週刊墨教組 No.1268 2000.2.10

2000年「下町反戦ツアー」に参加して  報告1
 一月二九日、三十日と「沖縄の闘いと連帯する東京東部集会実行委員会」主催の「下町・反戦ツアー」に墨田教組から岩井と植木が参加した。墨田、葛飾、江東、荒川、台東、江戸川、足立の地公労関係の人、労組関係の人、市民団体関係の人と、総勢三十八人の人達が厳寒の東京をあとにして、沖縄へと旅立った。
 九六年の小学生少女暴行事件をきっかけとして八万五千人もの人々を反基地の闘いに立ち上がらせた「沖縄県民総決起大会」からすでに四年もの歳月が経って、その間沖縄にも大きな変化があった。
 まず、太田県知事が稲嶺知事に変わったこと、二〇〇〇年七月には、主要国首脳会談(沖縄サミット)が名護市で開催されようとしていること、私たちは沖縄の現実をこの目でみてくることとした。

辺野古の基地キャンプ・シュワブ
 暖かい沖縄の那覇空港に着いた一行はさっそく名護市の辺野古にある基地「キャンプ・シュワブ」へとバスを走らせた。
 名護市はいま緋寒ざくらが満開で、その紅色の花は平和そのもののようにいまを盛りと咲きほこっていた。琉球松の緑も鮮やかで、そこに在日米軍の海兵連隊が配置され、辺野古弾薬庫などの在日米軍施設があるとは思えなかった。
 基地「キャンプ・シュワブ」の海は、遠浅の珊瑚礁が沖合八qも続き、ワシントン条約で保護獣とされるジュゴンの棲息区域としても知られているところである(一月三十一日付けの朝日新聞にも紹介された)。しかし、鉄条網で囲まれた基地内は、一歩でも足を踏み入れたなら見張りの米軍がとんでくるところであった。

米軍基地の県内移設
 九六年、名護市から少し南の浦添市にある普天間飛行場を全面返還することに、アメリカが合意した。しかし、その代替地として、このキャンプ・シュワブ沖に数千億から一兆円ともいわれる費用をつぎ込んで、海上ヘリ基地を建設しようとしているのである。名護市の市民は「住民投票」でNOの意志を表明した。しかし、当時の市長は投票結果を無視して、ヘリ基地建設の受入れを承諾し、リコールを恐れて辞任という姑息な手段を使ったのである。

新たな基地はいらない
 キャンプ・シュワブのすぐそばに、粗末な手作りの小屋がたっていた。「命を守る会」のその小屋は、新たな基地の建設に命をかけて反対をしているオンジイ・オンバアたちの活動拠点であった。
 七八歳のオンジイが私たちを待っていてくれた。
 「新たな基地はいらない。この美しい海の沖合にヘリ基地を建設したらやんばるの自然は破壊され、事件・事故の多発につながる。また、他国への出撃基地としてつかわれるだろう。戦争のための基地が、子や孫に残せますか。私たちは生い先短い身、命をかけて新たな基地に反対していく。沖縄県民をなめるな。名護市民をみくびるな」と、オンジイは語る。
 静かな口調の中に、あの沖縄戦を必死の思いで生きぬいてきたオンジイやオンバアたちの「二度とあの苦しみを子や孫たちに味わわせたくない。」という強い心をみてとった。
 小屋のかたわらでは、阪神大震災の時に使われた仮設住宅が送られてきていて、新たな「基地建設反対」の小屋が造られようとしていた。

基地移設問題は
   基地の固定化につながる
 昨年十一月、稲嶺県知事が辺野古のキャンプ・シュワブ沖への移設を受け入れたのに続いて、現名護市長も十二月に「十五年」という期限を付けて「受入れ」た。これらの動きは、二〇〇〇年七月名護を主会場として開催される、先進国首脳会談(サミット)を控え、基地問題の年内決着を狙った政府のシナリオに基づくものである。
 「使用期限十五年」という条件は、一月六日の日米防衛会談を見ても明らかなように、「運用四十年・耐用二百年」という米軍の主張を前にあっけなく踏みにじられたのである。
 新たな基地がつくられれば、あと五十年、百年と沖縄はさらなる基地被害にさいなまれることになる。普天間基地返還の今こそ、基地をなくしていく絶好のチャンスである。
 「日米両政府はタライまわしをやめて普天間基地をサッサとホーキ(放棄)しなさい!」(心に届け女たちの声ネットワーク) 県内移設反対県民大会でたらいを回し、箒ではくパフォーマンスをする女性たちに、そして、辺野古のオンジイ・オンバアをはじめとした反対派の人達に心より声援を送って、名護市を後にした。

