ロボットは一日してならず〜人−ロボット関係の省察

今日、ロボット(人型ロボット=ヒューマノイドまたはアンドロイド)は、地球においては人口の38%、月面、火星上の基地ないし都市、さまざまなラグランジュ軌道上のスペースコロニーなど地球外構築空間においては人口数に対し50%を超えている。個人による所有も、多分ペットとしての犬の保有率を超えているだろう。
しかし人間とヒューマノイドロボットとの関係は必ずしも良好であるとは言えない。その多くは人間がヒューマノイドに抱く偏見や固定観念、形の類似性から来る人間との同一視、それに基づく無意識下の転移によるが、ヒューマノイドを含め広く人工知能が学習し、環境への適応能力を高めている以上、人間が抱える問題は相互作用としてヒューマノイドロボットに影響を与え、あたかも平行鏡のように無限反射するおそれがある。
たとえば設計段階では想定されなかった偏りをもったヒューマノイド(そのほとんどは人間個人の生活空間に閉じ込められ、その人格のみに影響を受けている)が存在することもその表れと言えるだろう。
そこで、ここでは、人間とヒューマノイド(広くはユビキタスとして広がる人工知能ネットワーク)の関係を思想歴史的観点から整理し、よりよい関係を築く足がかりにしたいと考えている。 したがって技術原理や量子コンピューターや人工知能とメモリーの小型大容量化などのハードウェアー上の歴史はあまり追わないこととする。
むしろそういった技術を組み合わせて人型ロボット=ヒューマノイドまたはアンドロイドという存在が、どのように人間社会と人間意識(無意識)の中で関係を築いてきたかに焦点を当てることとした。
最後にはヒューマノイドは人間のコピーとして存在するのか、人間を凌駕した別種の存在(異星人のような)として人間と新たな関係(対立も含め)を模索するのかという、いまだ(幸いにも!)顕在化していない問題を思索する手がかりとしたい。

ホテルのベッドに仰向けになっていると、今にも自分の体の重みでベッドを壊してしまうのではないかという幻想に必ず襲われ、苦笑してしまう。我ながら骨の髄まで俗物だという思いが地球を出たときから心に深く染み付いている。
人間が宇宙に進出しだしたころ、宇宙飛行士たちは、誰もが「神の存在」や「神を超えるスピリチャルな存在」を感じたという。任務終了後には宗教に生涯をささげた人も多いと記録されている。が、私にはそんな感情や感覚はまったく生じなかった。それは人間とヒューマノイドの心理を研究する者にとっては少なからぬ衝撃だった。漆黒の宇宙を背景にうす青く光る地球の大気圏を眺めたときも、その地球が月の地平線から登るのを見たときも、感動はしたが、「スピリチャル」な体験ではなかった。そんなはずはないと思っても見たが、そのうちVRMに責任を転嫁することにした。起きないものはどうしようもないのだ。
多分、昔の人類のエリート中のエリートである宇宙飛行士たちは、宇宙という考えうる限り最も孤独な環境の中に居たため、そんな感覚を抱いて自らを納得させたのだ。大洋を航海しだしたころの人間が海の怪物を信じたのと同じ心理に違いない。
しかし今、このG2でも数千人、月面の最大都市ルナ1には2万人以上、そのほかの月面都市や基地でも1000人を切ることはないという環境下では、「都市的孤独」はあっても、かつての「根源的孤独」は感じようがないというが事実だろう。
もう一度草稿を呼び出し、声に出して読ませてみることにした。文字列で読むのと音声で聞くのでは印象が異なる。客観的な検証をしよとすれば文字のほうが適してはいるが、音声に出してみるとまったく違った観点が得られることもあるからだ。
その結果ベッドの上の私は眉を寄せて、こんな問題意識でよいのかと考えてしまう。本当に中等教育の教科書ではないか。しかし当の少年たちも、こんなことは教えられもせず考えようともしない。ヒューマノイドの存在は21世紀における自動車や携帯電話やテレビジョン、インターネットのようなもので、技術者か科学者志向でない限り、まともには考えない大衆化された産物だからだ。
私にしてもサムワイズの動作原理や人工知能の思考パターンの詳細な技術は理解できない。またそれでよいと思っている。ただひとたび人間と彼らの関係性に好奇心が沸くと不思議な歴史的関係があることに気づかざるをえないのだ。
人間とヒューマノイドすなわち自立的な人工知能を備えた人型ロボット、あるいはその前身である非人型ロボットの歴史にはかなり不幸な関係があったことは紛れもない事実である。

