はじける芽

はじける芽( 138 )
週刊墨教組 No.1478 2005.7.4
七月の指導題目  戦争体験を聞き書きする
  広島原爆被曝者のお話をうかがって

原爆の悲劇        六年 

「この人が福地義直さんです。」
 六月二十五日(土)の三〜四時間目、広島の原爆体験者で、当時爆心地から七百メートルのところにすんでいた福地義直さんが来ました。七百メートルだと、ふつうは黒こげになってしまいます。福地さんは、四年前に、広島に落ちた原爆「リトルボーイ」の模型を完成させ、それ以降、いろいろな学校に戦争体験の語りをしに行っています。先生は、
「だんだん日本が戦争が、かっこいいというような雰囲気になってきたからだよ。」
と、言っていました。また、原爆の後遺症で癌になってしまいました。ぼくは、
(やっぱり、奇跡的に生き残っても後遺症が残ってしまうんだな。)
と、思いました。
 八月五日、福地さんは、お父さんと交代して、疎開先から市内にお母さんと妹といっしょにもどってきていました。その日、放送で、明日広島に大空襲があると言っていました。福地さんは、いつ空襲されても良いように下着一枚で寝ました。
 八月六日、起きても何ともなく、福地さんは安心し、勤労動員に行こうと準備を始めました。八時十五分ごろ、いきなりピカッと光りました。本当はドンという音がしたそうですが、福地さんには聞こえませんでした。ぼくは、
(耳が聞き取れないくらい大きかったんだな。)
気がつくと福地さんは家の下じきになっていました。福地さんは、自分の体にささっていた釘をぬき、どうにかぬけ出そうとしました。福地さんは、
「痛いとは感じませんでした。」
と、言っていました。ぼくは、
(釘をぬいて痛くないなんて、よっぽどぬけ出したくて必死だったんだな。)
と、思いました。やっとのことでぬけ出して、福地さんはお母さんを探しました。すると、お母さんも家の下じきになっていました。
「引き出したら、お化けみたいに血を出して、おでこから骨がでててね・・・・。」
と、福地さんは、言っていました。ぼくは、
(自分の母親がそんなことになったらショック。)
と、思い、ぞっとしました。お母さんが、
「妹は?」
と、言ったので、福地さんは妹のことを思い出しました。妹は、隣の本屋で遊んでいて、ちょうどその下に防空壕があり、そこに入っていました。しかし、家がたおれて下じきになってしまいました。福地さんは、必死で家を造っていた木をどかそうとしました。しかし、複雑にからみ合ってなかなか動きません。福地さんは力の限り、引っ張りました。すると、少しだけ木が動きました。そこから妹を助け出し、やっとお父さん以外の家族三人が揃いました。ぼくは、
(火事場の馬鹿力って言う諺もあるからな。でも、三人とも生きているなんて運が良い。)
と、しみじみ思いました。福地さんはお母さんと妹を背負って逃げましたが、人を二人背負っているため殆ど動けず、いくら歩いてもなかなか進みません。途中に兵隊が二人立っていて、その人たちに、
「こっちはだめだ。戻れ。」
と、言われてしまいました。ぼくは、
(苦労してここまで歩いてきたのに。)
と、思いました。福地さんたちは、また元来た方向に歩き出しました。少し歩くと、事務の仕事をしていたらしい女子学生が、家の下じきになっていて、
「助けて〜!」
と、さけんでいました。福地さんは、その女子学生も引っ張り出して、また歩き出しました。
 ぼくは、
(自分のことだけで精一杯なのに、見ず知らずの他人を助けてあげるなんて優しいな。)
と、思いました。しばらく歩くと、病院がありましたが、ドアのかぎが開かなく、困っていました。しかし、看護師の人が窓から入って薬をとってきてくれました。福地さんは、
「わたしはほかの人より気づくのが、早かったんですよ。」
と、言っていました。ぼくは、
(もっと気づくのがおそかったら、こんな体験は聞かせてもらえなかったんだな。)
と、思いました。福地さんのお母さんは、その医者に赤チンのようなものをぬってもらい、カーテンを破って包帯にしてもらいました。しかし、女子学生の方は治療の方法がないと、医者は首をふるだけでした。もう少し歩くと、1赤十字病院があり、その近くの空き地に三枚の襖で日かげを作ってお母さんたちを寝かせました。福地さんは赤十字の兵隊さんが持っていた胡瓜がどうしても欲しくなり、分けてくれないかと頼みました。すると、兵隊さんは二本分けてくれました。ぼくは、
(兵隊さんも貴重な胡瓜を二本も分けてくれるなんて優しい。)
と、思いました。また、福地さんは市電の中で脱脂綿を見つけ、お母さんたちに分けるために持っていきました。ここにいてもしょうがないので、福地さんは、お父さんがいるかもしれない疎開先へ電車で行くことを提案しました。そこで、赤十字の人から下駄を四足もらいました。
「でも、母親が、痛いからといって乗りたがらなかったんだよ。」
と、福地さんはいっていました。ぼくは、
(福地さんも、怪我をしている母の反対を押しきって乗るのは辛かったんだろうな。)
と、思いました。しかし、結局はその電車に乗って疎開先へ行き、その日は過ごしました。
 お父さんはそれ以来行方不明となっています。そのことを話すとき、福地さんは目に涙をうかべていました。しかし、お母さんは回復して、長生きしました。ぼくは、
(人の生命力はすごいなぁ。)
と、思いました。
 二十四万人もの命を奪った核兵器は、未だにアメリカや中国などで保有されています。こんな酷い兵器を二度と使わせないためには、福地さんのような体験者が次の世代、また次の世代と伝えていかなければなりません。ぼくは、この話を聞いて、改めて戦争の恐ろしさを思い知りました。福地さん、ありがとうございました。



はじける芽( 137 )

週刊墨教組 No.1478 2005.6.29

六月の指導題目  一つの行事に参加する中で、心の中に強く残ったことを、じっくり思い出して書いてみよう。

運動会、三段タワーの道のり    六年 
 五月十六日に、三段タワーをする人が決まりました。先生は、一段目、二段目と名前を呼びました。三段目になったとき、みんなから、
「W。」
という声が聞こえました。先生は、
「じゃあW。」
と言いました。ぼくは、
(こわいなあ。でも、ものすごくうれしいな。)
という気持ちでした。
 五月十七日から練習が始まりました。
(うわぁー。ふらついてこわいなぁ。)
と思いました。こわくて立てないまま終わりました。
 五月十八日、一回目の練習で立てました。でもしゃがむときに、バランスをくずして、後ろむきで落ちて左側全体の腰を打ってしまいました。ぼくはすぐに、先生に連れられて保健室で休みました。

(途中略)

 夜、母から、
「『三段タワーは危険をともなうので、やめようかと思ったけれど、Wがやりたいといったから、やっぱりやります。』と先生が言われてたよ。」
と、聞きました。良かったと思いました。
 五月十九日、一回目の練習で立とうとしたとき、先生が、
「もうやめ。」
「青ざめた顔しているから、もうやめ。」
といって、タワーの練習は中止になりました。その後に先生が、
「Oさんにやってもらおうかな。」
と、つぶやいたのが聞こえました。ぼくは
(え!?やだ!)
と、思いました。
 二十日の朝、
(今日は絶対成功させる。)
と思いながら登校しました。朝、教室で、先生がみんなに、
「今日Wさんが二・五段、Oさんが三段でやります。Oさんがうまくできたら、交代することを了承してください。」
と言いました。
 やがて体育の時間、まず最初にO君がやったら、成功しました。みんなは拍手をして、先生は、
「Oさんに決定!」
と、大声でいいました。
(えーっ、無視するなー。ぼくまだやってないじゃないか。)
と、ぼくはくやしいのと悲しいの両方で、涙が出そうになったけど、涙が出ないようにこらえました。家へ帰ったら、姉がいたので、
「もうぼく運動会に出ない。」
と姉に言って、泣いてしまいました。土、日で、少し気持ちが落ち着いたので、ものすごく残念なこと、こうなったら、あとは徒競走で一位を取るしかないと思ったことを、作文に書きました。
 二十三日、二十分休みに先生に呼ばれました。先生は、
「作文読みました。今一度チャンスをあたえます。それでだめだったら、Oさんになることを了解してください。」
と、言われました。
(絶対成功させる。)
と思いました。体育着に着がえるときに、Oさんに、
「作文見たよ。もういっぺん挑戦するんだって。」
と言われました。ぼくは、
(何でぼくの作文をO君が読んでるの。)
と、思いました。後から聞くと、ぼくの日記を読んだ先生が、Oさんに話をしたそうです。
 体育の時間に五、六年の前で、
「三段タワーのことで、今一度Wさんにやってもらいます。」
と先生が説明しました。ソーラン節の練習後、挑戦しました。先生が、
「土台が安定してきたから、大丈夫だよ。」
と言ってくれました。みんなに、
「Wがんばれ。」
と言われました。なんとかできました。みんなが、
「Wやったね」
と言ってくれました。うれしかったです。でも、Oさんを見たら、がっかりした顔をしていました。Oさんには悪いけど、うれしかったです。
 家に帰って話をしたら、母は、
「何故ことわらなかったの。二十日の日にO君に決定したはずでしょ。O君の今の気持ちは、Wが一番よくわかるんじゃないの。」
と怒られてしまいました。でもぼくは、それでもぼくがやりたいと思いました。
 この日から、騎馬戦や、徒競走の練習で、タワーの練習を、やらない日が何日かありましたが、タワーは、ずっとぼくで練習しました。でもバランスがとれなくて、なかなか立つことができませんでした。
 六月一日に、タワーのメンバーがよばれました。先生は、
「このままじゃ、Wさんの格好が良くないので、十人ピラッミットの真ん中で立ちますか。」
と聞きました。男子はみんな
「三段タワーをやりたい。」
と言いました。ぼくはうれしかったです。
(なかなか立てないぼくを、もう支えるのはいやだとは思っていないんだ。)
とうれしかったです。
「では、今日できなかったら、十人ピラミットにします。」
と先生が言いました。
 やってみて、なんとか成功しました。みんなで、
「やったあ。」
と大声でさけびました。この日は土台も、ぼくも、ふらつかずに立てました。うれしかったです。でもその後、運動会の日までは、きれいに立てませんでした。
 いよいよ運動会の当日をむかえました。
(絶対成功させてやるう。)
と思いました。タワーに乗る直前 、ものすごく緊張しました。立つときは、夢中でした。なんとか立てました。、今までの中で一番長く立てました。
(やったあ !)
と思いました。マットをかたづける時も、まだ、
(やったあ。)
と思いました。ソーラン節は気持ちよく踊れました。
 運動会のかたづけが終わって、みんな教室にもどってきました。榎本先生が
「みんなよくがんばったよ。特に組体操の三段タワーのWさんが完ぺきにできたのは、すばらしいです。みんなもよくがんばりました。みんなで拍手しましょう。」
と言いました。みんなで大きな拍手をしました。ぼくも拍手をしながら、
(成功してよかった。)
と思いました。
 運動会が終わって、みんなに感謝の気持ちでいっぱいです。なかなかぼくは、練習で立てなかったのに、一段目、二段目の人、だれ一人、一度もいやな顔をしたことはありませんでした。下で支えるのは大変だと思います。でもつかれるとか、しんどいとか言った人もいませんでした。練習中、タワー以外のクラスのみんなも、ぼくが立てるようにと、気を使ってくれているのがよくわかりました。いろんな先生達がアドバイスをたくさんしてくれました。
 ぼくが運動会の日に立てたのはみんなのおかげです。



はじける芽( 134 )
週刊墨教組 No.1465 2005.2.7

一月の指導題目 冬休み生活の中で、心に強く残ったことを
詩に表現してみよう。


下町の子の冬休み

お父さんの書き初め
5年
書き初めの時、
一枚破れてしまったので、
そのままにしていた。
すると、
そこにお父さんが書きはじめた。
ぼくと同じ、
「早春の光」。
書き終わった。
見てみると、かすれている。
さらに、手本を完全に無視。
でもお母さんは、
「すごい!」
と、ほめた。
次の日、
習字のうまいおじいちゃんが、
「勢いがいい!」
とほめた。
そんなにすごいのかなあ。
書き初めを練習している子どもと一緒になって、父親が字を書いているのがうれしい。家族みんなが、書き初めに注目しているのがうれしい。

窓を開けて
5年
このあいだ、
すごい雪が降った。
窓を開けてみた。
まどの外は、
だれも通っていない、
雪の道路だった。
車が通ると、
ちゃんとタイャのあとが付く。
白い、しかもあたると冷たい。
でも、その景色は最高だ。
どの景色よりも。
東京にも久しぶりの雪が降った。いつの時代でも、子どもの心は、雪に夢中になれる。最後の二行に倒置法を使っているのもいい。
北風は強い
  5年
「わっ。」
私は叫んだ。
帽子が飛んで、
「パタッ。」
と動きを止めた。
北風がとてつもなく冷たい。
手を動かそうとしても感覚がない。
あれっ。
ゆっくり動かして見てみると、
手が真っ赤だった。
さわってみたら、
あまりの冷たさに背中がゾクッとした。
冬は人と風が戦う季節だ。
詩は、感動した所から書いていくのがいい。あとは、ものやことに関わった通りに表現している。詩は、写実主義でよいと言われるゆえんである。

負けるもんか!!
          5年
「犬も歩けば棒にあたる〜。」
おばあちゃんが読む。
私は、
(犬はどこだ〜)
と、心の中で思いながら、必死で探す。
と、その時
「はいっ」
という妹の声。
私は、
「もっ百花は、目がいいからとれるんだよ〜。」
と言いわけをする。
妹は、
「そんなの関係ないも〜ん!。」
という。
次こそぜったい負けないぞ!!!
昔は、どこの家族もこのように「カルタ」を楽しんだ。「いろはがるた」なども、知っている子も少なくなってしまったのではないだろうか。

おみくじ 
5年
寿老神で、おみくじを引きに行った。
そのおみくじは、おまもりつきで百円だ。
わたしはおそるおそる、
「エイッ。」
と引いた。
吉だった。
鬼子母神でも引いた。
ここでも吉だった。
恵比寿神でも引いた。
小吉だった。
妹は、吉だった。
母は、小吉だった。
今年はいいことあるだろうな。
初もうでに出かけた家族も多かったに違いない。何となく引いてしまうのが、おみくじである。最後の一行がいい。

冬の大三角形
5年
「あ。」
とぼくが言った。
空に星が出ていて、冬の大三角形があった。
ぼくは、
「ねえ、パパ冬の大三角形って、
ベテルギウスとシリウスとプロキオン
だよね。」
と聞くと、
「そうだよ。」
と言ってくれた。
冬にしか見えない冬の大三角形。
でも、東京ではあまり見えない星。
夏にしか見えない夏の大三角形もある。
ぼくは、二つ見たことがある。
星はきれいだなー。
星にさわってみたいなあー。
オリオン座と、冬の三角形は、東京の空でもはっきり見える。七百年前に光った星を、地球上で見ているのも、夢があっていい。

白い息
5年
学校に行く時に、
「ハァー。」
と、息を吹いてみた。
白い息は、私の口からモアッと出た。
寒いからだな。
「おはようございます。」
と、主事さんに言ったら、
白い息は、出なかった。
あれれ?どうしてだろう?
「寒い朝ゴジラのような息をはく」という俳句が、あるお茶メーカーの特選になった。この詩も写実主義で、見た通りに表現しているのがいい。




はじける芽 132・133 
週刊墨教組 No.1459・1460 2004.11.30/12.6

十一月の指導題目
年配の人から、戦争体験を取材して、それをひとまとまりの文章にまとめてみよう。  聞き書き(取材・記述・推敲)


 祖母の戦争体験
  小学校 五年
 ぼくの祖母は一九三七(昭和十二)年生まれです。祖母の家はヤスリ屋でした。明治時代に、今住んでいる町の家に引っ越して、ヤスリ屋を開いていました。ヤスリ屋の商売とは、鋼の表面に細かいみぞを刻み、焼き入れをした工具を作っていました。ヤスリの役目は、工作物の面を平らにけずったり、角を落としたりするのに用います。板状の鋼をヤスリにしていました。祖母は、この緑町に生まれ育ちました。祖母の両親も町に生まれ、この学校を卒業しました。僕を入れると、学校は四代目になります。
祖母の家族
  太平洋戦争が始まった一九四一年(昭和十六)年のころ、祖母は四才でした。
 祖母はまだ小さかったので、戦争の意味が分かりませんでした。毎年夏になると千葉県の、岩井という海岸に、家族で出かけました。海水浴に行き、家族でよく遊びました。またお正月になると、着物とげたを、新調してもらい、とてもうれしかったことを覚えています。戦争が終わってからは、妹がもう一人生まれ七人家族になりました。祖母は、四人姉妹の長女です。
小学校入学
 祖母が小学校に入学したのは、一九四三(昭和十八)年でした。そのころ小学校は国民学校と呼ばれていました。算数や国語のような教科もありました。しかし、修身(道徳)の科目では、戦争の話ばかりで、日本は、とても強い国だと教えられていました。
「国のために、天皇陛下につくしましょう。」
と毎日のように教えられ、又、アメリカ人の悪口も教えられました。例えばアメリカ人の鼻は高いとか、アメリカの木は、とがっているけど日本の木は、広々としていてかっこいいとか、アメリカ人は、くつのままで家に入っても、平気な人たちだと教えられました。
 祖母が、学校に入学して一年生のころに、戦争の色がこくなってきました。いつ飛行機がせめてくるかわからなくなってきました。当時の学校は、今の校舎を作る前の校舎でした。学校の中には、防空ごうがあり、敵の飛行機がせめてくると、その防空ごうの中に、逃げるようにしていました。現在の位置でいうと、幼稚園の下が防空ごうでした。そのころは、防空ずきんをかぶり、何度もそこへ、ひなん訓練をしました。
静岡のそ開先へ
 祖母は、二回そかいをしました。初めて行ったところは、静岡の大淵と言うところです。一九四四(昭和十九)年から一九四五(昭和二十)年の頃のことです。その頃、戦争はますますはげしくなって、学校では、三年生以上は、千葉県のお寺に集団そかいをさせられました。そぼは、二年生だったので、田舎がなくてとても困っていました。それからまもなく、東京の神田の上空にたくさんのしょういだんを落としました。空が真っ赤に燃え上がった光景を、祖母は今でも良く覚えています。祖母の父は、東京はあぶないと思い、次の日リュックを背負い東京から知り合いのいる静岡に、家族をそかいさせることにしたのです。(途中略)
そ開先の生活
 そかい先の家では、祖母の母と祖母と妹二人で住まわせてもらいました。その家は、おじさんとおばさんの二人暮らしで、食堂をしていました。兵隊が、良く食事をしに来ました。その頃の食事は、麦飯やみそ汁でした。食堂だったので、たまに少しの肉や魚が食べられましたが、いつもこれが最後の食事になるかもしれないと思い、取っておかないで手に入ると家族で分け合って大切に食べました。
 ある日敵の飛行機が打ち落とされて、米国のへいたいがパラシュートで、降りてきました。大淵のむらの人たちは、竹やりを持ち、米国兵の所へいき、縄でしばり、つついたり、けとばしたりしていました。祖母はそれをみて、敵でもかわいそうだと思いました。
 借りた家の後ろには、小学校があり、兵隊さんたちがたくさん寝泊まりしていました。ますます戦争が激しくなり、アメリカは、機じゅうそうしゃを打ちまくりました。それはそれは、こわくてたいへんなことでした。祖母の母は、
「これだったら東京の家にいた方が、よかったんじゃないかしら。」
といつも言っていました。その事がいまでも、祖母の胸の中にうかんできます。
祖母の父の東京大空襲の体験
一九四五(昭和二十)年三月十日に、東京大空しゅうがありました。家族を静岡の大淵というところに所にそ開させ、祖母の父が、町の家を一人で守っていました。空襲にあい、家から祖母の父も、立川ににげました。しかし配給のタバコを忘れたことに気付き、祖母の父は、配給のたばこを取りに、家へもどり、また立川に行こうとすると、もうそこは火の海でした。近所の人は、ほとんど亡くなっていました。となりの家の五年生と六年生の娘さん二人は、千葉県の集団そかいからぐう然に帰ってきて、空襲でなくなりました。町も、焼け野原になり、祖母の父は、もう少しで、命を、落とす所でした。次の日、川の中は、なくなった人であふれていました。日本兵がきて亡くなった人のポケットから、サイフや時計などを取っている事を目にして、人間のみにくい行為を語っていたことを、今も思いだします。
 祖母は戦争は、残こくだと思いました。その大空襲で、近所の人親せきの人もたくさん亡くなりましました。小学校は、校舎のとなりにあった講堂の鉄の大きな扉が、空襲攻撃を防ぎ、校舎は燃えませんでした。それからしばらくして、アメリカは、一九四五(昭和二十)年八月六日に広島に原子爆弾を落としました。ラジオでは、いつも、
「日本が勝っている。」
と言っているのに、この様なばくだんが何個も落とされたら、日本中の大変なことになると、両親が、小声で話しているのを聞き、こわくてふるえました。今の時代通信が発達してない時代、広島から静岡まで、うわさがすぐ広がっていくのが不思議に思いました。

日本の敗戦
 それからまもなく天皇陛下の玉音放送があり、日本が降参し戦争が終わりました。戦争は親と子が引きはなされたり、殺されたり今まで普通に付き合っていた人たちが、憎みあったりするようになります。
 食べるものがなく、栄養失調でなくなってしまう人もいました。今日本は平和ですが、心が平和でない人もいます。アメリカは、いまだに戦争をやっています。アメリカも、日本国憲法九条のようなものを作ってほしいです。
埼玉のそかい先で
 二回目のそかい先は、戦争が終わってからです。一九四五年、戦争が終わっても、東京の下町は、大空しゅうに出会い、町の家がなくなってしまいました。住むところがないので、また知り合いのいる埼玉の「新田」というところに、行きました。そこは。おじいさんとおばさんとおばさんのだんなさんは、兵隊に取られてしまったので、まだ戦地から帰ってきませんでした、子供二人と、おばさんのむすこをいれて五人が住んでいました。そこへ、祖母の家族のひいおじいちゃんをのぞいて、五人がお世話になりました。そこで通った学校は、修身の授業がもうなくなっていました。先生方は、戦争に行っていて、代用教員(先生の資格がないけれど、教師がいなかったので、代わりになってやっていた人)の先生に祖母は教えられました。先生は、東京出身だったので、祖母のことをかわいがってくれました。そかい先の埼玉の新田という村は、貧しく村の人たちは、はき物がなくみんなはだしでした。東京から来た子は靴や下駄をはいていました。学校には足洗の場所があり、はだしの子はそこで足を洗ってから、校舎に入っていました。
 月日が過ぎると東京の子たちは村の子に、
「そかいっ子、そかいっ子、やーいやーい。」
とはやし立てられ、帰り道でまちぶせされて追いかけられたり、いじめられたりしました。やっと東京に帰れたのは、一九四六(昭和二十一)年の終わり、小学校四年のころでした。
東京に帰って
 今の町の家には、どうしても帰りたかったのです。その気持ちは、祖母の家族も同じでした。家族でいっしょに過ごした町の家は思い出がたくさんあり、戦争前のころと同じように家族で過ごしたかったからです。やっぱり自分の住んでいたところに、早く帰りたかったのです。。そして田舎に住んでいるときは、子供心にいつも遠りょしていました。いつもご飯を炊くのもそかい先の家の台所を借りていたので
「すいません、すいません」
といいながら、食事のしたくをお母さんがしていたのを見て、早く帰りたいなあといつも思っていました。ほかの家族が戦争が終わると、東京に帰って行くのがとてもさびしく、お父さんとお母さんが、
「雨つゆがしのげればどんなせまくてもいいから早く帰ろう。」
と、言っていたのを聞いて、とてもうれしかったのです。それからしばらくして東京へ帰ってきました。埼玉県の新田から、トラックに乗って帰ってきたとき、家がぽつぽつとしか建っていなかったので、びっくりしました。でも、とてもうれしかったものです。
 配給はたまにしかなく、食べる物が足りないので祖母の両親と祖母と三人でリュックを背負い、前にそかいをしていた埼玉の新田に買い出しに行きました。お金がないので、祖母の母の着物をリュックに入れ、お米と取りかえているところを見てとても悲しい思いをしました。
戦争に負けふたたび学校へ
 小学校では、校庭で体育ができるようになりました。また、修身の授業がなくなりました。音楽では楽しい歌が歌えるようになりました(春の小川やメダカの学校)。遠足にも行けるようになりました。運動会、学芸会もできるようになりました。教科書のことはよく覚えていません、国語の教科書は、戦争中一年の時、「コマイヌサン、コマイヌサン」と勉強したことを覚えています。
 部屋にお弁当を持ってきている子もいない子も、同じ部屋でお昼の時間を過ごしていました。持ってきていない子供の方が多かったので、別にはずかしくはありませんでした。祖母は持っていかないときもありました。
 そのときに食べたかったものは、白い食パンで、進駐軍から配給があって食パンを食べたとき、
「なんておいしいものだろう。」
と思いました。進駐軍(アメリカ軍)が日本を管理していました。ほかに白米やおもちをたくさん食べてみたいと思いました。そのころ小学生は、ほとんどシラミがかみの毛についていました。シラミは頭のかみの毛につき、血を吸います。激しいかゆみを感じます。

家の商売(省略)

給食の始まり
 給食は、すぐには始まらなく、各自がお弁当を持ってきていました。お弁当といってもさつまいもを新聞紙にくるんで一本しか持ってこない子もたくさんいました。給食はまずいミルクがかんのコップに一杯くらいでした。ミルクのでないときは菜っ葉の入った澄まし汁みたいなお汁が一杯くらいでした。 今はみんなあれがきらいこれがきらいと言っているけれど、祖母は、
「昔の人を思うとぜいたくだな。」
と言いました。
「食べるものを大切にしなくちゃいけない。」
と言いました。
その他の記憶
 戦後は、おふろにも入れないような小屋に住んでいた人たちがほとんどでした。子供の頭にはシラミがたくさんいました。学校の校庭に全員が並べられ、DDTを頭からかけられ、みな粉ぶくろからでてきたような顔をしていたことを何回か記憶しています。食べるものがなくて、いなかにリュックを背負い買い出しに時々つれていかれました。
ぼくの思うこと
 ぼくは、まず戦争をやって幸せになることなど絶対にないと思います。戦争に関係ない子供やお年寄りまでがなくなったり、家族もはなればなれになったり、殺し合いを平気でしたりしてとても残こくな世界です。
 戦争が終わって平和になっても、何年も何十年もずっと悲しみを引きずって歩かなければなりません。だから戦争をしては絶対にいけないと思います。この戦争で日本の国は、三百十万人の日本人が亡くなりました。このことを絶対忘れないでほしいと祖母は話してくれました。

 掘り起こそう貴重な体験
 この子は、この学校に通う四世代目になる。この地域は、古くから住んでいる家族が多い。したがって、学童疎開者や、東京大空襲の体験者が何人かいらっしゃる。
子どもらが聞き書きを終えて
 戦後五十九年経ち、戦争体験者がどんどん少なくなってきている。しかしながら、今回もこのような指導題目を立てたが、まだまだ証言者のいらっしゃることが、わかった。東京大空襲で、火の中をくぐり抜けた方や兵隊として戦地に行かされ、「九死に一生を得て」方などがおられ、大変貴重な聞き書きが出来上がった。