週刊墨教組 No.1270 2000.2.24

現在の米軍基地を見ながら、
沖縄の歴史を聞く

 二日目、名護市を出発して私たちは南に向かった。
 嘉数高地に向かうバスの中で、「ここの右手は・・・」と、説明が続く。道路沿いに高い塀が延々と続いていると思ったら、中が嘉手納基地。説明を聞かなければわからない。この塀は最近作られたというが、観光客に基地問題を見えにくくさせる効果は十分ありそうだ。「中にないのは、税務署と刑務所だけ」と言われる嘉手納基地の広さに圧倒される。
 嘉数高地に着き、普天間飛行場を見ながら説明を聴く。ここは日本軍の壕の跡、最初の戦闘地となった所。軍事機密だからと一切の情報を得られずにいてほぼ全滅だった周辺住民。そして、現在の米軍ヘリ基地で不時着・墜落事故はいくらでもという話。戦争末期、島中に飛行場が作られた。その中の一つである普天間飛行場は、米軍の上陸・占領以来、米軍基地であり続けてきた。
 次に浦添市に行った。国の予算で埋め立てて米軍用地に売った土地の収益で建てられたという立派な市役所。その九階の展望室から、現在のキャンプキンザー(牧浦補給基地)を見、那覇軍港移設予定とその反対運動について話を聞く。那覇湾の海と海岸沿いの土地はすべて米軍用地。海べりに見える長大な倉庫での塩素ガス事件。土壌汚染の心配と美しい砂浜。自分たちの海で泳いだことのない浦添市民と、きれいな自然海岸が唯一残された浦添の海。

当時のままのガマで
 米軍基地だらけの沖縄中部を後に、私たちは南部戦跡に向かった。
 糸数のアブチラガマに行く。一坪反戦地主会の方たちの働きかけで、中は当時のままに保存されている。ガマの長さは二七〇m。懐中電灯を手に、急な斜面を下りていく。日本軍の陣地・糧秣倉庫として、手を加えられた最深部で、懐中電灯を消し真の闇の中で話を聞く。結局、野戦病院の分院として使われ、ここでも最後には傷病兵が自決に追い込まれている。

歴史の改ざんも
未来を売り渡すまねも、許されない

 サイパン陥落後編成された日本軍は、中国戦線からの「三光作戦」に従事してきた軍を中心に配備された。日本軍がやったと同様のことが、米軍から沖縄に対してもという教え込み。集団自決の多発を生んだ一因である。
 天皇にまつろわぬ民・沖縄人。いつか裏切るにちがいないという、日本軍の根底にあった住民への恐怖が、スパイと断定されて殺された住民を生んだ。米軍上陸後、その方が安全と思い、多くの人達が日本軍と共に南部に逃げた。が、日本軍はどうしたか。米軍と日本軍の両方に殺されたという沖縄戦の実相がある。
 現在の米軍基地には、三種類がある。一つは、米軍の上陸・占領以来の普天間などの基地。そして二つ目が、「銃剣とブルドーザー」で作られた基地。三つ目が、ベトナム戦争のために新たに作られた基地である。

 高額の軍用地料に、自分の手で働く喜びを忘れる人もいる。見せしめとして、ねぎられる反戦地主への土地使用料。札で顔をはたくようにして、基地を存在させ続ける日本政府。基地の存在は、内面の荒廃も生んでいる。二重の意味で許されない。

 正直なところ、けして元気が出るような状況ではない。辺野古のオンジイやオンバアに、振興策の力に揺れる若い人たちをも含みこむしたたかさを見た。それでも、二月一日の新聞で報道されたように、名護市辺野古区長の自殺未遂があった。胸の痛む思いでいる。

「嘉手納基地包囲」に参加しよう
 七月二十日に、嘉手納基地の包囲を行うそうだ。県内の参加者では不足することになるであろう沖縄の現実がある。ぜひ、本土・東京からも、この嘉手納基地包囲に参加してほしいと呼びかけがあった。大きなホテルはサミットに取られていても、分宿すればいい。参加できる人は、行きましょう。


週刊墨教組 No.1267 2000.2.4

反戦平和教育の創造のために
 三月十日を節目とした特設平和授業のとりくみを進めよう

 今年もまた三月十日がやってきます。五十五年前のこの日、墨田・江東を中心とした東京の下町は米軍のB29 による無差別絨毯爆撃で猛火に包まれて焼き尽くされ、一夜にして十一万五千人の尊い命が焼土に埋もれたのでした。東京大空襲は、広島・長崎の原爆とともに、戦争の悲惨さと非人間性を、平和と人間の命の尊さを教えてくれる大切な教材と言えるでしょう。
 「戦争」が歴史のかなたに追いやられ、風化の現象がみられる今日、「東京大空襲」を自ら学び、子どもたちへ語り継ぐことは、私たち教師の課題と責務です。

