当然ながら当初は単なる「製造物責任」という古来からの法律しかなかった。いわゆる「アジモフ3原則」に類する安全機構の義務化という方向のみだった。
ヒューマノイド研究と人工知能研究の発展は、それらの自立学習機能が充実するにしたがって、ある種の「擬似人格」を認めるべきではなかいかとの議論が、提出された。
きっかけとなったのは、弁護士が所有するPAが「反ロボット狂信者」によって破壊されたことに「殺人罪」に相当する刑罰を求めた裁判を通じて、市民立法によって新法律の制定を求めたことによる。
ロボットの愛称から「シェフ」裁判と呼ばれるこの訴訟によって、自立学習型人工知能(ユビキタスネットワークも含め)に対する法的立場の議論が盛んに行われるようになった。しかし同時に「反ロボット狂信者」による陰湿なカウンタープロパガンダや破壊活動が、激しく顕在化してしまった事実は、ヒューマノイド研究の発展にとっての光と影というべき問題だった。
しかし法律とは人間社会を律する概念であり、ヒューマノイドがいかに「擬似人格」と呼べるものがあろうとも法律的な立場は製造物以上であってはならないという主張は強固であった。人間が、自らの被造物であるロボットに対しての行為を規制するというのは、論外と言うものだ。
しかし、人間が機械に対して何らかの規制を受けると言うのは、20世紀から21世紀に最高潮を迎えた自動車に対しても行われてきたことを、忘れている。もちろん、当時の自動車とヒューマノイドの自立性に本質的な差はあり、同一線上で議論するには無理があることは承知している。
21世紀初頭には、自動車は多くのコンピューター(デジタル)によって制御を受けていたので、少し乱暴に言えば広義のロボットともいえないことはない。その自動車に対しての規制的法律は製造物責任にとどまったが、使用者である人間には、実に多くの法律によって自動車に対する行動規制が課されていたのである。
たとえば飲酒や無謀な運転によるによるヒューマンエラー(交通事故)ですら、機械にフェイルセーフとして組み込めばすむことなのに、機械は制限を受けず(自動車にアジモフ3原則第1条が組み込まれていれば後のヒューマノイド開発がどれほど楽であったか!)、人間に厳罰を科すという法律がまかり通っていたのだ。
それを考えれば、より自立性が高く、使用者である人間からの学習によって、同じものが2つとないと言われるほどのヒューマノイドに対して、人間側の法律的規制は非常に少ないし、むしろ積極的(=意識的)な議論を避けてきたかの感がある。
ところが、ロボット人口比率が変化するに従って、ヒューマノイドが人間との結びつきを強め、特に個人所有を認めることによるヒューマノイドの存在形態が変化するにしたがって、人間がヒューマノイドやユビキタスネットワークに感じる価値観が変化していった。
人工知能における意識や魂の神話が、人間をじわじわと追い詰めて、ついに人間の意識的思惟の典型である法律の世界に組み込まざるを得なくしたというのが私の見方である。
法律問題の、もう一つの流れは、擬似神経として人間の脳と精神によるコントロールを組み込んだ「サイボーグ」(ロボコップというハリウッド映画やサイボーグ009という日本の漫画の方向へ走ることはなかったが)だった。
彼ら人工の四肢や臓器や感覚器官を装着し、納神経系やその他の部分は人間そのままという人と、「柔らか系のヒューマノイド」の区別が徐々にあいまいになってきたのである。
どこが困ったかと言えば、脳の存在とその活動する範囲が、人体と人工の代替部分(=ヒューマノイドの構成要素)の制御にあったとすれば、ヒューマノイドの人工知能も同じ働きをしているのではないかと言う議論に収束していったのである。
そこでの判断は、脳と人工知能の制御に差異は認められない、そのことに関する限り人工知能は人間を支える一部である、とされてのである。
しかし、生まれから死ぬまで純粋にヒト細胞のみでできている人間との境を設けるのか、同等とするのかという権利論争を巡っては、人工知能を有するヒューマノイドは常に下位に序列されることになり、それに応じた権利は、人間とのかかわりを通じて必要不可欠な分だけ、裁判判例が積みかさねることによって「小出しに」認められれると言う経過をたどったのであった。
つまりは状況次第で、あるときは権利が認められ、別の場合は権利が認められないと言う事態が続いたのである。総合的なヒューマノイド=人工知能権利保護法の考えは一部の法学者とヒューマノイド研究者が提出したが、市民立法としても成立しなかった。
曰く、道路や電気や水道などと同じインフラである人工知能ネットワークに権利が認められるのはおかしい。そこから派生したヒューマノイドがいくら人型をしている、人間とともに暮らして持ち主の特定の人格の影響を強く受けていわゆる「個性的行動」を取るとしても、それはあくまで人工知能に与えられた学習機能スペースの作動範囲で、削除あるいは初期化可能な要素であり、人工生産物としての権利以外の権利は保障されないと言うのが現在の法律専門家の多数意見となっている。
むろんこれに異議を唱えるPA所有者の側の発言は次第に大きくなっている。しかしこの問題は、つまるところ人間がヒューマノイドをどのように感じ、事故の精神の中に取り込んでいるかと言うきわめて心理学的な問題であるのだ。
サムワイズとルナ2行きシャトルに乗るのは初めてだ。残念なことに今回の飛行では、夜側のコースであるので月面世界は見えない。代わりに地球の姿はVRMによって鮮明に見ることができる。ズームアップすれば雲の様子まで見える。地球では最近立て続けに大きな嵐が報告されている。
「サム、モニターを見るかい?」
「旦那が見たいのなら」