はじける芽(131 )  2004.11.10
  先生が流した感動の涙
    小学校 五年
 三週間前のことでした。帰りの会が終わって、漢字ミニテストをしようと思ったけど、クラブがあったので、さよならをして、クラブに行きました。私は、音楽クラブなので、急いで音楽室に行きました。六年の卒業アルバムを作るため、写真をとることになりました。私は、一番後ろにいました。A先生も一緒に入ってとりました。写真をとったあと、A先生がとったビデオを見て、二時五分に外に出て練習をすることになりました。しかし、外スポーツがキックベースボールをしているところを止めてしまったので、六年とかが、
「何で音楽クラブがいつも使うんだよう。」
と文句を言っていました。A先生が、
「みんなごめんねえ。」
といってあやまっていました。校庭があいた後、みんなや私は、パレードのじゅんびをしました。「トップオブザワールド」という曲を校庭を一周しながら吹きました。行進が終わって、「明日への扉」を吹きました。吹いている途中、うでが痛くなってきました。私は、
(いたたた〜、でもがんばらなきゃ。)
と思いました。校庭の中央で、直線になってM字になるとき、打楽器と合わなくなり、きれいな直線ができませんでした。「ゆかいに歩けば」は、とてもきれいにできました。終わったと同時に、T先生とA先生の大きな拍手が聞こえました。二年二組の担任で、音楽クラブ担当のT先生が、
「いやあーうまくなったねえ!ちゃんと回るところとか、きれいに並んでできたし、もう、すごいとしか言えないね!」」
と長い感想を言ってくれました。A先生になったとき、なんだか先生の様子が変だったので、
(どうしたのかなあ。)
と思っていると、先生の顔が、どんどん赤くなってきて、上などを見て涙をこらえていたけど、とうとう泣いてしまいました。私は、
(えー、どうしたんだろう。何か思い出した のかなあ!)
と不安になりました。みんなも不安な顔をしていました。A先生は、
「ごめんね。みんなが前よりもうまくなっていたから・・・。本当にこの子たちはすごいね。」
と白いハンカチで涙をおさえながら言いました。
(そんなに感動してくれるなんて・・・。)
と私も感激しました。
 でも、途中で放送が入って、あまりよく聞こえませんでした。終わって、楽器を片づけようと階段をのぼっていたとき、
「すごいよねえ、A先生が泣くなんて。」
とその話でもりあがっていた四年生が、階段を上って行きました。私たちのクラスのFさんが、
「うち本当にびっくりしちゃった。だって泣くんだもん。」
と言っていました。私は、
(本当にそうだよう。)
と思いました。A先生の涙を見たのは、初めてです。本当にびっくりしました。

作品分析
*いつ頃の出来事なのかがわかる。
*「急いで」という表現の中に、クラブへ早く行きたいということがわかる。
*外に出た時刻が書けている。
*ここから、会話が出てくるが、文章が生き生きとしてくる。          
*「みんなごめんねえ。」と生徒にあやまれる教師の度量の深さ。
*校庭があくまで、待っていたことがわかる。 
*吹いている途中のつらさがわかる。

*二つの曲の練習内容の評価をしている。

*「大きな拍手」という表現に喜びが伝わる。
*「言ってくれました。」という表現の中に、教師への感謝の気持ちが出ている。

*A先生の様子が変なことに気がついている。
*A先生の顔の表情やしぐさをよく観察している。
*泣いてしまったときの不安な気持ちが出ている。
*そのときのみんなの不安な顔もよく見ている。
*先生のそのときの会話や「白いハンカチで涙を」とよく見ていたことを覚えている。
*教師の感動の言葉に、その時思ったことを素直に思い出して書いている。
*終わった後の、四年や五年の他の友達の反応についても、会話を入れながら書いている。

学校行事作文の書かせ方
 行事が終わると、その後に作文の時間にする。行事作文と言って、我々は批判してきた。パターン化した作品が出て、値打ちある作品はあまり生まれてこない。子どもにとって、行事本番までの間に、様々な形の感動がある。心がゆれたその日か、何日か後に日記に書いた方が、この作品のように場面をしっかり切り取り、値打ちのある「ひとまとまりの作品」を書いてくるものである。この作品は、日記を作文にしたものである。

行事に積極的にかかわる。
 学期に一つか二つは、運動会・学芸会・展覧会と向き合うことがある。そのようなイベントに、どのように関わって行ったら良いかを子どもたちも、教師も考える。ここに出てくる子どもも教師も、おたがいにいい関係が成立しているのである。教師によっては、急に大声を出したり、しかることが多くなってしまう。しかし、ある程度信頼関係がなりたっているならば、このように喜びは大きなものに発展していく。

「生きる力」を育む
 音楽や図工の時間は、子どもたちの情操教育的な面を、大きく伸ばしていき、「生きる力」を間違いなく確かのものにしていく教科の一つであろう。早朝の時間や休み時間や放課後の時間まで、子どもたちは教師の綿密な指導に応えて、切磋琢磨して力を次第につけていく。その成長の姿を、日々追って見られる所が、教師冥利に尽きるのではないだろうか。一方子どもは、その努力の成果を本番の日に最高のところまで高めようとする。この両者のころあいで当日を迎え、子どもも教師も、「胸のドキドキとくちびるのふるえ」を持って本番に備えるのである。緊張感に心の底から、喜びを感じながらである。
なお、この文章は、A先生にお断りして、子どもの成長のために、載せることを承諾していただいたこともつけ加えておく。


はじける芽(130) 刊墨教組 No.1454   2004.10.13

九月の指導題目 
班日記に、心に強く残ったことを生き生きと書いてみよう。
日記を作文に(推敲指導を大事に)

早く自分たちで作った米が食べたい
 五年
 ぼくたちは、一学期の六月十六日(水)からみんなで、バケツで稲を育てていました。学校の帰りや休み時間に、バケツの中の水をさわって、ぬるいときはバケツの水を捨てて、ホースで水を入れかえました。
 夏休みも、ラジオ体操やプールで、学校へ行ったときに、水をやりました。ぼくは、
(いつ米ができるのかなあ。)
と水をやるたびに思いました。水やりがめんどくさいと思ったこともありました。一学期、夏休みの間は、穂ができませんでした。葉が、まっすぐ大きく育っていました。
 二学期の九月五日くらいから、ほが出てから数日後の学校の帰りに稲を見てみると、すずめがほを食べに来ていました。ぼくが稲の近くに行くと、すずめは、大あわてでにげていきました。次の日、先生にすずめが来たことを言いました。そしたら、サッカーゴールで稲を囲ってくれました。九月十六日木曜日の一,二時間目に、前から育てている稲をみんなでしゅうかくすることになりました。みんなの家にかまがなかったので、はさみでしゅうかくしました。ぼくは、小先生係で、先生が、
「小先生の人は、ハードル用意しといて。」
と言いました。だから、小先生係のAさん、Bさん、Cさん、Dさんとみんなで四つハードルを運びました。その後に、自分の稲のある場所へ、はさみを持っていきました。先生が、
「稲の下の方を切るんだよ。あんまり下すぎてもだめだよ。」
と言いました。その時に、
「あ、いも虫がいる。」
とEさんが言いました。そしたらみんなが見始めました。先生は、
「最後にあまった葉で、米がついている束をまく。」
と言っていました。さっそくみんなでやりました。ぼくは、まず虫がいるかどうかさがしました。でも、いませんでした。米がある束を二回に分けてきり、葉でくくって束ねてから、ハードルの上をまたぐように置きました。そしたら、先生が、
「小先生ゴミをほうきでとって。」
と言ったので、Fさんとやりました。今度はみんなに、先生が、
「バケツ持ってきて。」
と言われたので、ゴミそうじを中断し、バケツの水を捨てました。でも、ただ捨てるだけじゃあもったいないから、校門の右にある木に流しました。そして、バケツの中の土は、その先のついてのあるところに捨てました。それから、学校の雨水でかるくバケツを洗いました。そしてかわかしていると、数人が集まっているので行ってみると、まだ残っているバケツの水に、ヤゴがいました。ぼくは、
(へえ〜、よくこんな所にヤゴがいるなあ。)
と思いました。
十月六日の二時間目に稲のもみとりをやりました。最初に穂だけを取りました。少し手が痛かったです。その後に、すりばちに、もみつきの米を入れ、野球ボールで少し強めにこすりました。すると、もみがらと玄米に分かれました。その後に、ベランダへ行って穴があいたボールに移して、息を吹いたら、もみがらが外へ飛びました。残ったものを見たら、玄米だけ残っていました。
 早くしゅうかくした米が食べたいです。

日記を作文に
 日記を書かせるときも、「ひとまとまりの文章を書く」つもりになって書かせている。家に帰ってからその日や、何日間の出来事を思い出しながら書き上げている。しかし、書き出しをどうするか、中心はどのように展開していくか、おわりはどのようにしめくくっていくかまで、なかなか考えながらはできない。したがって、日記を作文にしていくには、やはり書き出しをもう一度大事に考えさせている。また、中心の一番書きたいことが書けているかも、再吟味させている。前半のゴシック体の部分は、推敲したときに書き加えたものである。後半のゴシック体の部分も、あとから書き加えたものである。

この作品を分析する
* 題名の書き方が、読みたくなる書き方になっている。
* 一学期から四か月あまりの期間を、ずっと観察したことの出来事をしっかり思い出して書いている。
* 苗を植えた日や夏休みのことや二学期になってからの大事な出来事の日付けを良く覚えている。
* 自分たち一人一人のバケツに植えたので、愛情を持って育てていることがわかる。
* すずめが来たことにも気がつき、すぐに心配して、担任と連絡を取り、次の日にネットが囲まれていることにも気がついている。
* 収穫をするときの、教師の指示を良く聞き、会話の形でまとめている。
* 自分や友だちといっしょにしたことを、きちんと思い出して書いている。

積極性・意欲性は書くことによって育つ
 ものごとに対して、かかわりが弱くなっている子供が増えてきていると言われている。しかし、このような作品を読むと、子ども本来のものに対する積極性がわかり、うれしくなる。政哉さんは、日記を書くことによって、稲の成長の過程を再認識したのである。自分のかかわった出来事の中から、値打ちのあることを、自ら「えらびだし」書き上げてきたのである。日記に記さなければ、このような宝物のような作品はできあがらない。現在の教科教育の中では、このような作品は生まれてこないだろう。
この作品をこどもたちと読みあい、「ものに対するかかわり方の大事さ」をもう一度学び合うことにしている。他のこどもたちも、この作品を読むことによって、「題材」「記述」「構成」について、たくさんのことを学べる。政哉さん自身も、「鑑賞」の授業を通じて、新たな意欲を持って「書く」ことへ大きな自信を持って、再び「生きる力」を確かなものにして、日々過ごしていくであろう。


はじける芽(129 )

六月の指導題目   自分の身近なところにいる人へ関心を持ち、心に強く残ったことを、生き生きと詩に表現してみよう。 人間への注目


 必死に跳んでいるA先生
授業参観の時、体育があった。
短なわをやった。
A先生は、BさんやCさんに負けないように跳んだ。
ちょっと、かっこつけてた。
保護者の人や、地域の人がいっぱい見に来ていたからかな。
それとも、前に担任した、Dちゃんが来ていたからかな。
A先生は、とてもしんけんに跳んでいた。
でも、Bさんに負けた。
とても悔しそうだった。
A先生、また今度がんばってね。
この年になっても、子どもには負けたくないという気持ちが、いまだにある。できるならば、Bさんは、百回こし、私は、六十六回までいった事も書いておくと、もっとよかった。。

 熱心なE先生
E先生はとっても熱心だ。
音楽クラブの時は、一人ずつ順番に見る。
三分という短い時間で、ていねいに教える。
みんなはどんどん銀シールをもらう。
たまに休み時間のとき、よばれるときがある。
私は和太鼓の用事があってよばれた。
いきなり理科室のいすにすわらされた。
F先生とG先生とE先生。
いっせいに和太鼓をたたいた。
理科室にひびくたいこの音色。
E先生たちがけん命に見本をひろうしてくれた。
少し感動してしまった。
「そーれ!」
とかけ声がなりひびく。
やっぱりE先生は熱心だ。
音楽は、音を楽しむと書く。E先生は、まさにそこの所を、いつも大事にされて、授業されている。歌の見本には、H教頭やI先生やJ先生が参加して、ハーモニーのすばらしさをひろうしてくれた。

 いつもニコニコG先生
G先生とは、
図書委員で一緒だ。
G先生は、
怒るとき以外は、
いつもニコニコしている。
私が、本を読んでいる時、
「何読んでるの?」
と、ニコニコしている。
「前は、一年生がたくさん来ていたけど、今はあまり来ていません。」
と、私が図書委員会の時、発言すると、
「あはははは。人数少なくなっちゃったの?」
と、笑いながら言う。
明るくて良い先生だ。
G先生て、どんな先生だろうかと、転勤前は、想像していた。ここで子どもがとらえているように、いつも前向きで、子どもたちに人気がある。

 本好きなK校長先生
校長先生は、本が好き。
そんな校長先生は、朝会の時に、
「この本はおもしろいよ。」
としょうかいしてくれる。
校長先生の、しょうかいしてくれる本は、とてもおもしろい。
ほんのすきな校長先生と、せきにんしゃの校長先生と、なんだか二人いるみたい。
校長先生は、わかわかしくみえる。
「本好きな」と「責任者」の校長先生と、とらえた所がおもしろい。この学校の子ども達は、大人を持ち上げるのがうまい。こんな詩を書かれたら、誰だって、いい気持ちになって、子ども達の前で、張り切らざるをえない。

 毎日声をかけてくれるLさん
「おはようございます。」
と、声をかけると、Lさんが、
「おはようございます。」
と、いつも言い返してくれます。
「今日は晴れてるけど、明日また雨降るんだよ。」
と、いろいろな情報を教えてくれるいい主事さんです。
帰りには、
「剣玉かして、ひこうきできるんだ。」
と、ぼくに言ってくるので貸します。
でも、ぜんぜんできません。
「あれ、きょうは調子が悪いなぁ。」
と毎日ごまかしているおもしろい主事さんです。
いつもよっぱらったような赤い顔です。
Lさん、今度は「飛行機」決めて下さいね。
会話から書き出しているのが良い。この子さんにとっては、Lさんのつぶやきを、結構しっかり受け止めている。剣玉を通じて、ますます親しみをもって接している。Lさんには、剣玉の修行が、当面の課題である。

 I先生の大きな声
音楽の時間三人の先生がきて三重合唱をした。
でもとくに大きな声を出していたのは、I先生だ。
「星の世界よ。」
と全部終わったら拍手がおくられた。
ぼくも感動した。
すげい。
あとで、
「I先生の声って大きかったよね。」
とみんなでいっていた。
本当に声が大きかった。
今年新任できたI先生は、音楽の歌がプロ級である。そこの所を、E先生が、すぐに見抜いて、このような鑑賞の授業を迎えたのである。

 いつもえがおのM先生
M先生は、
いつもえがおで、ニコニコしている。
えがおの時に
調子に乗って
「くりー」
と、よびつけする。
でも、勉強になると、
えがおがなくなり、こわい目つきだ。
勉強が終わると、笑顔になる、
笑顔っていい事だな。
ぼくら教師は、子どもたちから、たくさんのエネルギーをいただく。子供達に人気のあるM先生の人柄が、ここに出ている。やはり、子供達は、厳しいときと笑顔の教師のメリハリに期待している。

 黄色いブレスレットをした N先生、ありがとう
終業式の日に、
一生けん命作った、黄色い手作りの
ビーズアクセサリーを、
N先生にわたした。
りにん式の日、N先生が、
その手作りの黄色いアクセサリーを、
つけてきてくれた。
私はうれしくってうれしくって、
N先生が体育館から出る時、
ブアッと水道のじゃぐちから水が、
飛び出すように涙がこぼれた。
じゃぐちはどんどんゆるんでいって
しめられない。
N先生が私の前にきた。
「Oちゃんが泣いたら先生も泣いちゃうでしょ。ほら、あの笑顔でがんばって!ね!」
先生は泣きながらも一生けん命私の心に伝えてくれた。
私はN先生に答えるように、
「はいっ!先生もがんばってください!」
と目をごしごしこすりながら言った。
先生、私一生けん命がんばるよ。
 一年から、三年まで担任してくれたN先生のことを、いまだに心の中に大切にしまっている、Oちゃんはすてきだ。このように書かれたN先生の子どもに対する姿勢がにじみ出ている。


はじける芽(128
 五月の指導題目
 五年生になってから、今までの生活の中で、心に強く残ったことを、じっくり思い出して「・・・でした。」「・・ました」と、出来事の順に生き生きと書いてみよう。


  一合カップ分の米の値段
        五年 K
 五月二十五日、社会科の宿題をしました。「一合カップの値段調べ」でした。ぼくは、
(いろいろな米の一合の値段を調べたい。)
と、思ったので、「鶴岡米店」に、調べに行くことにしました。「鶴岡米店」は、おじいちゃんの家の前の道を西に行って、最初の道を右に曲がるとあるので、すぐに行けます。ぼくは、まず、家に行って、米一合の量を量ろうとしました。
(家に、はかりってあったっけなあ。)
と、思いながら、二階の台所へ行くと、はかりがありませんでした。一合カップはありました。
 それで、おじいちゃんの家にもどりました。おじいちゃんの台所には、赤い台ばかりがありました。ぼくは、
(あとは、一合カップだけだな。でも、おじいちゃんのご飯て、おばあちゃんが亡くなってから、ずっと、ぼくの家で作ってるから、一合カップあるかなあ。)
と、思いながら、おじいちゃんに、
「一合カップってない?」
と、聞くと、
「ここにはないんだよ。」
と、おじいちゃんが、居間から言いました。家には一合カップがあって、おじいちゃんの家に台はかりがあるので、
(カップよりも、台はかりを移動させる方がいいかな。)
と思い、赤い台はかりを、家に持っていきました。台所に置いてみると、0よりも、重くなっていたので、乗せるところの下にある調節ねじで、0グラムにしました。まず、カップを量ると、二十グラムでした。次に、カップいっぱいに米をいれ、はかると、百七十グラムでした。百七十引く二十で、百五十グラムが一合だと分かりました。
 その後、「鶴岡米店」に行きました。入ると、店のおじさんが見えませんでした。ぼくは、よく、おじさんが、カウンターのすみで、新聞を読んでいるのを知っているので、
(ここかな。)
と思い、のぞいてみると、いたのでびっくりしました。ぼくは、
「こんにちは、米の調べで来ました。」
と言い、さっそく、
「米って、種類によって、一合の重さって、変わるんですか?」
と、聞くと、
「変わるよ。」
と、おじさんが言いました。ぼくは、
(てことは、家ではかったのとは、ちがうかもしれないわけ?)
と、思いました。でも、
(あれっ?そういえば、家にあったのって、あきたこまちだっけ?こしひかりだっけ?)   
と、思いました。いつも、お使いに行っているのに、米の品種を忘れてしまったのです。そのとき、お客さんが来たので、おじさんは、
「ぼく(人の事を指す)、そこに、米の品種の表があるよ。」
と、忙しそうに言いました。見てみると、「ササニシキ」「コシヒカリ」など、日本の様々な品種がのっていました。ぼくは、「森のくまさん」という品種に目がついて、
(「森のくまさん」なんて、おもしろい名前だな。)
と、思いました。そして、売っている米に、目を移しました。すべて、「コシヒカリ」でした。
(全部コシヒカリか。)
と、がっかりしながら、産地を見ると、産地が違いました。石川・栃木県産、五キログラム二千八百五十円と、会津(福島県)産、五キログラム三千五十円と、新潟県産(減農薬栽培米)、五キログラム三千二百五十円と、もち米(産地不明)、一キログラム八百五十円と、産地不明の米がありました。産地不明でも、パッケージが、石川・栃木と、同じだったので、
(石川か、栃木のものだな。)
と、思いました。いよいよ、一カップを調べ始めました。でも、なかなか分かりませんでした。
(こうやるんだっけ?・・・いやちがうな。)
と、思いながら、時計をみると、四時二十五分ごろで、時間がかかっている気がし、
(もう帰った方がいいのかな?)
と、思いました。結局、千グラムの中に百五十グラムは、六,六六・・・・個あるので、千グラムの値段÷六,六六・・・・の商を、小数第一位を四捨五入して、求めました。ぼくは、
(あってるかな?)
と、思いながら、計算機で計算しました。計算が合っているとすると、商はすべて、、五で一の位を一つ上げました。石川・栃木と、産地不明の米は、八十六円、会津は、九十二円、新潟は、九十八円でした。米一合の値段は、八十から百円だということがわかりました。榎本先生が、
「一合は、おわん二はい分だよ。」
と、言っていたので、おわん一ぱいは、約四十五円だということがわかりました。榎本先生が、
「おわん一杯で、おなかいっぱいだから、パンとかより安いんだよ。」
と言っていたので、
(確かに安いな。)
と、思いました。新潟県産は、有機栽培米で、九十八円で、榎本先生が、
「有機栽培米は、高いんだよ」
と、言っていたので、
(確かに高いな。)
と、思いました。もち米は、百二十八円でした。
(これでいいのやら。)
と、思いながら、帰りました。
 夜、家で、母に、米調べの事を、話しました。すると、母は、
「ここにも、はかりはあるよ。」
と、言いました。ぼくが、
「えっ?」
と、言うと、母は、台所の下の棚から、はかりを出してきました。デジタルはかりでした。
(ここにあったなんて。)
と、僕は、がっかりしました。
(もっといろいろな品種の一合の値段を調べたいなあ。)
と、思いました。 

出来事の順に書く大事さ
 したことをしたとおりに、過ぎ去った書き方をしていくことが、作文でもっとも大切な書き方になる。Kさんは、米屋に行ったり、おじいちゃんの家に行ったりきたりしたことを忠実に思い出して書いている。このような書き方をこれからも大切にしていく。やがて、新聞の記事を読んでの感想を書いたり、世の中の出来事に敏感になり、新聞の投書欄に自分の意見を主張することができていくのである。それは、中学・高校・大学の小論文につながっていく力になるのである。


はじける芽(127
 四月の指導題目

 
新しい学年になり、新たな気持ちになって、心に強く残ったことを、日記に書いてみよう。

  日記は、その日にあったことや何日間かの出来事を思い出して、その中から心に強く残ったことを「えらびだして」書いていくことだ。自分から「選び出す」と言うことに値打ちがある。つまり、場面を「切り取る」と言うことも大事だ。したがって、どこから書き出すかと言うことも、当然大事になってくる。一番書きたいことをきちんと書くと言うことができるからだ。そのためには、「読みたくなる題名」をつけることが、書きたい主題意識につながっていく。

漢字クイズ
五年 ○○ ○○
 四月十六日金曜日に、学校から帰って、ぼくは、お母さんに、
「問題。じゃあ、まず簡単なのから、木へんに春は?」
と、聞きました。お母さんは、手に指で文字を書いて、
「つばき」
と、答えました。
「正解。次に簡単な、木へんに冬は?」
と、ぼくは言いました。お母さんは、また手に文字を書いて、
「えーと、ひいらぎ?」
と、言いました。ぼくは、
「正解。じゃあ、木へんに夏は?」
と、聞きました。お母さんは、
「えの。榎本先生の字でしょ。あ、えのきか。」
と、言いました。ぼくが、
「ここまで分かったら、けっこうすごいんだって。じゃあ、一番難しい問題。」
と、言ったら、お母さんが、
「木へんに秋?」
と、言いました。ぼくは、
「うん。」
と、言いました。お母さんは、なかなか分からないので、
「紙に書いてもいい?」
と言いました。ぼくは、
「いいよ。」
と、言いました。お母さんは、ひさぎと三回くらい紙に書いてから、
「うーん・・・。すき?」
と、言いました。ぼくは、
「違う。答えは、ひさぎでした。」
と、言いました。お母さんは、
「へえー。どういうやつ?」
と、聞きました。ぼくは、「はらっぱ」を見ました。すると、「ノウゼンカズラ科の落葉高木」と書いてありました。なので、ぼくは、
「ノウゼンカズラ科の落葉高木だって。」
と、言いました。お母さんは、
「へぇー。植物図鑑で調べてみよう。」
と、言いました。植物図鑑で、ひさぎを調べたけど、ありませんでした。なので、ノウゼンカズラ科を調べたら、ありました。ぼくは、
「なんで、すきとか言ったの?」
と聞いたら、お母さんは、
「すきとにているんじゃない?」
と、言いました。今度は国語辞典で。「すき」というのを調べてみました。ぼくが、
「漢字辞典の方がいいんじゃない?」
と言ったら、お母さんは、
「まあいいんだよ。」
と言いました。「すき」というのを調べたら、「鋤」となっていました。ぼくは、
「全然違うじゃん。」
と言いました。お母さんは、
「うーん。金へんに秋ってなかったっけ?」
と言いました。ぼくは、
「やっぱり漢字辞典の方がいいんじゃない?」
と、言いました。
 すると、お母さんは、漢字辞典を持ってきました。鍬をさがすと、ありました。やっぱり鍬でも、すきと読むことが分かりました。漢字クイズをきっかけに、色々調べられて、おもしろかったです。
四月十七日(土)の日記より

文章を生き生きと書く
      六つの大事なこと

@ いつ、どこで、誰がなにをしたかが、はっきりわかる文にする。
A その時、話した自分や相手の言葉は、会話としてかぎかっこ「・・。」を使って文にする。
B その時、思ったり、考えたりしたことは、ふつうかっこ(・・。)を使って文にする。
C その時の動きや、周りの様子にも気がついたら書くようにする。
D 自分はわかっていても、読み手がわかるように、説明も入れる。
E 必要なところは、ものの形や色や大きさ、手触り、においなど、五感(官)をはたらかせたことを、よく思い出して書く。
やさしい書き方から
    むずかしい書き方へ

何年生を担任しても、文章の書き方には、「ある日型」と「いつも型」の文があることを教える。「ある日型」とは、一回限りの出来事で、心に強く残ったことを出来事の順に、「・・・でした。」「・・・ました。」と過ぎ去った書き方を、しっかり書いていく方法を身につける。低学年・中学年なら、この方法を何度も書かせてもいい。高学年でも、最初はこの書き方を覚えさせ、主題意識を持って「場面を切り取り」ひとまとまりの文章を書かせる。やがて、この書き方がある程度身に付いたら、「いつも型」の文章にも挑戦させたい。「いつも型」とは、やや長い間の出来事を良くまとめて説明風に「・・・です」「・・・ます」と言う文末表現を多く使って書く文章である。
積極性・能動性をほめる
 この文を読む前に、「木へんに秋はなんて読むの」と言う作品を読みあった。(はじける芽八十号参照)十五年前に指導した子の作品が、教科書に載ったものである。その作品を鑑賞したあとで、家に帰ったら、この深沢君と同じように、家の人に「春・夏・冬・秋」の順で、聞いてみると楽しい会話ができると話しておいた。できたら、その場面を日記に書いてみるとよいと勧めておいた。○○君のお母さんは、子どもと一緒になって調べているところもすてきである。植物図鑑や国語辞典や漢字辞典で、一緒になって確認しているのである。
書きぶりもよい
 文章を生き生きとかく六つの大事なことを意識して、書いている。
 出来事の順に、「・・・でした。」「・・・ました。」と、過ぎ去った書き方をしていることが、もっとも大事な書き方である。会話をていねいに思い出して書いていることも、たくさんほめた。お母さんの間違いから、「すき」という字は、「鋤」と言う漢字であることも覚えることができた。私のちょっとした提案をしっかり受けとめて、お母さんとの楽しい会話もできた。それを日記に書き「はらっぱ」と言う文集にも載り、みんなにほめられて、○○君は、とっても得をしたのである。これから、ますます日記に力を入れて書いていくであろう。


はじける芽(126
週刊墨教組 No.1437  2004.3.8
 三月の指導題目
 日常生活の中で、いつも気になっていることを、五百字以内の字数にして、新聞の投書欄に書くつもりになって書いてみよう。

 今までの作文は、出来事の順に「・・・でした。」「・・・ました。」書いていく作文であった。今回は「やや長い間にわたって、ずっと心に残っていることを、説明するように自分の意見を書いてみよう。」と言う題目にした。中学校や高校などに行くと、「小論文」という課題がよくあり、必ず書かざろう得ないようになっている。そこで、子どもたちと朝日新聞の「声」(四百六十字)や東京新聞の「発言」(三百八十字)などを読み合った。文章の書き方を学び合ったあとに、事前に題材をさがさせておいたものを、書かせることにした。

  自衛隊は本当に安全なの? 四年  
 私は午後六時前後のニュースを毎日見ています。今のイラクはアメリカと戦争をしたすぐ後で、失業者がたくさんいます。そのうえ電気やきれいな水が不足しています。そこで去年の暮れ、イラクへ自衛隊をはけんすることについて、国会で議論がはじまりました。でも、イラクではほとんど毎日テロやしゅうげきがあるので、日本の国民には反対の人もいました。私も自らを守るはずの自衛隊が、なぜイラクで警備するのか不思議です。一月十六日、自衛隊先けん隊が出発しました。でもそのときには本隊はけんが決まっていたようで、『安全です。』という文ができていました。安全なら先けん隊の人数で足ります。本隊が出発する所がテレビに映っていました。日の丸をふる人もいて、日本のほこりだ、というように聞こえました。武器を持ってイラクに行く自衛隊が日本の代表なんて私はいやです。日本国けん法第九条に、日本は武器を持ったり外国をおどさない、とあります。武器を持っているので人を殺すかもしれません。水道局などのボランティアの人たちが行く方がいいです。それならさんせいです。 