戦争の実相を伝える
 街を破壊し、人間の命を奪い、動物たちをも殺し、親子を兄弟姉妹を友人を恋人を引き裂く、これが戦争です。「広島」「長崎」「東京大空襲」の、語り部たちの体験談、手記、写真、・・・・等々の貴重な資料は、今も戦争の悲惨や残虐、非人間性というその実相を伝えてくれています。
 私たち教師は、ほとんどが戦争の非体験者です。私たち自身の内側に何があるのか、戦争と平和の問題を子どもたちに語り継がずにはおれないという、心の内側から噴き出てくるものを感じているのか、まず、教師である私たち自身に問いかけながら、私たちは、戦争の実相を伝えるそれらの資料に学び、あるいは掘り起こし、自らの思想と言葉によって「戦争」を教材化し、その実相を子どもたちに伝えていかなければならないと思います。
想像力を培うこと
 現代はコンピューターの時代です。子どもたちはコンピューターゲームの中で、キーやボタンを操作しながら戦い、敵を破壊し殺戮することに慣れています。彼らの脳裏にある「戦争」は、生身の人間の苦しみや悲しみを全く捨象したゲームなのです。現代の戦争もまた、コンピューターを駆使したハイテク戦争です。
 また、大量の情報の中で、それとは裏腹に情報は操作され、報道と実相の落差も大きなものとなっています。湾岸戦争のときには、まるでコンピューターゲームででもあるかのように、テレビ画面に「戦争」が映し出されていました。そこからは、戦争の悲惨や残虐、非人間性は見えてきませんでした。しかし、画面の中で夜空に「美しく」飛び交う砲弾の下で、非人間的な惨状が繰り広げられていたのです。
 「戦争」は、時代や場所が変わっても、その本質が変わるものではありません。街が破壊され人間が殺されるのです。「東京大空襲」と同じように、様々な苦しみや悲しみが湾岸戦争でも起きていたことを知らなければなりません。
ヒロシマというとき
 被爆者詩人・栗原貞子さんは、戦後、原爆の悲惨・残虐・非人間性を、そして、人間の命の尊さを詠った数々の詩を発表しました。そして、一九七二年に「ヒロシマというとき」と題する詩を書いたのでした。
「〈ヒロシマ〉というとき/〈ああヒロシマ〉と/やさしくこたえてくれるだろうか」「〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉/〈ヒロシマ〉といえば女や子供を/壕のなかにとじこめ/ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑/〈ヒロシマ〉といえば血と炎のこだまが返って来るのだ」「アジアの国々の死者たちや無告の民が/いっせいに犯されたものの怒りを/噴きだすのだ」「〈ヒロシマ〉といえば/〈ああヒロシマ〉と/やさしいこたえがかえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」
加害者の視点
 敗戦直後から朝鮮戦争を経、一九六五年に米軍の北爆が開始されてベトナム戦争が激化するころから、反戦平和の運動に心を寄せる日本人の戦争意識は、大きく変化していきます。米軍に基地を提供しアメリカに従属する日本は、ベトナム戦争において加害者の立場であることに気づくのです。日本の資本が息を吹き返す契機となったのも、実は朝鮮戦争の特需によるところ大でした。加害者としてのこの自覚は、戦前・戦中において日本国家および日本国民が戦争加害者であったことを改めて自覚することにつながります。
「敗戦という時点で、私たちは、私たちだけがあたかも戦争の被害者であるかのように思いこんだときがある。たしかに、日本の戦争を指導した軍部と、それをとりまく支配層にたいしては、日本国民は戦争の被害者であったといえる。しかし、日本国民のひとりびとりは、銃を持って、中国大陸やそのほかに押し入っていった。そのとき、被害者は、中国人であったり、フィリピン人であったり、インドネシア人であったりしたのである。」(日高六郎著『戦後思想を考える』)
 ベトナム戦争のさなかに書かれた栗原貞子さんの「ヒロシマというとき」は、私たちの平和運動・平和教育を鋭く衝いたものと言えるでしょう。そして、今もなお、私たちの平和教育の実践に欠かしてはならない視点を示しているのです。
侵略の歴史の中に位置づけて
 「戦争」の学習は、「広島」「長崎」「東京大空襲」など、それだけで終わってはなりません。日本が犯した侵略の歴史の中にしっかりと位置づけ、米軍の原爆や空襲によってもたらされた悲惨や残虐は、同じように、日本軍が、朝鮮・中国をはじめアジア諸国のあちこちでもたらしたものであることを教えなければなりません。「広島」「長崎」「東京大空襲」などの学習によって、破壊され殺され、被害者として受けた人々の苦しみや悲しみを学ぶことをとおして、破壊し殺し、加害者としてアジアの人々に与えた苦しみと悲しみに思いを馳せ理解する想像力を、子どもたちの心に培っていくことをしなければならないと思います。