「地球を見るのが好きだったのじゃなかったっけ」
「地球ではなく、あちらに居られる旦那の家族が好きと言っているはずなのをお忘れですだか」
「じゃ寝てろ」
人間がヒューマノイドをどのように認識し、感じるかということは、非常に重要な問題だったが、神話時代のフィクションはこの点に関して単純でステレオタイプな答えしかもたらさなかった。
曰く、怪物ないし恐怖の対象、ペットに対する愛情(愛着)が進んだもの。性欲(若干倒錯した)の対象。神話時代のフィクション作家は。ほとんどが一神教圏の人物だったので、神の被造物としての人間の優位(選民性)に対する「あってはならない被造物」、兵器や産業機械に代表させる人間の命令に忠実な「モノ」、さらに人間を出し抜き支配あるいは人間を排除しようとするするデストピア神話。一見多様だが内容は単純である、適か味方か、愛か憎しみを伴った著しい擬人化か、いずれかである。
しかし、実際にヒューマノイド(それ以前に人工知能ネットワーク化でのユビキタスインターフェース)に対する人間の心理的な反応は複雑だった。
投影や転移と呼ばれる人間心理によって、非常に揺れ動いたのである。それこそ、性的な問題(婚姻問題を含む)にいたるまで、人間がヒューマノイドに感じる心理は複雑で、人間同士よりある意味厄介である。
擬似筋肉を用いた「柔らかロボット(アンドロイドと言う呼称が一般的になったきっかけ)」では、本当に人間そっくりなものを作ることが可能となった時点で、意見が分かれ始めた。
義手義足などサイボーグ技術として、部分として「人間そっくり」はよいが、全体が人間そっくりではどんな問題が起きるのか議論は尽きなかった。
「ヒューマノイドロボットの法的立場」問題がもっとも熱心に論議されたのもこのころからだった。
ところが驚いたことに、人間側の認識を改めるための教育プログラムや、精神的収容を説こうとする宗教活動は少数派だった。初期にはヒューマノイド−人間関係学という学問は、ほとんど重要視されなかったのである。
解決策は技術者とデザイナイーに求められ、明らかに人間と異なるヒューマノイド的特徴をどこかに残すことで、ヒューマノイドが人間と同一視されないようにするという試みを選択したのだった。金属的特徴、頭部形状(多くの柔らか系ヒューマノイドはスキンヘッドか、珍しい髪の色を用いている)、胴体部分の単純化などなど。
形の識別がヒューマノイドと人間を区別し、正しい認識を得るというのがその発想だったが、いかにも安易だ。問題は別のところにあるのだ。
ヒューマノイドの有する人工知能の自由度、別の言葉で言えば学習能力の高さである。それによって、人間の設計者が予想できない発達をヒューマノイドが獲得する可能性が出てきたのである。最初で述べた、人格的偏りを持った所有者の生活空間に閉じ込められたヒューマノイドの独特な「個性化」などはその好例である。
そういったヒューマノイドと人間の1対1関係で、あるいは、自己所有のPAと他のPAにたいして人間がどのような心理的傾向を有するのだろう。
この問題に関するアプローチは、人間に対するカウンセリングや心理分析であるにとどまらない。ヒューマノイドもまたカウンセリングされなければならない。ただしこの場合は、ヒューマノイドの人工知能がユビキタスネットの中に外在化され、分散処理されていることを考え合わせないといけない。ヒューマノイドを感知し、そのメモリーの多くを共有するネットワークに及ぼす影響も考慮しないといけないのだ。
ヒューマノイドは人間をあらゆる点で、本質的には人間精神とは異なる方法論で観察し学習するということは、ある種の不可知の領域を人工知能に与えてしまったことになる。
エミュレートと分析可能なシステムとして構築されたはずの人工知能だったが、デジタル時代のインターネットが想定外の発展の仕方をしたことと同じ、あるいはそれを大きく質的に超えた変更を人間に突きつけ始めているのだ。
たとえば、現在のヒューマノイドと、その背景にある人工知能ネットワークシステムが、人間との関係を離れて自立的自己変革し、人間と対立するという構図、すなわち私が「神話時代」と呼ぶ年代に書かれたフィクションによる人間の悪夢は、現在のヒューマノイド=人工知能の技術からすると不可能ではない。人間との関係に不安定なところがあるのもこの悪夢の記憶が無意識領域に潜んで、すでに人間を蝕み始めていると指摘する研究者(F・ラージニー、G・B・クレイマンほか)もいる。
またそのことからさまざまな宗教的集団が生まれ、反ヒューマノイド=人工知能ネットワークを標榜するカルト的で過激な集団は無数に存在する。
確かにデジタル時代の人工知能と違い、ハッキングやウイルスに対して抵抗力が桁違いに強くなっている。しかしいつの時代にも「天才」は存在する。量子人工知能の第3世代のシステム原理とネットワークプロトコルの理解をすべて我が物とするには、相当の知性(多分偏向の大きな、自閉的人格を代償とする)を有していなければならないだろう。
また、長年生活をともにしたPAとなんらかな形での別離を経験した、あるいは生活中に衝突した(もちろん人間の指令に従うPAの側ではなく人間に原因があるのだけれど)場合の人間の精神への影響は、最近月の各都市・基地でも、まして地球上では数多くが心理カウンセリング局に報告され、専門家の少なさに対する危機がささやかれているところである。
しかも、人間はヒューマノイドに転移を経験するが、ヒューマノイドが逆転移を起こすのかは、ほとんど研究されていない。ヒューマノイドにおいては、忘却問題ですらまだ議論の最中と言う段階なのが現実である。むしろ、これまでの議論のような心理学的側面は無視してヒューマノイドとユビキタスネットは発展を続けているのである。