  お年寄りに席をゆずろう 四年 
 数週間前、私は家族で電車に乗った。祖母は足が痛くなるからといって、普通の一般席に座った。母は「若いんだから立ってなよ。」と言って、座った。私と妹は座らなかった。いつもは座っているのに、なぜか座る気にはなれなかった。つえをついたお年寄りが、優先席へと座った。三十代位の人が、となりに座っていた。私は、それが気になって仕方がなかった。電車の中には、色々な人がいる。けいたいをいじるのに夢中になっている人、新聞を見ている人、足を広げて寝ている人。バスでもそうだ。色がちがうシートにお年寄りが座るのだけれど、後から乗ったお年寄りは、ゆずってもらえるまで立って待たなくてはならない。私はすぐに、「ここ、どうぞ。」と言って席をゆずった。その方は、「ありがとうございます。」と言って、ゆっくりと席に座った。私はうれしかった。若い人はすぐに座りたがっているけど、つかれた時は座ってもいいから、なるべく立ってほしい。外の景色をながめていた方がいい。一番大事なのは、席をゆずろうと思う気持ちではないか。     
  残さなきゃいけない憲法 四年
 私たちは三年生・四年生と担任の榎本先生から『平和』の大切さを学びました。二〇〇三年三月二十日(木)アメリカ合衆国はイラクに攻げきをしかけました。理由は「大量破壊兵器を探すため…」それを言い訳にしてきました。でも年が明けた今、今だに大量破壊兵器は見つかっていません。それどころかニュースで「破壊兵器など、どうでもいい。」という発言に怖くなりました。日本国憲法には【よその国を軍隊の、力でおどしたり戦争をすることはいっさいやらない事を決心した。】と書いてあります。しかし今日本は、自えい隊をイラクにはけんしました。「自えい隊は軍隊ではありません。」という発言はまちがっています。『軍』じゃないならなんなのでしょうか。日本国憲法は、日本を平和にするための憲法なのにそれを「古いから。」でなくそうとしているのはおかしいです。確かに古いけど、正しい憲法なら残さなければなりません。私たちが住んでいる墨田区も昔、東京大空襲で焼け野原になり、十万人以上が亡くなっています。もうこれ以上、犠牲者がふえないように第九条は残さなければなりません。

  十日間短縮        四年 
 葛飾区の教育委員会が、二〇〇五(平成十七)年度から、区立中学校の夏休み期間を、十日ぐらい減らすことを決めた。夏休みが、十日なくなると、いろんなことができなくなる。母は、「墨田区もなっちゃうんじゃないの。」と言った。楽しい夏休みは減らしてほしくない、夏休みがへると、いなかに行っている時間が少なくなる。葛飾区の、夏季学習教室は、保護者から、「続けてほしい。」という要望がよせられた。でもまだ墨田区には来ていない。ぼくは、ほっとした。この前学校に来た時、「プールの日がなくなるからいいじゃん。」という人もいた。プールの日がなくなっても、いやだ。夏休みが、十日へって少なくなるものは、田舎にいる時間もだ。減ってほしいのは、公文の宿題だ。特に多くなるものはない、時間が減るだけだ。夏休みは減らしてほしくない。夏休みは田舎に行って、ザリガニつりをした。夏休みは楽しいのになぜへらすんだ。  

  変えてはいけないけんぽう 四年
 イラクに自えい隊がはけんされました。ぼくの住む墨田区で起きた東京大空しゅうでは、十万人の人がなくなりました。太平洋戦争では、三百五十万人もなくなっています。世界で、初めて原しばくだんをおとされたのは、日本です。広島で、二四万人。長さきで七万人なくなっています。その反省で、日本国憲法ができました。日本こくけんぽうの第九じょうに、日本は、戦争をしない、ぶきを持たないと書いてあります。だけどニュースを見ていると自えい隊の人は、戦車に乗っています。ぼくは、自えい隊の服を見て戦争にいくような服そうに見えます。小いずみそうりは、「戦争に行くのではありません。」と言っています。自えい隊の中で一人も死んでほしくないです。戦争は、殺し合いです。戦争は、ぜったいしてほしくありません。  

はじける芽( 125)

 平和な世界へ   四年
「では、これから語りべの会を開こうと思います。」
と、司会の人が言いました。去年の十二月二十四日でした。その日、墨老連の、おじいさんおばあさんが、学校に来ていました。戦争の話は、いつも三月ごろの平和集会で、してもらうのですが、ちょうどこの機会にめぐまれたので、この会があるのです。イスを持ってせの順にならびました。そのまま二階の集会室へ行きました。パイプイスが、いっぱい後ろの方に置いてありました。一年生から六年生までが来て、座りました。司会の人が自己しょうかいして、墨老連の会長さんが、東京大空しゅうの話を少しして、
「東京のほかにも、色々な所がばくだんで、焼け野原になりました。これから語っていただく方たちは、どのような体験をしたのでしょうか。」
と言いました。私は、体育座りをしました。PTA会長さんが、あいさつをしました。それから、一人目の方のお話が始まりました。
「私は、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で生まれました。」
と言いました。その人は、私たちが前見た、ビデオにあった中国残留こ児の話などをしてくれました。その人の話が終わり、二人目の方のお話になりました。筆で書いてある題名の所には、
「信ちゃん」
と書いてありました。浅草の、終戦(敗戦)したころのお話をしてくれました。
「おじさんは、今七十四才です。その当時は、十六才でした。お母さんとお父さんを戦争で亡くして、先の方がとがったもので、たばこを拾い集めていたんです。」
と言いました。また、
「そのたばこの中に、すっていない所があるでしょう。その部分を集めて持っていくと、いま、浅草ロックスの横のあたりで、さつまいも一本か、ぞうすいと交かんしていました。お寺でねようと思い、人をかき分けて見つけたんです。しばらくつかれがたまっていたのでねていると、二本の足が私の上に乗っていました。よく見ると、となりの人の足だったので、起こしませんでした。次の日、起きてみると、となりをみたら、小学一年生くらいの男の子だったんです。その子が、題名の、『信ちゃん』なんです。」
と言いました。私は、
(その子が信ちゃんなんだ。)
と思いました。おじさんは、 
「その子が起きたみたいだったので、サツマイモを一本あげました。信ちゃんは、サツマイモを全部食べると思っていたのに、半分残していました。あとで食べようと思ったのでしょう。そろそろ行こうとした時、信ちゃんは私の服をつかんでいました。一緒に行くことにしました。それから、橋の上で固まっている子供四人に、出会いました。その子達は、『一緒に行かせて下さい。』と言ったので、その子達も仲間に入れてあげました。三人はたばこ拾い、三人はくつみがきをやりました。雨の日は困りました。くつみがきは人がこないし、たばこはぬれてしまっているのです。ある日上野駅で電車を降りてきた、田舎から来たらしいおじいさんとおばあさんがいて、大きいおにぎりを食べていたんです。私は、(信ちゃんには食べさせてあげたい。)と思ってたのみました。おじいさんは笑って、箱に入っていたおにぎりを、七個もくれました。私はすぐ信ちゃんにわたしました。信ちゃんはもらっても食べずに、じーっと見ていました。信ちゃんは、ほかの子たちの分も、分けていたのです。私は、《私は信ちゃんの事しか考えてなかった。》と思い、反せいしました。」
と言いました。私は、
(信ちゃんはそんなにやさしい子だったんだな。)
と思いました。おじさんは
「いつか、この続きを話したいと思います。」
と言いました。
 なぜこのような生活になってしまったのでしょうか。それは、一九四五年八月十五日に日本が戦争に負けて、家を焼かれ家族を亡くした人達は、みんな必死になってくらしていたのです。子供たちは生きていくために、必死で働いていたんです。戦争は、「人間の幸せ」を粉々にして苦しめるものです。イラクで今起きていることは、戦争と同じようなものです。毎日人がなくなっているのです。日本の自衛隊も、数日前に、サマーワに着きました。
(関係のない人まで巻きこまれる戦争は、してはいけない。)
と、思います。しかも自衛隊は、先けん隊だけでなく、何百人以上もいる本隊を派けんすることに決まりました。私が見たニュースでは、子供がお父さんに、
「いってらっしゃい。」
とか言っている所が映っていました。
(五十九年前のような事をくり返したくない。)
と思います。そんなこと、私は絶対いやです。               
 今度、三月の平和集会で、そのお話をしてくださったFさんが、お話の続きをしてくれます。私は、戦争がなくなるのを願っています。

聞き書きのポイント
 語り手の話をじっくり、ていねいに聞く事である。それをできるだけ、忠実に思い出して、表現できるかどうかによって、作品の価値は決まる。それと、相手の顔の表情や声の調子なども、できるだけ見逃さずに観察することを強調しておいた。表現の方法は、聞き書きだが、断定の書き方を勧めた。最後にその時自分が、心の中に思ったことも、文章の部分に入れていくことも大事にした。今回行政の方から持ち回りで、「語り部の会」を企画していただいた。この文にあるように、話が具体的で、子どもたちに感動的に語っていただいた。全校の児童が、吸い込まれて聞き入るほど、話の仕方が上手であった。私が子ども時代、上野の駅のホームの屋根や地下道に、たくさんの浮浪児がいた。戦災孤児と言ったりもした。みんな戦争の犠牲者である。この文のように、もく拾い(たばこの吸い殻)や靴磨きをして、一日の生活をしのいでいた。やがてこの孤児たちは、施設に送られて、それぞれの道に進んでいった。
 イラクへの自衛隊派兵という現在、「教え子を再び戦場に送らない」という日教組のスローガンが、いよいよ真価を問われている。


はじける芽(123 )広島の被爆者Fさんの体験を聞き書きするー2ー
子どもたち(四年)の作文の一部より
  被ばく前のFさん
  Fさんは学校の近所で『スーパーフクチ』というだがし屋のような、スーパーをやっています。去年の秋、たまたま私たちのたんにんの榎本先生と、Fさんが知り合ったのです。Fさんは、広島でばくしん地から八百メートルで、原ばくを体験した方なのです。今年七十二才です。原ばくがおちた日は、去年話していただきました。そこで今回は、十月二十八日に前半として、だんだん物が配給になる時代の事を中心に話していただく事になっていました。十一月八日は後半として、原ばく体験後の苦労を中心に話していただく事になっていました。Fさんにお話をお聞きする内容のプリントが、榎本先生から配られました。私たちは自ら考えたしつ問を書きこみ、Fさんのお話を聞くじゅんびをしていました。
「男は長男でしょう、二男、で私が三男・・・。女は姉が一人と、下ですが妹が一人・ ・・えー、七人家族でした。」
と、はじめは家族のことでした。
「家は二階家で、父は写真の仕事をしていました。」
などと語ってくれました。《途中略》
なぜみとめない?
 Fさんはばく心地から八百メートルで、原ばくを体験したのに、日本政府はひばく者にみとめていません。みとめられないので、Fさんは今、さいばんをおこしています。Fさんのほかにも、みとめてもらえない人がたくさんいます。Fさんのお母さんは、発火する前にけむりをみたと言っていました。そのお母さんは何年か前に亡くなりました。私はなぜFさんたちがひばく者にみとめられないのか、わかりません。私はFさんたちが、早くひばく者としてみとめてほしいです。榎本先生にすすめられて『わたくしたちのけん法』という本で、十一条と二十五条を調べました。十一条は『きほんてき人けんというものは、国民のだれもが持っているものであるから、このけん法はどこまでもそれを守り続ける。』と、かいせつが書いてありました。二十五条は、『わたくしたちは、人間だから、人間らしい生活をするけんりを持っている。だから国としてはそれができるように、いろいろと、ほねおらなければならない。』とかいせつされていました。そこで、Fさんたちが、ひばく者にみとめられないのがおかしくなります。それは多分、日本政府がお金を出して、医りょう費などを出すのがいやだからだと思います。Fさんたちは正しいので、さいばんをがんばってほしいです。まちがっている国の言い分に、ちがうと言ってほしいです。みとめられるように、がんばって下さい。

  軍事教練
 プリン山の近くにある、スーパーFの所で住んでいる、Fさんが学校に来て戦争の事を三年生の時に、話してくれました。もう一度、話してくれることになりました。今度は、原ばくに受ける前のことと、受けた後のことを話してくれました。
 昔は、広島の広島市に住んでいました。原爆にあう前は、父・母・兄が二人・妹で住んでいました。
 学校に入学してから、昼は、なにも食べていませんでした。ぼくが、びっくりしたことは軍事教練です。わらの人形を、鉄砲に付いている針のようなもので刺してたりしてました。さらには、女の子も竹の先をとがらせた、ナギナタを練習していました。僕は、
(どうして女の子も、やるんだろう?戦争に行かないんだし。)
と思いました。榎本先生に聞いたら、
「戦争でアメリカが上陸したら殺される、と思って練習していた。」
と言いました。

  満州国        
 日本は中国をせめて、満州を日本の土地にしてしまいました。日本の本土に、すんでいた農家の人が、満州国にかせぎに行きました。ぼくは、
(中国の人は土地をとられて、だいじょうぶかな。)
と思いました。それに家とかとられてしまったのです。
 Fさんは学校で得意なものは、ありませんでした。ぼくは、
(軍事教練の、時間とかは、わら人形にじゅうでさしにいくからな。)
と思いました。人を殺すのはいやだ。戦争中は、生活がふべんで大へんでした。戦争中の生活は残こくです。 

 死んでもじごく、生きるもじごく
 「今も月曜と金曜に、病院に行って、ちゅうしゃのちりょうをしています。」
と言いました。僕は、
(このことをしつもんしてみようかな。)
と思いました。少し考えてから、手をバッとあげました。榎本先生が、
「はい、Sくん。」
と言いました。僕は、きんちょうしたので、少し早口で、
「うーんと、今、『月曜と、金曜に、病院に行ってる。』って言ってたんですけど、ちゅうしゃいがいに、どんなちりょうをしてるんですか。」
と聞きました。Fさんは、
「ほかのちりょうって、血えきのけんさをしてます。原爆で、けっしょうばんがこわれちゃって、血が止まりにくい体になってしまいました。」
と言いました。Fさんの血が全部出ちゃうと死んでしまうので、転んで血が出たら、早く手当てしないといけません。僕は、
(原爆は、死んでもじごくなんだけど、生きるもじごくなんだなー。)
と思いました。

 忘れてはいけない出来事
 これは、ぐうぜんにFさんに会えたから聞けたことなのです。このお話は、うそのようで、本当にあったお話です。 
(二度と、このような悲げきを起こしたくない。)
と思いました。
それから数日後、先生が、  
「その当時の、『先生』が、戦争はいいことと、教育していたんです。『日本は負けない 神の国なんだ。』と、教科書にも書いてあったんです。そうやって教育していたんです。」
と言っていました。私は、 
(関係ない人まで殺して、何になるのか?)
と思いました。広島の原子ばくだんで、二十四万人の人が亡くなりました。長崎でも、七万人が、亡くなりました。そのようにするには、どうしたらいいか、家族で考えたいです。今度は私達が、語りついで行く番なのかもしれません。

 最後にAちゃんのお父さんが、     
「もう、戦争が終わるにはどうしたらいいんですか?」
と聞きました。Fさんは、
「まず話し合う事ですね。それから、武器をもたない事ですね。」
と、言いました。Aちゃんのお父さんは、首をたてにふっていました。もう戦争をしてほしくありません。
「わたくしたちの憲法」の第二章の第九条では、こう書かれています。「第九条、わたくしたちはまごころから、世界の平和を、のぞんでいる。それにはどうしても、戦争をやめなければならない。だから、わたくしたちは、どんなことがあっても、いつになってもよその国を軍隊の力でおどかしたり、戦争をしたりすることは、いっさいやらないことを決心した。そして、それを実行するために、わたくしたちは、日本の国を、軍隊をもたない国にするのである。」
と書いてあります。私は、
(もっと早くきづいてくれれば、よかったのに。)



週刊墨教組 No.1427     2003.12.1

週刊墨教組 No.1428     2003.12.4

はじける芽(122 )

十二月の指導題目
 地域の人から値打ちある昔の出来事を、
     じっくりていねいに聞き、それをまとめてみよう。
 広島の被爆者Fさんの体験を聞き書きするー1ー

一年前のはじける芽113号で、広島の被爆者のFさんの聞き書きをして、それをまとめた作品を紹介した。今回は、被爆前の少年時代からの話から、被爆後の今に至るまでの生活の語っていただき、それを聞き書き作文にまとめてみた。

戦争前の話を聞いて
 四年  
 十月二十八日(火)に、スーパーFで働いているFさんが来てくれました。そのスーパーの人とは戦争中に広島の原ばくを体験された、Fさんという人です。それで、十月二十八日に戦争前の話をしに、わざわざお店を休み、四年一組の教室まで来てくれました。   (途中略)
Fさんの家族
 Fさんが、
「おじさんの家族は、お姉さん、長男、次男、それでおじさんが三男で、その下に妹がいました。お父さん、お母さんがいて、七人家族でした。」 
と言いました。私は、
(昔は家族が多いと言うけど本当だな〜。)
と思いました。
「なぜ子供が多いかというと、この時代は、『子供をたくさん生みなさい!』と国がどんどんすすめていたのです。男の子は大きくなると兵隊にできるからなのです。」
と担任の榎本先生が教えてくれました。
小学校の教育        
 色々とお話が終わり、しつもんの時がきました。誰かが質問しました。
「教科は何があったんですか?」
と聞きました。Fさんが、
「よみ方、つづり方(国語)算じゅつ(算数)理科、しゅうしん、体育。」
と言っていました。だれかが、
「体育は、どういうことをしていたんですか?」
と聞いていました。Fさんが、
「体育ではマラソンをしていました。ボールを使う事はありませんでした。」
と言いました。福地さんが、
「学校に行く時と、帰る時『けいれい』といって天皇へいかの写真に、おじぎをしないといけないからみんな、おじぎをしていました。」
と言いました。敬礼とは、天皇へいかをうやまう気持ちで、礼する事です。私は、
(小学生が敬礼するのは、天皇へいかが神様だったから。)
と思いました。
中学校時代の教育
 Fさんが、
「わら人形で、人を殺す練習をしたりしました。その授業が一番やだったです。週に 三時間ぐらい。」
と笑いながら言いました。私は、
(週に三時間か〜。)
と思いました。Fさんが、
「中学の時は、カーキ色の服を着て授業をしていたんですよ。」
と言いました。私は、
(『一つの花』にも出てきたけど、カーキ色の服とは戦争にいく兵隊さんが着ているようふく《軍服》だな〜。)
と思いました。(途中略)
Fさんが、
「しょうらいは、兵隊さんになりたかった。」
と言っていました。私は、
(何でかなぁ。)
と思いました。少しして私がまた、質問しました。
「わら人形で人を殺す練習で、教えてくれている先生がいると思うんですけど、きびしかったんですか?」
と聞きました。Fさんが、
「きびしいのが、あたりまえだから。」
と言いました。それに続けて榎本先生が、
「どのくらいきびしかったんですか?」
と聞いていました。Fさんが、
「さぼったりすると、みんな一列になってぶんなぐられます。」
と言っていました。私は、
(一人さぼると、みんななぐられるなんて。)
と思いました。
 六時間目の終わりのチャイムがなり、榎本先生が、
「今度は、戦争後の話をしていただきます。」
と言いました。私たちは、Fさんに、
「さようなら。」
と言い帰りました。今度は戦争後の話をしに来てくれます。  (途中略)
一キロ以内で生きているFさん
 Fさんが、
「この辺で、原ばくから一キロいないで生きている人は、いないと思います。それはおじさんもびっくりしてます。」
と言っていました。福地さんは、原ばくが落ちた所からから八百メートルの所に住んでいました。私は、
(そうだよな〜。すごいよな〜。福地さん。)
と思いました。私は、
(私だったらどうなっているのかな〜。こわいな〜。)
と思いました。
原ばくが落ちた後
 Fさんは、広島の町中へ逃げて行きました。そのと中、亡くなっている人や、皮ふがなく肉が見えている人を見ました。私は、
(そういう人を見てどう思ったのかな〜。)
と思いました。そのときFさんのお母さんは、病気になってしまいました。Fさんのうちは二階建てだったので、お母さんを二階にあげて、
(ねかせてあげよう。)
と思いました。Fさんが、
「お母さんを二階で、《ねかせてあげよう。》と思ったんですが、おじさんもげがをしていたんで、一人では無理なのでまわりの人に、手伝ってもらいました。」
と言っていました。私は、
(大変だったんだな〜。)
と思いました。    (途中略) 
最後に、
 私は、げんばくはおそろしいと、ただいっていただけでした。だけど、Fさんに出会って、おそろしさがわかりました。今、アルカイダの人が、「日本せいふが、イラクに自えいたいをはけんしたら、東京あたりに『テロをする!』」と言っているけど、私は、
(なにをかんがえているのかな〜。)
と思いました。
 Fさん、色々話してくれてありがとうございました。


はじける芽(123 )広島の被爆者Fさんの体験を聞き書きするー2ー
子どもたち(四年)の作文の一部より
  被ばく前のFさん
  Fさんは学校の近所で『スーパーフクチ』というだがし屋のような、スーパーをやっています。去年の秋、たまたま私たちのたんにんの榎本先生と、Fさんが知り合ったのです。Fさんは、広島でばくしん地から八百メートルで、原ばくを体験した方なのです。今年七十二才です。原ばくがおちた日は、去年話していただきました。そこで今回は、十月二十八日に前半として、だんだん物が配給になる時代の事を中心に話していただく事になっていました。十一月八日は後半として、原ばく体験後の苦労を中心に話していただく事になっていました。Fさんにお話をお聞きする内容のプリントが、榎本先生から配られました。私たちは自ら考えたしつ問を書きこみ、Fさんのお話を聞くじゅんびをしていました。
「男は長男でしょう、二男、で私が三男・・・。女は姉が一人と、下ですが妹が一人・ ・・えー、七人家族でした。」
と、はじめは家族のことでした。
「家は二階家で、父は写真の仕事をしていました。」
などと語ってくれました。《途中略》
なぜみとめない?
 Fさんはばく心地から八百メートルで、原ばくを体験したのに、日本政府はひばく者にみとめていません。みとめられないので、Fさんは今、さいばんをおこしています。Fさんのほかにも、みとめてもらえない人がたくさんいます。Fさんのお母さんは、発火する前にけむりをみたと言っていました。そのお母さんは何年か前に亡くなりました。私はなぜFさんたちがひばく者にみとめられないのか、わかりません。私はFさんたちが、早くひばく者としてみとめてほしいです。榎本先生にすすめられて『わたくしたちのけん法』という本で、十一条と二十五条を調べました。十一条は『きほんてき人けんというものは、国民のだれもが持っているものであるから、このけん法はどこまでもそれを守り続ける。』と、かいせつが書いてありました。二十五条は、『わたくしたちは、人間だから、人間らしい生活をするけんりを持っている。だから国としてはそれができるように、いろいろと、ほねおらなければならない。』とかいせつされていました。そこで、Fさんたちが、ひばく者にみとめられないのがおかしくなります。それは多分、日本政府がお金を出して、医りょう費などを出すのがいやだからだと思います。Fさんたちは正しいので、さいばんをがんばってほしいです。まちがっている国の言い分に、ちがうと言ってほしいです。みとめられるように、がんばって下さい。

  軍事教練
 プリン山の近くにある、スーパーFの所で住んでいる、Fさんが学校に来て戦争の事を三年生の時に、話してくれました。もう一度、話してくれることになりました。今度は、原ばくに受ける前のことと、受けた後のことを話してくれました。
 昔は、広島の広島市に住んでいました。原爆にあう前は、父・母・兄が二人・妹で住んでいました。
 学校に入学してから、昼は、なにも食べていませんでした。ぼくが、びっくりしたことは軍事教練です。わらの人形を、鉄砲に付いている針のようなもので刺してたりしてました。さらには、女の子も竹の先をとがらせた、ナギナタを練習していました。僕は、
(どうして女の子も、やるんだろう?戦争に行かないんだし。)
と思いました。榎本先生に聞いたら、
「戦争でアメリカが上陸したら殺される、と思って練習していた。」
と言いました。

  満州国        
 日本は中国をせめて、満州を日本の土地にしてしまいました。日本の本土に、すんでいた農家の人が、満州国にかせぎに行きました。ぼくは、
(中国の人は土地をとられて、だいじょうぶかな。)
と思いました。それに家とかとられてしまったのです。
 Fさんは学校で得意なものは、ありませんでした。ぼくは、
(軍事教練の、時間とかは、わら人形にじゅうでさしにいくからな。)
と思いました。人を殺すのはいやだ。戦争中は、生活がふべんで大へんでした。戦争中の生活は残こくです。 

 死んでもじごく、生きるもじごく
 「今も月曜と金曜に、病院に行って、ちゅうしゃのちりょうをしています。」
と言いました。僕は、
(このことをしつもんしてみようかな。)
と思いました。少し考えてから、手をバッとあげました。榎本先生が、
「はい、Sくん。」
と言いました。僕は、きんちょうしたので、少し早口で、
「うーんと、今、『月曜と、金曜に、病院に行ってる。』って言ってたんですけど、ちゅうしゃいがいに、どんなちりょうをしてるんですか。」
と聞きました。Fさんは、
「ほかのちりょうって、血えきのけんさをしてます。原爆で、けっしょうばんがこわれちゃって、血が止まりにくい体になってしまいました。」
と言いました。Fさんの血が全部出ちゃうと死んでしまうので、転んで血が出たら、早く手当てしないといけません。僕は、
(原爆は、死んでもじごくなんだけど、生きるもじごくなんだなー。)
と思いました。

 忘れてはいけない出来事
 これは、ぐうぜんにFさんに会えたから聞けたことなのです。このお話は、うそのようで、本当にあったお話です。 
(二度と、このような悲げきを起こしたくない。)
と思いました。
それから数日後、先生が、  
「その当時の、『先生』が、戦争はいいことと、教育していたんです。『日本は負けない 神の国なんだ。』と、教科書にも書いてあったんです。そうやって教育していたんです。」
と言っていました。私は、 
(関係ない人まで殺して、何になるのか?)
と思いました。広島の原子ばくだんで、二十四万人の人が亡くなりました。長崎でも、七万人が、亡くなりました。そのようにするには、どうしたらいいか、家族で考えたいです。今度は私達が、語りついで行く番なのかもしれません。

 最後にAちゃんのお父さんが、     
「もう、戦争が終わるにはどうしたらいいんですか?」
と聞きました。Fさんは、
「まず話し合う事ですね。それから、武器をもたない事ですね。」
と、言いました。Aちゃんのお父さんは、首をたてにふっていました。もう戦争をしてほしくありません。
「わたくしたちの憲法」の第二章の第九条では、こう書かれています。「第九条、わたくしたちはまごころから、世界の平和を、のぞんでいる。それにはどうしても、戦争をやめなければならない。だから、わたくしたちは、どんなことがあっても、いつになってもよその国を軍隊の力でおどかしたり、戦争をしたりすることは、いっさいやらないことを決心した。そして、それを実行するために、わたくしたちは、日本の国を、軍隊をもたない国にするのである。」
と書いてあります。私は、
(もっと早くきづいてくれれば、よかったのに。)


週刊墨教組 No.1426  2003.11.12
はじける芽( 121)
十一月の指導題目
  私のであった子どもたち
    その時々の私を、どう見ていたか。  (その二)

榎本先生の洋服破れてる  
      墨田区小学校 三年        現在二十一才
水色の洋服をきてきた榎本先生。
授業中のお話をした。
その時右手をあげた。
私は、水色の洋服がやぶけていることがわかった。
だれかが笑って、
「あっ、榎本先生のようふくやぶけてる。」
と言った。
わきのところが破けていた。
榎本先生は、はずかしそうに、
左手で右のわきをおさえた。
右手でチョークを持って、
黒板に字を書き始めた。
おくさんいるんでしょう。
ちゃんとぬってもらいなね。
  一九九一年作
     何でも言えるクラスになる条件は、子どもからも教師からも、お互いに言えることだ。

