ロボットの人工知能

神話時代に描かれたように人工知能、つまり「頭」の開発に引っ張られてヒューマノイドが出来上がったと考えられがちだが、どの技術史書でも教えるとおり、事実は違う。
工業用作業マシン、人工四肢(マッスル・スーツや電子視覚・聴覚などサイボーグと一括して呼ばれる技術は、ほどなく再生医療に取って代わられたが)としての技術が結合して生まれたのがヒューマノイドであるというのが、 ヒューマノイド技術者の間では一致した見解となっている。
この点においては、人類が大脳の発達によって類人猿から枝分かれしたのではなく、二足歩行を完成させたことによったのだとすることと奇妙な一致を見せている。
しかし自立的ヒューマノイドの開発は人工知能開発なくしてはありえない。「頭」もまたヒューマノイドの開発を引っ張ったのだった。
しかも最終的に商品として社会に進出したのは、軍事用でも製造用労働力ではなく、介護やお手伝いロボットだったのである。ヒューマノイドの最初の普及タイプは、人間に対して「癒し」の役割を求められたのだ。したがって、人間を理解し、状況を把握し、コミュニケーションするという知的能力と、人間をやさしく滑らかに扱うと言う動作の両立がなければならなかったのである。
人工知能とヒューマノイドの四肢や感覚器官の発達は、相互に滑らかな曲線をたどったわけではなく、不連続で爆発的な進歩と停滞を繰り返すという、これまた生物としての人類の進化とよく似た過程を描いたのである。

最初に試みられたのは、ヒューマノイドの仮想空間内モデルを人工知能の内部に構築するという作業だった。この段階で、身体の各部分の動きや人間の言語によるコミュニケーションができるかが試された。
「ルーシー」「カンジ」(注:どちらも20世紀から21世紀初頭に存在したきわめて知能が高く、絵文字による人間とのコミュニケーションが可能だった類人猿)などと名づけられた仮想空間ヒューマノイドモデルは、 これが実に厄介な問題を提供してしまった。自立度の高いヒューマノイドモデルは、人工知能ネットワークの仮想空間に逃げ出して行方をくらませることができたからだ(これには、人間の好奇心というかいたずら心というか、反社会的な行為への嗜好、20世紀末からの言葉では「ハッカー」が関わっていると言われている)。
しかしその捜索ごっこのおかげで、人工知能ネットワーク内でヒューマノイドの知能システムを識別し追跡する仕組みができた。

