第一章 本土空襲が始まった時、軍首脳部が一番初めにしたことは自分達の為にシェルターを造ることであった。場所の選定から図面の作成までが嘗てないほどのすばらしい手際で完了し、工事は土木建築のスペシャリスト達とどこぞの国から連れてきた労働者達を使って驚異的スピ−ドで進められた。現場監督達は頻繁に「もっと深く!」というかけ声を発して労働者達を働かせた。工事が終われば彼らがこのシェルターに入ることはないのであるが彼らはこのシェルターがこの国と自分の唯一の希望であるかのように感じていた。訳もわからず言われるままに働かされている労働者達は疲労と不安と恐怖を紛らわす為に真暗い穴の中で小さな声で祖国の歌を歌った。歌うたびに監督たちに殴りつけられたが彼らは無意識の内に歌い始めた。歌わせておいたほう作業が早いので監督達も黙認するようになった。結果、完成までの半年間、その地表にある森林には昼夜問わず地中からうなり声が響いていた。 軍司令部作戦室が「作戦本部」に移って来てから戦況は一変した。いや戦況が一変したというより軍首脳達が強気になって戦況の見方が変わっただけといったほうがいいかもしれない。相変わらず艦隊は負け続けていたし、本土空襲は酷くなる一方であった。だが「作戦本部」はびくともしない。地表面の入り口に直撃弾を食らっても微風も感じないという造りである。「作戦本部」内部は何層にも分かれている。司令部、居住区、倉庫と分かれていて地表に一番近い階層(といっても気の遠くなるほどの地下であるが)には精神回復室と呼ばれる性欲処理室まであった。この精神回復室に関しては後ほど詳しく説明する。 この作戦本部に生活するのは軍関係者の一握り、三十名ほどである。ほとんどが作戦室付将校でこれは十五名いる。 その中では若いほうに属する作戦本部付参謀ヤマダフミオ中佐は通信室から入ってくる情報を「戦況報告書」に書き写していた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ◎1400時。第二艦隊司令部より入電。 現地時間12月22日1400時、アカカ島沖東二十キロにて敵艦隊と遭遇。戦闘状態に突入せり。 ◎1415時。同艦隊司令部より入電。 敵巡洋艦一隻を撃沈す。我が艦隊の損害いたって軽微。 ◎1445時。同艦隊司令部より入電。 敵駆逐艦一隻を撃沈す。我が艦隊の損害いたって軽微。 ◎1500時。同艦隊司令部より入電。 敵水雷艇二隻を撃沈す。我が艦隊の損害いたって軽微。 以後、応答なし。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− この「戦況報告書」は三十分後に開かれる定例作戦会議に提出される。会議の場所はヤマダフミオ中佐が今報告書を書いている作戦室。二十畳ほどの室内の中央に長机がありその上に電灯がぶら下がっている。壁には(地下だから当たり前のことだが)窓が一つもなくコンクリート剥き出しである。部屋の隅にかなり大きいエアコンがあるが天井の換気装置がブンブン唸りながら強制的に室内の空気を排出してしまうのでちっとも暖かくはない。ヤマダフミオ中佐が報告書を書いているのはこのエアコンの真ん前である。彼が報告書や通信記録を机の上にひろげている為作戦本部付参謀ヨネカサノリアキ中佐が海図をひろげることができずに困っている。ヨネカサノリアキ中佐は参謀の中ではもっとも若い。彼は作戦室ではまったく存在感がなくほとんど路傍の石といった存在でいつも忘れ去られている。作戦会議の席次に名前が載っていないこともしばしばある。そういうときは彼は会議には出席しない。それが明らかに書忘れということが分かる場合でも呼ばれていないから出ないのは当然と思っている。しかしその事にも誰も気づく者はいないし会議の進行に何の影響もない。彼はその間自室でベッドに 潜って息を殺している。「誰も気づかないでください。」「僕なんて最初からこの世にいないと思ってください。」「僕はそれでいいんです。世間の片隅で細々と息をしていればそれでいいんです。」今ヨネカサノリアキ中佐は部屋の隅のストーブから一番遠い場所でじっとしている。心の中ではヤマダフミオ中佐に机をあけてほしいのだがそれを言い出すことができない。彼は心の中で練習している。「海図に戦況を書き込まなければなりませんので机をほんのすこしあけていただけないでしょうか。」何度も練習しているがそれを言う勇気はない。ヤマダフミオ中佐が自発的に自分に気づいて「ああ、わるいわるい。」と机をあけてくれることに期待している。「そうだヤマダ中佐は僕を嫌っているんだ。僕が嫌いなんだ。だからあんな厳めしい顔をしているんだ。僕がここにいることが気に入らないんだ。そうだそうなんだゴメンナサイゴメンナサイ僕が悪いんです。僕がヤマダ中佐を不快にさせてしまったんだ。僕なんかいなければいいんだ僕なんか死んでしまえばいいんだ生まれてこなければ良かったんだ」ヤマダフミオ中佐はやっと「戦況報告書」を書き終え、この殺風景な室内からでていった。ヨネ カサノリアキ中佐は自己嫌悪の淵にはまりこんでしまっていたがヤマダフミオ中佐がいなくなり急に涼やかな顔になった。