ぼくのすきな榎本先生
   墨田区小学校 二年  現在十六才
榎本先生は、
ひげがはえているりっぱな先生です。
じゅぎょうがはじまるときに、
「はーい。じゅぎょうですよ。」
というところが、
ぼくは、すきです。
        一九九五年作
   この学校で教えた最後の子どもたちだった。表現力は、豊かでないが、何か伝わるものがある。

先生の光る目
    墨田区 小学校 五年
授業中、誰かがあくびをした。
「あくびなんかするな、先生はすぐわかるんだぞ。」
先生の目が光った。
するどい目。
ぼっとしてあくびなんかすると、
目が光って、
あくびをした人に、
するどい目から、
矢をうったように、
先生の目が、そっちへ行く。
先生の目は、光る弓矢だ。
          一九九八年作
五年で二クラス、六年で一クラスの四〇人の単学級だった。この学校は、この学年を最後に、単学級になった。

榎本先生のまほう
  墨田区 小学校 五年(現在十四才)
榎本先生は、まほうを持っている。
その一つは、みんなのこころを強くするまほうだ。
たとえば、私は鉄棒が大の苦手だ。
飛び越しおりがでた。
「やだぁ〜。鉄棒きらい。」
と私は言った。
とうとう私の番がきた。
榎本先生が、
「ピッ。」
笛を吹くと、みんな鉄棒にとびついた。
でも、足を鉄棒の上にのっけるまではできるのに、
体が上がらなかった。
榎本先生が私の手を押さえて、
「だいじょうぶだよ。」
と言われたけど、不安とこわさでいっぱいだった。
下におりてしまった。
榎本先生が、
「もう一回ね。みんなできたら拍手だよ。」
と言った。私は、
よし、がんばるぞ。
と思ってやった。
でも、こわかった。
ちょっとあぶなかったけどできた。
みんな拍手をしてくれた。
高野さんは、
「かおぴーすごいね〜良かったね。できてすごいね」
と言ってくれた。
数日後、もう一度飛び越しおりをやったら、
すらすらできた。
そのおかげで私は、自分に自信がついた。
榎本先生ありがとう。
先生は、みんなに勇気をあげる、まほうを持っているんですね。
二〇〇〇年作
  こんな詩に出会えるから、教師を楽しく続けて来れたんだ。
  今、教育現場は、嵐が吹き荒れている。昔ののどかな子どもとの触れあいは、ますます、できにくくある。教師が、あまりにも忙しすぎるからだ。管理教育は、すさまじく進行している。昨年,都で六百人が途中退職していった。

ネコになった榎本先生
   墨田区 小学校 三年 (現在十才)
榎本先生は、きゅう食の時、
たまにネコになる。
あさざらのチンジャオロースどんに、
ふかざらのスープを入れる。
そして、さいごにカップのスパゲッティーサラダ
を入れる。
「何してるの?」
と、聞いたら、
「にゃんにゃんごはん。」と言われた。
気のせいだけど、
榎本先生に、ネコの耳とひげがはえたように見えた。
二〇〇二年作

 中学年は三度目である。一、二年も楽しいが、三、四年はものの見方も行動の仕方も、大きく飛躍する時期だ。給食を一緒に食べながら、子ども達の話題を一緒に聞いているだけでも楽しい。
 終わりの二行には、思わずニンマリと笑いがこみあげてきた。

 三十五年間「作文教育」をずっとやってきたおかげで、すばらしい子どもたちと出会うことができた。これらの作品を並べてみたが、選ぶのには大変時間がかかった。今までの、文集を引っ張り出して、あらためて読み直したからだ。この作品以外にも、すてきな作品は、山ほどあった。作文もたくさんあった。あらためて、これらの作品を読み直すと、幼かったその当時の子どもたちに出会える。


週刊墨教組 No.1422 2003.10.9

はじける芽(119)

九月の指導題目
友だちの作品を元に、何(題材)を、どう生き生きと記述するかを学びあう。


メガネを作ってもらった
    四年 
「メガネ作ってもらいにいくかぁ。小村井のとこにするか、十三軒通りにする?」と、六月十五日、家でテレビを見ている時に母が言いました。私は「何でいくの?歩き?自転車?電車?」
と聞くと、
「十三軒通りなら歩き、小村井なら自転車。」
と母は、言いました。何でメガネを作ってもらいに行くのかと言うと、私は二年生のころから視力がどんどん落ち、ついに三年生のおわりには、右0・三左0・二までになってしまったのです。眼医者の先生に、
「そろそろメガネ作った方がいいですねえ。」
と言われて、私は作ることにしました。しょほうせんをもらい、先生に、
「ふつうのメガネ屋さんで作ってもらってください。」
と言われました。それで行くことになったのです。
 行くしたくをして、自転車でいける、小村井のメガネ屋さんに行くことにしました。家を出て、私と、母と、妹は、エレベーターに乗って、一階に行きました。自転車置き場に行って、自転車を出しました。出すとすぐに、
「東あづま公園の方に行くからね。」
と、母と、後ろのかごに乗っていた妹が言いました。さささっとこいで、十分くらいでメガネ屋さんに着きました。中にはお客さんはいなくて、シーンとしているようでした。中からお兄さんが出てきて、
「はい、どなたがメガネをお作りになられるんですか?お姉さん?妹さん?」
と言いました。母は、
「あ、お姉ちゃんの方です。」
と言いました。お兄さんは、
「じゃあジュニアの方見てみますか。こちらです。」
と言って、ジュニアのコーナーへあんないしてくれました。そのコーナーには、ジュニア用のメガネが、六個くらいならべてありました。私は、
(すごーい。こんなにあるんだあ。)
と、思ってみていると、お兄さんが、
「これとかどうですか?」
といって、私に二個、メガネをわたしました。かけてみると、お兄さんは、
「あぁ、もう大人用でいいかもなぁ。」
と言って、大人用の所に行って、大人用のメガネを五個ほど持ってきました。一つ一つかけてみて、一番気に入ったのは、青のフレームのメガネでした。でも、お兄さんに、
「でも、青だとやっぱり夏って言うイメージがあるから、ピンクにしたらいいんじゃないですか?」
と、言われました。
(やっぱり夏っぽいかぁ。)
と思い、ピンクの方にしました。そのメガネは、ピンクのベネトンのフレームで、一番かけている感じがしませんでした。それに決定して、お兄さんが、おくのイスと、カウンターテーブルの所まで案内してくれました。そこでは、しょほうせんをお兄さんにわたして、レンズを決め、ねだんがいくらかを見て、母は、何か書るいを書いていました。その書るいをお兄さんにわたして、カードで一万三千八百円を母が、払いました。私は、
(小学生だからほじょ金が出るけど、メガネって高いなぁ。)
と思って見ていました。りょうしゅう書をもらって、お兄さんは、
「三時ごろには作り終わるんで、取りにきてください。」
と言っていました。
 その後、妹のクラスの子のお母さんと、母で校庭開放の当番をやっていたので、行って遊んで、午後三時十五分ごろ、取りに行きました。
 中に入って見て、おくの方に行くと、お兄さんが、メガネを持っていました。
(すごーい。)
と、思いました。
「メガネがよごれた場合、ママレモンとかの中性洗ざいをちょっとタオルなどにたらして、水かぬるま湯でふき取ってください。」
と、言っていました。メガネを受け取り、自転車でかえりました。その後、学校に持っていってかけてみると、黒板が、ずーっと前より見えたので、
(よかった〜。)
と、思いました。 

この作品をこう分析する
文章に即した、書きぶりについて
@メガネを作ってもらいに行く、きっかけから書いている。
A会話から書き出している。その後のことも、会話でやりとりがわかる。
Bメガネを作ってもらいに行くきっかけが、説明して書けている。
C自転車を使って、出かけたことが書けている。
Dどのくらいの時間をかけて、メガネ屋さんについたかが書けている。
Eお店の中に入ったときの様子が、わかるように書けている。
Fお店に入ってからの、店の人とのやりとりが、会話を使って書けている。
Gメガネが並んでいるときの数が、きちんと書けている。
Hならんだメガネを見て、驚いたときの心の中に残ったことを(・・・。)を使って書いている。
Iメガネの種類を勧められているときの様子が、会話をよく使って書けている。
Jメガネの種類や色などを、きちんと思い出して書いている。
Kメガネの値段がきちんと書けている。
Lメガネができあがる時刻が、きちんと書けている。
Mメガネができあがるまでの間のことは、短めに説明をしながら書いている。
Nメガネの手入れの仕方についてのやりとりを、会話を使って書いている。
O学校に行ってから、メガネをかけてみたときのことを書いて、まとめている。

文章に即しての、生活のしぶりについて
@母親の提案について、すぐに反応して、メガネ屋に行くことにしている意欲性。
Aメガネを作った方が良いという先生のさそいに従っている。
B店の中に入ったときの、様子をよく思い出している。
C店の人の会話をよく覚えている。
D店の中の様子をよく覚えている。
Eお金を払うときの金額のことや、その時のことをよく思い出している。
Fメガネの手入れの仕方をよく聞いている。
G最後のメガネを学校に持っていって、確かめている。


週刊墨教組 No.1413  2003.7.11

はじける芽(118)

六月の指導題目

梅雨の季節になったんだなあと感じた場面を、
じっくり観察して、それを詩に書いてみよう。

 雨にあたるあじさい
ぼくはこの前、雨の日にあじさいをみた。
そのとき、あじさいのはの上に、
雨のつぶがいっぱいあった。
あじさいの花の色は、青色だった。
そばで、十分くらいみていた。
においをかいでみたら、
ふうせんのにおいがした。
雨がふっていてあめつぶが、
雨のつぶがはのところにおちると、
はねかえって雨のつぶがおちる。
雨がふっているときのあじさいは、きれいだな。

 雨      
となりの部屋の窓から、
外を見た。
「ザッーーーー」
と降っていた。
スズメが、下を通っていった。
寒そうだった。
校庭は、かわいている所はなかった。
手をのばしても、
屋根があって届かない。
あー今日は、外で遊べない。
空が、怒っているように暗かった。
けれど、植物は育つ。
早くやんでくれないかな。
木に雨が当たると、ゆれていた。
下を見たら、池に雨が降ってゆれていた。
糸のように細くなってやんでいく。

 洗たく物がかわかない 小川創平
「洗たく物が、かわかない。」
と母がもんくを言った。
毎日、毎日
雨やくもりで、
ベトベトした日が続いている。
Tシャツやズボンも、
なんだか、ぐったりしている。
早くいい天気になって、
気持ちいい洗たく物になってほしい。

 梅雨の雨の音  冨岡 成美
ふつうの雨の音は、ザーザザーという音。
なのに梅雨の雨の音は、
ふつうの音とは、ちょっとちがう。
それは、サーサーサーという
あんまりうるさくない音。
私は、雨は、あんまり好きじゃないけど、
梅雨の雨の音は好き。
サーサーサー。
サーサルル。
でも梅雨の雨が強くなったら、
いつもと同じ雨の音。
私は、弱い方のあめが好き。 

 雨たいりょう  菅原 せりか
「二度目に行ってきな。」
榎本先生がいった。
階段を下りて外ばきにはきかえて、
カサを持って行った。
カサからの音は、
「ボツボツ。」
水たまりの音は、
「ピチャンピチャン。」
木の音は、
「ポッツンポッツン。」
真ん中にいくほど弱くなる。
おもしろい音がいっぱいだなぁ。

 雨        
サーサー。
雨の音。
雲は黒くなっている。
パチパチ。
水が地面にあたって、
音がする。
雨がふると、
木の葉がたれさがったように見える。
校庭がこい緑色に変わった。
水たまりに雨がふると、
しずくがはねているように見える。

 よわい雨   
まどから耳を出してみた。
「ザーポザー。」
小さい音で小さい小さい雨のつぶ。
とおくから見るときりのよう。
「ザーポザー。」
池のような水たまり。
雲はくらい色。
「ザーポザー。」
よわい雨だった。


 ポタンポツン     
「ポタンポツン。」
と、どこからか音がする。
なにかなぁ。
音の方に行くと、
うわあ!あじさいだ!。
あじさいが、ポタンポツンと、
雨を受けていた。
青色のあじさいが、
雨にぬれて輝いていた。

 いろんな雨の音
「バンバンバン。」
雨がかさに当たって、音が出た。
「ピチャン。」
水たまりをふんだら、かさとはちがう音が出た。
深い水たまりが、
バスケットのコートの前にけっこうあった。
それをふんだら、
「バチャン。」
と同じ水たまりなのに、ちがう音がした。
雨の音は、
「ザザザー。」とか「スースー。」
と聞こえた。

 ここに書かれた梅雨の詩は、一年間、力を入れて書いてきた「詩のノート」が取材ノートになっている。一番感動した場面を、きちんと切り取り、そこの部分を、表現するようにしむけた。音のとらえ方も、様々に表現されている。雨がザーザーとか、雨がポツポツとか、決まった書き方でないところがいい。作文と詩のちがいも、少しずつわかってきたようだ。季節感をとらえてくると言うことは、具体的に対象に働きかけることだ。梅雨といったので、雨が多かったけど、紫陽花などの梅雨の植物をとらえてきた子もいた。季節は、毎日変化している。もうじき雷が落ちると、夏がやって来る。夏になると、また新しい季節を迎える。


週刊墨教組 No.1409  2003.6.12

はじける芽(117)

五月の指導題目

世の中の出来事の中で、心の中に強く残ったことをていねいに思い出しながら、書いてみよう。

 イラク対アメリカの戦争に
意見がある

四年 T
 今、アメリカとイラクは戦争をしている。この戦争は、三月二十日の木曜日にはじまった。アメリカとイラクは前にも戦争をしたことがある。イラクがクウェートをせめて、アメリカを中心にした連合国が、怒り、イラクを攻撃したそうだ。それが一九九〇年の湾岸戦争だ。その当時のアメリカ大統領は、今のブッシュ大統領のお父さんで、ジョージ・ブッシュという人だった。この戦争でははじめ、武力行使とか言うのが理由だった。辞書でひくと、『武力は戦争する力、行使は権利や、権力を使って物事をすること』と、ある。でも、ふたを開けてみると、今やただの争いだ。国民のためにフセイン政権をたおすとか、フセイン大統領の息子、クサイとウダイをねらうとか・・・。おまけに一般人は攻撃しないはずが、報道記者も亡くなっている。湾岸戦争につづき、第二次湾岸戦争と言うほかないじょうたいだ。ブッシュ大統領は、イラク国民をじゆうにするのではなく、アメリカ制度の国が作りたいのだと思う。母も同じ考えだ。
 ほんの二週間前は、
「バグダッド制圧!!」
「ティクリットも制圧近いよう!!」
と、テレビでさわいでいた。そもそも制圧とは、自由勝手に行動させないことだ。
 国連を無視していいのなら、国連はいらない。国連とは、正式に言うと、国際連合と言い、世界平和のためにできた団体だ。しかし、『こどもニュース』によると、英語で『連合国』と言い、第二次世界大戦の連合国が平和のために拡大したという感覚なのだ。国連には、常任理事国と、非常任理事国の二組がある。常任理事国は、いつも話し合いに参加できる五つの国でできている。その五つの国とは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国だ。非常任理事国は、私の記憶が正しければ、四〜五年に一度こうたいして話し合いに出る十いくつの国だ。常任理事国は、拒否権というものを持っていて、一つでも、拒否権が使われると、その案はきゃっかされる。そして拒否権を使っていないときに、九以上の国が賛成すると、その案をやってもいいことになる。しかし今回、アメリカ、イギリス、オーストラリアは拒否権や、国連を無視して戦争を始めた。
 それをいえば、かなしいがしかし私の住む日本もおかしい。日本国憲法第九条には、『日本は、平和のために、戦争をしたり、軍で他の国をおどかしたりしない。』と、書いてある。なのに今回の戦争には賛成した。それなら憲法もいらない。でも、どちらも大切なものだ。そもそもなぜ日本が今回の戦争に賛成したかというと、日米同盟という約束によって賛成したらしい。日米同盟とは、日本がもし攻撃されたとき、助ける代わり、アメリカと仲良くするということです。今まで日本は国連と、アメリカに支えられていたので、困った事になっていました。でも、小泉首相は、アメリカの側につきました。本当なら国連の側につくべきだったのです。
 フセインさんはイスラム教シーア派だから、クルド人と言われる人たちや、イスラム教スンニ派は政府にいじめられている。それでも、何でも武力で解決してはいけない。人間には、植物とちがい、言葉という大切なものがあるんだから。とりあえず話し合いをしてほしかった。
「戦争がなぜいけないかは先生にもわからない。」
担任のえのさんが言っていた。答えを見つけた。罪のない人々がたくさん亡くなっていくから。もう一つ、武力での解決だから。それでもアメリカは戦争をつづけている。命はアメリカにより、文化財などはイラク国民により破壊されている。イラクは警察が戦争でとまどい、いなくなってしまったそうだ。やっともどって来たのは警察だ。命はもどらない。一応大規模な争いは終わったという。でも、イラクにはどうやってふっこうや、民主化をさせるのだろう? アメリカはやるだけやって、
「おい日本、ふっこうの金出せ。」
みたいな話をしている。そのお金は税金だ。そんなひどい国のために使うなら、税金を払いたくなくなった。戦争反対、賛成の日本の代表意見は、選挙で決めてほしかった。
 イラク国民の方々、記者のみなさん、アメリカの軍隊の人たち。この戦争で亡くなった方々を思い、もう二度と戦争をやってほしくありません。

どこを大事に話し合ったか
 三月二十日の日が、アメリカのイラク攻撃の日であることを覚えている。十年以上前の湾岸戦争を調べている。武力行使の意味を辞書で調べている。イラクの地名をよく覚えている。国連について成立過程とその役割についてふれている。日本の政府がアメリカのイラク攻撃に賛成したことをよく覚えている。日本国憲法第九条の「戦争放棄」の考えをきちんと調べている。国連中心主義の考えを大切であると、強調している。「戦争がなぜいけないのか」ということを、自分の頭で考え、それについてまとめている。イラク攻撃に反対か賛成のことについて、選挙で決めてほしかったと、民主主義の原点を訴えている。

推敲の大切さ
 Tさんは、最初、個人日記にこの問題を取り上げてきた。その文もよくまとめて書いていたが、いくつかのことについて、赤ペンを入れて、調べられたらさらに書き込んでくるように、注文しておいた。日本国憲法については、小学生向きにかかれた本を渡しておいた。湾岸戦争についても、調べられたらと言うことを受けて、かなり調べたようだ。このようなことに積極的にとりくんだからこそ、四年生としては、かなりのレベルにまで高めてまとめている。

空爆と空襲の違い
 新聞は、イラク空爆開始と「空爆」という言葉を大きな見出しにしていた。この言葉は、攻撃しているアメリカの側からの発想の言葉である。その下で生死をさまよっているイラクの人々の側から考えたら、明らかに「空襲」である。この期間アメリカの側からの情報が、洪水のように毎日送られてきた。私たち大人までも、正しい事実がわからないまま、この問題を考えてきたのではないだろうか。


はじける芽(116)

四月の指導題目

 日記の中にその日の中で、心の中に強く残ったことを生き生きと書いてみよう。

 危機一髪を見た       
三年 ○○○○
 何日か前の二月十七日(月)曜日に、学校から同じクラスの○君と◇君とぼくの三人で、帰ってくるときの事でした。学校の近くの三角公園の前のふみきりで、   
「カンカンカンカン・・・・」
と電車が通るあいずがしました。ぼくは○君とぺちゃくちゃしゃべっていました。そしたら、いきなり◇君が、
「なにあれ。」
と大きな声でいったので見ると、車がはさまっていました。運がわるくしゃだんきがしまってしまいました。
「あっ。」
と言って
(あっ死んじゃう。)
と、その時ぼくは思いました。そしたら○君が、
「止まって。」
と横から来る電車に向かって、両手をふりながら言いました。ぼくも負けずに、
「止まって。」
と同じように言いました。その時しゅうと君は後ろで何かしゃべってました。そのちょくご、車の運転手さんが車から降りてきました。そのあとすぐに、しゃだんきをトラックの前の部分の上にのせて、ふたたび車にのって走るとだしゅつできました。ぼくは
(おれいを言ってくれればな。)
と、その時思いました。自動車はぶじせんろをわたりました。電車は止まりぎみでした。電車も少しスピードを上げて、ぶじ通って行きました。せんろをわたってぼくが、   
「あれって、危機一発だよね。」
と言ったら、◇君と○君が、
「そうだね。」
と言いました。ぼくたちは、ふみきりをわたった丸八通りの角の酒屋の前で、
「じゃあね。」
と言いました。◇君と○君で、
「じゃあね。」
と言いました。それでプリマドムス一階の所で、同じクラスのなるちゃんにあって、
「なるちゃんしゃだんきの間に車がはさまったんだよ。それでね、車の上にのっけて前に進んだら、だっしゅつできたんだよ。」
と言いました。なるちゃんは、目を丸くして、 
「えっ、うっそ。」
と言いました。ぼくは、
「うん。すごいよね。」    
と言いました。家に帰って、母にその話をすると、
「でもその時は、はなれるんだよ。何がとんでくるか分からないから。」
と言いました。
(そうだなぁ。)
と思いました。妹に話したら、
「えっ、うそ。」
と言いました。ぼくは
「そうだよ。」
と言いました。次の日に学校に行くときに、同じクラスのそうちゃんにその話をすると、
「ふうーん。」
と言いました。あまりおどろいてくれないので、がっかりしました。
二〇〇三年 三月作


文章を書かせる二つの方法
 作文を子ども達に書かせるには、二つの方法がある。一つは、教師が子どもに書かせたい「指導題目」を立て、それに基づいて、「表現意欲喚起」「題材指導」「構成指導]」「記述指導」「推敲指導」「鑑賞」まで指導過程をふまえて、「ひとまとまりの文章」に仕上げていく授業である。もう一つは、子どもたちが何日間かの出来事やその日にあった出来事を振り返り、自分から自主的に題材を選び、それを日記に書き上げることである。このどちらも、子どもの文章表現力を高めるためには、大切である。

コンクール作文は役に立たない
 この頃、郵便局や税務署からの依頼の作文等を子どもに書かせて、お茶を濁している人があいかわらずあとをたたない。初めから価値観を決められている題材などを書かされても、子どもの文章表現力は、豊かにならない。やはり子どもたち自らが、自分から心の中に強く残った値打ちのある題材を選び、それを書き上げていく方がはるかに、文章表現力は、豊かになる。

線路に石が置かれ
 新学期になって、線路に石を置く子がいるので、注意してほしいと言う依頼が、地域の住民から連絡があった。生活指導の担当の人が、苦労されて鉄道関係者の人にそのときの状況を取材されて、子ども達にどんなに危険なことなのかを話された。内の学校の子どもたちであるかどうかはわからないのであるが、全校朝会のときに神妙に聞いていた。なかなかうまい話の仕方だなあと感心して聞いてしまった。

こんなすてきな子もいる
 昨年の三学期の終わりごろに、わがクラスのすがお君は、このような文を日記に書き上げてきた。学校から家に帰るまでの間に起きた、心の中に強く残る出来事である。書きたくてたまらない文を書き上げてきたのである。この文をクラスのみんなで読みあい、彼らの行動のすばらしさを大いにほめた。あまりによい「生活のしぶり」であったので、少し赤ペンを入れた。書き出しや全体の書き足りない部分をもう一度思い起こしして、このような「ひとまとまりの文章」に仕上げた。何日か後に、東武亀戸駅まで届けておいた。駅員の人も感心して読んでくれた。

「えらばせる」ことの大事さ
 このコーナーで何回も取り上げたが、今の子どもたちには、自分で題材を選ぶことをさせられずに、書かせられていることが多い。三つの規制の中で書かせられているのではないだろうか。@題材の規制。A字数の規制。B価値観の規制。このような三重苦の中では、子どもが書きたくてたまらない文章は表現されない。今使用中の教科書は、「三つの願いごと」と言う物語文のあとに、「あなたの願い事を書いてみよう」などという決意文を書かせようとしている。決意文などというのは、自分の思いや気持ちを書くのであって、作文としては難しい書き方になる。やはりこの時期は、新しい学期になって、心ときめいたことがたくさんある。一回限りの出来事を、じっくり書かせていくことが、誰にでも書ける大事な書き方なのである。


週刊墨教組 No.1399 2003.3.13

はじける芽(115)

 戦争で一番こまったこと
                          三年 ○○

 「おばあちゃんに戦争の話を聞いてくるように。」
と言われました。えのさんとは、三年一組のぼくたちの担任の先生のよび名です。その事を思い出して一階に住んでいる、ばあちゃんの所に行きました。ばあちゃんはこたつの所にいました。
 ばあちゃんは一九二一(大正十)年に茨城県に生まれました。そこのいなかでは六年間小学校の先生をしていました。二十八才まで先生をやってました。その後、結こんをして会社員のおじいちゃんと墨田区に引っこしてきました。墨田区にきても小学校の先生をしていました。第二あづま小学校に八年、東あずま小学校では十五年、第一あずま小学校では十年間つとめていました。東京で三十三年間、茨城では八年間全部で四十一年間先生をしていました。六十才で先生をやめてからも、二年間講師もしていました。今年で八十三才になります。ばあちゃんは、今でも元気に、「あづま園」という花屋を開いて、一人でやっています。僕は
「戦争のこと教えて。」
と言いました。ばあちゃんが、
「ばあちゃんが一番知っている戦争はね。」
とかんがえながら言いました 。
「昭和十六年十二月八日、しんじゅわんこうげきにはじまった大東亜戦争だよ。」
と言いました。僕は
「何だろう。」
と言いいました。ばあちゃんが、
「アメリカと日本の戦争だよ。」
と言いました。ばあちゃんが、
「どんどん戦争は、はげしくなっていってねえ。へいたいさんは国の外へ、国の中では、しごともできないんだよ。」
と言いました。
ぼくは、
(へえそうなんだ。)
と思いました。ばあちゃんは戦争の時、小学校の先生で朝礼の時は竹のぼうをかたに行進していました。戦争のための練習だったのです。「海ゆかば」を歌わせたり、親こうこうするとか、兄弟なかよくするとか、人としてしなくてはいけないことをやる「修身」も教えていました。
『奉安殿』に一礼して一日がはじまるということはあったが、一教員がとくしゅな教育をやらされるようなことはなかった、と書いて教えてくれました。
「食べ物がどんどんへってね、お米に芋を入れて食べたんだよ。それから家は農家だったから米がとれないときは、着物を売って米に変え、国に差し出したんだよ。その上アメリカ軍は空襲と言って、どんどん爆弾を落とすんだよ。」
と言いました。
「へえ。」
とぼくは、言いました。
(昔の人は、大変だったんだなあ。)
とぼくは思いました。
「国民は防空ごうを作ってばくだんのたびに、穴の中へ逃げるんだよ。そして東京大空しゅうが昭和二十年三月十日におこったんだよ。東京はほとんど焼け野原になってしまったんだよ。おばあちゃんは、いなかから東京の真っ赤な炎を見ていたんだよ。」
と言いました。
「その後ね、広島と長崎に原子ばくだんがおとされて、すくいようのないありさまでね。」
と言いました
「うーんあと。」
とぼくが言いました。すると、おばあちゃんは、
「時の昭和天皇は、私どうなってもいいから戦争はやめてと言い続けたんだよ。」
と言いました。
「原子ばくだんが広島に一九四五年八月六日、長崎に八月九日におとされて終わったんだよ。」
と言いました。ぼくは、
「戦争終わってどんな気持ちだった。」
と聞きました。
「それはあまりのね耳に水で、天皇の放送もはっきり聞き取れなくて、ほうしんじょうたいだったよ。ほかの先生が『ポツダム宣言をじゅだくしたと言ったから、はいせんとしたのよ。』と言ったのを、ぼーとして聞いてたんだよ。」
と悲しそうな顔をして、話してくれました。
 その時、ばあちゃんのお母さんが病気でねていて、
「負けたなんて言わないでくれと言って泣いたんだよ。そして八月二十五日には死んでしまったんだよ。くろうしたおかあさんをおもいだすよ。」
と、また悲しそうな顔をして言いました。   
ぼくは、はじめてばあちゃんの話をきいて、戦争中は、みんな大変困って、暮らしていたんだということが、よくわかりました。