会話の問題は、人工四肢や空間認識と並んで、思いのほか時間を要した。一時はヒューマノイド用の言語を開発して、人間がそれを駆使するほうが速いといわれたこともあった。実際、軍事目的や用途が限定された作業用ヒューマノイドにはその方向に開発がすすめられた(最後の引き金を人間が握るためにも必要な技術だった)。
たとえば、人間は、チワワを見ても、セントバーナード犬を見ても「犬」といえる。ところがこの認識をロボット知性に組み込むとなると膨大なプログラム(量子ビットでなくデジタルビットとして組み込んだ場合)が必要だった。
人間との会話でも方言や声の違いには相当手こずったし、さらに、インコ類などの人の言葉の真似ができる生き物の言葉は、人間には理解できてもロボット知性にはまったくのお手上げだった。 そもそも、人間自身が、なぜ鳥の人まね言葉が人間と同じ言語として認識できるかということがわかっていなかった。
もう一つ重要な問題はロボット同士の会話であった。奇妙に思えるかもしれないが、これは当時の人間にとって重大な問題となったのだ。ロボット同士も人間の言語を唯一のコミュニケーション手段とするのか、ロボット同士は電波その他の別のデータ通信を行うのかということである。
ロボットに自立的な知性を与えようとすれば、当然ロボット同士が協応状態にならないと困る。 しかしそれでは、「人間に内緒でロボット同士が会話をしている」という不信感を人間に与えることになるというのである。
では、ロボット同士の会話を人間に聞かせればよいではないか、何らかの変換をして言語化して人間に理解させればよいかというと、ロボットが非常に少なければ問題ないだろうが、ある程度多数いると聞いている人間にとっては「やかましくて我慢できない」し、ロボット同士にとっては、まともに反応し会える通信速度が保てないことになる。
ロボット(ネットワーク人工知能を含め)が人間と会話を交わす場合、人間の言語は単なるインターフェースの一部(人間側の利便性に基づく)なのか、本当は別の命令言語によって効率よくロボットと人間のコミュニケーションを図るべきなのかは人間世界でいつも対立する「効率性」と「利便性」、の対立といってよい。
とりわけ人工知能の世界においては、人間の言語の持つ曖昧さは、ある意味邪魔な存在になった。人間言語を思考論理処理に組み込むと、どうしても大幅に処理速度が下がるのだ。
ただ、人間らしさを出すためには、人間言語を、インターフェースにせよ組み込んだシステムにしてゆくことは避けて通れない。たとえ処理速度を下げることになろうとも、人間が言語を用いると言うことは「人間的」思考過程そのものの根幹であると考えられたのだった。
ヒューマノイドが人間と異なる思考法をする、人間言語を介さない思考をするということは、多数の人間に不快感を持って眺められた。まるで神話時代のフィクションで想定された「人工知能が人間を支配する」ことになりはしないかと人間界の一流の頭脳から、一般大衆まで強烈な不安感に支配されていたことがあったのだ。
一方で人工知能ネットワークは、もはや不可欠のインフラストラクチャーとなっていて、キーボードなどの入力インターフェースの煩わしさから、人工知能と人間の「会話」の成立は急務ともなっていたのである。
これは非常に困難な、利便性と効率性という技術界の長年のジレンマでもあった。が、次第に人工知能と人間との会話技術が進化し、インフラとして浸透するにつれて、人間は「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」のことわざどおり、人工知能による支配という「悪夢」にうなされることがなくなった(20世紀後半にテレビジョンができたとき、『子どもの知的水準が低下する』との不安が10年とたたない内に払拭されたのと同じ現象)。
この過程には、人工知能ネットワークを介した、ほぼ完璧な多言語同時翻訳機の普及があった。
この翻訳システムの構築がヒューマノイドの言語機能のかなりに部分をネットワーク内に分散しようという決断をあたえた。同時に、言語やその他の認識機能をヒューマノイドの一部、たとえば頭部に集中させようという発想も転換させた。もちろん人間の言語はインターフェースとして残っただけだったが、その結果のすばらしさに誰もが満足したせいである。

神話時代にはロボットの人工知能は頭部にあるとして人間の誰もが疑いを入れなかった。つまりその部分も人間と同じなのは自明のことの部類に入っていたのだ。しかし、北アメリカ大陸の先住民の言葉に『頭で考える、と言うのは、白人(一神教圏の人間)と、狂人ぐらいのものだ』とあるとおり、人工知能をヒューマノイドの頭部という狭い領域に押し込め、そこで集中処理させるということが、ユビキタスネットワーク社会になっても信じられていたのは、まったく驚くほかはない。人間の想像力を呪縛した、「人間=神の似姿=最も合理的な姿」とする一神教の影響はここにも見られるといえるだろう。
もちろん、現在のヒューマノイドロボットは「首をちょん切られ」ても完全には機能停止しない。ボディ全体で分散処理し、さらに外部のネットワークを通じてその中にも分散しているからである。
これには、昆虫型の神経シミュレーション型知能研究が大きな役割を果たした。昆虫の小さな体とシンプルな神経組織で行われる認知運動能力は、運動を伴うあらゆる制御技術で絶好の研究対象とされ、軍事分野においては人工知能兵器に徹底的に応用された。
ヒューマノイドに対する軍事関係者からの関心の低下と反比例して急速に発展したといってよい。そして、技術が民生転用されるや、単眼複眼から哺乳類または鳥類のの目へ、6本足と羽を動かす神経伝達のシステムから、四肢と指を動かすシステムへとそれは自然に応用された。
端的に言って今日のヒューマノイドは、20世紀日本のコミック「仮面ライダー」のように半分昆虫人間だといってよい。
ただし、もう一方の義手義足を出発点としたサイボーグ研究から構成されたヒューマノイドも存在する。これは、人間の脳の命令によって、人口筋肉を持つ四肢の動きを制御するということに主眼があったので、神経配列を昆虫化できなかった。しかしこのタイプでも人工知能の大部分は頭部ではなくボディに遍在している。
そしてこの両者を掛け合わせて生まれた子供が、普及型ヒューマノイドというわけだ。並行して行われてきた研究が、ある日ひとつの接点を見出したとたん爆発的に進化した好例といえるだろう。

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