まやかしの歴史観
 「自由主義史観」なる歴史観にもとづいて、日本の侵略の事実を否定する人達がいます。歴史的事実を正しく教える教育を「自虐的」であると言うのです。彼らは、「子どもたちが自国の歴史に誇りを持てるような教育を」と称し、侵略戦争を肯定する立場から「南京大虐殺」や「軍隊慰安婦」等、公然の歴史的事実を教育現場から抹殺しようと運動を展開しています。
 日本の侵略によって、アジアの人々はどんなに苦しみと悲しみを与えられたことか。「自由主義史観」を主張する人達は、何と想像力に乏しく干からびた感性の持ち主であることか。彼らの言動をアジアの人々は、憂え、悲しみ、戸惑っていると伝えられています。このような歴史観がこれからの国際社会で通用するはずがありません。
 私たちの反戦平和教育の視点の中に、加害者としての日本の責任の問題をきちんと位置づけたいと思います。


組織的な平和教育のとりくみ
 墨田教組は、反戦平和教育の推進を教育闘争の重要な課題として位置づけ、組織的にとりくみを進めてきました。
 一九八八年からは、とくに「三月十日」をひとつの節目に設定し、墨田の全学校で反戦平和教育の実践が行われることをめざし、墨田教組として統一的にとりくみを進めてきました。三月十日の前後には、特設授業や全校児童集会等々さまざまな形で、平和教育のとりくみが各学校で実践されています。このとりくみは、東京大空襲で壊滅的な被害を受けた墨田におけるとりくみという意味で、地域に根ざした教育の一環でもあります。
 私たちは、これらの立場に立って、今年も三月十日を節目とした平和教育特設授業のとりくみを進めます。


具体的なとりくみ
一、三月十日に向けて、全分会が全学級一斉授業、全校集会、学年集会等、何らかの形で特設授業を実施するとりくみを進める。
二、分会として意志統一を行い、具体的な方針を決定し、直ちにとりくみを開始する。
三、一分会一万五千円を限度として、学校(分会)における計画実施のために必要な経費補助(教材作成・購入費、講師代等)を「主任手当拠出金」から支出する。
四、分会は二月二十九日までに具体的計画を書記局に報告する。その際、経費補助金の請求も行う。
五、執行委員会は、資料作成・提供、講師の紹介・仲介、具体的な進め方についての相談、交流活動等を行う


週刊墨教組速報版 1999.10.29

子どもをターゲットにした
天皇キャンペーンを許すまい
「在位十年記念式典」に向けてのとりくみ

 十一月十二日に天皇明仁「在位十年記念式典」なるものが開催されます。一九八九年〜九一年にかけて、昭和天皇重体、死去、「大葬の礼」、「即位の礼」、「大嘗祭」、「立太子宣明の儀」と、さまざまな形で天皇キャンペーンが続けられました。そして、九三年には、皇太子結婚という形でのキャンペーンが行われました。今回の「在位十年記念式典」もそうしたキャンペーンの一環です。
 日常的な天皇キャンペーンと同時に、節目を見つけては大規模な天皇キャンペーンを行おうというわけです。
 これらのキャンペーンは天皇の元首化、神格化をねらう策動として行われています。また、国民の言論・思想・信条・良心・信教の自由等の基本的人権を侵して「祝意を強制」するものとして行われています。今回は、「国旗・国歌法」成立ともからめて、それを強制するものとしても計画・実施されようとしています。