彼は海図をひろげ戦況の記入に取りかかる。 作戦室のドアを開けると細い廊下である。左側に通信室、右側に資料室となる。ヤマダフミオ中佐は右に進み印刷機のある資料室に入った。彼は今書き上げたばかりの報告書を印刷機に入れてスイッチを押した。ガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコガッチャンコ報告書が印刷機からガッチャンコガッチャンコガッチャンコ排出されてくる。ガッチャンコガッチャンコそろそろ人数分だなと思いスイッチ押して終了させる。全部で十五枚、会議に出席する人数分丁度であった。 定例作戦会議は作戦本部付主任参謀ヨコマノリカタ大佐の怒号に似た演説で始まった。 「この報告書に見えるように我が軍の勝利はもはや目前にせまっております。何をためらうことがありましょうか。今が敵国首都に揚陸する絶好の機会であります。この機会を逃す手はありません。」 ヨコマノリカタ大佐は右手をぶるんぶるん振り回して吠え立てた。 「タセ中佐っ。貴様もそう思うだろ。」 長机の隅のほうでせせこましく茶をすすっていた作戦本部付参謀タセヒロシ中佐がびくっとして椅子から腰を浮かせた。タセヒロシ中佐はおどおどと、まるで自分自身に向かってしゃべっているかのように口の中でモゴモゴブツブツとつぶやいた。誰一人としてその言葉を日本語として理解出来たものはいない。ただそのつぶやきの中に「・・・全滅」という言葉が混じっていたのをヤマダフミオ中佐だけが気がついたが彼は黙っていた。ヨコマノリカタ大佐はいかにもタセヒロシ中佐の同意を得たかのように頷きドカっと椅子に腰を下ろした。その一連の流れは一種の儀式のようなものであった。 次に参謀長コノヤマシロウ少将が低い鼻にチョコンと乗った丸眼鏡をしきりに気にしながら「戦況報告書」を読み始めた。それは本来ヤマダフミオ中佐の仕事であったがいつのまにか「戦況報告書」を読むのはコノヤマシロウ少将ということになってしまっている。彼がオペラ歌手のようなよく透るテノールで高らかに報告書を読み上げるとどんな無味乾燥な報告も感動的に聞こえる。彼は皆といる時は紳士であったが、ひとりになるとよくウンコを漏らした。あるときウンコを漏らして自分でそのウンコまみれのパンツを便所の水道で洗っていた。洗っても洗ってもウンコは取れず、泣きながら洗っても取れなかった。結局そのウンコまみれのパンツをひとしれず便所に流した。結果、便所は詰まりその階層中がウンコまみれになったが彼がその原因をつくった犯人であるということはまったく気づかれることはなかった。それは彼が他人といっしょのときには非常に快活な男で、まさかウンコを漏らしたりそのウンコのついたパンツを便所に流したりするような男には見えなかったからである。 参謀長コノヤマシロウ少将が戦況報告書を読み終わった所で作戦本部付参謀ヨシオトヨシヲ中佐が登場する。彼は病んでいた。同僚達に自分はもう永くないと言い続けていたので同僚達の間で彼は大病の男ということになっていた。朝起きた時に一時間点滴をうけ、三時間毎に注射をうち、食事の後に薬を飲み夜寝るときに座薬を入れる。そういう彼を見て同僚達はさらに彼に死が近づいていると信じ込んでいくのであった。だが実は彼は同僚の気をひきたいだけであった。彼には病人である事以外に何も特徴がなかった。彼は意識して青白くやせ細ったし、睡眠時間を極端に削って目の下にクマを作ったりもした。毎日医務室に通って軍医長カキザネタシキ大佐の診察を受けた。カキザネタシキ大佐は特に彼に病名を言わなかったが彼は勝手に突発型慢性多臓器不全症候群という病名を自分に付けた。彼はそういった意味では本当に病気であった。彼はつらそうに立ち上がると戦況の書かれた海図を棒で指し示しながら現在の気象状況の説明をした。彼は皆に労ってほしかったので途中で咳払いを何度もした。しかしそのことに誰も注意を払わなかったので彼は多少不機嫌になった。彼が不機嫌になったので さっきまで晴れていた海域が急に雷雨になったりしたが誰も気づかなかった。彼はか細い声で「以上で気象報告を終わります」といって崩れるように椅子に座り込んだ。それを待っていたかのようにコノヤマシロウ少将が「バイカン中佐。各艦隊の補給計画の報告をしてくれ給え。」と言った。 作戦本部付参謀バイガンリュウキ中佐は自分の名前がバイカンリュウキであるということぐらいは理解できた。しかし報告をするということを理解するのには多少の時間がかかった。だから彼は名指しされてもしばらくの間焦点の定まらぬ目で何となく前の方を眺めていた。しばしの時間の後、彼は自分が立ち上がらなければならないと気づいたが、はて立ち上がるというのはどうすれば良いのだっけとまた前方に目を泳がせながら考え込んでしまった。毎度の事なので事情の分かっているコノヤマシロウ少将が良く透る声で「バイカン中佐。座ったままで良いから君の手もとにある資料を読んでくれないかね。いや、いい。その資料を私に貸してくれ給え。私が読もう。」という。そうか。自分は今座っているという状態なのだ。と思う内にコノヤマシロウ少将が艦隊補給計画の報告書を取りに来て目の前から持ち去る。あれ、目の前から紙束がなくなった。