聞き書きの大切なこと
 相手の話を聞きながら、文章にしていくのでやや難しい書き方になります。このような文章を書いていく上で大切なことは、語り手の顔の表情とか、声の調子などを表現できることが大事です。「悲しそうな顔をしていいました。」などという表現などは、読み手に様子が伝わってきます。何年生であっても、年配の人からの昔の値打ちのある話を、一度は聞き書きさせたいものです。

年配の人からの聞き書き
 戦争中の暮らしを語ってくれる人が、だんだん少なくなってきました。○○君のおばあちゃんは、戦争中に学校の先生をしており、戦争が終わってからも、長らく墨田区の立花小の近くの小学校の先生をなさっていたということです。この間、日記を届けたときに、初めてお会いしました。八十をこしたお年には見えず、大変元気なおばあちゃんでした。僕の母親と一つ違いになります。大変親しみを感じながら、少しおしゃべりをしてきました。孫の○○君のために、一生懸命に語ってくれました。お母さんも知らないようなことを、孫のために語ってくれたようです。
 なお、このおばあちゃんは、一吾小時代に前委員長と同学年を組まれたとの事でした。


週刊墨教組 No.1398 2003.2.26

はじける芽(114)

二月の指導題目
 戦争に関するビデオを見て、それを元に話し合い、感想文を書いてみよう。
    東京大空襲(三月十日)にむけて

平和教育を大切に
東京大空襲では、この墨田区と江東区が火の海になり、十万人の人が亡くなった。今回は「首都炎上」のビデオを見ての感想文にした。今年も五十八回目の東京大空襲の記念日がやってくる。下町墨田に勤めて、至る所に、まだまだ大空襲の爪痕がたくさん残っている。十八人の我がクラスの中の祖母の中にも、大空襲の火の中を逃げて、助かった方がいらっしゃる。二学期には、その方に来ていただいて、クラスで一時間語っていただいた。三月十日の前後には、毎年体験者に来ていただいて、全校平和集会を開いている。今回は、その予備知識としてビデオを見ることにした。十八分にまとめた、大変わかりやすいビデオだった。子ども達の映像に寄せる真剣な眼差しが印象的だった。

 一番ゆるせないこと
    三年 
 二月十四日(金)学校で社会の時間にビデオを見ました。それは、一九四五年、今から五十八年前の三月九日〜十日の夜におこった、東京大空襲の、「首都炎上」と言うものでした。亡くなった方のほとんどが、お年寄りや、子ども、小さい子のいるお母さんと聞いて、一番罪のない方々が亡くなって、戦争は残酷です。お葬式も、お墓もない人がほとんどらしいので、やはり三月十日にはもくとうなどして、霊をなぐさめるべきです。でも、戦争で、たくさんの犠牲者が出なければ、きっと今も日本は平和の大切さを知らない国だと思います。今、イラクを攻撃しようとしている、アメリカのようだったかもしれません。ビデオを見て、今、生活に不必要なテレビやパソコンが、ぜいたくに感じました。
 この東京大空襲のあった、第二次世界大戦で、四千万人ほどの方々が、亡くなったと、ビデオの最後に文字が出ました。二度とこの許せない事を日本にやってもらいたくありません。日本国憲法第九条「戦争しない」がこのままであるよう、心から願っています。

 あかちゃんを三人なくした人へ
    三年 
 私たちは、一九四五年の東京だいくうしゅうのビデオを見ました。私のおじいちゃんは、へいたいさんに行ってたすかってもどってきました。おばあちゃんも、東京だいくうしゅうにあっています。すごくこわくて、びっくりしました。
(わたしのおばあちゃんがたすかってよかったなぁ)
と、思っています。私はこのビデオを見て、
(おばあちゃんもこんなめにあっていたんだなぁ。)
と、思いました。
(せんそうはおかしいなぁ。)
と、思いました。
(なんでせんそうがはじまったのだろう。)
せんそうは、ざんこくだなぁ。

 きくしまさんへ
    三年 
一九四五年、三月九日の夜から、十日にかけて大変なことがありました。 たった二日だけで、約十万人の人が亡くなって、あらためて戦争のおそろしさを感じました。今私は、お父さん、お母さん、二人の弟と幸せに暮らしています。でも、きくしまさんは、家族をなくして悲しかったでしょう。幸い私は、平和な東京に住んでいます。でも、私は、今の世界は、平和じゃないような気がします。ある国では、水も食べ物がなくて栄養しっちょうで死んでいく人もいます。隅田川の土手や、すみだ公園には、たくさんのホームレスの人もいます。 私は、あまった税金をぜひ、そんな人を助けるためにつかってほしいと思います。
 今アメリカのブッシュ大統領は、イラクに戦争をしようとしていますが、世界中がイラクの国をまもっているので「イラクとの戦争」がおさまりかけています。私は大好きなパパが戦場に行くことを考えると、夜も、ねむれません。私は、家族をなくしたくありません。もちろん、しんせきや友達もなくしたくありません。戦争は絶対いやです。私は、一生平和をなくしたくありません。

 東京大空しゅうで三人の子どもを亡くした人へ
    三年 
 今から五十八年前の一九四五年の三月九日の日に、東京大空襲がおこりました。物語の一番最後に家はほとんどやかれ、あとは氷がはっているプールしかないから、その氷を手で、「バリバリ。」とわって、プールの中に入ったら、赤ちゃんを二人、亡くなりましたね。もう一人の五才ぐらいの子どもが
「赤ちゃんはだいじょうぶ?」
と聞くとお母さんが、
「だいじょうぶ。」
と言うと、五才の子どもはねちゃいました。おじいさんが、
「亡くなった人はおいて、近くのおいしゃに行きなさい。早く 早く。」
と言いました。ねちゃった子どもをねんねこばんてんの中に入れて、おいしゃへ行きました。いしゃはいなかったので、三人の子どもを友達の家が一軒だけもえていなかったので、行ったらねちゃった子どもがまたまた、
「赤ちゃんはだいじょうぶ?」 
と小さな声で言いました。そしたら、五才の子どもの命は空に消えました。かわいそうでした。。

 東京大空襲のビデオを見て
    三年 
 東京大空襲のビデオを見て一番やだなぁと思ったのは、赤ちゃんと一年生くらいの男の子が亡くなった場面と、どこかの橋で人がいっぱいガイコツになってたのです。とくに赤ちゃんがなくなったのが一番いやだったです。だってうちにはもうすぐ一才の弟がいるからです。あのビデオをブッシュ大統領とイラクの大統領に見せたら、完全に戦争はやめるにちがいないです。ドイツやフィリピンでも何百万人以上の人が亡くなっています。今日本やドイツで戦争反対のデモがやっています。本当に戦争はやらないでほしいです。ぼくはあのビデオをみて
(戦争はおそろしいなぁ。)
と思いました。一九四五年三月九日の夜から十日の朝に、東京の墨田区と江東区にいた人はほとんど亡くなってしまいました。でも中田さんのおばあちゃんは助かりました。だから戦争はやめた方がいいと世界じゅうの人が思っているでしょう。


週刊墨教組 No.1394 2003.1.30

はじける芽(113)

十二月の指導題目
年配の方から、戦争中の暮らしについて 聞き書きをしよう。


  広島の被爆者 福地義直さんの体験

 全くの偶然から、広島の原爆被爆者の福地義直さんと親交を持つことができた。広島の爆心地から八百メートルのところで被爆するが、奇跡的に助かり、現在は立花小近くで、スーパーを経営されている。この夏、広島と長崎に落ちた原子爆弾の模型を作ることを決意され、最近やっとできたので、子ども達にみてほしいという連絡があった。事前に見せていただくと、そこには広島・長崎に落とされた本物と同じ大きさの模型の原子爆弾が、置かれていた。たくさんのパネルの写真も見せていただいた。ご本人が書かれた「原爆体験記」のパンフもお借りして、学校で語っていただくことを約束して帰ってきた。とりあえず、三・四年を対象に、体験を語っていただいた。七十才のお年であったが、十三才の時にあわれた生々しい事実を、淡々と語っていただいた。
 二〇〇二年 十一月二十五日(火)実施

  なぜこんなにざんこくに?
三年
 言葉で表せないほど、戦争をにくく思います。私ははじめてフクチのお店のとなりにはいって、びっくりしました。もちろんひろしまげんばくをたいけんした人がいるとしりませんでした。写真や絵を見て、私は(なぜ昔、こんなざんこくな事をしたんだろう?)と、思いました。私は昔から「せんそうはただただこわいもの」とだけ考えていました。でも、今日話を聞いて、かわりました。「もうやってはいけないこと」になりました。本当に、かわりました。私はいままで、こんなにまじめに考えた事はなかったのに、すごくいろいろな事を知りました。げんしばくだんが、あんなに大きいと知ったのも、今日がはじめてでした。今日、ふくちさんに話を聞いてよかったです。

※体験者の話や写真の映像から、多くのことを学んでいる。

  せんそうはやめて
三年
 私は、ふくちさんに、広島げんばくの話をしてもらった。一時間目は、話をしてもらった。ふくちさんは、「わたしの母は、顔の、かわが、むけちゃって、ほねが見えていたんだよ」と話してくれた。二時間目は、フクチのお店の、となりにあるげんばくとかの絵を見た。私は、下を見たくなるような、写真とかを見た。私は、心の中で、(せんそうは、やっちゃいけないものだ。)と思った。私は、ブッシュだいとうりょうにも見せたくなった。私は、せなかがやけた人の写真を見た。(せんそうは、やだあ。)と思った。

※「ブッシュ大統領にも見せたくなった。」と言うのが、なかなかいい。

  福地さんの戦争
三年 
 ぼくは、戦争がきらいです。福地さんは、「人が二十四万人の人が戦争でなくなっている。」と、いいました。福地さんは、そのとき、十三才でした。原ばくが落ちたとき、家がたおれて、その下じきになりました。家の材木が、体にくっついて、はがすのが大変でした。やっととれたとき、福地さんが「おかあちゃん、おかあちゃん。」といいました。材木のなかをさがして「『ここよ、ここよ。』ときこえたんだよ。」といっていました。

※外にいた父親は、行方不明で、母親は助かり、妹も防空壕から救い出して、無事だったと言うことだ。

  げんばくのおそろしさを知った
三年    
 今日の一、二時間目に、フクチのお店のおじさんが、学校へ来ました。一時間目は、げんばくの話をしてくれました。二時間目は、フクチのおみせの倉庫の所にいきました。そこにある写真を見て、ふくちさんが、こう言いました。「ここにある写真はげんばくの写真です。」私も知っている、広島のげんばくドームの写真でした。今、アメリカのブッシュ大統領が、イラクに戦争をしようと言っています。その事を写真を見て、(アメリカはなんで人の事を考えないんだろう。)と、思いました。はだしのゲンなどで、げんばくのおそろしさを知りました。ですが、それ以上にすごいおそろしさを思い知りました。はだしのゲンは、広島に落ちたげんばくの事を、「ピカ」と、よんでいたんですが、はたしてそうなのでしょうか。今の時代に、また戦争がないようにしないとと思いました。手の皮ふがたれさがっている絵を見て(こんなになっちゃうんだ。)と、思いました。その白い粉をあびてしまって、げんばくびょうになってしまった人の写真を見て、(えーっこんなことになっちゃうの。)頭の皮ふがうんじゃったり、毛がぬけたりしてる人の写真を見て、(こんなにおそろしい事が日本にあったなんて。)と、思いました。

※「アメリカのブッシュ大統領が、イラクに戦争をしようと言っています。」と、つなげて考えているところに、意味がある。

  平和教育の大切さ
 ここに載せてある感想文は、 当日すぐに子ども達がパソコンで、書き込んだ文である。その日にまとめきらずに、二時間かけてまとめたものがほとんどである。推敲は読み直し程度で、初発の感想みたいなものである。これらの作品を、「ひとまとまりの作文」にするには、書き出しと締めくくりを工夫しなければならない。また、一文一文をもう少し吟味しなければならない。しかしながら、最初の感想で、これだけまとめられれば、よしとして良いだろう。
 福地さんの語りと終わった後の原子爆弾の模型とたくさんのパネルを実際にみた。そのことによって、子ども達の戦争へのイメージはかなりふくらんだようだ。映像から来るインパクトは、大変大きい。戦争とは、こわく残酷なものであるということに、気がついてくれれば、大きな意義がある。なお、福地さんは、連絡があれば、いつでも語り部になって学校を訪問してくださるそうだ。また、お店の隣に展示コーナーがあり、行けばいつでも見られるようになっている。
    (連絡は書記局まで)


週刊墨教組 No.1388  2002.12.6

はじける芽( 112号)

十一月の指導題目 新しい漢字を使って、自分がしたこと見たことを、一文か、二文の短文で書いてみよう

漢字を身につけるために
 「漢字をしっかりマスターしてもらうために、新しい漢字を必ず使って短文を作りながら、覚えてもらいます。また、ならった漢字はなるべく多く使ってください。本当にあったことを書いて下さい。文章は、一文か、二文位にしてください。読み終わったら、心が和むような文を作って下さい。」このような指示をして、毎日五問ずつ三年で習った漢字から始めてみた。

場面を短文で切り取るために
 ここで大事にしたいことは、文章を書きながら漢字を覚えることだ。それと、自分の生活している中で起きた出来事の中で、心に強く残っていることを、取り上げることだ。このやり方は、出来事を短い文で表現する方法を、自然に身につけることに役立つ。作文の場面がきちんと表現できない子は、「そして」や「て」というつなぎの字を使って、一文がなかなかまとまらない文を書く。つまり、書きながら何を切り取って書いているのかわからない三文位を、区切らず一文で書く子どもがいる。そのような文を三文、四文に分ける文章に直すのにも役立つ。それと同時に、漢字の指導になかなか時間が取れず、漢字のにがてな子に、興味・関心も持たせることもできる。

文章表現に慣れ親しんでいくために
 漢字のにがてな子は、本も読まず、活字離れをしている、漢字に親しんでいない子である。このように実際に自分の生活の事実を短い文にしてまとめることに慣れてくると、結構心引きつける文を書き留めてくるものだ。ひとまとまりの文章を生き生きと書いていくためにも、一文一文をきちんとつなげていくことである。このようなことをくり返していくうちに、文章表現に慣れ親しんでいく、一つのきっかけになることは確かである。このやり方は、何年生でもできる。次の文章は、二学期から始めた短文作りの一部である。


横 家で夜ねると、横にいるのは母と父がいる。私はまん中だ。 
  母が前、一人で電車に乗ったとき、本を読んでいた。横のカバンが動いてそのカバンを見たら、犬がカバンから顔をのぞかせていた。

血 母のお手伝いで、ほうちょうを使ってたら、指を切って血が出た。 

  ぼくが五才の時、そふの家のかいだんからおっこちて、歯から血が出た。

軽い プールの中で、お父さんをおんぶしたら、軽かった。

乗る 私の父は、毎日トラックに乗っているけど、日曜日は乗っていない。


開く いつも学校へ八時十分に行ったら、門が開いている。 
  私は五才の時、エレベーターのドアが開いて、ドアに手をはさまれた。

物 荷物を持って、買い物に行ったら、ぼくのこう物が売っていた。

葉 えのさんが、ふしぎな葉っぱを持ってきて、その葉から根が出てきた。

実 実さいにあったかんどうドラマを見て、母と私は、ぽろっと泣いた。

登 私は木に登るのが大好きです。男子を見て、木登りを始めました。

平 ぼくの「言葉の学級」の先生は、平永先生だ。ものしり先生だ。いっぱいあそびをしっているからだ。

箱 箱根のホテルに、母と父とぼくで二日間とまった。もう一度、箱根の温泉にとまりたい。  

仕 父はいつも仕事が終わって帰ってくると、つかれたような顔をしている。   

県 入江君がとちぎ県のなすと言うところに行ってしまった。今度十九人になるといいな。

全 全員の全校朝会で、校長先生の話が長くて、一時間目が二分くらいおくれた。

味 学芸会のやくざ三人組は、私たちのさいしょは味方じゃなかったけど、さい後は仲良くなります。

 このような練習の短作文をしながら、「日記」「詩のノート」に感動を切り取らせている。対象物へ、積極的に関わり、じっくり観察しながら、文章を磨いていくことを大切にしている。

  まんじゅしゃげ
    三年 
「まんじゅしゃげを見に行くよ。」
と先生が言ったので行きました。
まんじゅしゃげの花の形は、
クルンクルンとしておもしろいです。
そばに行って、においをかいだら、
いいにおいでした。

  秋の空でかげおくり
三年 
「いーち、にーい、さーん、しーい。」
私は秋の空でのかげおくりをこころみた。
「ごーお、ろーく、しーち、はーち。」
ゆっくりゆっくり数を数える。
青空の下で、雲一つない空を見上げて、
「きゅーう、じゅーう。」
ぱっと空を見上げると、
うっすらと白いかげが一つ。
ぼんやりぼんやりと、消えていった。

週刊墨教組 No.1386  2002.11.6

はじける芽 111

十月の指導題目

日記や班日記の中に、心に強く残ったことを
  自然・人間に注目して、生き生きと書いてみよう

  一学期より始めていた、個人日記に班日記を始めた。子どもたちは、一週間に二回ほどそれぞれの日記帳に向かい合うようにしている。日記帳に書かれた文を、もう一度推敲して、作文にしてみることも時々している。次の文は、一学期に書いた作品を作文に仕上げた作品である。

まねしたのかなあ?
墨田区立小学校 三年            
 六月二十三日の日曜日、学校公開でした。一日中さんかんびだったので、家族が少し来ていたのです。二時間目に理科でアゲハちょうのビデオを見ました。先生の机の上には、アゲハのさなぎがついているたちばなの木がおいてありました。そのうえきばちは、前PTA会長さんが、(たちばなのたね)をうえて、(それがせいちょうして三年目の)小さな木に、チョウのたまごがつき、教室でかっていて、ちょうどサナギも終わりのころだったのです。見終わってから、黒ばんの前にきた先生が、せつめいしようとしたら、私の前のせきのA君が、アゲハチョウの羽化に気づきました。A君は、
「あっ。」
小さな声で、先生に言ったのが、私にも気づきました。理科の後、二十分休みに数人の女子や父母が、(羽化したばっかりの)チョウを見に来ました。
三時間目が終わり、四時間目も終わり、給食を食べにランチルームへ行きました。行く前にアゲハチョウを見たときは、体が前より大きくなっていました。
 給食が終わって、ランチルームそうじで、先生、私、A君、Bさん、Cくん、D君、Eさんがのこりました。二、三分して何人かがランチルームに来て、
「アゲハがとびそう。」
とつたえてくれました。私やのこっていたみんなは、
(えっ、ウソ!)
という顔になって、そうじの手がいったん止まり、ふたたび動き始めたときの手は、とても早くなっていました。先生だけは、
「わかった。すぐ行く。」
と落ちついていました。教室にもどって、もう一度アゲハを見ると、シワシワだった羽が少しピシッとしていました。お昼休みも、五時間目も終わって、帰りの会の話し合いのころ、まどを開けてとび立たせました。そのとき、はく手で見送りました。一度もどってきて、またとんで行きました。
(少し小さかったのは、小さな木だったからかなあ。)
と思いました。ビデオに羽化のシーンが入っていたので、
(あれを見てまねしたのかなあ。)
と思いました。虫はきらいだけど、自分のクラスのだからかわいかったです。

こんな感動することも、めったにない。「アゲハ一生」のビデオを見させたあとに、実際に授業中に羽化が始まったのだから、驚きである。それもたまたま授業参観で、後ろで保護者が、いたときの出来事なのだ。こういう感動を、次の日の日記に書き上げてくれるところも嬉しい。次の文は、つい最近班日記に書いてくれた作品である。

  先生が消える
墨田区立小学校 三年
 明日から、先生が、六年生の粟野移動教室につきそいで行くことになったので、水、木、金の三日間、学校から消えます。先生が三日間の時間わりをプリントに書いて、クラスのみんなに配りました。
(木曜日と金曜日にけん玉大会があるぞ。)
と思いました。
(今度こそ、もしかめ二百回こえるぞ。)
と思いました。
(先生がいない間、ちゃんとじゅぎょうができるかなあ。)
と心配に思いました。
(先生がいない間のポートボールやけん玉大会は、どの先生が来てくれるのかなあ、先生がいないとさわいだりしちゃいそう。)
と思いました。先生がプリントに「しずかに勉強で来たら、おみやげ買ってきます。」と書いてあったけど、ぼくが、
(どうして、ぼくたちがしずかにできなかったとか、しずかにできたかわかるんだろう。)
と言ったら、母が、
「それは、お電話もあるしね、先生なら遠くからでも、君たちのことが見えるかもね。」
と言いました。

私は、この作品を、すぐに一枚文集に載せて、子どもたちと鑑賞しあった。なんと楽しい作品であろう。三年生くらいの子どもたちの素直さが、わき出ている。その純真な子どもの疑問に、母親が暖かく関わっているところも、実に嬉しい。この文の最後の所に、「先生がいらっしゃらないことが、こんなにも不安だとは・・・。子どもたちにとってもたいへん良い経験になっていくでしょう。」という趣旨の文を、父親が添え書きしてくれた。子どもの文を読んだら、できるだけ家の人にも読んでもらい、できたら「添え書き」をしてもらうようにお願いしている。ほとんどの親が、子どもと一緒になって、「班日記」にエールを送ってくれる。
 作品の最後に、つぎのような文を添えておいた。
「題名を読んで、読みたくなる題が大切なのです。こんなおもしろい、ええ?と心を引きつける題名は、なかなかないです。これは、書きたいことがはっきりとしていたから、題名もこのように書けたのです。作文(日記)に生き生きとした文を書いていくためには、題材(何)によって決まります。その題材は、心に強く残っていなければ、くわしく思い出すこともできません。文が生き生きとくわしく書けると言うことは、自分の五感が生き生きと働いていなければ、思い出すことはできません。いつも、目・耳・鼻・舌・皮ふの五官を働かせておきましょう。」


週刊墨教組 No.1371  2002.6.13

はじける芽( 109)

五月の指導題目
 学校生活の中で、授業中や休み時間で友だちや先生とのくらしの中で、心の中に強く残ったことを思い出して、「・・・でした。」「・・・ました。」と出来事の順に書いてみよう。

短作文では、文章表現力は育たない
 三年の教科書の「『こんなことしたいな』の中に、『たいなあ文』として、お話の箱にたねをメモして、それをもとに話せば、お話の名人になれますよ。」と一頁扱っている。
☆近所の犬と友だちになった。
☆四年生と、サッカーをしてあそんだ。
☆お父さんとつりに行った。
☆校庭のさくらの木に小さい実がなっていた。
次の頁には、「楽しかったことや心に残ったことを書きましょう。」として、次のような文が載っている。

四月二十日(土)晴れ
北海道のおばあちゃんから絵はがきが来た。きれいなぶなの森の絵はがきだった。
四月二十四日(水)
家に帰ってから、三角公園で、はるちゃんとしゃぼん玉をしてあそんだ。
こんな文を書いて、文章表現力は育つとまともに思っているのであろうか。
四月、五月の新年度の生活は、子どもたちにとっても心ときめく生活をしている。そのような時期に、「学校生活の中で」の作品が、意外に少ないのである。それは、子どもたちの関わりが弱くなっていることで、働きかけがないと、自分から積極的・意欲的に「ひとまとまりの文章」を書き込んでみる機会がないからである。

文章表現力は認識諸能力を育てる
 子どもたちの五感が、正常に機能していないと言われている。「じっくりものを見たり、考えたり」することが、できなくなってきている。しかし、子どもは本来、「話したがりやであり、聞きたがりや」である。したがって、子どもへの働きかけさえきちんとしていけば、「認識諸能力」は、次第に回復していくのである。

サクランボの実を食べた
   ○○小学校 三年 ○○ ○○
 二日前の五月二十八日に、学校で、四時間目に、えの本先生と道源先生と、三年一組で、木の実などを食べたりしました。さいしょに、ソメイヨシノや、ザクロなどの木の名前をみんなでおぼえました。体育館のよこに行って、グミの木の実を食べました。なんかプチトマトみたいだから、
(わあ、これプチトマトみたい。)
と思いました。つぎに、えのもと先生が、くわのみをとって食べさせてくれました。みんなの口をみたら、口がむらさきになってて、こわかったです。味は、なんか甘いような、まずいようなわからない味でした。学校の外に出て、えの本先生が三きゃくで、サクランボの実をとってくれて、道源先生が、
「ならんでー。」
といったので、ならんでサクランボの実をもらって食べました。甘いものとすっぱいものがあると、えのもと先生に教えてもらいました。食べたらおいしかったので、道源先生にいっぱいもらって食べました。おいしかったです。もう一度食べたいです。また今度やってもらいたいです。楽しかったです。
 さいごに、団地がわの門の中のところのたちばなの木を、えのもと先生に教えてもらいました。その木のおくの方に、きょ年のたちばな、〈の実〉が落ちずにあったので、びっくりしました。私は、
(しわしわだけど、落ちてないんだ。すご い。)
と思いました。
(植物は、すごいなあ。)
と思いました。私は、きゅう食の時まで、教室でサクランボの実を食べました。さいごの一こをあらって食べました。ちょっと甘ずっぱかったです。そのさいごの一こを食べたら、思わず、
「おいしい。」
と言ってしまいました。また食べたいです。

この作品をどう読みあっていくか
作文で大事なことの一つに、出来事の順に過ぎ去った書き方で書いていくという事がある。この作品は、そのことを大事にして書いている。
@いつ、どこで誰が何をしたかが書けている。
A実際に見た木の名前をきちんとよく覚えていて、具体的に書いている。
Bグミの実の味をプチトマトみたいと、その時心の中で思ったことを書いている。
C桑の実を味わったときの、周りの人の口の色のことを思い出して書いている。
Dサクランボの実をとりに、外に出たことがわかるように書いている。
E終わった後に、たちばなの木を観察したことを、よく覚えている。
F教室に帰ってきてから、残しておいたサクランボの実をもう一度味わいながら、自然の実のおいしかったことを思い出している。もう一度やりたいという意欲的な気持ちでまとめている。

季節感を育てるために(立花の四季)
○○小学校の庭には、たくさんの木がはえている。食べられる実をむすぶ木もけっこうある。ついこの間の給食の時間には、学校でなったビワが三個ずつ配られた。学校で働く主事さん方のおかげであることに感謝しながら、みんなおいしく食べた。

かかわりを持つことの大事さ
インターネットを使って、かかわりを深めることを目標の一つにしている学校がある。しかし、それは、自分の周りにいる人たちとの具体的なかかわりを、育ててはじめてねらいが達成されるものだろう。
文章を書く大事な視点の一つは、友だちや先生との触れあいをきちんと覚えていて、その時のかかわり合いを思い出して書くことである。自分自身の心や体の動きを文章で再現する「思い出し」こそ、「ものの見方」「考え方」をしっかりとつけ、「生きる力」を育む力となるのである。「短作文」だけでは、かかわりも深まらないし、じっくりものを考える子は育たない。

したこと見たことを書く
 「したこと」「見たこと」をじっくり思い出して書いていくことは、もっとも大事な認識方法である。作文は、「思いおこし」をして、それを綴る作業である。中学年は、書きたいことをどんどん意欲的に書いていける学年である。
 意欲的に書いていくことが、やがて主題意識に基づいて書くことが大事だということがわかっていくのである。


週刊墨教組 No.1369  2002.5.30

はじける芽( 108 )

五月の指導題目
日常生活の何気ない生活の中で心に強く残ったことを書いてみよう。 

 新しい学年になって、子ども達が新たな気持ちになって、新しい学年のスタートが切られた。その子ども達は、心や体をはたらかせながら毎日過ごしている。そのくらしの中で心に残った場面を切り取り、それを「選び取らせる」ことはとても値打ちのあることである。話したがり屋の子ども達は、友達や家族や先生にすぐに話しにくる。日記に書いてみようと呼びかけておけば、その中に「選びとった」出来事を、必ずとらえてくる。