 私たちは、天皇キャンペーンに対し、次の基本的立場を確立してとりくみを続けてきました。
 一.天皇および天皇をめぐることがらの政治的利用に反対する。 
 天皇をめぐる事態・行事を活用あるいは、つくりあげて(今回の在位十年記念式典はその典型。昭和天皇についていえば在位六十年記念式典はあったものの三、四、五十年はない)、政府・権力が進めてきたのは、日本国憲法の国民主権原則を空洞化し、天皇の元首化、新国家主義のシンボル化、神格化を果たそうとの策動でした。
 在位十年式典、そして祝意表明の手段として学校に「国旗掲揚」は、天皇を特別視させ、天皇存在の国民に対する優位性を子どもたちにも認識させることをねらうものとしてあります。
 私たちは、こうした天皇の政治利用に反対します。
二.教職員・児童生徒の言論・思想・信条・良心・信教の自由等の基本的人権を絶対的に擁護する。
 天皇在位十年について「祝意」を表明するかどうかは個々人の意志によるものであり、学校が一方的にその表明を行うことは、教職員・児童生徒の言論・思想・信条・良心・信教の自由を侵します。
 今回は、さすがに「即位の礼」の時のように、「適宜な方法で国民こぞって祝意を表することの意義を児童生徒に理解させることが適当」との文言はなく、そうしたものとしては位置付けられていません。しかし、「(祝意を表明するため)学校に国旗を掲揚することについて協力を要望」という形で、祝意表明を学校として行い、それを通じて子どもたちに意識させようとのねらいは貫かれています。
 学校が児童生徒に対し「国民こぞって祝意を表することの意義」を「理解させる」指導を行うなどということは、さまざまな価値観・評価がある中でひとつのそれだけを押し付けるものであり、これは明確に児童生徒の基本的人権を侵害します。今回も、そうしたことをさせてはなりません。
 私たちは、学校に対するいかなる形の「祝意」強制にも反対します。それは、教職員・児童生徒の基本的人権を明確に侵害するものだからです。
 私たちは、この二点の立場から、天皇問題へのとりくみを進めてきています。今回の「在位十年記念式典」についてのとりくみもこの立場に立って進めていきます。

資料

 都教委は10月15日、区教委は10月18日、「(下記掲載の)通知があったので、お知らせする」との文言をつけて各校校長に送っています。

天皇陛下御在位十年記念式典の挙行について
平成11年9月28日  閣議決定
 天皇陛下御在位十年を記念し、国民こぞってこれを祝うため、下記により、天皇陛下御在位十年記念式典を挙行する。

1 式典は、平成11年11月12月(金)、国立劇場において、天皇皇后両陛下御臨席のもとに、各界代表の参加を得て挙行する。
2 各省庁においては、式典当日国旗を掲揚するとともに、各公署、学校、会社、その他一般においても国旗を掲揚するよう協力方を要望するものとする。
3 式典の円滑な実施を図るため、式典委員長、副委員長、委員及び幹事を置く。
 式典委員長は、内閣総理大臣とし、副委員長、委員及び幹事は、内閣総理大臣が委嘱する。

内閣閣222号 平成11年9月28日
文部大臣殿
内閣官房長官
天皇陛下御在位十年記念式典の挙行について(依命通知)
 標記について、9月28日(火)の閣議において別紙のとおり決定されましたので、通知いたします。
 なお、貴省(庁)部内一般並びに管下の政府機関等関係の向に対してもしかるべく御通知願います。

国総第234号  平成11年9月28日
各都道府県教育委員会殿       
各都道府県知事殿
文部事務次官 佐藤禎一
天皇陛下御在位十年記念式典の挙行について(通知)
 標記について、平成11年9月28日別紙のとおり内閣官房長官から文部大臣あて通知がありました。
 ついては、貴機関及び貴管下の学校その他の教育機関においても、この趣旨に沿ってよろしくお取り計らい願います。
 なお、都道府県教育委員会にあっては、域内の市町村教育委員会に対して、周知方よろしくお願いします。

紹介
誰がために「 日の丸」は昇る
祝ってたまるか十周年集会

 十一月十二日当日、この集会が開催されます。
日時 十一月十二日(金)
        午後六時半〜八時半
場所 文京シビックセンター二六F
      スカイホール
     地下鉄丸の内線「後楽園」
     都営三田線「春日」 下車  内容 コント 松元 ヒロ
      (元ザ・ニュース・ペーパー)
   講演 姜 尚中(カン・サンジュン)
    (東京大学社会情報研究所教授)主催団体 
  「忘れてたまるか大嘗祭」実行委員会
 東京都即位の礼・大嘗祭違憲住民訴訟団