いつのまにかコノヤマシロウ少将が歌うように報告書を読み始めている。目の前にあったはずの紙束が何故あんな所にあるのだ。 「・・・イハ1022乙に対する燃料の輸送時間は220である。ゴラ56−9を使用した場合その時間は156にまで短縮されるがこの時敵の索敵範囲内に進入する危険性がある。サテ7328甲にとってゴラ56−9の使用は障害になりうるがこれはイハ1022乙に対する有効性を考慮すれば大きな問題にはならないだろう。・・・」バイカンリュウキ中佐は目を泳がせたままじっとしている。 ここで副官キシタケアキラ少佐が登場する。彼は便所掃除担当であった。彼は便所がすきだった。彼にとって便所はオンナだった。彼が十数年前初めて夢精したとき彼の脳に出ていた映像は便器と抱き合って便槽に落ちていく場面だった。その内に便器を見ただけで勃起するようになった。勃起しながら小便をしようとするので小便が飛び散り便所の床が小便だらけになった。だから便所の掃除をするようになったのだが、彼は便器を磨いているときに最も性的興奮を覚えることを知った。彼はこの作戦本部に配属されたとき真っ先に便所掃除を志願し、承諾された。彼が来るまで作戦本部の便所は汚れ放題だったが、彼が来てからは見違えるほどきれいになった。先日、誰かが便所にウンコ以外の物を便器に流して便所中をウンコまみれにしたとき、彼は作戦本部に来て初めてキレた。作戦本部中を怒鳴り散らしてまわったが犯人は分からなかった。それ以降彼にとって作戦本部にいる全ての人間が敵になった。彼は誰と話している時でも「便所詰まらせたのはおまえだろう。」「てめえウンコ詰まらせたくせに笑って話してんじゃねえ。」と思っていた。が、彼はいつでも笑っていた。会議中もそれは同じ であった。彼は無気味なウスラ笑いを浮かべながら黒板に戦況を書いていった。彼はチョークを軋ませながらコノヤマシロウ少将の読む報告を黒板に書いていった。そして最後にそれまで空白にしておいた第二艦隊の所に全滅とさりげなく書いた。 キシタケアキラ少佐が「第二艦隊・・・全滅」と書いた途端に怒鳴り声を上げたのは作戦本部長ヤダトクサブロウ大将であった。「貴様!全滅とは何事だ。この報告書のどこにそのような報告があるのだ。馬鹿もの!貴様みたいな奴がこの国を駄目にしたんだ貴様だ!貴様が悪いんだ!恥を知れ!馬鹿野郎!」キシタケアキラ少佐はウスラ笑いを浮かべたままその「全滅」を消し「第二艦隊・・・大勝」と書き直した。「ウンコの国の王子様みたいなウンコするくせに。」と思ったがやはり顔は笑っている。結局黒板にはこう書かれた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第一艦隊・・・現状維持 第二艦隊・・・アカカ島沖にて戦闘・大勝 第三艦隊・・・現状維持 第四艦隊・・・現状維持 第五艦隊・・・テルルカンタラ基地に寄港 第六艦隊・・・現状維持 第七艦隊・・・現状維持 第八艦隊・・・現状維持 第九艦隊・・・現状維持 第十艦隊・・・マタンコ湾沖を航行中 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 応答のない艦隊はすべて現状維持と書かれた。 一頻りの報告が終わった後、作戦の大網についての論議になるのはずであるのだが毎回ヤダトクサブロウ大将の「変更なし。」の一言で終わってしまう。書記を勤める副官エンセキユキツラ少佐もここの論議については「同右」としか書かない。その前回にしても「同右」であるが誰もそのことに気を止めない。延々続いてきた「同右」の始まる前になにがあったのかすでに知るものはいない。 突然、ヨコマノリカタ大佐が立ち上がりヤダトクサブロウ大将に言った。 「本部長閣下、現在自由に行き来することのできる地表に繋がる門を閉鎖したらどうでありましょうか。本土空襲の激しくなっている昨今、敵にこの作戦本部の場所を察知させてしまうような行動は慎むべきと存じます。」 「確かに貴官の言うとおりだな。検討しよう。」ヤダトクサブロウ大将は椅子に踏ん反り返ったまま鷹揚に答えると顔だけで出席者達を見回しながら言った。 「諸君も現在この作戦本部の置かれている状態がどのようなものか十分承知の事と思う。確かに我々作戦本部に勤務しているものにとってそのような事態はかなりの困難を伴うものになるであろう。しかしそれは国家の安泰にはかえがたい。皆、国家と国民の為に耐えようではないか。」ヨコマノリカタ大佐は片頬だけでニヤリと笑った。 このやりとりは二人の間で用意されていたものであろう。ヤダトクサブロウ大将がこういえばそれは決定したも同じ事であった。もしもそれに反対したらその反対した者は後々陰湿な嫌がらせにあった。無視されるぐらいならまだ軽い方で、「反逆者」と書かれた紙を背中に張り付けられたり、制帽を隠されたり、自室の暖房を止められたり、椅子の上に画鋲を置かれたり、ありとあらゆる手段で嫌がらせをしてきた。だから誰もヤダトクサブロウ大将に意見を言うものはなかった。 作戦会議は終わった。次々と将官達が作戦室から出ていく。その中にはまだ紹介していない三人も含まれている。