「選びとらせる」ことをさせない
 ところが、三年の教科書では、「書く」中味が非常に弱い。「物語の関連教材」としてあつかったり、「こんなことしたいな」とか「日記に書きましょう」という単元も、短作文でおしまいになっている。あるいは、「しょうたいじょうを作ろう」と、何の脈絡もなく行事をするときの招待状の書き方をするページがある。いったい何の目的で、こんな単元がおかれているのであろう。三年の学期初めの、一番心が生き生きとしている時期に、子ども達の表現意欲は、間違いなく薄れていく。書く題材の限定と字数の制限と価値観の強制によって、「選びとる」自由を奪われながら、書かせられているのである。こんな単元は、それほど時間をとらず、もっと生き生きとした子どもの作品を読み合うことの方が、ずっと表現力を高めていく指導になる。

「選びとらせる」ことから始めよう

  おつかいのこと 五月二十一日(火)
     小三 ○○ ○○
 きのう、わたしは、学どうからかえってきたら、母がいたので、
「ただいま。」
と言いました。そうしたら、母が、
「おかえり。」
と言いかえしてくれました。そして、私が、ランドセルをおいて、テレビをつけました。そして、テレビをつけたら、母が、
「ゆかりちゃんに、たのみたいことがあるんだけど。」
と言いました。だから私が、
「なに。」
とききました。そしたら、母が、
「セーフーに行って、アサツキというネギを買ってきて。」
と言ったので、私は、
「いいよ。」
と言いました。母が、
「もしなかったら、ほそいねぎをかってきて。」
そして、私は、
「五百円でたりるよね。」
と言って、五百円を私にわたしました。でも、その時、私は、おなかがすいたので、母に、
「おなかすいた。」
と言ったら、
「じゃあパンたべて行きな。」
と言ったので、パンの中にチョコチップが入っているパンをたべながら、いえを出ていって、十分くらいたったらつきました。きのうは、じてん車ではなかったので、十分くらいになってしまいました。そして、セーフーについたらまず、お店の人に、
「あさつきっていうねぎありますか。」
ときいたら、
「ゴメンね、あさつきは、セーフーにはおいてないんだよ。」
と言いました。私は、
「あー、」
と言いました。
「じゃあ、細いネギありましたか。」
ときいたら、
「あるよ。」
と言ったので、そのお店の人について行って、お店の人が、
「これだよ。」
と言ったので、私は、
「ありがとうございました。」
と言ったら、お店の人が、
「はい。」
と言って、行ってしまいました。
そして、レジにならんで、母からもらった五百円をわたして、ネギは百五円だったので、三百九十五円おつりがかえってきたので、そのお金をポケットに入れてかえりました。家について、母が、
「ありがとう。」
と言いながら、私に百円をくれました。きのうはさいこうの日でした。

この作品をどう読み合っていくか
 この作品は、「文章を生き生きと書くための、六つの大事なこと」(はじける芽一〇七号)が、意識されて書かれている。
@ いつ、どこで、誰がなにをしたかが、はっきりわかる文にする。
A その時、話した自分や相手の言葉は、会話としてかぎかっこ「・・。」を使って文にする。
B その時、思ったり、考えたりしたことは、ふつうかっこ(・・。)を使って文にする。
C その時の動きや、周りの様子にも気がついたら書くようにする。
D 自分はわかっていても、読み手がわかるように、説明も入れる。
E 必要なところは、ものの形や色や大きさ、手触り、においなど、五感(官)をはたらかせたことを、よく思い出して書く。

どこの文をとくにはげますか。
@「いいかえしてくれました。」の中に、母親の返事で作者のほっとする気持ちが読みとれる。(生活のしぶり) 
A母親の頼み事に、積極的に「いいよ。」と返事をしている。(生活のしぶり) 
Bお使いに行くのに、お金の金額やおつりの金額がきちんと書けている。(書きぶり)
C「アサツキ」がない時に、「細いネギ」と母親にひとこと言われたことを、覚えていてすぐにあきらめずに聞いている。(生活のしぶり) 
Dお店の人に、きちんとお礼を言っている。(生活のしぶり)
Eおつりのお金を、「ポケットに入れ」と、具体的に書いている。(書きぶり)
Fお使いをした後に、ごほうびのお金のことまで書けている。(書きぶり)
G文全体に会話がよく思い出されて書けている。(書きぶり)
 短作文では、思考力・認識力は深まらない。このことについては、次回でもとりあげたい。


週刊墨教組 No.1367  2002.5.16

はじける芽( 107 )
中学年作文年間計画 ー今年度の参考資料ー

 何をどのように綴らせていくか
 作文単元のお粗末な教科書を乗り越えるために

指導題目(子どもに綴らせたいテーマ。誰もがそのことにかかわれば書けるもの)
☆ ○年生になって、担任発表した日の出来事を家に帰って家族の者とよくおしゃべりしたことをじっくり思い出し、出来事のあった順に「・・でした。」「・・ました。」と過ぎ去った言い方で生き生きと書いてみよう。
 担任が変わっていれば、元担任の先生とのことで、心に強く残ったことを思い出してじっくり思い出して書いてみよう。(離任式の作文なども使える。)

☆ ○年生になって、学校生活をしている中で、ある日ある時の一回限りのことで、友だちや先生との関わりの中で心に強く残ったことを、ていねいに思い出して書いてみよう。

☆ 人間、自然、社会の出来事などのことで、感動の場面を切り取って、リズムのある詩を読み合い、それを「詩のノート」に、ていねいに写して暗唱しよう。

☆ 祖父母、父母、先生から伝えられた遊びをすることから、夢中になってした題材を選ばせ、綴らせる。
 昔からの遊び(剣玉・べいごま・おてだま・百人一首・おはじきなど)

☆家に帰ってから、友だちや家族や見知らぬ人とのことで、心に強く残った相手の人の会話やしぐさなどもじっくり思い出しながら、「・・。」会話の形を使いながら書いてみよう。

☆夏休み四十日間の暮らしの中で、ふだんは経験できないようなことで、心の中で強く残ったことをよく思い出して、生き生きと思い出して書いてみよう。
 夏休み中、日記などを課題にするクラスは、休み前にその事を話しておき、休み中でないと出来ないようなことに積極的に関われるようにしむける。

☆季節の移り変わりによって、生活のしぶりも変わっていく事実を敏感にとらえたことを題材に選んで、読み手にわかるように、説明も入れて書いてみよう。
 自然の変化、衣食住の変化などを具体的にとらえて、考えさせる。

☆人間、自然、社会の出来事などのことで、感動の場面を切り取って、リズムのある詩を読み合い、自分でも詩を書いてみる。

☆一つのことをしつこく追い続けたことを題材に選ばせ、綴らせる。
 友達とのこと、家族とのこと、何かずっと関わったことを選ばせてみる。

☆年長者から聞いた話で、意味があると考えたことを題材にして綴らせる。
 自分の誕生から三、四才位までの記憶以前の話を聞き書きさせる。
 三月十日の東京大空襲に向けて、取材の出来る子は、三ヶ月前から取材させる。

☆印の指導題目は、この通りの順でなくても良い。学級の実体に合わせて、題材を考えても良い。

指導題目について(意図的作文)
 学期二〜三回位は、上のようなものを作り、取材から構想・記述・推敲・鑑賞まで十時間から十五時間かけて行う。時間割の中に、週二時間程度の作文の時間を設けておく。

日記指導について(自主的作文)
 日記指導は、子どもたちが自主的に、選んで書いてくる。日々の暮らしの中から、心の中に強く残ったことを切り取って、ていねいに思い出しながら書く。

赤ペン指導について
 子どもたちが一番楽しみにしていることは、教師の赤ペンと評価である。
子どもたちの心や体を生き生きと働かせている所(生活のしぶり)を取り上げて、認めてほめるようにする。
 文章そのものの細かい(書きぶり)の良いところを◎をつけて、その部分に線を引いて励ますようにする。

文章を生き生きと書くための、六つの大事なこと
 (模造紙に書き教室に張っておく。)
@いつ、どこで、誰がなにをしたかが、はっきりわかる文にする。
Aその時はなした自分や相手の言葉は、会話として「・・。」を使って文にする。
Bその時、思ったり、考えたりしたことは、(・・。)を使って文にする。
Cその時の動きや、周りの様子にも気がついたら書くようにする。
D自分はわかっていても、読み手がわかるように、説明も入れる。
E必要なところは、ものの形や色や大きさ、手触り、においなど、五感(官)を働かせたことを、よく思い出して書く。

 今年度から「使わされる」ようになった国語教科書は、現場の意向と違う形で採択された。各学校からの調査・研究では、従来の教科書の方が良いという意見が圧倒的に多かった。にもかかわらず、調査委員会の報告や選定審議委員会の答申は、平和教材や作文の単元が多く、偏りがあり、バランスを欠くと指摘されたのだった。その結果、今まで長いこと使ってきた教科書は不採択になってしまった。
 採択された教科書の作文単元は、極端に少ない。あっても、何のためにこんな単元があるのかと首を傾げざるをえないページが多い。子どもの作品もほとんどない。詩の単元など、二学年で一単元の扱いであり、子どもの詩は皆無に等しい。平和教材の単元も、反戦の視点のないファンタジックな作品になっている。墨田区が積み重ねてきた人権や平和を大切にする考えは、この教科書をやっていては、しっかりと押さえることは出来ないであろう。


週刊墨教組 No.1360 2002.3.14

はじける芽(106)

三月の指導題目  今まで書いた日記の文章の中で、心に強く残った文を鑑賞しよう。

道をふさぐ松

〇〇小六年

一月の下旬、ぼくは、学校からH君と一緒に帰ることにした。ぼくは、いつもは校庭を横切って帰るのですが、今日は、一号棟方面に帰ることにした。一号棟についたけれど、H君は踏切までついてきてくれた。踏切を越え、工事中の角で、ぼくとH君が、別れる時、H君が

「じゃあね、T。」

と言った。丸八通りを進んでいると、N君の家があった。しかし、いつもとは全然ちがっていた。立派に大きく育った(植木鉢)の松の木が歩道に倒れていたのだ。ぼくは、

(うわっ、何だこりゃ。)

とおどろいた。その松にかけ寄ってどうなっているのかよく見た。すると、松以外にも二つの植木が倒れていた。それを見てぼくは、

「風が強いから、風に負けて倒れちゃった のかな。」

とつぶやいた。そこに、おばさんが三人通りかかった。おばさん達は、松に目もくれずにすっと通り過ぎた。ぼくは、

(こんなに松が倒れてるのに、無視して 行っちゃうなんてひどいなあ。)

と情けなくなった。そして、すぐにぼくは、松の先の方をもって力一杯持ち上げた。しかし、十センチメートル位しか持ち上がらなかった。もう一度挑戦した。けれど、また十センチメートルくらいしか上がらなかった。ぼくは、

(あー、俺は何でこんなに力がないんだ ろう。)

とがっくりした。ぼくは、

「一人じゃ持ち上がらないし、このまま にしといたら松が道を三分の二ふさいでるし、きずつけられちゃったら やばいし。」

とぶつぶつ言った。ほんのちょっと考えた結果、家の人に言うのが一番いいと思い、N君の家のインターホーンのボタンを押した。

「ピンポーン。」

となった。十秒位しても出ないので、もう一度押した。しかし、また返事がなかったので、どうしようと思った。ふと、右を見ると、U君のおばあちゃんが園芸屋さんをしていることを思いだし、ガラス張りのドアを開けた。

「ガラガラガラ。」

と大きな音をたてて開いた。中には、肥料や赤土や土と色々なものが並べられていた。周りを眺めながら三歩歩き、ガラス張りのドアをたたきながら、

「すみませーん。」

少し小さな声で言った。すると、U君のおばあちゃんが部屋の中から顔を出した。ぼくは、

「あの、松が風で倒れちゃってるんですよ。」

と教えた。おばあちゃんとぼくはすぐに歩道に出た。おばあちゃんが、

「あらら。」

とおどろいた。おばあちゃんが、

「教えてくれてありがとうね。」

と言い、松の根元の方に行ったので、ぼくは、

「ぼくも手伝います。」

と言った。おばあちゃんが、松の右の植木を元通りにした。おばあちゃんが、次に松の植木鉢を持ったので、ぼくは、松の上の方を針(葉)にささらないように持ち上げた。松の左の植木も元にもどした。ぼくは、

(良かった、直って。)

とほっとしたら、

「ビュウウウー。」

と強い風が吹いた。すると、松がグラッときたので、パッと両手を出して、松をおさえた。おばあちゃんが、そこら辺にあったひもで、植木を固定しようとしたが、ひもがとどかなかった。だからおばあちゃんが、

「ちょっとおさえてね。ひもとってくるか ら。」

とやさしく言った。ぼくは、

「はい。」

と言い待つことになった。その間に、高校の男女が歩道を通った。ぼくは、その時、一人で立って寒がっているのがはずかしかった。おばあちゃんが、家の中から白いひもをもって出てきた。おばあちゃんが、

「そこ持っててね。」

とぼくに指示した。ぼくは、押さえている手がヒリヒリしてきた。おばあちゃんが、ひもで植木をしっかり固定して、力いっぱい引っぱっていたので、ぼくも右手で手伝った。おばあちゃんが、六十センチメートル位ひもを伸ばして、土から生えている、とてもかんじょうそうな木にくくりつけた。おばあちゃんが、

「ありがとうね。」

と言ったので、ぼくは、

(やっと終わった。良かった。)

とうれしかった。おばあちゃんが、

「お名前は?」

と聞いてきたので、

「ほおつきです。」

と答えた。ぼくは、

「さようなら。」

と言い、家に帰った。その足取りは、とてもかるかった。松が元にもどってほっとした。しかし、あんなになっていた松を無視するなんてひどい。

 この文章の添え書きに、お母さんが次のように書いてくださった。

 「Tにそんな優しい気持ちが芽生えていたことを知り、本当に嬉しくなりました。これは班日記で五官をみがいたおかげだと思います。」(後半略)

この班の子どもたちは、この文を読んだ感想を次のようにまとめている。

大変だったね。

タケえらい。私だったら、どうしたかなあ・・・。

悠太郎の家へ行ったのは、勇気がいったね。

タケちゃん立派、なかなか出来ないことだよね。(友達の母)

子どもたちに文章を二年間書かせてきて、こんな文章を読むと思わず嬉しくなってしまう。無関心、無気力な人間が増えている中で、このような「生活のしぶり」の良さをみんなで読み合うことによって、「人間の生き方」をじっくり学びあえる。作文教育は、「人間教育」であると、このごろ強く思うようになってきた。子ども達は、仲間意識をしっかり身につけて、これから中学校へ進んでいく。

三十人の子ども達よ、「夢は君らの手の中に」。再会を楽しみに待ってるよ。


週刊墨教組 No.1354 2002.1.31

はじける芽(105)
一月の指導題目
冬休みの生活の中で、心の中につよく残ったことを、詩として表現してみよう。

下町の子の冬休み ー六年生ー

カレンダー
二〇〇一年のカレンダーは、
一月から十二月と、
季節とともに変わっていった。
今、二〇〇一年が終わろうとしている。
夜の十二時、
カレンダーにかけより、
ビリッと破った。
その瞬間、
二〇〇一年が終わった。
そして二〇〇二年になった。
二〇〇二年は、
世界中が平和に暮らせるように。
そう願うばかりである。
戦争のない二〇〇二年へ。


 一日の違いによって、年号が変わる。ふだんはなんでもない瞬間なのに、新鮮な気持ちになるから不思議である。終わりの三行に、平和のことを取り上げたことに値打ちがある。

書初め
書初めをやった。
母が、
「新とかは、 むずかしいから、ゆっくり 書きな。」
とアドバイスした。
筆で練習用の新聞紙に、
「新雪の朝」という字をいっぱい書いた。
いよいよ本番。
ゆっくり書いてできた。
終わったときの実感がすごい。
中学でもできるかな。

 この子は、字を書くのが苦手だった。しかし、新聞の切り抜きや、班日記をはじめてから、。心をこめて丁寧に書く習慣ができた。入学したころは、少し走り込むと唇も紫色になるくらい、体も弱かった。学年が進むにつれて、本人の努力により、体力も十分についた。今ではクラス一大きな声で、何でも聞きにくる子だ。

ゆっくりゆっくり
「ワァーすごい。」
初もうでのお参りに来た人の列は、
なんと五百人前後だった。
少しずつ少しずつ、歩いていく。
ゆっくりなせいか、
周りの人の声がすべて聞こえるような気がした。
周りのおみくじやだるまも、
すべてゆっくりみられた。
いつもの初もうでとは、少し違った今年。


 最初の一行は、驚きの会話から書きだしているのが良い。周りの人の声が聞こえるくらいだから、夜中の静けさの初もうでだったのかもしれない。

おせち料理
元旦には決まって、おせち料理を食べる。
その一つ一つの意味を調べてみた。
黒豆は、まめに暮らせるように、
田作りは五穀豊穣。
数の子は子孫繁栄。
伊達巻きは、文化の発展。
エビのうま煮は、
エビのように腰が曲がるまで長生きするように、
と言う意味がある。
その他にも料理ではないが、
正月飾りの定番として、
裏白、南天の実、松の葉などがある。
昔からのこういう風習は残しておきたい。


 おせち料理を作る家が少なくなってきた。正月の一日から、店も開いているし、わざわざ保存食品を作る必要もなくなってきてしまった。しかし、こういう習わしは、大事に続けたい。

しも柱
ザクッ
しも柱をふんだ。
ザクザク
しも柱がうなる。
草を見ると白くなっている。
しもばしらを見ると太陽に反射してまぶしい。
辺りを見回すと、一面しも柱でまぶしい。
しも柱が溶けたところを歩くと、
ベチャベチャといった。
何度もやるとツルッとすべった。
しも柱、今年もきれいに輝いている。


 暖冬のせいで、東京地方で霜を見ることも少なくなってきた。ましてや、コンクリート文化のなかで、しも柱を見ることはますます難しくなってきた。

空の泉
高い山に降る白雪。
白銀のスキー場。
直滑降はジェットコースター。
山の頂から遠くの山々を見る。
山々に囲まれた盆地に白い雲の泉。
山の石垣の中の白い泉。
ときおり激しく波を打つ。
ゆるやかにも流れる。
自然のなした空の泉。


 暮れのうちに日本海側の県に雪がたくさん降るのも、めずらしくなってきた。しかし、今年はいつもとちがって、雪のつもりかたが多いらしい。

年がかわる
あと十秒。
二〇〇二年がせまる。
二〇〇一年、何があった。
粟野も行ったし、
佐藤先生が来て、
色んな人が見ている中でやった授業。
テロ事件があって、
朝日小学生新聞にものったんだ。
もう二〇〇二年。
早いなあ、本当。
思い起こせばいっぱい、思い出がつまっているのに。
五、四、三、二、一。
二〇〇二年。
あけまして おめでとう。


  昨年一年間のできごとを取り上げているのが良い。小学生新聞の記者が来て、授業風景が記事になった。そのことで、子どもたちの世界が一回り大きく広がった。


週刊墨教組 No.1349   2001.12.20

はじける芽( 104 )
十二月の指導題目

日々の暮らしの中に感動するものを積極的に見つけ、それを詩に表現してみよう。

  夜空に一つ  
六年 ○○ ○○
「きれいな月だね。」
ベランダから母の声が聞こえた。
ベランダから見えるのはまん丸の月。
月のまわりだけ、夜の空じゃなかった。
真っ暗な空に、
一つ満月があるだけなのに、 
空がただの空じゃなくなった。
この広い空をたった一つの月が、
輝いていた。
自分の目には、月だけ映っていた。
ベランダから見えるのは、
まん丸の月。

これからの夜空は、空気も乾いてきて、星や月がはっきりと見えるようになる。雄大な景色をながめていると、心もゆったりしてくるものだ。

  卒業の文章
六年 ○○ ○○
卒業しても忘れないように、
卒業の文章を書いている。
ぼくはこの学校に転入してきたので、
「新しい友達との出会い」
と言う題名にした。
「こういう文は、井上君しかかけないからぜひ書いて。」
と榎本先生はぼくに言う。
書き始めて、かなりくわしく書いている。
もうすぐ三枚目にはいる。
この文はぼくが転入してきて、
自分の思いをいっぱい入れた。
早く「新しい友達との出会い」という文章を、
完成しようと思っている。

 卒業文集には、その子どもにだけ書ける題材を選ばせることが大事になる。六年間ないし十二年間の中で、関わりの深いものを取り上げさせたい。

中学勉強
      六年 ○○ ○○
兄の勉強しているところを、
ぼくはのぞきこんだ。
わけのわからないものがいっぱい。
もうすぐぼくも中学生か。

中学生への期待と不安は、これから色んな形で広がってくる。兄の勉強しているところをのぞき込んで、難しい問題に不安を持ちながら、夢も膨らみつつある詩だ。

  季節はずれ
      六年  ○ ○○
うちの中の秋は、いがぐりとススキだけ。
ほかにはこれと見あたらない。
多いのは夏の残り物。
かわいくてちっちゃな風鈴。
ぼくのお気に入りは、
テーブルの上に一つぽつんとあるやつだ。
それは、プラスチックのケースの中の、
葉にかくれて、角を出している。
真っ黒のクワガタ。
作り物であるが、ぼくのペットだ。
季節はずれではあるが、
秋のススキとはりあって、
独特のふんいきを出している。

季節感を感じる子どもに育てたい。秋はあっと言う間に過ぎ、そろそろ木枯らしが、寒い冬がやってくる。自分のお気に入りのペットをこのように見つめる心が良い。

  シクラメン
      六年  ○○ ○○
学校からもらったシクラメンも、
また葉がたくさん出ている。
新しい鉢に植えかえられ、
栄養剤をつけている。
「シクラメンの球根は、豚のまんじゅうって言うんだよ。」
母が言う。
豚が好んで、まんじゅうみたいだから。
鉢から見たら、そうは見えないけど。
色も形もジャガイモそっくり。
前より大きくなっている。

シクラメンの季節がやってきた。この花を見ると、冬がきたんだなあという実感が湧いてくる。

しし座流星群
六年 ○○ ○○
シュー。
「あ、また光った。」
このくらいやみ空の中を、
しし座流星群の一つ一つの星が、
あちこちに流れた。
初めてみた流れ星。
光ったと思えばすぐ消えてしまう。
すると北の空に、
うすい北斗七星が見えた。
初めてみる北斗七星だ。
予想よりもかなり大きくて、
どうどうとしていた。
シュー。
今度はあの北斗七星の中を
流れ星が通っていった。
寒い中を流れていく流星群は、
ぼくにとって忘れもしない出来事であった。

夜中にこの星空のショーを見た後に、一度床につき、その日の朝起きてからこの詩を書き上げたという。

もう少しだけ
六年 ○○ ○○
もう少しだけ そこにいて
少しでいいから、
横にいて、
こんなに近くにいるのは、
初めてかもしれない。
横にいるだけで、
心臓が飛び出そう。
緊張していて 大好きなあの人に、
声もかけられなかったあの日。

六年生の今ごろになったら、こんな風に切なく相手を想う年頃である。高学年になったら、自分の好きな人が一人や二人出てきておかしくない。むしろこの時期になったら、自分の気持ちを素直に表現させることも大事である。それを、公表するかどうかは別問題にしても、作文や詩に気持ちを正直に書かせることは、意義がある。
 家の人も、子どもの頃を思い出して欲しい。こんな気持ちになったことが必ずあったはず。


週刊墨教組 No.1343 2001.10.31

はじける芽(103 )

十月の指導題目

世の中の出来事をじっくり考え、それを自分の意見としてまとめてみよう。
新聞の切り抜きから事実を知り、自分の考えを出そう。

 パパが帰らない
十月十一日(木) 読売新聞 夕刊を読んで
 ニューヨークの同時多発テロ事件から、もう一ヶ月の時が過ぎた。被害となった世界貿易センタービルで働いていた早津信宏さんは、今、行方不明だ。信宏さんの家族は、「まだ行方不明だから」との思いと、「やっぱりビルの中に」との思いが交錯して眠れない。
 信宏さんの長男亮くんは、十七日から元気に現地の小学校に通っている。しかし、事件後、亮くんの口からパパという言葉が消えた。「みんな一生懸命さがしてくれているから。」と話しかけると、「ビル壊れちゃったもんね。」とポツリ。母の美子さんが涙を見せると、走り寄ってきて、小さな手で必死に涙を払いのけるという。これにはぼくもおどろいた。わずか五才の子が母親の『涙をぬぐってあげる』。これにはすごい悲しみが伝わってくる。
 信宏さんの母美津子さんは、米兵に特別に入れてもらった立入禁止区域には、煙と焼けこげたにおいが漂っていた。巨大ながれきの山と格闘する警察官と消防士は、ありのように小さく見えた。この時、たぶん美津子さんは、「この下に信宏が・・・。」と悲しく思っただろう。  

 人が人間でなくなる戦争
十月十日(水) 朝日新聞 朝刊を読んで
 本当にブッシュ大統領は、実行してしまった。十一日の今も続いている。平野君が言ったように、「テロをやってはいけない。」と言ったのに、アメリカが今やっていることはテロです。自分の国が受けて、悲しい思いをして傷ついたテロを、テロ組織をなくすためなどとはいえ、その空爆で何もやってない民間人も二十人亡くなっている。それと同じでNGO(非政府組織)の方も四人亡くなった。NGOは地雷を除去作業する。この人達だって、やっぱり米同時テロを実行した人ではない。空から爆弾を落とせば、いくら計画・計算されてもミスは出るのだ。誤爆かと言われている。べネット大佐は、ロイター通信に対し、「わたしの知る限り、民間人を巻き添えにするような爆撃や標的以外への空爆はしていない。」わたしには、この言葉が無責任に聞こえた。
 アメリカは、いったいどこまでやり続けるのか? 今日、十月十一日は、アメリカの同時テロからぴったり一ヶ月です。アメリカの人達でテロの被害を受けた人々は、今空爆を受けている人の気持ちがとても分かると思います。カブールなどは、十一月頃からとても寒くなると言う。今から食べるものや毛布を用意しなくてはいけないのに。これからその寒さでなくなる人も出るという。これから何人も何人も人が亡くなっていくんだ。日本は軍隊を派遣することに強く協力するのでなく、アメリカやアフガニスタンに食べ物など生活に関係のあるものを送ったり、そういうところにもっと強く協力してほしい。アメリカとアフガニスタンがいつか仲良くなる日は来るか?人が人間ではなくなる戦争は、もうやめてほしい。

 テロの感想
十月八日(月) 読売新聞 朝刊を読んで
ついにアメリカが攻撃してしまい、タリバンは反撃しています。今、ニュースをしていて、やはりこのテロ事件のことを放送しています。もう一ヶ月たちました。今日でちょうど一ヶ月です。貿易センタービルがくずれる映像は、一ヶ月たち古いという感じです。そんなに時間がたっているんだから、冷静になって考え直した方が良いと思います。今からでもやめれば犠牲者は減ります。早くやめればやめるほど犠牲者は減ります。でも、そう簡単には、やめられないと思います。でもやっぱりやめないとアフガニスタンの国民は逃げなければならなくなります。
 高校二年の兄が修学旅行で沖縄に行くことになっていたけど、戦争が始まってしまって延期になってしまいました。旅行は沖縄ではないところへ行くそうです。中島君のお父さんは、都立の竹の台高校の先生をしていますが、沖縄へ行けなくなってしまったそうです。沖縄にはアメリカの軍事基地が多くあるので、日本の中では一番最初に沖縄がねらわれています。修学旅行で沖縄に行かないと、沖縄の宿の部屋もなしになり、沖縄の観光の売り上げも減ります。沖縄への飛行機も乗らないので、航空会社の収入も減ります。プロ野球でヤクルトが優勝しても、こんな時にビールかけは出来ないと言いやりませんでした。アメリカという外国で起きた事件です。なぜこんなに日本にえいきょうするのでしょうか。外国の戦争でも日本が不景気になってしまいます。
 

