坂本竜馬と明治大帝

 なんか新東宝の戦争映画のようなタイトルだが、お許しいただきたい。
 前に書いたように、坂本竜馬という人物は勝海舟によって誇大広告的に持ち上げられたのだが、実は竜馬を持ち上げたもうひとつの勢力があった。それについて触れてみたい。

 明治維新後、政治のベクトルは大きくふたつに分かれたと、学校の教科書などでは書いてある。つまりひとつは、大久保、木戸、岩倉から伊藤、山県、松方、黒田、品川へ流れる、薩長を中心とした有司専制の方向。もうひとつは板垣、後藤ら土佐の人間を中心とした自由民権の方向。
 これは間違いではないが、明治にわたってもうひとつの政治的ベクトルが存在したことを見逃すわけにはいかない。それは、天皇親政のベクトルである。
 天皇親政派は、土佐の佐々木高行を中心に、土方久元、田中光顕など土佐の人間が多い。また歌人として知られた高崎正風、吉井友実など、西郷派にも大久保派にも所属しなかった、島津久光側近グループの薩摩人。これに水戸の香川敬三、肥後の元田永孚、米田虎雄が加わる。彼らはいずれも薩長派閥から除外され、財政や軍事、外交などの要職を与えられず、宮中の待補職に幽閉されたかたちである。

 その彼らが宮中から攻勢をかけたことがある。西南戦争の直後。木戸、西郷、大久保、と相次いで領袖を失い、政府が弱体化した頃である。
 残された伊藤、岩倉、大隈ら政府首脳は、政府立て直しのために、天皇のカリスマに頼ろうとした。明治十一年、明治天皇一行は地方を巡幸し、各地で庶民に姿を見せ、天皇に、ひいては政府に忠なれ、と訴えかけた。その巡幸の最中である。
 佐々木高行をはじめ、高崎正風、吉井友実、元田永孚、米田虎雄、土方久元など、宮中の待補は明治天皇に拝謁し、次のようなことを言上した。
「今回の薩摩の戦争、そして大久保卿の暗殺、これはいずれも、政治が数人の大官に独裁され、腐敗し、人心を失っているからでございます。今後は陛下みずから政治に叡慮を注ぎ、親政の実を挙げることが肝要と思われます」
 これに明治天皇は深く感動し、「おのおのの申し出はもっともである。これからも気づいたことは遠慮なく進言してくれ」と答えた。明治天皇はそのとき二十六歳。維新のときは幼少でまったくの傀儡だったが、その後帝王学を学び、英明の名も高く、充分政治をとるにふさわしい人物に成長していたのである。
 佐々木らは天皇の言葉に力を得て、さらに岩倉、伊藤らの政府首脳に働きかけた。しかし、いったん権力を握った彼らが、素直に天皇に権力を返すはずもない。岩倉は特に、佐々木に警戒を抱いた。かつて幼少の天皇を擁して実権を握った自分と同じことを、今度は佐々木が行おうとしている、と思ったのだろう。
 伊藤、岩倉の逆襲は素早かった。まず明治十二年、待補職を廃止。これによって佐々木は天皇の側近から遠ざけられ、さらに「民情視察」の名目で東北地方に左遷されてしまった。
 やがて明治十八年、太政官制を廃止して内閣制に以降。これで天皇親政へのベクトルは、まったく叩き潰されたかにみえた。

 しかし、宮中勢力は諦めなかった。二回目の攻勢をかけたのは、日露戦争のさなかである。
 そのころ朝野の最大の関心事は、ロシアのバルチック艦隊の動向だった。東郷平八郎ひきいる日本艦隊が、バルチック艦隊をうまく捕捉して叩き潰せばよいが、捕捉に失敗してしまい、旅順艦隊と合流してしまえば、日本海軍に勝ち目はない。ということでバルチック艦隊がどこからくるか、新聞の漫画にまで書かれるほど話題の中心になっていた。
 そこに奇妙な噂が流れた。皇后陛下の夢枕に、坂本竜馬が立ったというのである。
 皇后はそのとき竜馬を知らず、長身で蓬髪の、白装束の武士としかわからなかった。その武士は一礼して、
「私は維新で多少の働きをした坂本竜馬と申すものです。このたびのバルチック艦隊については、ご心配に及びませぬ」
 と、それだけいって去っていったそうだ。
 皇后は翌朝、香川敬三、田中光顕のふたりを召して、坂本竜馬について尋ねた。ふたりは「仰せの通り坂本竜馬という者がおりました」と事跡を語り、写真を見せた。皇后は「たしかにこの人に間違いない」と驚いたという。

 これが大変な評判になり、新聞にも大々的に書かれた。宮中だけに、誰かが漏らさないと外に情報が流れるはずもない。おそらく、香川、田中が意図的にリークしたものと思われる。
 その意図は何だったか。田中は土佐人であるし、先輩の坂本を吹聴したい、というのもあるだろう。竜馬に比べるとまったくの格下だった、伊藤や品川など政府顕官に対する嫌がらせもあるだろう。
 しかし最大の意図は、おそらく竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出しする機会を作ること、これではなかっただろうか。世論も味方につけて、今後、天皇、皇后が政治に発言する恒例を作りあげる。そして一気に天皇親政にまでもっていこうとしたのではないか。

 残念ながら、というか、日露戦争はまもなく終わり、天皇が政治に携わる機会もなかった。やがて明治天皇は死去。大正天皇となり、誰も天皇親政など口に出さなくなってしまった。アレじゃあねえ。
 それにしても竜馬とは、勝海舟に代表される旧幕勢力、佐々木ら宮中勢力など、つくづく不平不満の冷や飯組に利用されやすい人物のようだ。いま竜馬を持ち上げている人間は、何に利用しようと思っているのだろうか。


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