彼ら三人の事はまた後で紹介しよう。とりあえず今は将官達が出ていった後の作戦室に残っているタセヒロシ中佐の事に目を向けることにする。 タセヒロシ中佐は一人でいるのが好きだった。彼はこの作戦本部で消費される時間のほとんどを一人で過ごした。彼は他人が嫌いでそれ以上に自分が嫌いだった。しかしヨネカサノリアキ中佐のように存在が希薄というようなことはなく逆にこの作戦本部にいる全ての人間が彼に注意を向けた。日頃ブツブツと意味不明なことを呟いている彼はこの作戦本部で起こるさまざまな出来事に登場した。便所が詰まったアノ事件の時、真っ先に疑われたのが彼だった。当初便所掃除のキシタケアキラ少佐はタセヒロシ中佐が犯人だという確信をもっていた。それを確認するべく事件の後キシタケアキラ少佐がタセヒロシ中佐を食堂で詰問した。詰問したといってもタセヒロシ中佐は上官にあたる訳だから強い口調ではない。「タセ中佐殿。先日、便所が詰まって階層中が汚物まみれになったのでありますが中佐殿は便所に何か水に溶けない物を流されませんでしたか。」タセヒロシ中佐は突然泣きだした。キシタケアキラ少佐はタセヒロシ中佐が泣いている理由がさっぱり分からなかったので彼自身で日頃の無気味な笑顔を浮かべてその後の反応を伺った。すると何もなかったように泣き声がおさまりいつもの無表情 に戻った。キシタケアキラ少佐は恐くなりタセヒロシ中佐を犯人として追求することを諦めた。 タセヒロシ中佐は作戦会議中に泣き出す事もしばしばあった。作戦本部長ヤダトクサブロウ大将が「我が艦隊は不敗である!!」と演説をぶっている時でも泣き声をあげた。その泣き方があまりにも叙情的なので自分の演説に感動して泣いたのだと勘違いしたらしいヤダトクサブロウ大将が彼の方を向いてわかったわかったと頷く。そうやって彼は彼の知らない内に点数を稼いでいくのだが彼の意図する所ではない。 今日も彼は作戦会議が終わった後の作戦室でねっとりとした前髪をゆらしながら泣いていた。それはいつになく続いている。作戦会議の後片づけをしていたヤマダフミオ中佐はそれに気づいたがもう少し様子を見ようと思う。いつまでも席を立とうとせず横隔膜を痙攣させながら泣いているこの男を見て空恐ろしくなる。何でそんなに泣けるのだろう。この泣き方は尋常ではない。 泣き続けるタセヒロシ中佐は目を見開いたまま呼吸困難に陥り椅子から崩れ落ちる。ヤマダフミオ中佐は慌てて、今にも倒れそうに作戦室から出ていこうとしているヨシオトヨシヲ中佐を呼び止めてタセヒロシ中佐を抱き起こし医務室まで担いでいく。医務室はこの作戦室のある階層の一つ上の階にある。廊下を抜けて階段を登っていくのであるが痙攣しながら失神しているタセヒロシ中佐を背負って登るのはつらい。ヨシオトヨシヲ中佐は黙ってつらそうについてくるだけで手伝おうとはしない。 軍医部長カキザネタシキ軍医監(大佐相当)は医務室でくつろいでいた。この階層にある三つの部屋の一番おくにあるのが医務室で階段から見て右側に病人収容室、左側に診察室兼手術室がある。どの階層もそうだが廊下を真中にして三つ葉のクローバーの様な形に部屋が配置されている。カキザネタシキ軍医監はグレーの事務椅子を軋ませながらコーヒーを飲んでいる。彼は時よりカイゼル髭に手をやって毛並みを整える。そして近づいてくる足音をじっと聞いている。「タセ中佐。しっかりしろ。」この声はヤマダフミオ中佐だな。もう一人足音が聞こえるがタセ中佐だろうか。いや、タセヒロシ中佐がここに運ばれて来るときは大抵失神しているので他の誰かだろう。この足の運びはヨシオトヨシヲ中佐か。大げさなふらつきようが目に見えるようだ。カキザネタシキ軍医監は軍医タテレキヨウハク二等軍医正(少佐相当)を呼び、気付け薬を用意するように命じた。タセヒロシ中佐が運ばれてくるときは大体それで事がたりる。 ドアをノックする音。「はい。」と低い声で無愛想に答える。それはhaiよりhoiに近い。「自分はヤマダフミオでありますが、タセ中佐が倒れまして。」「入れ。」「失礼します。」ヤマダフミオ中佐はタセヒロシ中佐を担ぎ上げたまま入ってきてタセヒロシ中佐をベッドに座らせた。タテレキヨウハク二等軍医正が進み出て気付け薬をタセヒロシ中佐の鼻の下に持っていく。すぐさまタセヒロシ中佐が咳き込んで鼻を鳴らした。「もう大丈夫だ。下がれ。」「失礼しました。」ヤマダフミオ中佐はタセヒロシ中佐を立ち上がらせ医務室を出ていった。しかしまだヨシオトヨシヲ中佐が残っている。「まだ何か用かね。」「実は体の調子が頗る悪くて。」「具体的にどういう感じなんだ。」カキザネタシキ軍医監がヨシオトヨシヲ中佐に椅子に座れと促す。ヨシオトヨシヲ中佐は我が意を得たりとばかりに椅子に座ると軍服の詰襟を外してボタンを外し始める。「あのですね。昨日の夜からずっと背中と胸が痛くてですね、もう寝てられないんですよ。」カキザネタシキ軍医監は首からさげた聴診器を耳に付けると上半身裸になったヨシオトヨシヲの胸に聴診器の先をあてる。ごく正常な心拍音と呼吸音である 。「背中と胸ねえ。なんだろうね。」「ですから何かの病気の兆候かと思いまして、できればもっと詳しい検査をしていただきたいのですが。」