 戦争より残酷なものはない
十月十日(水) 毎日新聞 夕刊を読んで
 アフガニスタンの攻撃が始まった。パキスタン北西部にあるペシャワルから車で約一時間ほどにあるジャローザイ難民キャンプ。最近、アフガニスタンから避難してきた難民が暮らしている。トウモロコシを売る屋台にいた二十代の男性は、「米国はわたしの母国にとんでもないことをしてくれた。このキャンプでは、男だけでなく女までもが、ジハード(聖戦)に参加したいと息巻いている。」と話した。(ジハードに参加したいという人も、やっぱりいるんだ。)と思った。六十代の男性が「ジハードにはタリバンも反タリバンも関係ない。みんなアフガン人だ。今回の戦いが、『米国対イスラム・アフガン』の戦いだと、なぜ外国人は分からないんだ。」と言った。(じゃあ外国人は、どことどこの戦いだと思っているんだ。)ペシャワル市内で衣料品店を営むアブグル・ハーディさん(二十六才)は、攻撃を伝える新聞を食い入るように読んでいた。ハーディさん自身、二十二年前に旧ソ連軍の攻撃をさけ、パキスタンに逃げてきた。
(こういう人は、今回みたいに、相手の攻撃から逃げてきたのか。だから、もう誰も自分みたいな辛い思いをさせたくもないと思っているのかな。)
と思った。避難して、キャンプ生活に苦しんでいる難民の生活も楽になり、ほっとするかもしれない。でも、もうアメリカが攻撃してしまった。少し遅かったかもしれない。この戦いで、生活が苦しくなり、不安を抱いている人の不安を早く消してあげたい。戦争より残酷なものはない。「母の姉は中国に」で書いたように。

 五年生の時から、新聞の切り抜きを継続している。子ども達は、切り抜いた新聞を読み、その感想を書き込んで提出している。班日記で身近な出来事をこのようにまとめて書いてくる子もいる。「私たちにだって主張する権利があると思う」と、テロ報復について書き込んだ子がいる。
 これらの作品は、同時多発テロとその後の報復戦争について、子供たちと考え合ったときに扱った作品である。朝日小学生新聞の記者が見に来て、授業風景を記事(十月二十日発行)として一面をうめてくれました。


週刊墨教組 No.1337 2001.10.1

はじける芽102

九月の指導題目

世の中に起きた出来事に積極的にかかわって、
それを書き留めてみよう。

米同時多発テロ
九月二十二日(土)
 ○○小 六年

 今日、夕ごはんを食べている時、テレビで『週刊子どもニュース』を聞いていました。そしたら、先週に続き、テロ事件の事をやっていました。
 私が、テロ事件の事を初めて知ったのは、九月十一日でした。宿題などを終わらせて、台風十六号の情報を見に行った時でした。この日は、台風のニュースは捨てられて、テロのことばかりでした。私は、十一時過ぎまでニュースを見ていました。テレビは母に消されるまで見ていました。その時は、二機目の飛行機がぶつかる映像が何度も放送され、私も十回近く見ました。私は、何が何だか良く分からないまま、次の日になりました。両親は、
「戦争が起こるかもしれない。」
とか言うので、ますます何がどうなっているのか、分からなくなりました。
 このテロ事件のニュースは、どのチャンネルに変えてもやっていました。このテロ事件は、世界貿易センターのツインタワーの一つにぶつかっていき、また何十分後には、ツインタワーのもう一つのビルに飛行機がぶつかって行きました。少したつと、国防総省にも飛行機が・・・。何だか知らないけど、大変なことになったというのが、時間がたつにつれて分かって来ました。もう一機はホワイトハウスをねらっていました。つまり、ブッシュ大統領をねらっていたということです。しかし、この飛行機は、途中で落ちました。
 私が一番おどろいたのは、ビルが短時間で倒壊したことでした。しかも、ツインタワーの二つとも。しかもこのテロは、すごく頭のいい人達がやったのです。それは、二機目の飛行機がビルにささったことです。私は、
(はねがはみ出ちゃうから、斜めに突っ込んだのかなあ。)
と思っていました。でも、母が言うには、
四十五度にささると、被害が拡大するからと教えてくれました。確かに四十五度でささるのと、真っすぐでささるのとでは、被害の幅がちがいます。こんな感じで全部計算していたのかと思うと、いつから計画していたのかという疑問になります。しかも、アメリカでパイロット訓練を受けていました。このテロリストを教えた指導者は、とてもがっかりしていると思います。テロリスト達は、
「自分の国でパイロットになる。」
というようなウソをついて、教わっていたのです。
 『子どもニュース』で初めて知ったのは、イスラム教の信者は十億人位、人によっては十三億人位いるという人もいるそうです。イスラム教の教えでは、女の人はかみの毛を見せてはいけないとか、顔も見せてはいけないというのです。いろいろな国に信者がいるけれども、その国々で少しずつちがうのです。しかも、豚肉も食べてはいけないし、お酒を飲んでもいけません。父は、
「イスラム教は、あいみ(妹)向きだね。」
と言い笑っていました。断食をする宗教だからです。どれくらいの間、食べてはいけないか知りたかったので、子どもニュースに耳をかたむけました。その断食は、一カ月位は、食べないそうです。
(そんなに食べなくても大丈夫かな。)
と思いました。イスラム教信者の中でも、豚肉も食べて良いんじゃないかと言って、豚肉を食べる人も出て来ました。お酒を飲んでも良いんじゃないかと、お酒を飲む人も出て来ました。でもそれは、日がしずんでいる間です。それに、イスラム教では、男の人は、ひげをのばさなくてはいけません。もし、のばしていない人がいたら、つかまえてろうやに入れられて、のびたら家に帰してもらえるのです。すると妹が、
「榎さんは、ひげをのばしているから、イスラム教なんじゃなーい。」
と言うので、みんなで笑ってしまいました。
 私の疑問は、こんなイスラム教に信者が十億人とか十三億人とかいるということです。その中でも、日本人はいるのかということもです。でも、これは良く分かりません。
「日本に在住しているアラブ人は、日本人から白い目で見られていやだと、テレビのインタビューで答えていた。」
と、母が言いました。
「戦争の始まりは、必ず宗教がからんで来る。」
と父がポツリと言いました。結局、今回のテロ事件の始まりも、もとをただせばイスラム教のしんせいなる土地のメッカに、足をふみ入れたアメリカ人を悪い人種だと思いこんだビン・ラディン氏は、いつかアメリカにしかえしを・・・と思っていて、今回こんなことになったらしいのです。
 でも、関係ない人達まで巻き込むのはおかしいです。テロはゆるせないです。今回、戦争が起こったとしても、国対国ではなく、全世界対テロと言うことになるでしょう。日本がどこまで協力できるかは、小泉首相にかかっていると思います。もちろん反対の人も賛成の人もいるでしょう。この問題はむずかしいです。それに、イスラムとは平和と言う意味から来ている言葉だと、『子どもニュース』では言っていました。でも、テロを起こすのはおかしいと思います。とにかく平和が一番です。

 世の中の動きに敏感になろうということで、五年生から新聞の切り抜きを続けている。読んだ感想をかなり詳しく書ける子も出て来ている。今回の事件は我々大人でも、簡単に分析できない。テロそのものはけっして許されるものではないが、なにがそこまでそうさせてしまったのであろうかということは、世界史の学習をしっかりやった者でも難しい。さまざまな評論家がそれぞれに発言しているが、みんな意見が異なる。したがって、子どもたちには事実を確かめることを大事にさせ、結論は急がせないようにしている。
 今回の事件は、授業でも取り上げて考えあって来たので、班日記の中にもこのように書いてきた子どもたちが、半分近くいた。そのつど、読み上げている。


はじける芽 101号

七月の指導題目
  日々の生活の中で起きる感動を、俳句に表現してみよう。
 

六年の下巻の三学期単元に、「短歌・俳句の鑑賞」のページがある。卒業も控え落ち着かない頃になるので、六年になったら、俳句作りの楽しさを教えることにしている。
五年生の時から、感動したら詩の形にして、一週間に一度提出する「詩のノート」を持たせている。そこで、そのノートに俳句も書くようにしている。
 俳句には、必ず季語を入れるが、最初は季語を意識せず、自由に作らせている。この頃、自由俳句や川柳がブームになっているので、それなども参考にしながら、楽しんで作るようにしている。

 〈日々の暮らしを切り取り 俳句を詠む!〉

チャイムなりみんな飛び出す校庭に
休み時間が大好きな子ども達。我がクラスの子ども達は、放課後もまとまって結構遊んでいる。どの子も遊びの中から、友達同士の心の交流をしている。

病院の天井の上ツバメの巣
お父さんが病院に入院しているので、時々お見舞いに行っている時に詠んだ句である。都会にツバメが巣を作るのが、めっきり減ってきた。ツバメの姿に目をやり、早く父親に元気になってほしいという修司君の優しい願いが出ている。

イチゴの実真っ赤に育ち収かくだ
自分の家のベランダで大事に育てたイチゴを収穫する。それを冷蔵庫にしまい、家族みんなで味わいながら食べたという班日記を書いてきた。

お母さんパソコンの前にらめっこ
パソコンが学校に二十台入り、学校でも少しずつ教えなくてはならなくなった。子ども達の中には、インターネットまでやっているような子もいる。両親より早く覚えるような子もいる。

クモの巣にしずくがぽつりアクセサリー
クモの巣に夜露か何かの水滴が落ちていた。それをこのようにアクセサリーと詠みあげたところに値打ちがある。都会の中でも、よく見ると自然はたくさん残っている。

玄関にサンダル並び夏を待つ
 サンダルの数が多くなってきたのを、このように季節感と結びつけているところに意味がある。服装だとか、道ばたに生える草花や水道の水の冷たさなど、さまざまな変化から季節感をとらえることができる。

梅雨空にみずあげすると虹色に
 夏が近くなると、水まきなどをして、草花を元気づけることが多くなる。虹色が見えたのだから、太陽の光も一瞬さしたのかもしれない。そのような現象に気がつく生き生きとした目がいい。

 〈移動教室で感動を詠む!〉
 移動教室に行き、感動したことを何句か毎日詠む。その中から、引率教師がにわか選者になり、全員が推薦した句を最優秀作として、朝会の折に何句か発表する。次の日は、見違えるほどの秀句が多く出てくる。

上り坂クラス全員カタツムリ
 横根山の一番長いハイキングコースを歩いた。ときおり急に開ける牧場の景色などを楽しみながら、後ろを振り返ったりして登った。一列に並んだクラス全員の様子が、ナップザックを背負い込んで、ちょうどカタツムリに見えたのであろう。黙々と登っていたのである。

山の中ぼくらを送る滝の音
 思い川の川の水を引いて、鱒つかみをするために、そこまで山道を上り下りして行く途中に、ちょっとした滝と出会える。その時の感動を、このように詠む感性が良い。

マスつかみ見つけて追うと石の中
 ほとんどの子が、水の中でのマスつかみは初めての体験だ。そんなに大きくない臨時の池の中で、子どもたちは大きな歓声を上げながらマスを追っていた。一人で何匹も捕まえる子もいたが、ほとんどが一匹捕まえるのに一苦労であった。そのうちに、石の中に潜っていることに気がつくようになった子も出てきた。

肝試し話す自分がこわくなる
 肝試しをする前に、怖い話をやることにした。実行委員会の児童と引率教師が次々に話していった。その一番バッターが島田さんであった。周りを暗くして、ろうそくの光を頼りに話すのである。
 ろうそくの光だけで話すので、雰囲気は自然にできてしまう。話す自分が恐くなってしまったのである。

天井にツバメの親子飛んでいる
 屋外の屋根つき体育館で、開園式を行った。天井にたくさんのツバメが巣を作っていた。東京では、めったに見かけない光景だが、まだ粟野では健在であった。朝会の時に耳を澄ませると、ウグイスや名前の知らない小鳥の鳴き声が次々に聞こえてきた。

拾ったら帽子に入れる火打ち石
 思い川の河原には、いろんな石が落ちていた。中でも火打ち石は毎回話題になり、かなりの子どもたちが一生懸命探していた。拾ってきた子どもたちは、押し入れの中でこすって光る瞬間に感動していた。

朝会はみんなの顔がはれている
 枕を並べて話し込み、楽しい一夜を過ごしたのであろう。小学校生活最後の宿泊施設での友達との交流で、寝不足気味の子ども達が多いのは、毎回のお決まりである。消灯時間はあるが、人に迷惑をかけなければ、あまりうるさく言わないことに、私はしている。


はじける芽 100号

 アゲハの幼虫発見
    墨田区立○○小学校 六年 

学校の帰り道、M君が、
「イノッチ、今日は、うちの家から帰ろう。」
と、招き猫のように手をくねくねさせながら言いました。ぼくは、
「寄り道だけど、今日はいっかあ。」
と思いM君に連れられて行きました。H君の家の近くの方を通ると、
「わあーなんかあいる。」
とM君がさけび上げました。M君の目線の方にみかんの木がありました。近づいてよく見ると、緑色のうにゅうにゅしたなぞの生物がいました。ぼくはびくびくしながら、そのなぞの生物をさわると、口の方からオレンジ色の長いものが出ました。そのしゅんかん、
「プーン。」
とぼくの大きらいな、なっとうのにおいがしました。M君が、
「それアゲハチョウの幼虫だよ。」
と言い、ぼくは、
「あーあのかわいいアゲハチョウの幼虫かあ。」
と言いました。みかんの木の横の方を見ると、五、六ぴきアゲハチョウの幼虫がいました。ぼくは、
「五、六ぴきもいるんだから、一ぴき位もらってもいいよねー。」
とM君に聞くと、
「いいんじゃないの?」
と少しなやんで言いました。ぼくは、
「とっちゃえー。」
と思い、枝を一本とって一番小さな幼虫を選び枝に乗せました。M君のおばあちゃんの家に行く途(と)中、M君がとつぜん、
「さっきイノッチ納豆(なっとう)臭(くさ)いって言ったよね。」
とぼくに向かって言いました。ぼくは、
「ううん。」
と答えると、
「イノッチ!きらいなにおいみんな納豆って言うよね。」
と、M君がまた言いました。ぼくは、少し考え、
「まあ。」
というと、
「やっぱり。」
と答え、そのあとから、何も言いませんでした。M君のおばあちゃんの家の目の前で、
「いらない箱ないかな?小さなやつでも良いから貸(か)して。」
とぼくが言うと、
「あったらいいよ。」
とすぐに言いました。
 M君のおばあちゃんの家につくと、M君のお父さんの妹が出てきました。
「あ、こんにちは。」
ぼくも、
「こんにちは。」
と言うと、M君はすぐに、箱を探しました。M君のおばあちゃんに、
「なんかいらない箱ある?」
などと聞いていました。M君は大声で、
「あったあ。」
と言って、そのものをぼくに渡しました。それは、箱でした。水色でとうめいの箱でした。ぼくにとっては、ちょうどぴったりだと思いました。ぼくは、
「ありがとう。」
とM君に向かって言いました。その横で、M君のお父さんの妹さんが、
「その箱何に使うの?」
と聞かれると、ぼくは、
「アゲハチョウの幼虫入れるんです。」
と、そのしょうこの幼虫を見せながら言いました。お父さんの妹さんは、
「やーん、気持ちわるーい。」
と、その幼虫を見ながら言いました。でも、ぼくは、
「かわいいですよ。」
と言うと、お父さんの妹さんはまた、
「やっぱり気持ち悪い。」
と言いました。ぼくは、少しむかっときました。そのあとすぐに家に帰り、さっき貸してもらった箱に、まずはぬれたティシュを中につめこみ、さっきとった枝を中に入れるだけです。
「あっそっか、まだあるんだあ。」
と思い、みかんの葉っぱを取りに行きました。みかんの木は、M君の家の方に一本あるので安心です。その後、母に見せると、
「シーン。」
とした顔で、何も言いませんでした。妹に見せると、
「かわいい。」
と言いました。父に見せると、きげんが悪くなるので見せていません。アゲハチョウの幼虫はベランダに置いてあるので、父には気づかれません。毎日毎日ちゃんと掃除をしています。
(早くりっぱなじぶんで育てたアゲハチョウを見たい。)
と思っています。

出来事の順に書く大切さ
 五年の一学期の終わり頃、転校してきた子の作品である。五年の一学期は、個人日記を持たせて、一回限りの出来事をていねいに思い出して書いていくことを大事にしていた。作文の時間も、週一時間の時間割の中に入れて、力を入れて指導していた。そのため、転校してきたばかりには、日記帳(百五十字)一ページを埋めるのに苦労していた。
 しかし、本人の努力の結果、一回限りの出来事は、「・・・でした。」「・・・ました。」と過ぎ去った書き方を大事にしながら、出来事の順に書いていくことを、少しずつ覚えていった。 
どこに値打ちがあるか
自然が少なくなりつつある都会の中で、みかんの木についていたものをアゲハチョウの幼虫と書かずに、自分が見たとおりの表現をして書いていることに値打ちがある。びくびくしながらも、なぞの生物をさわり(触覚)、口の方(実際は頭)の上から、オレンジ色の長いものが出ていることを、きちんと見ている(視覚)ところである。
 アゲハの幼虫は、敵から自分の身を守るために、何か危険を感じたら、このように頭から、オレンジ色の角のようなものを出す。その時に、強いにおいを出して、本能的な動きをとる。それを「大嫌いな納豆のにおい」に似ていると書き留めている。目をよく働かせているだけでなく、嗅覚も使いながらよく観察している。 ものを確認するために、五官のうち、三官を働かせて、調べているところをほめたい。
その後、自分の家で飼うために、友達のM君に頼んで、箱をもらって、自分のうちで飼うことにしている。最後の結びに、成虫のアゲハチョウになることを夢見ながら締めくくっている所に値打ちがある。


はじける芽 99号

三月の指導題目
 戦争体験者の話をじっくり聞いて、それをていねいに思い出して書いてみよう。ー三月十日の平和の日にむけて

Tさんの体験した東京大空しゅう
墨田区立立花小学校 五年
三月九日四時間目に、平和集会が二階の集会室でありました。話は全校生徒で聞きました。戦争のお話をしてくれたのは、Tさんでした。Tさんの家は今は家具店で、Tさんのお父さんも戦争の時は、家具店をやっていました。Tさんで三代目で百年以上続いています。戦争の時、家族は、Tさん、お母さん、妹、おじいちゃん、おばあちゃんの五人家族でした。お父さんは、Tさんが小さい頃、亡くなったそうです。
 今から五十六年前の一九四五年の三月九日の夜中、アメリカの飛行機が一機、墨田区・江東区辺りに飛んできました。その飛行機には、六角形で長さ五十センチほどの焼夷弾が積まれて、低空からふってきました。Tさん家族は急いでにげました。社(やしろ)に入りました。Tさんのお母さんは、Tさんの四才の妹を、安全な場所にあずけるため、Tさん達と別れました。その時、
「絶対、ここで待ってる。」
と約束をしました。社にも火は回ってきました。入り口が四つあり、北、東、西とだんだん社に火がついて、Tさん達は熱風の中、お母さんを待っていました。
「行きちがいにならないように。」
とTさんは、言っていました。
 でも、Tさん、おじいさん、おばあさんは社を出ました。外は、風速三十メートルで火の粉と言うより、火の玉が飛んでいました。おじいさんの背負っていたものは綿が入っていました。火がつきやすく、火の粉が付き、火がなかなか消えませんでした。おばあさんがTさんを呼び止め、Tさんとおばあさんで、おじいさんの背中の火をたたいて消そうとしました。Tさんのかぶっていた防災頭きんでおじいさんの背中をたたきました。おじいさんは、昔、足を馬車にひかれてしまい、足が動かなくなっていたのです。それがよけいに足手まといになりました。
「熱い。消してくれ。」
と、おじいさんは言いました。でも、けむりがひどく、これ以上いると、自分の命も危ないと感じ、Tさんは仕方なくおじいさんとおばあさんを置いて、暗い方へにげました。
 たくさんの人がにげていく中で、Tさんはぐうぜんにお母さんと会うことができました。Tさんとお母さんは、小学校へにげこみました。小学校の校舎は、ある一定の人数が入ると、四センチの厚さの鉄の門を閉めてしまいました。門の外から、
「あけてくれ、あけてくれ。」
と、人の声が聞こえました。今入れると、一しょに火の粉も入ってくるので、人を入れませんでした。
(かわいそうだな。)
とTさんは思いました。私も思いました。Tさんは語りながら、メガネを外してハンカチをポケットから出し、涙をふいていました。
(Tさんは悲しいことを体験し、おじいさんと別れてしまい、後悔していて悲しくなったんだなあ。)
と私は思いました。空気はうすれていきました。校舎の柱に火の粉がつきました。このままにしておくと、燃えてしまうので学校のタンクの水を使いました。屋上の水も使ってしまい、もう水がなくなりました。そこにいた軍人さんが、男の人たちを集めて、理科室のすいそうに小便を集めました。Tさんのお母さんは、どこからか女の人の着物を持ってきて、Tさんにかぶせました。それは女の人の着物をかぶせておけば、周りの人は、女の人が寝ていると思うからです。Tさんは、火を消しに行きたいと思いましたが、お母さんが、
「今行ったら、一生会えないよ。」
と言いました。Tさんは、十六才でまだ子どもだったので、つかれて寝てしまいました。
 次の日の朝が来て、外に出ていくと、門の所にどろみたいなものがついていました。よく見ると、どろじゃなく人の死がいでした。夕べ学校に入れなくて、ほのおの火で焼け死んだ人たちでした。とてもざんこくだけど、Tさんは涙が出ませんでした。もし出たとしたら、それはうれし涙です。Tさんは自分が生きていたということがとてもうれしかったのです。
 Tさんは、二十年近く前から、このつらい戦争体験を話すようになりました。それまでは、あまりにもつらいことなので、人には話さないで生きてきました。しかし、平和のことが次第に危なくなってきたので、つらいことだが人前で語るようになってきました。Tさんは、
「平和が一番大事だ。」
と話してくれました。私たちに、平和がどれだけ大切なのか、わからせてくれました。

戦争は大砲で殺し合うだけでない
立花小学校では、五年前より東京大空襲の三月十日が近くになると、「平和集会」を開いている。
Tさんは、語ってくださる途中に何度か声を詰まらせた。最後の話を締めくくるときに、「戦争は、火の海の中を家族がバラバラにされ、必死で逃げまどうことでした。」と訴えていらした。淡々と事実を語る中に、子ども達は次第に引き込まれていった。


はじける芽 98号

二月の指導題目
 ここ何日間での出来事で、心に強く残ったことを、じっくり思い出して生き生きと日記に書いてみよう。

  たこ糸を買いに

 立花小 五年 
金曜日の六時四十分頃、図工で使うたこ糸と絵の具を買いに、ミツワ堂へ行くことになりました。お金を千円は母からもらって、信号を通り過ぎて、ミツワ堂まで来ました。ミツワ堂の人が、
「いらっしゃいませ。」
と言いました。ぼくは、
「たこ糸と絵の具ありますか。」
と聞くと、ミツワ堂の人は、
「あ〜ありますよ。」
と言って、
「これよ。」
と言って、指をさしました。絵の具は買ったけど、たこ糸は、
(う〜ん。)
と悩みました。それは、長さが三十五メートルだったからです。ぼくは、
(ちょっと短いかな。)
と思いました。そして、絵の具だけにしました。ぼくはレジに行って、
「これください。」
と言いました。レジにいた人が、
「はい、二千円からおあずかりします。○○円のお返しです。ありがとうございました。」
と言いました。帰りに、
(あっそう言えば、墨汁も少なかったんだっけなあ、買おうっと。)
と思い、セブンイレブンに行きました。墨汁を取って、レジに行きました。
「ピッ。五百円お預かりします。○○円のお返しです。ありがとうございました。」
とレジにいた人が言いました。走って家に帰りました。ぼくは、
「ただいまあ」
と言って、母におつりを渡しました。ぼくは、母に、
「たこ糸買ってこなかった。」
と言うと、母は、
「どうして買ってこなかったの。」
と聞いてきたので、
ぼくは、
「三十五メートルで短かったから。」
と言うと、母が、
「短くないよ、また買って来な。」
と言っておつりを渡されたので、買いに行くことにしました。
 ミツワ堂に着くと、たこ糸をじっと見ました。ぼくは、
(うん、やっぱり短いや、あ、そう言えばたしかおれの引き出しの中に、たこ糸があるはずだから、買わないでいいや。)
と思って、家に帰りました。また、
「ただいまあ。」
と言って、母におつりを渡して、
「またやっぱり買ってこなかったよ。」
と母にまた言いました。母は、
「なんで。」
とまた、変な声でたずねました。
「家にあると思ったから。」
と言うと、母は、
「ないよ。また買って来な。」
と言って、またおつりを渡しました。ぼくは、一応さがしたけど、母の言ったとおりなかったので、買いにまた行くことにしました。走って行ったけれど、店の前に着いたら、なんと店はしまっていました。ぼくは、
「ガーン。」
とひとりごとを言って、帰りました。かえって母にそのことを聞かせると、母は、
「しょうがないから、明日お母さんが買ってくるよ。」
と言いました。ぼくは、その後ため息を一つ、
「ハア。」
とつきました。
  二〇〇一年一月十六日(火)
         の班日記より

日記を読むのは楽しい
 一年間日記を書いてくると、書き方についていくつかのことが確実に身に付いてくる。
・いつの日の出来事なのか。
・その時の会話をきちんと書こう。
・その時心に感じたことを(・・・。)を使って書こう。
・気がついたら周りの様子も書こう。
・相手にわかるように説明も入れて書こう。
・色、形、大きさ、におい、はだざわりなど五感を良く働かせたことを書こう。
「文章を生き生きと書く」六つの大事なキーワードを大切にしながら この一年間も歩んできた。したことをしたとおりに事実に基づいて順序よく書くことの大切さをやかましいほどうるさく言ってきた。

班日記の楽しさ
二学期から,五人一組の班で六つに分かれて、週一度は書くようにした。 せっかくの班なので、次の人は必ず人の文を読んで感想を入れることも約束にしてきた。また、書いた後には、家の人に見せてできるだけコメントを書いてもらうようにした。三十人の児童のほとんどの父母が、参加してくれた。
この班の人の感想
・三回も買い物に行って大変だったね。
・三回も同じ店に行くなんてはずかしくなかった。
・大変だったけど、何回も行く悠太郎の考えがえらい。
教師の赤ペン
・悪いけど、思わず大きな声をだして一人でゲラゲラ笑ってしまいました。でもこういう文の書き方がすばらしいのですよ。したことを本当にていねいに思いだしてます。

子どもたちの純真さに学ぶ
何としつこく三回も店に行ってしまったのかの経過がよく分かる。今の子どもたちは、集中力がなくなったと言うが、こういう姿を見ていると、ほれぼれしてしまう。図工の古屋先生に言われた長めのたこ糸のことが、ずっと心の隅にあったので、このように慎重に選んで行動したのである。その店まで行くまでに、たこ糸のことをずっと気にしながら買いに行っている「生活のしぶり」に心から拍手を送りたい。


週刊墨教組 No.1310 2001.2.1

(97)

下町の子の冬休み ―五年生― 


今年は、八戸でも、大みそか・元旦に
雪がふった。
元旦や二日三日も
どんどんふった。
今は、ちらちらふっている。
空の上を見ようとすると、
雪が目に入った。
周りの景色が見えないほどふっている。
いつもとちがった雪景色。


 お母さんのふるさと青森県の八戸に戻り、そこでの冬休みである。今年の冬は、六十五年ぶりの雪が日本海側に降った。「ちらちら」という表現がいい。

すばやい手
「これやこの行くも帰るも別れては〜。」
と言う声と同時に一番上の姉の手が、
ズバッと出た。
「パチッ。」
すばやく蝉丸(せみまる)の下の句を取った。
それを見て負けじとなった。
「久方の光のどけき春の日に〜。」
と言う短歌にピンと来た。
次の下の句は、しず心なく花の散るらんだ。
ぼくの目がするどくなった。
だが、スッ、パチッ。
また姉の手が真っ先に飛んだ。
ぼくのさがしていたすぐとなりにあった。
姉はすばやい手の持ち主だ。
姉のおかげで真剣になった。
「山川に風のかけたるしらがみは流れもあえぬ紅葉なりけり。」
その短歌は目の前だった。
ぼくもすばやくとった。
「パチッ。」
でも姉にはおよばず、
すばやい手は、近くても遠くても、
ズバッといける手。
ぼくもすばやい手の持ち主になりたいな。


 お正月になったら、百人一首ぐらいは、このように家族でやってほしいので、休みに入る前にクラスでグループに分けてやってみた。冬休みに、百人一首を買い求めたりして、家族でやった子も半分くらい出て来た。

