあるものである」という自信を植えつけられた学生は数多い。まずその先頭を切って走り出したのが、逍遙の門を叩いた二葉亭四迷と、硯友社の面々なのである。


戻る