「詳しい検査となるとここでは無理だね。」「しかし、軍務に差し支えるとまずいものですから。」成程、こいつは長期外出許可がほしいんだな。だがこんな折だからな、それは無理だ。「いつもの薬を出しておくから。しばらく様子をみよう。」露骨にがっかりした顔をしたヨシオトヨシヲ中佐はタテレキヨウハク二等軍医正から薬を受け取ると服を着てすごすご帰っていった。カキザネタシキ軍医監はそれを見届けてから冷めたコーヒーを一気に飲み干しタテレキヨウハク二等軍医正に二杯目のコーヒーを入れるように命じた。 作戦室のある階層から一つ下の階層にある事務室では倉庫管理室長ダイゲンヨシユキ少佐が悩んでいた。ヤマダフミオ中佐からの報告で近いうちにこの作戦本部が完全に外界から遮断されるであろうということを聞いて物資の補給についての予定を変更しなければならなかった。彼はいつでも倉庫に物資がいっぱいに詰まっていないと気が休まらなかった。だから今後一切物資の補給がなく倉庫の物資が減る一方になるということに非常な不安と恐怖をおぼえた。彼は今ある物資でどのくらい無補給でいられるかの計算をしていた。医薬品類はある特定の人物(ヨシオトヨシヲ中佐の事である)が使用を控えれば十分に足りるし、水は地下水を使用しているから問題なかったが食料品、紙類が四カ月程しかもたず、発電用の石油は切り詰めたとしても三カ月が限界であった。つまり三カ月後までに補給をうけるか戦争が終結するかしなければならないのである。ダイゲンヨシユキ少佐は頭を抱えていた。せめてあの『大きな部屋』に物資を入れる事が出来たらと思った。 ダイゲンヨシユキ少佐が初めてこの作戦本部に来たとき、施設管理室長のカンジョウサネヒロ大佐が作戦本部構内を案内してくれた。精神回復室から司令区までの階層にはあまり興味が湧かなかったが、倉庫を見て彼の目は輝いた。倉庫のある階層は配管のパイプやら送電ケーブルなどが張り巡らされて複雑に入り組んでいたが倉庫そのものは大きかった。何も入っていない幾つかの倉庫を見て彼はこの倉庫ぎっしりに物資が詰まることを夢想してほくそ笑んだ。そして彼は倉庫の横にある『大きな部屋』に興味を持ち質問した。「この部屋は何でありますか。」「ああ、この部屋か。特に使用目的はない。」「ならば倉庫として使用してもよいのでしょうか。」「いや、それは困る。この部屋に物を持ち込んではならない。」ダイゲンヨシユキ少佐はこの使用不可の『大きな部屋』を見回した。それは倉庫よりも大きく広々としていた。彼は高い天井に五つほど丸い穴がぽっかりと開いているのを発見したがそれについては質問しなかった。 ダイゲンヨシユキ少佐はカンジョウサネヒロ大佐にあの『大きな部屋』の使用についてもう一度掛け合ってみようと思った。 施設管理室長カンジョウサネヒロ大佐は今作戦本部にいる人員の中で作戦本部の設計段階から携わった唯一の人物であった。彼がここに来る前の肩書きは大本営施設管理設計技術部長で施設設計の最高責任者であった。その彼はこの作戦本部のほとんどの部分を設計した。倉庫を司令区よりも下の階層に複雑に配置したのは彼のアイデアだった。一番上の精神回復室のある階層から司令区までが比較的単純な構造であるのに比べ、司令区から下の倉庫から動力室までの階層はかなり入り組んだ迷路的な構造になっており、さらに司令区と倉庫を繋ぐ階段の途中には施設出入り口にある物と同じ位大きな防護扉が設置されていて倉庫から下の階層に容易に行かせないような工夫もしていた。倉庫管理室長ダイゲンヨシユキ少佐や厨房室長ケデニシフテツ少佐は毎日長い道程を倉庫まで降りていかなければならないので文句ばかり言っていたがカンジョウサネヒロ大佐にしてみれば倉庫を空爆から護るということは当然の事でそんなことに不満を言ってくる事自体がおかしいと思っていた。今もダイゲンヨシユキ少佐が倉庫の隣の部屋を使わせてくれとか言って来ている。 「だからあの部屋には物資なんか入れてはいかんのだ。」「何故でしょうか。」「あの部屋は緊急の時にどうしても必要になる。」「敵が進入して来た時にその部屋に隠れるんですか。」「いや。あの部屋に人間が入ることはないだろう。」「それなら何に必要なんですか。」「それは今は言えない。」ここでカンジョウサネヒロ大佐は一息ついて言った。「物資が三カ月しかもたないというが本気で三カ月以上もこの作戦本部の出入り口が閉め切られると思っているのか。もう少し現実的に物事を考え給え。本部長(ヤダトクサブロウ大将)が閉めると言ったって本部長自身、定例の政府・大本営連絡会議に出席しなければならんのだし、軍の高官がここを訪れることだってあるんだ。そんな出入り口の封鎖なんて無理に決まってるんだよ。」「出入り口の封鎖だけでなく防護扉も閉めるらしいのです。」「防護扉をしめるだと。まさか。たしかにこの作戦本部はシェルターとして造ってあるがね。しかしそれは万が一の時、つまり戦争が最終的段階まで進んでしまった時の為の物だ。防護扉はシェルターとしての構造上、一度閉めたら六カ月は中からも外からも開けることが出来なくなる。いくら本土爆撃が 激しくなってきたといえ、まだその機能を使う段階まで戦況は悪化してないじゃないか。