ニュータイプ本屋

 もうひとつ博文館がすぐれていたのは、出版社経営についての企業戦略であった。
 大橋佐平は出版社を、産業のなかのひとつの歯車としてとらえた。
 すなわち、まず製紙会社が紙をつくる。出版社がまとめた原稿をもとに、この紙を用いて印刷会社が印刷・製本する。できあがった本は出版社から取次と呼ぶ問屋に送られ、取次は本を各地の書店へ要望に応じ分配する。かくして書店に本が並ぶわけだ。
 佐平はこの流通経路の企業をすべて自分でまかなえば、コストカットができるのではないかと考えた。
 製紙・販売会社の博新社。
 印刷会社の博新社印刷工場(のちの共同印刷)。
 取次の東京堂(戦前までの六大取次の筆頭で、「出版年鑑」を発行するほど権威があった)。
 取材・報道・広告の内外通信社(広告部門はのちの博報堂)。
 これらの会社を子会社として流通経路に配置することにより、博文館は他社より安く本を作り、他社より高く本を売ることが可能になった。これら子会社もその恩恵を受け、しまいにはどれも親会社の博文館より大きな優良会社となった。

 昭和のはじめごろ、博文館の雑誌「新青年」の編集者だった横溝正史は、昔をふりかえってこう語っている。

 ぼくは「文芸倶楽部」のときに、ちょっと(共同印刷に)出張校正に行ったの。そしたら鰻取って大歓待。ほかのどっか、小さな雑誌社の雑誌だったと思ったが、ポカッと行がはみ出してンの。「これ、キミ、こんなにはみ出してどうするんだ!」って叱られてンだよ、工場の人に。それで雑誌の方はペコペコしてンだ。こっちはもう鰻取って大歓待。(笑)だから苦労知らずの編集者だったな、われわれ。
  (「横溝正史読本」より)

 なにしろ共同印刷にとって博文館の編集者の出張校正は、親会社のエリート社員が子会社の工場に打ち合わせに来たようなもんだ。大歓待も当然といえよう。

 書店コンツェルンの形成は越後長岡で資本を蓄積してきた博文館の独壇場だったが、博文館や春陽堂のような、いわば成り上がりの新参者が天下を取るに至る理由が、もうふたつあった。
 第一の理由は、既存出版社の衰退である。
 それまでの出版社といえば、江戸時代そのままの事業形態であった。
 戯作者の書いた原稿や浮世絵師の描いた絵を、版下職人が木版にがりがりと彫りつける。木版の版下ができると、刷り師がこれに墨を塗って和紙にぺたりと押しつけ、紙を刷る。さらに隣の職人は刷り上がった紙をまとめて表紙をつけ糸で綴じ、これで本のできあがり。昔の学校新聞や自治会通信のガリ版に似たような家内制手工業、零細企業であった。コンピュータが普及した今なら、小学校の学級新聞だってこんな原始的な制作はしないだろう。
 このような出版社は明治時代のなかごろまでにほとんどが滅びた。
 かつての和紙、木版、手刷り、和綴じの本に、戯作者と浮世絵師などの著作者。
 これが明治になると、洋紙、活版、機械刷り、洋装の本に、西洋文化の影響を受けた新しい著作者たちが求められるようになってきた。
 かつての出版社は、かつて持っていた資産がどれも役立たずとなり、それどころかお荷物となってしまったのだ。

 第二の理由は、人気絶頂の硯友社人脈をおさえたことである。これについてはまた次回。


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