週刊墨教組1249号 1999.9.1

国旗・国歌法、成立強行

  法的規定ないから、

    強制に反対してきたわけではない

  闘いを終わらせてはならない、

    終わらせない

 「日の丸」を「国旗」、「君が代」を「国歌」と規定する「国旗・国歌法」が、国論合い半ばどころか、むしろ反対が多数を占める中で、強行成立されました。 
 この法案をめぐって、各種の世論調査が行われました。どの世論調査も、「日の丸」を「国旗」と規定することについての賛否は時間を経るにしたがって伯仲し、「君が代」を「国歌」とすることについては、反対が賛成を常に上回る結果を示しました。慎重審議、さらに議論を重ねることを求める声は、七割前後に上りました。
 そうした中で強行成立されたのは、直接的には、「自自公」という破廉恥な数合わせ連立と言う政治ゲームの結果によるものです。同時に、新ガイドライン・周辺事態法、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳法(国民総背番号制度法)とあいまって、ナショナリズム(新たな国家主義)を強調し、それにより現在噴出しているさまざまな社会的矛盾を覆い隠し、乗り切ろうとしていることと無縁ではありません。こうした策動はきわめて危険です。
 私たちは、「国旗・国歌法」がそうした側面を持つものであることをも見据えながら、強行成立に満腔の怒りを込めて抗議するとともに、その学校への強制に反対し、闘い続けることを決意します。

法的規定がないから反対してきたのではない
 この法律は、今年二月の広島県立高校長の自死をきっかけに、「教育現場での対立の解消」を立法目的のひとつとして上げ国会に提出されました。つまり、法的に規定してしまえば、もはや「議論の余地」つまり「対立の余地」はないというわけです。
 私たちは、「日の丸・君が代」について、それが法的に「国旗・国歌」だと規定されていないからという理由で、学校に強制することに反対してきたのでしょうか。断じて違います。
 
「日の丸・君が代」は
アジア侵略の道具、シンボル
 「日の丸」は、日本がアジアを侵略し、二千万人以上という犠牲者を出した、その旗印でした。「君が代」は「天皇の治世」を賛美する歌であり、国民の一切の批判と抵抗を封じる道具として、使われてきました。つまり、「日の丸・君が代」は、侵略戦争を具体的に遂行するための「シンボル」として、「道具」として、国内外で活用されたのです。いまなお日本が侵略したアジアの人々はもちろん、日本人の多くにさえ抵抗感がある背景には、こうした歴史があります。
 しかも、天皇制国家は、「日の丸」「君が代」を、学校教育の場を活用して権威づけ、普及させ、天皇制国家への批判と抵抗を封じ、アジア侵略を進める「道具」「シンボル」としていったのでした。
 私たちは、「日の丸・君が代」のこのような歴史を忘れてはならないし、繰り返してはならないという観点から、学校に強制することに反対してきたのでした。

平和主義、国民主権に反する「日の丸・君が代」
 戦後の日本は、それまでの日本の歴史を反省して、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を三本柱とする日本国憲法のもとに歩みを進めることにしたのでした。
 「日の丸・君が代」は、日本国憲法に掲げられた平和と主権在民の理念を否定する「旗」であり、「歌」であると言わざるを得ません。だからこそ、私たちは、これを強制することに反対してきたのでした。

基本的人権は絶対に侵してはならない
 学校という場において、私たちや児童生徒に「日の丸・君が代」を強制することは、思想・信条・信教・良心の自由という基本的人権を踏みにじることにつながります。
 何人も、自分の意志に反し、例えば敬礼や斉唱等を含め意思表示する行動をとることを強制されないというのが、基本的人権の立場です。学校への「日の丸・君が代」強制は、こうした基本的人権の立場を明確に否定するものです。人権尊重教育の根幹は、個々人の尊厳、自由・権利の絶対的尊重です。
 私たちは、その立場からも「日の丸・君が代」の強制に反対してきました。 
 
子どもを中心に据えた学校を創りたい
 私たちは、入学式や卒業式を子どもたちを中心に据えた、明るく、楽しいものとして学校毎に自由に企画し実施したいと願い、長年にわたってさまざまな工夫・努力を続けてきました。「日の丸・君が代」の強制は、そうした努力を無にし、生き生きとした学校毎の営み、児童生徒と教員とのつながりはもとより、学校行事を共同して創りあげていくことを不可能なものとしてきたことは、強制が強まったここ十年来、あまりにもはっきりしてきたことです。
 私たちは、子どもたちを中心に据えた明るく、楽しく、豊かな入学式・卒業式を、子どもたちとともに創っていきたい。
 だからこそ、私たちは、「日の丸・君が代」の強制に反対してきました。

何が法制化されたのか
 今回成立強行された「国旗・国歌法」は、「国旗」といった場合、それは「日の丸(日章旗)」のことであり、、「国歌」といったら、それは「君が代」のことだ、ということを決めたに過ぎません。それをどうしろということを法は、要求していません。そのことをはっきりと押さえ、その拡大解釈や拡張行為を絶対に許してはなりません。

