ライバル出現

 ついでに春陽堂のライバル、博文館についてもふれてみよう。
 博文館といえばいまでこそ日記帳を売っているところという認識しかされていないが、明治時代には春陽堂とともに出版界を二分した大出版社であった。
 その創業者は大橋佐平。彼は越後長岡、いまの新潟県の出身である。天保六年(1835)、材木屋の息子として生まれる。
 越後長岡といえば、明治維新では河井継之助に率いられ、奥羽列藩同盟の尖兵として薩長兵にガトリング砲を撃ちまくったことで有名である。要するに賊軍。維新後は藩内は荒れ果て、死者は多数、おまけに官軍に占領されていた。
 大橋佐平はそんな長岡藩で、官軍と長岡藩との連絡役をつとめていた。というのも、佐平は商人ながらも幕末は志士活動を行い、薩長の人間にも顔が知られていたからである。長岡復興のための施策を官軍に申請し、なだめすかして許可をもらうという役柄には、うってつけの人物だった。
 ただしそういう役柄だけに、「あいつばかりいい思いをして」「薩長にオベンチャラ抜かす腰抜け商人」と、藩の人間の恨みを買うことも多かったらしい。有名な「米百俵」のときには、刺客から逃げて江戸に潜伏していた。

 佐平の興味は民政と教育にあったらしい。長岡での主な業績として、道路や橋の整備・修復、長岡学校の設立がある。やがて教育のためには、新聞や雑誌を発行して民衆を啓蒙しなければならぬと思い立つ。
 明治十年(1877)には団々珍聞という、当時かなり売れていた風刺新聞の売捌所(いまの代理店のようなもの)をつとめながら、自力で「北越雑誌」を創刊。そこで新時代の教育や法律、佐平が信仰していた浄土真宗の啓蒙活動をくりひろげる。
 そして明治十九年(1886)にはついに東京進出。同郷の小金井良精(医学者・人類学者。森鴎外の義弟であり、星新一の祖父でもある)と相談しながら、日本橋本石町に博文館を設立。
 東京での出版は、小銭を稼がなければならなかった春陽堂の和田篤太郎にくらべ、かなり恵まれたスタートだった。

 そして東京でも、博文館はのっけから成功をおさめる。東京での処女出版、「日本大家論集」がいきなり大儲けになったのである。
 「日本大家論集」は論文集である。さまざまな新聞・雑誌に掲載されていた論文を収集選択してまとめた、いわば論文アンソロジーである。これが売れた。「西国立志編」の中村正直、「大日本編年史」の重野安繹、「立憲政体略」の加藤弘之など、当時の啓蒙思想のトップスターたちの思想が、これ一冊読むだけで理解できるというので、当時のベストセラーになった。今でいう「すぐわかる○○」「××のすべて」というたぐいの本の先駆者である。
 ただ売れたというだけではない。「日本大家論集」が大儲けになったのには、もうひとつの理由がある。この本、印税も原稿料もゼロだったのだ。このころまだ日本に印税という習慣はなかったし、原稿料も新聞雑誌の初出のときに、まあ済んでいる。そんなわけで博文館は著者に一文の金も払うことなく、印刷製本の費用だけでこの本を作ることができたわけだ。いわば丸儲け。
 この商法はさすがに「博文館でなく悪文館だ」などと世間の非難をあびたが、道義的にはともかく、当時の法律的には問題がないので、大家たちも泣き寝入りするしかなかった。
 これ以降、新聞雑誌には「禁無断転載」という但し書きがつくようになった。博文館の「日本大家論集」がその原因だったわけだ。


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