甲州街道を東に向かった安達内蔵介とその供は、いつものように八王子の宿に足を止めました。
八王子は甲州街道はじめ、さまざまな道路が合流する要地です。そのため、多くの宿場が栄え、「横山十五宿」と呼ばれていました。
そのうち横山と八日市の宿がもっとも栄え、公用の伝馬宿や本陣もあるのですが、内蔵介はそれが気にくわないのか、いつも手前の八木という宿で泊まるのでした。
昼間の街道にふらりと現れた内蔵介は、袴を脱いだ着流しの姿で、雑踏も気にならないのか、ゆっくりと一軒の居酒屋に入っていくのでした。
江戸時代、居酒屋などは武士が入るべきところではありませんでした。商人でも旦那と呼ばれるほどの人や、職人でも親方と呼ばれるような人は、けっして居酒屋で酒は呑みませんでした。
醤油屋が片手間に造る酒を呑ませる「丸二」というその店も、呑んでいるのは、馬方や雲助など、賤しいとされた身分の連中ばかりでした。
そんなことも意に介さず内蔵介は、椅子代わりの樽のひとつに腰を下ろします。店の親爺が無言で枡に酒を注いで置きます。内蔵介も無言でそれを呑み干します。
内蔵介の不気味な雰囲気に気圧されるのか、それまで卑猥な冗談で高笑いしていた連中も、次第に口数が少なくなり、ひとりふたりと店を出ていくのでした。
たったひとりになった店の中で、内蔵介は二杯目の酒を呑み干します。
「おじさんが来たよ」
「来たよ、来たよ」
馬方や雲助どもが逃げていったあとにやってきたのは子供たちです。
「おじさん、また飲んでら」
「やあい、飲んでら」
「うるさい」
内蔵介が怒鳴りつけても、なぜか子供だけは怖がらないのです。
「餓鬼ども、これをくれてやるから失せろ」
ふところから刺し銭を放り出すと、子供たちはそれを拾って歓声をあげながら走っていきました。
やがて子供たちは、人形や独楽などの玩具を買って戻ってきました。
そうして内蔵介の前で遊ぶのが、子供たちのしきたりでした。