 私たちは、「日の丸・君が代」が法的に規定されていなかったから、反対してきたのではありません。だから、法制化された今でも、私たちの闘いは、終わらないし、終わらせてはなりません。終わらせません。


週刊墨教組1248号 1999.7.9

日の丸の赤は じんみんの血/白地の白は じんみんの骨
いくさのたびに/骨と血の旗を押し立てて
他国の女やこどもまで/血を流させ骨にした
いくさが終わると  平和の旗になり/オリンピックにも
アジア大会にも高く掲げられ/ 競技に優勝するたびに
君が代が吹奏される/千万の血を吸い/千万の骨をさらした
犯罪の旗が/おくめんもなくひるがえっている
「君が代は千代に八千代に/苔のむすまで」と
そのためにじんみんは血を流し/ 骨をさらさねばならなかった 〈中略〉 けれども もうみんな忘れてしまったのだろうか 〈中略〉 市役所の屋上や/ 学校の運動場にもひるがえり 平和公園の慰霊碑の空にも/なにごともなかったように
ひるがえっている
日の丸の赤は じんみんの血 /白地の白は じんみんの骨
日本人は忘れても / アジアの人々は忘れはしない
(一九七五・九、栗原貞子『旗(二)』より抜粋)



 一九九九年六月、政府は「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」と定める法案を閣議決定し、国会に提出しました。「自自公」という破廉恥な連立のもとで、今夏にもこの法案を成立させようと企んでいます。
 「日の丸・君が代」は、天皇制国家主義のシンボルとして国民の思想統制に大きな役割を果たしました。「天皇」の名のもとに国民はアジア太平洋戦争へと侵略の道に駆り出されていきました。子どもたちは、「日本ヨイ國キヨイ國。世界ニ一ツノ神ノ國」とたたき込まれ、「君が代」(天皇の御代)の繁栄のために「神国日本」が戦う「聖戦」(侵略戦争)で死すことを最高の美徳と教えられたのです。教室の黒板に貼られた世界地図の上には、日本が侵略に成功した国や都市に「日の丸」が書き入れられ、子どもたちのバンザイの歓声が上がりました。
 古今和歌集や和漢朗詠集などの原典はいざ知らず、どのように欺瞞的に解釈しようとも、「君が代」の「君」が明治憲法に規定された「神聖」なる主権者としての天皇を指すことは言うまでもありません。「日の丸」への敬礼は、それを通して天皇へ敬礼することでした。「日の丸・君が代」は、多くの同胞と多くの他国の人々の「血を吸い」「骨をさらした」侵略戦争と切り離して考えることはできないのです。侵略された国々には、この旗と歌に不安と恐怖の念を抱くたくさんの人々がいることを忘れてはなりません。
 戦後の日本は、それまでの日本の歴史を反省して平和憲法を手にしました。しかし、それもつかの間、日本が再軍備の道を歩み始めると、国家権力は、自らの戦争・戦後責任を不問に付し、学習指導要領や教科書検定による教育の国家統制等々、侵略の歴史を覆い隠すさまざまな諸施策を国民に押し付けてきたのです。学習指導要領にはいつの間にか「日の丸・君が代」が登場し、やがて「国旗・国歌」として位置付けられ、教育現場に強制されてきたのです。そして、国家権力は、マスコミをも総動員して、スポーツ大会等いたるところで「日の丸」を翻らせ「君が代」を流しました。「国民に定着した」という政府見解の実態とは、戦争・戦後責任は棚上げにして全く論議することなく、強権と情報操作によって「日の丸・君が代」の浸透を謀ってきたものに他なりません。自らの戦争責任の追及と戦後補償を真摯に取り組んできたドイツの学校で、ナチスドイツの国歌を歌わせハーケンクロイツ旗を掲げるなどということが考えられるでしょうか。日本ではそれが堂々と行われているのです。
 日教組は、「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げ、権力による教育の国家統制、「日の丸・君が代」の強制に抗し、全国あちこちの教育現場において、組合員は果敢に闘ってきました。権力は、処分をもって強権的にこれを圧殺しようとしてきたのです。広島県立高校長の悲劇的な死は、文部省・県教委の弾圧によって起こった出来事です。
 国民の中には、歴史の事実を正しく見つめ、日本の歩むべき道を真面目に考え、「日の丸・君が代」の強制に反対している人々も数多くいます。今、「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」として法制化することは、憲法に掲げられた平和と主権在民の理念を真っ向から否定するものであり、また、基本的人権として侵すことのできない思想・良心の自由を全く踏みにじる違憲立法であることは言うまでもありません。私たちは、断じてこれを許すことはできません。
 新ガイドライン・周辺事態法の成立、通信傍受法(盗聴法)の衆院可決・・・・、権力が一気に推し進めようとしているこれらの一連の危険な潮流の中に、今、国会審議に付されている「日の丸・君が代」の法制化案もあります。私たちは、 「日の丸・君が代」法制化を阻止するために、団結を固くし闘いを強めていきます。

一九九九年七月九日
         墨田区教職員組合執行委員会


東京に平和の広場と

平和記念館の建設を!