この状況下で防護扉を閉めたりなんて出来ないんだよ。第一、君が言うように食料が四カ月しかもたないとすれば我々全員餓死することになる。」 カンジョウサネヒロ大佐にそこまで言われればダイゲンヨシユキ少佐も引き下がざるを得なかった。 厨房室長ケデニシフテツ少佐は自分が小説の登場人物の一人だと思っていた。彼にとって見える全てのものが場面設定の為の書割で、自分の発言や誰かの発言も小説の中のセリフにすぎなかった。だから彼は自分がコックのステロタイプである「でっぷりと貫禄のある」体型でなく、最もコックに似つかわしくない「貧相で栄養失調ぎみな」体型であることを悩んでいた。自分はこの小説の秩序を乱しているのだと真剣に悩み胃にいくつも穴を開けていた。いや胃に穴を開けているというのも作者がそう表現したからにすぎないと思っている。だから彼には作者が表現しないかぎり過去も記憶も存在しなかった。その彼が今カチンカチンに凍った牛肉と格闘している。厨房室の隣の冷凍室には吊りがねに沢山肉がぶら下がっているが今日の夕食(地下なので昼も夜もなかったが)には今切っている分だけで十分であろう。非力な自分が鋸片手にこんな重労働をしているのは作者の自分に対するいじめだと思っているがその怒りをどこにぶつければよいのかわからない。ここで鋸を振り回して見ても作者には届かないのだ。そもそもその行動にしたって作者が自分にそうさせているだけなのだから結局は作者の掌 の上の事なのである。だからケデニシフテツ少佐はまじめに料理を作る。作っていると作者に表現される。それしか仕方がない。夕食の支度にいつも手伝いにくる精神回復室の三人の娘が今日は来ない。多分誰かの相手をしているのだろう。あのかわいい三人の娘が将校達の性の捌け口になってるかと思うと心が痛む。いや、心が痛むと作者が表現する。 ここに一人黙々と階段を登る男がいる。さっきまで作戦会議で大口たたいていたのが嘘のように黙々と階段を登る。きれいに剃り上げた頭は青々として無気味に光っている。彼の目指す場所こそ精神回復室、つまり性欲処理室である。前述のとおりその部屋は一番地表に近い階層にある。その階層の三室すべてが精神回復室で一部屋一部屋にいわゆる慰安婦がいる。表向き彼女らは別の役職でこの作戦本部に入っていてそれが通信助手であろうが厨房助手であろうが医療助手であろうが彼女らはその仕事をせずこの精神回復室に常駐している。精神回復室というのはそもそも休憩用のベッドが置いてある文字通り精神保養の為の部屋だったのであるがいつのまにかそういう目的に使用されるようになった。男が精神回復室の前の廊下で立ち止まる。この男はヨコマノリカタ大佐である。どの部屋にも先客がいる事をあらわす「使用中」の札は掛かっていない。彼は眉間に皺を寄せたまま右側の部屋を三回ノックする。「はい。」という甘ったるい響きの声が返ってくる。ヨコマノリカタ大佐はそのままの顔でドアを開ける。「ヨコマさま。お待ち申し上げておりました。」衝立の向うのソファーから立ち上がっ てヨコマノリカタ大佐の方に歩いてきたのがユリコ嬢である。髪がうっすら濡れているのでさっきシャワーを浴びたということが一目みてわかる。彼女はブラウスにスカートというごく普通の出で立ちである。彼女は通信助手としてこの作戦本部に配属された。実際に通信の訓練は受けているので軍務に就くとすればやってやれないことはない。ヨコマノリカタ大佐は「ウム。」と唸って衝立の横で立ち止まる。こんなところで虚勢をはっても仕方がないのに胸をはってユリコ嬢を見下ろす。ユリコ嬢がヨコマノリカタ大佐の軍服を脱がせにかかる。この時、なにか別の「サービス」を受けたいという者がいたらここではなく廊下を挟んで向かい側のミサキ嬢の所に行けば良い。たっぷりと時間をかけて服を脱がせてくれる。下着ひとつとなったヨコマノリカタ大佐は促されるままベッドに行く。ユリコ嬢が後ろに結わえた髪をおろし、スカートのホックに手をかける。と、気が付いたようにユリコ嬢が「電気を消してもいいですいか。」とヨコマノリカタ大佐に尋ねる。ベッドで天井を見上げたまま「ウム。」と一言答えるとユリコ嬢が壁に手を伸ばしスイッチを落とす。暗くなった室内に非常燈のオレンジ色の 光がほのかに揺れてその中でユリコ嬢がスカートを落しブラウスのボタンを一つ一つ外していく。この時、煌煌と輝く電灯の下で女の裸が見たいと言う者がいたならばこの部屋から出てすぐ右側にある部屋のナオミ嬢の所に行けば良い。一糸纏わぬ姿となったユリコ嬢はヨコマノリカタ大佐の傍らに美しい曲線を描く肢体を滑り込ませる。ヨコマノリカタ大佐はユリコ嬢を引き寄せ上に覆い被さり・・・・この先の描写は女性経験の乏しい作者の手前ご勘弁いただきたい。 作戦本部付参謀ゲンナイヨウイチ中佐はいつもちんこを握っていた。 彼は自分の兵隊を持っていた。それは完全な軍隊組織となっていて臀部師団肛門小隊にカツヤク筋軍曹がいたり頭師団目玉小隊には右水晶体曹長がいたりした。中でもいちばんの勢力を保っているのが性器師団ちんこ大隊でこの中には亀頭中尉や睾丸少尉がいて多大な発言力を持っていた。脳味噌中央司令部のシナプス大尉はこのちんこ大隊を無視することが出来ずにいつも彼らの我がままを聞いていた。