甲州纐纈城(2)

 安達内蔵介がたったひとりの供をつれて、ゆるゆると馬を歩かせてゆくのを見た領民たちは、
「ああ、また殿様の御討ち死にか」
 と、溜息をつきました。
 内蔵介はめったに城の外に出ることがありませんが、ごくたまに、このように淋しいいでたちで出かけることがあります。そのときは、どこかの宿場町で、ずぶずぶになるまで酒を呑んで、酒びたりのまま旬日ほども帰ってこないのです。
 これを領民たちは「殿様の御討ち死に」と呼んでいました。

 安達内蔵介維武は二千石の旗本。そもそもこのような城を建てる資格などはありません。しかも内蔵介は、甲府勤番の身、こんなところにいてはならない筈でした。
 甲府勤番とは、天領である甲州の首府、甲府城に詰め、城の守りや城下町の警備や裁判など、さまざまな用事を果たす役職。というのは口実で、じっさいには、ろくでなしの旗本を閉じこめる牢獄のようなものでした。
 ふつう旗本は、その家の石高や能力に応じて、目付や奉行などの役職につき、江戸城で働きます。役職につく能力がなかったり、怠けていたり、同僚と喧嘩したりの旗本は、役職を剥奪され、小普請組というものに入れられます。ほとんど仕事はなく、自宅でぼんやりしているだけの、謹慎に近い処分です。それでも行状定まらず、乱暴や女遊びを繰り返すろくでなしは、実際に座敷牢に入れられます。それでもなおかつ、牢を脱けて乱行を繰り返すような場合、甲府勤番に命じて、江戸から追い払います。いわば、旗本の流刑のようなものです。いちど甲府勤番にされたら、二度と江戸へ呼び戻されることはないというので、旗本は甲府勤番を切腹よりも怖れていました。

 しかし安達内蔵介は甲府勤番でありながら、甲府から数十里離れたこんなところに、しかも城を建てて住んでいる。普通ならすぐさま切腹、いや打ち首、いやいや獄門磔になってもおかしくありません。
 それが穏便にすまされているのは、内蔵介の妻、今をときめく若年寄、水野忠友の娘であったからだと言われています。水野忠友は飛ぶ鳥を落とすとまで言われる宰相、田沼意次の片腕。城のひとつやふたつ、なかったことにするのは容易なことでした。
 忠友の娘は武芸にも通じた美人として有名でしたが、十年ほど前、忽然として消えてしまいました。奉行への届け出では、女児出産時、産褥にて母娘ともに相果て候とあります。しかし噂では、産まれたばかりの娘をつれて出奔したとか、産まれた娘を斬り殺した内蔵介を罵って自分も斬られたとか、いろいろなことが言われているのでした。
 考えてみれば内蔵介の乱行はあのころに始まりました。それまで江戸城で真面目に勤めを果たしていた内蔵介が、妻が消えてから、酒を呑んで登城を怠るようになり、ふとしたことで町人を斬り、小普請組から座敷牢、そして甲府勤番へと流れていったのでした。
 このことはすべて自分の娘が原因だ、と、責任を感じた水野忠友が、内蔵介の行状をもみ消しているというのです。


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