墨田教組、都への意見書提出

「東京都平和祈念館」を墨田区の横網町公園に建設する計画が進められています。その経過、問題点については「週刊墨教組」1220号でお知らせしました。また、都がこの計画についての意見を都民に求めていることを紹介し、都に意見を寄せるよう呼びかけました。
墨田教組は、11月18日、この問題に関する下記の「意見書」を都に提出しました。

平和祈念館建設計画案に対する意見書


 1945年3月10日の東京大空襲では、2時間半の間に、10万人以上の人々が亡くなりました。私たち墨田区では、本所地区を中心にして、多数の犠牲者をだしています。一家全滅という家も多くありました。
 しかし、東京にはこれら空襲の被害者を追悼する場所も、戦争の被害状態を展示する資料館もありません。わずかに、墨田区横網町公園の震災記念堂の後室に、東京空襲の犠牲者の遺骨10万数千体が置かれていて、遺族はそこで手を合わせるのみでした。
 遺族は一日も早く空襲の犠牲者を追悼する場所が出来ることを切望しています。また、戦争を直接知らない戦後生まれの人たちからは、「平和記念館」をつくり戦争の本質をつかみ、どうしてそのようなことが起きたのか、二度と起こさないためにはどうしたらよいか、を考える場所がほしいという声があがっていました。


 先般公表された「東京都平和祈念館建設委員会の報告」では、建設場所を「墨田区横網町公園」にするといっています。そして、場所が狭いので地下に建設し、今ある関東大震災復興記念館と結合させるといっています。しかし、ここは1923年の関東大震災で犠牲になった人を追悼してつくられた公園です。従って、慰霊堂・復興記念館・弔霊鐘を配し、全体が大震災を記念しています。その敷地に人災である戦災の記念館を建設するのは、天災も人災もごちゃまぜにする余りにも安易な計画です。
 私たちは、子どもたちをつれて震災記念堂を見学します。慰霊堂には、関東大震災の大壁画が掲げられています。最近では戦災の写真も掲げられるようになりました。しかし、これが子どもたちに混乱をおこしているのです。どれが地震の被害を示すもので、どれが戦争の被害を現しているのか、わからなくなるのです。また、復興記念館の見学でも、震災と戦災の展示がごちゃまぜになり、どれがどれだかわからなくなっています。このような混乱は、子どもたちに「戦争の体験をきちんと継承」し、「歴史の真実を伝える」学習の場としては、絶対に避けるべきです。
また、地下では建設費も維持費も割高になるといわれています。さらに、地下につくるにしても、今ある樹木を伐採したり、移植せねばならず、全体の景観をこわしてしまいます。大型のバスなどが入れる駐車場やコミュニケーションホールは、300メートルも離れている江戸東京博物館を予定とあり、混雑、混乱が予想されます。

 次に、展示内容についてですが、「平和を学び、考える場」として、戦争の本質がきちんとつかみとれる、歴史の真実がありのままに伝わるものにしてください。新聞などによれば、「自由主義史観」の立場の人たちが、展示内容について「自虐史観をおしつける偏向展示」などという批判を行なっていると聞きますが、建設委員会の報告にあるように、「基本構想懇談会」が示した「基本的な計画」にもとづいて展示を行うよう要請いたします。

以上の意見をもとにして、私たちは東京都に次のことを要求します。


@墨田区横網町公園では狭すぎます。建設場所を見直し、地下ではなく、他の東京都有地、例えば猿江公園、木場公園その他の地上に建てるよう検討してください。
A横網町公園慰霊堂から、空襲死者の遺骨を他の場所に移し、納骨堂・追悼碑・平和記念館を合わせて作ってください。
B広島・長崎のように、宗教を問わず戦災死者を追悼し、平和を考える交流の場を作ってください。21世紀の世界の人々が集う場としたいのです。
C 記念館の展示内容は、東京都空襲の実態を明確に、また、被害と同時に加害の事実を知り、戦争の歴史を学ぶ恒久的教育施設であるようにしてください。

1998年11月18日

墨田区教職員組合    委員長 小山拓二