目玉小隊にはいつもオンナの胸や尻を見るように命令し、腕師団右手大隊にはちんこを握るように命令を出していた。今も彼はちんこ大隊の命ずるままに脚師団を巧みに用いて階段を駆け上がっていた。その先には精神回復室が存在する。 彼は一気に階段を駆け上がると三つの部屋の前に立ち尽くす。右側の部屋、ユリコ嬢のドアには「使用中」の札が掛かっている。残るは奥の部屋のナオミ嬢と左側の部屋のミサキ嬢である。脳味噌中央司令部は各師団から送られてくる情報をもとに最善の決定を下そうと吟味を重ねる。ミサキ嬢の所はヤダトクサブロウ大将が来であろうという情報を脳味噌中央司令部は過去の資料の中から見つけだす。性器師団は突撃命令を出すように再三促す。そして脳味噌中央司令部は奥の部屋のナオミ嬢を選択する。ノックを三回してドアを開ける。「あ、ヨウイチさん。ひさしぶりですね。」ナオミ嬢のうきうきした声が返ってくる。彼は脳味噌中央司令部の判断に感謝していた。 もう一人こつこつと階段を登ってくる者がいるが誰であろう。踊り場で立ち止まる。しばらくして足音が遠ざかっていく。と、また足音が止まり、足音が近づいてくる。それを何回か繰り返した後姿を現わしたのは作戦本部次長クナイサキユキ中将であった。彼には自主性というものがまったくなかった。誰かに促されなければ何も出来ない男だった。だから今彼が自分でここまでやって来たのは彼にとって奇跡に近い事であった。彼は精神回復室をちらちらと横目で窺い見た。二つの部屋には「使用中」の札が下がっている。彼女ら言ってみれば売春婦だもの、売春婦ってのは客に優しくしてくれるんだ。だから僕にも優しくしてくれるだろう。それが仕事だもの。堂々と入ればいいんだ、そうだよ。いくらかのお金でおんなと優しさが買えるんだ。安いもんだって。だから入ろう。でもなあ、心の中では笑ってるんだろうな。「何この小さいチンコ」とかさ、「フンフン言っちゃって馬鹿みたい」とかさ、そうに決まっている。やめた、僕帰る。彼はまた反転して階段を降りようとした。すると誰かが登ってくる。ああ、こんなところを見られるのは嫌だ、どうしよう。そうだ、階段をさらに登って身を隠 そう。彼が階段を音も立てずに登って息を潜めて階段の脇の隙間から下を覗いているとカッカッカと階段を登って来るものがいる。ヤダトクサブロウ大将だ。危なかった。部屋に入らなくてよかった。ヤダトクサブロウ大将がミサキ嬢の部屋に入っていく。ヤダトクサブロウ大将はミサキ嬢がお気に入りなのだ。ああ、よかった。隠れて正解だった。 夕食の時間。チャイムとともに夕食は始まる。それぞれが配膳台で夕食を取り席につく。座る場所は暗黙の了解で各々決まっているので混乱はない。将軍達は自室で食事を採るが佐官級の将校たちはこの食堂で食事を採る。今もほとんどの将校達がここに集まっている。ただヨコマノリカタ大佐だけはいない。 配膳台の上に取り付けられたスピーカが突然ハウリングした。咳払い。声の主はヤダトクサブロウ大将である。 「えー。本日、この夕食後になると思うが、外部とこの作戦本部を繋いでいる通路の防護扉を閉め、この作戦本部は敵軍から完全に姿を隠す。これは我々個人の為ではなく国防の為の手段に他ならない。今後我々と外部を繋ぐものは大本営との直通回線電話と我が軍の通信と傍受する敵国の電波だけとなる。つまり我々はこの戦いが終結するまで外部にでることは出来ない。大本営と政府もそれを承認した。この作戦本部に勤務する諸君はその状況にも耐えうるだけの強靱な体躯と精神力を持っている。未来にある勝利の日まで共に戦おうではないか。」食堂で夕食を採っている将校たちはただ唖然としていた。これがヤダトクサブロウ大将とヨコマノリカタ大佐の独断で進められた事であるということは皆承知しているが、しかし今日の定例作戦会議でヨコマノリカタ大佐が言い出した事がこんなにも早く実現されてしまうとは思わなかった。出入り口の封鎖なんか出来るわけないと高を括っていた者達、特にカンジョウサネヒロ大佐の驚きは大きかった。彼はくわえたつま楊枝を吐き捨てて、茶を一気に飲んで食器を納膳台に置いて食堂を出ていく。行き先は作戦本部長室である。 「カンジョウか。いいところに来た。」ヤダトクサブロウ大将はいつになく上機嫌であった。カンジョウサネヒロ大佐は極力普通に言った。 「防護扉を閉めるということですが扉は一度閉めたら六カ月間は開けることが出来なくなります。倉庫管理室長ダイゲン少佐の報告では物資は三カ月しかもたないということですが。」 「倹約に倹約を重ねれば何とかなるだろう。水は豊富にある。それでだ、緊急時に防護扉を開ける鍵があるはずだが、それを私に渡してくれ。マスターとスペア両方をだ。」 鍵。確かに鍵はある。しかしそれは誤って防護扉が閉められてしまった時の為の緊急用であり、扉が閉められてから四十八時間以内しか使用できず、それを過ぎると扉の鍵穴そのものが塞がってしまう。 「軍の規定で国防大臣と大本営総長の許可がなければ鍵を渡す事は出来ません。」 「私はこの作戦本部を一任されたのだ。私の命令は軍首脳部の命令だ。」 「鍵は四十八時間で使用出来なくなります。」 