兵器としてのヒューマノイド

おそらく現在の人間とヒューマノイドにとって予想外だったことは、かつてロボットの黎明期(私が神話期という時代)に想像されたように、真っ先に比率が高まるはずだった軍事用のヒューマノイドが、皆無に近いことだろう。
プロトタイプとして製作されたものはあったが、実戦に投入されたものはなく、博物館に残されているに過ぎない。なぜなら、より早く敵を発見し、敵には発見されずに目標を破壊するという軍事の目的には、明らかにヒューマノイドは効率が悪かったからだ。開発されたプロトタイプは、透明人間タイプ(これはカメレオンアーミーと呼ばれていたらしい)は、1体で12億ドルもかかった。これも最初に見られたのは戦場ではなく博物館だった。
軍事用への転用は、ロボット研究のもうひとつの軸となった昆虫やナノテクノロジーによる極小化へと劇的に進路変更した。10ナノメートルの兵器の電子顕微鏡映像が兵器を携えた人間そっくりだとしたら、それがいかに恐るべき攻撃兵器だとしても、まず笑ってしまうことは疑いない。それは置くとしても、鳥のように自在に飛行するステルスミサイルや、人口筋肉を用いたヘビやムカデ型あるいは自在回転型の球形ロボットや、水中におけるイルカ型ロボット兵器は、非常に探知が難しく確実に敵を待ち伏せするか、予想外の侵入路を通って相手方の中枢機能を破壊するのにこの上なく有効だった。 したがって、ヒューマノイドロボット戦士同士が戦争で破壊しあうという構図は、次章に述べる神話時代のフィクション世界や多くの人間の心理にぼんやりと想像されていたこととは異なり、ついに起きなかった。
自立的なヒューマノイドロボットは非常なコストがかかり、破壊を防ぐための装甲と武器を携行させると動力源がすぐに枯渇したからである。明らかに高度な自立性を持った戦車のほうが安上がりで効果は絶大だった。開発中(演習場実験)に落雷によって1000万ユーロのプロトタイプが失われたこともあったのだ。
高度に人工知能化されたロボット兵器に対する有効な防御は人工知能プログラムを狂わせることのできる電磁兵器であった。これをを完全にシールドすることは、外郭を非金属か絶縁ポリマー化しても、内部の電子回路部品をまったく非金属することは結局不可能だった。そのため電磁ファイヤーウォールや、マイクロ波ビームと高エネルギーレーザー兵器に対しては無力であった。
地上を走り回ることを想定したヒューマノイド型ロボット兵器にはなおさらだった。
しかし一番の理由は、ヒューマノイド同士がお互いを破壊しあうのを、人間ははるか後方にいてVRMで見ているだけというのは、ゲームか安っぽい映画だと人間を失望させたことにあるのは確かである。
重要なことは、一方で無益な殺し合いだといいながら、人間は人間に殺されることを望み、決してヒューマノイドロボットに殺されることを望まない、いやそのことに嫌悪さえ感じる傾向が強いということである。これは人間精神の奥深くに根ざす本質的嫌悪というべきかも知れない。

結局人型のロボット工学の軍事転用は、人間の数倍のパワーを持ち、かつ人間の反射神経を極限まで推し進める方向に行かざるを得なかった。人体装着用のパワー増強ユニットに始まり、学習により人間の反応速度や運動能力をはるかに凌駕する戦闘スーツの開発である。外部装着型のサイボーグといっても良い。人間に神経に連動し、学習が進めば人間の反射神経をはるかに上回る反応速度や、同時に複数の目標を認識攻撃できる機能が備えられたのである。
皮肉なことは、これら戦闘用パワースーツの研究は、人間の神経伝達によって作用する精妙な義手義足の開発という福祉ないし医療目的工学原理の転用だったことである。こらら医療目的の軍事転用には激しい抵抗があったが(特許の供与を禁止するという)、人間に完全な秘密保持が不可能であることを改めて証明したに過ぎなかった。まして、ネットワーク社会においてはなおさらであった。技術はあっという間に流出し、兵器産業はそれによって多大な利益を得た。
しかも不思議なことにこのスーツ(といっても、人間の数倍の大きさを有する神話時代の巨大ロボットに似たものになったところは、人間の創造力の固着傾向を示すのか、あるいはいわゆる「童心」を示すものとして興味深い。)を着用しての訓練された兵士の中から、兵士の最上級の反射神経や敵探知能力、敵の動きに対する「先読み」といった能力が特異的に高いものが現れ始めたことは特質に値する。彼らは、神話時代の日本のアニメーション「ガンダム」に現れる「ニュータイプ」、つまり最良のアスリートをはるかに凌駕する反応性(20世紀の精神医学者C・Gユングと物理学者のパウリがとなえた「共時性=シンクロニシティ」感覚が発達したものという仮説が有力だが、量子コンピューター開発と時期を同じくして顕著に現れたがゆえに、量子的事象の混在をそのまま認知するのではないかとの仮説が提出されている)、少し先の未来を認知する能力を備えていることが実証されたのである。

しかし「ガンダム」との一番大きな相違は、宇宙戦闘用ではなく、あくまで重力が働いている地上の戦闘に限られて開発されたことだ。
宇宙空間における戦闘用具としては「姿勢制御」に膨大な労力が割かれてしまうという欠点があったからだ。肩に担いだり、腕に持ったミサイルランチャーや粒子ビームを撃てば、反動モーメントで機体は回転する。高エネルギーレーザーパルスや、レールガンで小さくても質量のある物体を宇宙空間に飛ばせば、きわめて危険な「デブリ」(その軌道は誰にもわからない)となることは疑いない。宇宙空間での戦闘は、空に向かって吐いた唾が自分の顔にかかる(秒速20キロメートル以上で、やすやすと船殻を貫いた質量500gの鉄球が船内を空気摩擦で燃えながらつら抜いてゆくのだ)ことを覚悟しないといけないという究極の選択を迫り、ついには実現しえなかった。
宇宙空間での戦闘が起きなかったのは幸運としか言いようがない。もし兵器に技術力と資金が食い尽くされていれば、月面上の諸都市や基地は存在できなかったのだから。

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