「いいから渡せ。」 「分かりました。鍵は渡します。しかし防護扉を今日閉めるという決定は納得出来ません。せめて補給が完了し、六カ月間無補給で耐えられる態勢を整えてからにするべきです。」 「大本営と政府の決定だ。貴様は文句を言う立場にない。」 「何故今日でなければならないのですか。」 「何を言うか。貴様のような奴がいるからいかんのだ。貴様のせいだ。すべて貴様が悪いんだ。」 「そもそも、何故防護扉を閉めるのです。」 「貴様のような腰抜けは軍人ではない。人間でもない。クソ虫だ。クソ虫ごときが私に意見をするな。」 「どうなっても知りませんよ。」 「死ね。お前なんか死ね。死んでしまえ。」 動力室の内線電話が鳴った。動力室長クブトダヤサロウ中佐がおどおどと受話器を取る。「こちら動力室、クブトダヤサロウです。」 動力室長クブトダヤサロウ中佐は外見がヤダトクサブロウ大将にそっくりだった。声まで似ていて、彼が話し始めるとそこにいた将校達が一斉に彼の方を見た。本人はヤダトクサブロウ大将に似ていると言われるのが嫌でしょうがなく、似ていると言われる度に否定し続けていたのだが内心は自分でも体型や顔が少し似ていると思っている。その為かどうか、クブトダヤサロウ中佐は異常にヤダトクサブロウ大将に嫌われていた。何か気に入らない事があったときの矛先はすべてクブトダヤサロウ中佐のもとへ向かった。不機嫌なヤダトクサブロウ大将と出会った時、彼は歩いているだけで怒鳴られたし、息をするなと言われて殴られたりした。さらに運悪く目が合った時などは浴室まで引っ張っていかれ石鹸をくわえさせられて頭を湯船に押しつけられたりもした。しかし彼は耐えることしかしなかったのでヤダトクサブロウ大将の彼に対する虐待はさらにエスカレートしていった。彼は出来るだけヤダトクサブロウ大将と会わないように心がけていた。自然と彼は動力室に閉じ込もるようになった。彼は幾つかの発電機と水道ポンプ、給電ケーブルのひしめきあう動力室の片隅でじっとしていた。彼は金魚 とカナリヤを飼っている。カナリヤも金魚も自分の意志で飼い始めた訳ではなく、金魚は地下水の水質確認のため、カナリヤは空気の安全を調べるために飼うようにとカンジョウサネヒロ大佐から勧められたからであった。金魚はともかくカナリヤはクブトダヤサロウ中佐によくなついていた。そんな彼を落ち込ませたのはヤダトクサブロウ大将が視察と称して仕事の粗捜しに来てカナリヤの近くを通った時、カナリヤが陽気に鳴いた事であった。 「今すぐ施設の全暖房を止めるのだ。わかったな。」声でヤダトクサブロウ大将と分かった。クブトダヤサロウは見る見る内に青くなっていく。 「分かりました。施設の全暖房を止めます。閣下。」 チンと電話が切られた。クブトダヤサロウ中佐は走って暖房装置のスイッチ盤の所までいき即座に暖房の電源を落とした。 急に寒くなってきた。食堂に残っている数人の将校をのぞいて、ほとんどの将校は自室に戻った。ベッドと机とロッカーだけの自室に戻ったヨネカサノリアキ中佐はベッドの毛布に包まり震えている。頭まで被った毛布の中で過去を反芻し絶望し自己嫌悪する。彼は思い出す。小学校の時のクラスで飼っているウサギの餌をやらずに餓死させてみんなの前で謝った事。「僕は昨日ウサギに餌をやりませんでした。ごめんなさい。」直立不動の姿勢で涙をぼろぼろ流して謝ったけど、誰も許してくれなかった。「ヨネカサくんが悪い。ヨネカサくんのせいだ。」仇名も付かなかった少年時代。ただ謝ることだけが彼にできる唯一の行動だった。 「みんな僕の事なんか忘れてくれればいいのに。」 防護扉が閉まる。彼はそれを嫌だとは思わなかった。逆にうれしくさえ思った。 「これでもう戻らなくていいんだ。あの頃に。」 ヨコマノリカタ大佐は先ほどから防護扉を閉める作業に取りかかっている。作戦本部と地表を繋ぐ唯一の通路の中程にある防護扉は異様なほど分厚い。長い通路の遙向うに地表の光が見える。ヨコマノリカタ大佐は防護扉のすぐ脇にあるスイッチを押したり捻ったりしながら扉を閉める操作手順を追っている。すると通路の奥の方から階段を駆け上がってくる音が聞こえてくる。ヨコマノリカタ大佐はオレンジ色に薄く照らされている通路を怪訝そうに振り返ってみる。よたよた走ってくる男。 「いやだ。帰る。帰りたい。こんなところに閉じ込められるなんていやだ。帰るんだ。」 クナイサキユキ中将は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら防護扉を越えようとしてヨコマノリカタ大佐に取り押さえられる。 「中将。落ち着いてください。国家の為です。耐えましょう。勝利です。勝利の暁には大手を振って帰れるんです。耐えましょう。中将。」 弱々しい力でヨコマノリカタ大佐の手を振り解こうとしているクナイサキユキ中将の前で防護扉がゆっくりと閉まり始めた。重々しい音を立てて閉まっていく防護扉の遠い向うの出入り口に真赤な夕日が差し込んでいる。いや、もしかしたら夕日に見えるのは爆撃に燃える街の炎かもしれない。 「いやだあっっっっっ。」 ・・・・。 防護扉が完全に閉まり終えた。 第一章 終わり 第二章へ |