年賀状
「Kちゃん、ほら、年賀状が来ているよ。早く起きなさい。」
という姉の声で起こされた。
「三学期も、たくさんいい詩書いてね。宿題がんばれ! T.H.」
と書いてあった。
私はうれしい気持ちになった。
「でも信じられないなあ。」
と独り言を言った。
そういえば、去年BさんとTさんと私でランチルームで同じ班になった。
すごく笑ったな。
Tさんと、Bさんのおかげだなあ。
今年は、宿題のたまってない良い年にしたい。


 Kさんは、四年生の一時期、学校がつまらなくて寂しかったけど、今は友達がいて楽しいという詩を、二学期に思いきり書いた。クラスのみんなは、しっかり受け止めていた。

初もうで
十二月三十一日、初もうでに行った。
十二時まで待っていないといけないから、
たき火のある方へ行ってあったまった。
あたたかいと思っていると、
強い風が吹いて、
火のこが飛んできた。
「うわあっ、あっぶねえ。」
と言った。
「ゴーン、ゴーン。」
と除夜の鐘がなった。
さいせん箱に十円を入れた。
ガランゴロンとならしてから、
パンパンと二つ手をたたいた。


 昔の子ども達は、除夜の鐘を聞こうとがんばって起きていたが、結局眠くて聞けないまま寝てしまった。最近の子ども達は、けっこう十二時過ぎまで眠らずにいる子がいるようだ。

羽子板
「ヒュー。」
と今日はやけに風が吹いている。
だれもいない亀戸中央公園。
父が羽子板で打つと、
コンとなった。
すると風に流され、
十回位回った。
「うわあ〜すげえ〜。」
とぼくがおどろく。
いつの間にか羽子板はでこぼこしていた。
空を見る間に暗くなった。
「さあ帰ろうか。」


 昔は、たこあげと同じように、羽子板も正月が近づいてくると、自然にはやり出した。羽子板の羽の音を聞いて、正月が近づいたことを感じることができた。

夜の星空
車の中から空が見えた。
窓の方へ頭を寄せた。
「わあ。星がいっぱい。」
五十〜六十個ぐらい。
点々の星がある。
このまま時間が止まればいいのに。
と思うほどの夜の星空。


 都会では見られないほどの、満天の夜空を見ていたく感動したのだろう。冬の夜空は、オリオン座や冬の大三角形も都会では見える。

気をつけなくっちゃ
カンカン、カンカン。
こんな音が聞こえて来る。
音のする方の部屋に行き、
ガラッと窓を開けた。
スーッと冷たい風。
ひょうしぎを持った人達が、
寒そうに厚着をして、歩いていた。
火のしまつには、気をつけなくっちゃ。


 まだこういう習わしが残っている事がうれしい。「マッチ一本火事の元。父さんタバコに気をつけろ。」というフレーズを覚えている。
 


はじける芽(94〜96)

週刊墨教組 No.1298  2000.11.2

94号

 夏休みの課題の一つは、祖父母の戦争体験の聞き書きだった。E君は祖父からの戦争体験を書いてきた。その最後の方に、「母の姉は中国にいます。」という文が一行書かれていた。そのことが気になったので、母親に連絡をとり事情を聞いてみた。すると、ずっと子どもたちには話してこなかった自分の「生い立ち」があることを語られた。そしてE君に初めて、ていねいに語ってくれた。E君は次のような文章を仕上げてくれた。

 母の姉は中国に

墨田区立 五年 ES

 僕の母には、中国に姉がいます。僕にとっては、おばさんにあたります。名前は、陳景華(チェンケイカ)と言います。僕は、

(なんで中国に姉がいるんだろう。)

と不思議に思いました。母は、

「おばあちゃんが、二十一才の時、昭和十九年、その当時、おばあちゃんは同盟通信社に勤めていたのね。上司が中国(満州)の支社にいくことになったので、おばあちゃんも一緒に行ったの。」

と言いました。母が祖母に、

(よく親は許したねえ。)

と聞いたら、

(当時、日本は戦争による食料不足、満州は食料豊富だったので行った方がいいと親は思った。それに満州は、日本領土ということになっていたので、外国という感覚じゃなく、東京から北海道に行く位の感覚だった。)

と話してくれたそうです。祖母は新潟から船に乗り、三日ほどで朝鮮半島に着き、汽車で中国に入りました。満州は、お米やお肉、お魚など何でもあったので、豊かな生活でした。中国語は話せなかったけど、日本人が多かったので、困らなかったらしいです。そのうち、太平洋戦争がはげしくなって、一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本軍はアメリカ・イギリスを中心とする連合国軍に敗れました。そのため、日本人は、日本に引きあげなくてはいけませんでした。ところが、一九四五(昭和二十)年三月十日の東京大空しゅうで台東区にあった家はすべて焼けてしまい、親兄弟と連絡が取れなくなってしまいました。帰れなく困っていた祖母を助けてくれたのは、中国で知り合った友人達でした。その中の一人が陳康初(チェンガンツ)という軍人でした。その人は、中国の国民党軍の人で、台湾にずっと行って帰って来た人でした。祖母は、陳康初と言う人と結婚することになりました。その頃、日本の家族と連絡が取れ、日本の両親も結婚を許可してくれました。日本に帰国しても、満足に食べるものがない時代だったので、中国にいた方がいいと思ったらしいです。戦争が終わった後、日本人はソ連軍の捕りょになったり、引きあげの途中で財産をうばわれたり、病気になって日本に帰れなくなった人も大勢います。その中で祖母が無事でいられたのは、

「陳康初さんが軍人であり、裕福な生活ができる人だったから」

と母は言いました。一九五〇(昭和二十五)年七月に陳景華さんが生まれ、一九五三(昭和二十八)年一月ぼくの母が生まれました。その当時は、中国の紹興(しょうこう)に住んでいたそうです。ぼくは、母の話がよく理解出来ませんでした。戦争の後、中国では内戦が起こり、共産軍と国民党軍が争いました。

 紹興は、田舎(いなか)で内戦の影きょうはあまりありませんでした。陳康初さんも軍人をやめ、かんぶつ屋の商売をやっていたため、割合おだやかな生活でした。しかし、国民党軍が負け、国民党軍の総統の蒋介石が台湾に行ってしまうと、中国の政治が共産主義となって、外国人は全員国外へ出なくてはならなくなりました。子どもは、父親が中国人ということで、二人ともおいて日本にいくように命令されました。祖母は生まれたばかりのぼくの母を、ぜったい置いて行かれないと思い、

「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」

と強く言いました。ぼくは、

(この時代は、反抗すると、殺されたりなぐられたりするのに、おばあちゃんってすごいなあ。)

と思いました。とうとう願いを聞いて生後二カ月の僕の母を一緒に連れて帰ることは許されました。しかし、二才半離れた姉は、父親のところでくらすことになりました。ぼくは、母に、

「おばあちゃん、そん時お姉さんに何か言ったの。」

と聞くと、母は、

「お母さんが思うには、中国てあんまり遠くないし、実のお父さんのもとに置いて行くのだから、生きていればいつか会えるって、絶望的にはならなかったと思う。別れるときは、なんて言ったかわからないけど。」

と言いました。

 一九五三(昭和二十八)年三月、祖母は母をだいて、日本に帰ることになりました。

 母は帰って来られるからいいけど、中国に残される景華さんがかわいそうに思いました。

帰  国

 帰国するとき、陳康初さんは、紹興駅まで一緒について来ました。祖母は狼(おおかみ)の毛皮のコートを着て、あかちゃんのおしめを持って、身の回りの物など大きな荷物を持ち、母をだいていました。紹興駅から上海(シャンハイ)まで行き、上海港から船で日本へ帰ることになっていました。祖母は、陳康初さんから、紫色の宝石のついた金の指輪と、水晶の印かんをもらいました。ぼくは、

「その時、おばあちゃん、どういうこと話した。」

と聞くと、

「一つだけ、『三年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きていきましょう。景華のことは、よろしくお願いします。』と言ったそうよ。もっとくわしく聞きたいけど、おばあちゃんは、『昔のことは忘れた。』と言うばかりで、あまり話したくないと思うよ。」

と、母は言いました。ぼくは、

(ぼくもおばあちゃんだったら、そういうことはあまり話したくないなあ。)

と深く思いました。上海から船がたって三日間で京都舞鶴(まいづる)港につきました。日本が見えてきたとき、緑一色の日本列島を見て、

(あー。日本の国は、なんてきれいなんだろう。)

と、祖母は思いました。舞鶴港には、祖母の父親と弟が迎えに来てくれました。それから、汽車に乗り、九年ぶりに東京に帰りました。  


実家での生活

 祖母の父親は、戦前鉄工所をやっていた技術を生かして、戦後荒川区南千住で風呂釜を作っていました。大きな旅館などが得意先でした。銅でできた風呂釜は、数年でこわれるため、けっこうもうかっていました。祖母は、母が保育園に入る年まで実家にいました。母は、

「実家がかなり経済力があったから助かった。おじいちゃん(ぼくにとってひいおじいちゃん)おばあちゃんにすごくかわいがってもらったよ。だから、お父さんとか別にいなくても、寂しくなかったんだよ。」

と、言いました。母と祖母が帰ってきてから、すぐ国交断絶が行われました。もう中国に行けないし、手紙も出せません。ぼくは、

(おばあちゃん悲しんだかなあー。)

と、思いました。もう景華さんとは会えなくなってしまったのです。その後、祖母は古着屋の店をやりながら母を育てました。母は、

「お父さんのことを聞くと、『あんたが大人になったら話してあげる』と言って、一言も話してくれなかった。そのうち父親のことは、聞いてはいけないことだと思うようになった。」

と、言いました。

 昭和四十年(一九六五年)祖母は再婚しました。その人が、今団地に住んでいる僕のおじいちゃんです。

中国からの手紙

 昭和六十一年(一九八六年)十一月十八日、突然、荒川区南千住の祖父母の家に、母宛の手紙が届きました。中国の景華さんからの手紙でした。前の年、僕の兄が四才で肺炎で亡くなった時、母は初めて、中国に姉がいること、父親が中国人だったことを祖母から教えてもらったそうです。母は、

「子どもを亡くして悲しかったけれど、この地球上に、血のつながった姉がいることは、とてもうれしかった。」

と、言っていました。突然届いた手紙だったので、父の会社の人に翻訳(ほんやく)してもらいました。母は、手紙を開くとき、すごくドキドキしたそうです。母は、

(きれいな字だなー。)

と、思ったそうです。内容は、「中国のお父さんが九年前になくなりました。」とか、「お父さんの遺品(いひん)から住所が分かった。」とか、「母親が日本人ということで、いじめられ、恨(うら)んだこともあったが、今は、結婚して幸せに暮らしている」ことなどが書いてあったそうです。その時、祖母にも景華さんから手紙が来ていました。母が言うには、

「ほとんど、同じことが書いてあったらしいよ。」

と、言いました。ぼくは、

(おばあちゃんは、手紙を読んでどう思ったのかなー。)

と思いました。母と祖母は、景華さんに手紙を送ったそうです。手紙と一緒にいろいろなおかし、例えば「煎餅(せんべい)・チョコレート・クッキー」などなど送りました。後から腕時計三人分(景華さん、ご主人、いとこ)を送りました。母と祖母は、中国語が書けなかったので、日本語で書きました。年をとった中国の人は、日本語が分かる人が多いので、必ず誰か読んでくれると思ったそうです。ぼくは、

(榎本先生も、年をとった中国の人は日本語を読める人が多いとか、教えてくれたなー。)

と、思い出しました。それから、数ヶ月して、景華さんから返事がきました。

「うで時計をお母さんだと思って大事にします。」

と、手紙には書いてありました。それから文通が始まりました。文通が始まった頃、中国は国内も自由に旅行出来ませんでした。今はだいぶ変わり、一部では海外に自由に行けるようになりました。

 それは日中平和条約が一九七二年に結ばれ、日本と中国が仲良くなり、国交を回復したことが大きな理由です。

ぜったい中国に行こう

 最近母から二十センチメートル四方の古い布を見せてもらいました。薄くなってよく読めない、茶色の文字で、「路進神不阻、心連別何妨、○○存証、康哥1953・3」と書いてありました。

「何、これ。」

と、母に聞くと、

「中国のお父さんが別れるとき、おばあちゃんにくれたものよ。この字はね、中国のお父さんの血で書かれているのよ。」

と、母は小さな声で言いました。ぼくは、

「えっ。」

と、すごくびっくりしました。母は、布をふうとうに入れ、しょっきだなの引き出しにしまいました。ぼくは、

(こわかった。)

と、思いました。ぼくは、

「何で血で書いたの。」

と、母に言いました。母は、

「それはたぶんおとうさんの強い愛情を表しているの。」

と、言いました。ぼくは、

(何で血で書いたんだろう。)

と、不思議に思いました。母は、

「ぼくの体にも中国人の血が四分の一流れている。」

と言っています。ぼくは、

(戦争がなければ景華さんと別れなくてすんだのに、前から思っていたけれど、戦争は恐ろしい。)

と、強く思いました。でも、母は、

「戦争がなかったら、中国に住んでいたと思うよ。」

と、言っています。そうすると母は父とは出会わないことになります。ぼく達三人の兄弟は、この世に生まれなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。ぼくは、

(戦争のおかげで母や父やいろんな人に会えたんだなあ。)

と、正直ちょっとふくざつな気持ちでした。でも、戦争はよくないものです。おそろしいものです。母も言っているけど、

「いつか絶対、中国に行こうね。」

ぼくも、

(中国に行ったら景華さんにも会ってみたいし、いとこにも会ってみたいなあ。)

と、思ったこともあります。

(お母さん、家族で絶対、中国に行こうね。)

と、僕は思っています。

 Sには、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日かかかりました。ご苦労様!私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。一部読めない字もありますが、

  路進神不阻

  心連別何妨

  ○○存証

  康哥1953.3

と書かれています(「康哥」は、陳康初さんの書家としての号です)。この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の深い愛情と励まし、同時に無念さを思い、胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはありません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。

         ESの母より


週刊墨教組 No.1303 2000.12.14

 

96号

E君へ

E君に中国人の血が流れているとは、知りませんでした。戦争は、とても恐ろしいし、ざんこくです。戦争で何人の人が死んだのか、それはわかりません。戦争なんてやってはいけなかったのです。しかし、戦争がなければ、E君はこの世にそんざいしません。E君のおばあちゃんは、日本に帰って来る時、おじいちゃんの手紙をもって来たそうです。文字はなんと、血で書かれていたそうです。なぜ血で書いたのかは、大切なE君のお母さんに深い愛情を表したかったんだと思います。今、日本人はだいたい英語を習っています。しかし、E君はぜったい中国語を習うと思います。いっこくも早く、中国語を覚えてもらいたいです。それに、何十年も離れ離れになっているチェンケイカ(陳景華)さんと、一秒でも早く再会してほしいと思います。おじいちゃんからもらった布の手紙の中国語の文字を、日本語に直せばぜったいに、強い愛情が感じられると思います。《略》

E君のおばあちゃんはすごい

中国から日本に行くように命令された時に、E君のおばあちゃんは、

「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」と、良く言えたと思います。言うのはE君のお母さんをそれほど育てたいという愛情だけでなく、かくごも必要です。《途中略》ぼくは、E君のおばあちゃんの決意は、すごいと思いました。しかし、チェンケイカさんを引き取れなかったことは、多分一生くいに残ることです。帰国するときに、E君のおばあちゃんが、「三年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きて行きましょう。景華のことは、よろしくお願いします。」と言った時は、きっとふくざつな気持ちだったと思います。E君のおじいちゃんの血で書かれた手紙の部分を読むだけで、深い愛情を感じます。ぼくは、(はじめて読んだ時は、こわかったけど、何回も読んでいると、それが家族に対する思いやりなんだなあ。)と考えが変わって来ました。E君のお母さんから見ればお父さんの大切な手紙です。E君のおじいちゃんからすれば、E君のお母さんをあずかりたかったかもしれない。しかし、E君のおじいちゃんは、おなくなりになりました。

E君の気持ち

今まで、本当のおじいちゃんだと思った人が、血がつながっていないと聞かされたら、びっくりする。それに、E君の体に四分の一の血が流れていると聞かされたら、ぼくだったら、どうしたら良いのかがわからない。E君は、あまりこの文を見せたくなかったと思う。

E君のお母さんの気持ち

とつぜん手紙が届き、お姉さんがいると知った時、おどろきとうれしさがあったと思う。ちょうどE君のお母さんのさいしょの子どもが、肺炎(はいえん)でなくなった時だから、色々大変だったと思う。その時が、一九八六年だったそうです。E君のお母さんから見れば、本当の父がなくなったり、子どもがなくなったり、姉がとつぜんいるとわかったりして、びっくりしたと思う。本当のお父さんとお姉さんが中国にいたことなんかだれにも知られたくない。

ぼくの気持ち

E君の家族で、中国へ行ってほしい。親や姉妹に会えないなんて、どんな人だって会いたいと思う。しかし、中国に行くには、お金もかかる。それに、E君のおばあちゃんは、「三年たったら別々の人生を歩む。」と言って、チェンケイカ(陳景華)さんは、日本に連れて行けなかった事もある。少し気まずいけど、E君は友達として、中国に行って、いとこやチェンケイカさんとそのご主人に会ってほしい。

E君の作文を読んで

E君の「母の姉は中国に」という文を読んで、私は色んなことにびっくりした。まず、E君の体の中にも、少し中国の血が流れていることと、実のおじいちゃんが、中国人だったってことだ。私は、(こんな身近な所に、戦争でこんな体験をしたおじいちゃん、おばあちゃんがいるんだなあ。一年生から今まで、ずっと同じクラスだった人に、こんなすごい人がいるなんて。)と思った。E君のおばあちゃんは、食べ物に困ったりしなかったらしいけど、子どもを一人陳景華さんを中国に置いて行ってしまった。(もし、Sちゃんのお母さんと陳景華さん二人とも日本に連れて来られたらどうなっていたんだろう。Sちゃんのお母さんを中国に置いて行ってしまったら、Sちゃんは今この立花小学校のこのクラスにいなくなっちゃうんだ。Sちゃんは、戦争があって今このクラスにいるんだなあ。)といろいろ考えた。(Sちゃんは、この作文を書くのにどれだけ苦労したのだろう。書くのも大変だったけど、このおばあちゃん達の体験したことや、実のおじいちゃんが中国人だったこと。中国に自分のお母さんのお姉さんがいることを聞いた時、多分大変だったろうな。)と思った。

 私の祖母は、東京都の八丈島で戦争を体験した。沖縄みたいに外国になってしまいそうだったらしい。もし外国の島になっていたら、どうなっていたんだろう。私のおばあちゃんやおじいちゃん達は、だれかをなくしたり、つらいことを経験したりしているんだ。榎本先生から聞いたけど、この戦争体験を誰にも話さずになくなっていく人もいる。あまりにもざんこくな事をしてしまった人がそうなんだろうな。でも、この戦争の事を子孫に話していった方がいいな。そうしないと戦争というおそろしい事を人は忘れてしまう。語り続けていけば、戦争の恐ろしさをわかっている人達がたくさんいれば、とめられるかもしれない。E君の作文を読んで、色んな事にびっくりしたり、知ったり、おどろいたりした。この作文を読めてとても良かった。

 こんなドラマチックな人間としての生き方に、胸の中に熱いものが込み上げて来るものがあった。中国残留孤児が日本にやって来るたびに、どんな思いでその映像をご覧になっていたのだろうか。 E君のお母さんは、三人の子どものうち、一人くらいは中国語を習ってほしいと話された。ご自分も中国語を習い初めているという事である。

はじける芽(93)

九月の指導題目
  くらしの中で心に強く残ったことを書いた夏休みの日記から、一番、作文にしたいものを書きふくらませて見よう。
  祖父母の戦争体験を聞き書きできたら、してみよう。

戦後五十五年目の年を迎える。戦争体験者が、しだいに少なくなってきている中で、貴重な体験の聞き書きは、ますます大事な仕事になっている。また、今こそやらなければ、近い将来やりたくても出来ない時が来るのも、時間の問題である。

 こわい東京大空しゅう
  ○○ ○○
 今、北区に住んでいる祖母に、八月の末頃、電話で聞いた話です。
当時十二才で、浅草に住んでいた祖母は、戦争が始まると、妹と二人で宮城県へ学童疎開(そかい)へ行ったそうです。学童疎開先に、親が会いに来て、一晩とまってくれる事もあったみたいです。父親が会いに来てくれた日、祖母と妹は山の上の畑に二人は出かけていたのです。畑仕事の用事の後、宿舎に帰る途中、妹が手ぬぐいを落としたのです。昔の人は、手ぬぐいがすごく大切だったのです。その手ぬぐいを一人で取りに行くのは危(あぶ)ないので、先生が、
「お姉ちゃんも、いっしょに行ってあげて。」
と言ったのです。
坂を下って行くと、ちょうど面会に来ていた父親(私から見て曾祖父)が、タクシーに乗りこむ所だったのです。十一月頃になると、雪が降る寒い日が来て、夏の洋服はいらないと思って、父親が持って来てくれたのでした。次の夏は、着るものがなかったそうです。祖母が言うには、それが最後の父親のすがたになったのです。私は、
(そんな、父親の姿がそれっきりだったらやだなあ。)
と思いました。
《戦争がはげしくなり、東京にもばくだんが落ちるようになりました。》
 祖母の母親と(祖母)の弟と赤ちゃんの三人で、浅草から向島へにげたのです。向島へにげるには、橋をわたるのですが、その橋の上で、母と一年生になる弟の手が離(はな)れてしまったのです。その後、母親がいくらさがしても、弟は見つからなかったのです。(祖母)の弟は、今でも生きているのか、死んでしまったのか、わからないままです。
「父親と祖母の兄は、二人でにげた。」
と言っていました。父親は、病気だったので、にげている間に倒(たお)れて死んだのです。
 祖母の兄は、熱くて言問橋の上から隅田川に飛び込みました。他の人も熱くて川に飛び込むから、祖母の兄は、深い方へと流されてしまいました。もうだめかと思った時、舟に乗った友達が、引き上げてくれました。私の大おじさんにあたる人で、元気にくらしています。
それから、父親の妹は、やはり弟と一緒に隅田川の橋の方へ逃げて行きました。当時その橋の上は、ゴチャゴチャで動けませんでした。兵隊さんが橋の下にいて、したに毛布を広げて、
「毛布の上へ飛び降りなさい。」
と言ってくれたので、妹さんは、弟を毛布の上に落としました。自分も飛び降りて、二人とも助かりました。 祖母と母の妹が、列車で浅草まで帰ると、そこは焼きつくされて、何もなかったのです。自分の家までも・・・・・・・・。私は、
(何もない、家族もいないだれにも会えないなんてかわいそうだな。私は、今生まれてきて、良かったな。)
と思いました。
その頃、祖母の母親《曾祖母》は背中の赤ちゃんと、向島の隅田公園の方にいました。赤ちゃんを見ると、その背中の赤ちゃんまで死んでしまいました。私は、
(何で背中の赤ちゃんまで死んでしまったのかな。)
と思いました。けむりをすってなくなったのです。
祖母のおばさんの家はやけてしまい、祖母たち生きている人は、寺島のおばの家に集まりました。
 祖母は私に、
「里奈ちゃんね、戦争なんてするものじゃないんだよ。おばあちゃん、この五十年以上たっても、誰にも話したくないこともあるんだよ。けどね、一番いやなのは、三月だね。三月に入ると、すごくいやな気持ちがするんだよ。だから三月はきらいなの。」
と言いました。私は、
(あっ、おばあちゃん、なんか悲しい声だな。けど、そんなに話したくない事、私に話してくれてありがとう。)
私は、電話を切る前に、
「おばあちゃん、ありがとう。話し聞けて良かった。」
と言いました。祖母は、
「いいよ、ばあちゃんも話せて良かった。」
と言いました。私は、祖母がこんなことを知っていたなんて知りませんでした。  祖母はこの大空しゅうでなくならずに、生きてくれました。戦争が終わって、何年かして祖母は結婚し、やがて私の母が、一九六二(昭和三十七)年に生まれました。もし祖母がなくなっていたら、母も生まれて来なかったし、もちろん私も生まれて来なかったことになります。
おばあちゃん、生きていてくれてありがとう。

夏休み前に、いなかに帰ったり、いっしょに暮らしているおじいさんやおばあさんと関わりをもって、たくさん話をして来る課題を出した。できたら、戦争中の暮らしを聞き書きし、日記に書いてくることにした。三十人中十人近くの子ども達が、祖父母と関わりをもって、様々な形で取り組んでくれた。
表現意欲喚起・取材の大事さ
「書きたい時に書かせる」という指導があるが、書かずにはおれないところへ追い込むということの方が、もっと教育的である。休み前に『お母さんの木』の学習を終え、戦時中の人々の痛ましいくらしぶりを学んだ。そこに出て来る、八月六日・七日・十五日が、日本にとって忘れることのできない日だということも学んだ。
毎年暑い夏がやって来るが、戦争と平和について、考えることは大切であることを教え、戦争体験者からの話が聞けたら、貴重な学習になると話した。
さらに、それを日記にまとめておけば、二学期の最初の作文になることも伝えておいた。
記述の時に大切にした事
 日記に書きとめる時は、大事な会話は「・・・。」の形にして書く事を強調しておいた。また、できることなら、相手の声の調子や顔の表情までしっかり書きとめるようにも、言っておいた。  
この作品は、事情があって電話による取材だが、電話の向こうの祖母の声の調子を、しっかりと受け止めていることに意味がある。この聞き書きを進めることによって、長塚さんは祖母が東京大空襲の戦争体験者であることを初めて知った。生きるか死ぬかの火の中を逃げて、自分の祖父や祖母の二人の弟もなくしてしまったという悲しい現実を知ることにもなった。


はじける芽(92)

七月の指導題目
 家に帰ってから、家族や友達や見知らぬ人とのことで、心に強く残ったことを、『・・・でした。』『・・・ました。』と出来事の順にていねいに書こう。

一年間のうちに、このような指導題目を一度は立てて、子どもたちに働きかけをしながら、『ひとまとまりの作文』を書き上げる事にしている。子どもたちの一人ひとりが、自分の身近な所で関わっている人々に対して、意外と希薄な関係になっているからである。相手への思いやりや、自分の考えを相手に伝えることが苦手な子ども達が多い。このような題目なら、低学年であっても、具体的に書いてくれる。お使いや手伝いなどとからめて、考えさせるといろいろな場面で積極的に行動するようになってもくる。

 長いお使い
小 五年 ○○ ○○
一ケ月位前の五月二十五日、夕方の天気の良い日のことでした。
「昭城、お使いに行ってくれない。」
ぼくが、遊びから帰って来て、二階の台所に行ったら、母は細目をして、小さな声でぼくに言いました。ぼくは、
(買い物行けば、日記の良い材料になるな。)
と、うれしく思いました。
「いいよ。」
と、ぼくは気前よく言いました。
「今、行ってほしいんだけど。」
と母は困った顔をして言いました。
「いいよ。」
と、悩まず言いました。
「今、買って来てもらうのメモに書くからまってて。」
と、母はボールペンを持って言いました。母は、一枚メモ帳の紙を切って、ボールペンでカキカキと何か書いていました。紙にはスパゲッティー一ふくろ、しょうゆ一本、とうふ二ちょう、ハム・キュウリ三本と書いてありました。
「一階におさいふあるから来て。」
ぼくに向かって言いました。一階に降りて、母は自分のカバンから黒いサイフを取って、中から千円札一枚と、百円玉一個出して、ぼくに渡しました。ぼくは、千円札一枚、百円玉一個を右ポケットに入れました。
「三十円位なら、おやつ買っていいよ。」
と、黒いサイフをパチンとしめて言いました。ぼくは、自転車のかぎを持って、
「行って来ま〜す。」
と大きな声で言いました。自転車にかぎをつけてこぎ出したら、母がげんかんから出て来て、
「行ってらっしゃい。」
と、小さな声で言いました。買う所は、すぐ近くのセイフーというスーパーです。たくさんの自転車が置いてある所に、ぼくの自転車を置きました。
中に入ったら、たくさんの人がいました。まず、すぐそばにあるカゴを持って、
「まず、スパゲッティだなあ。」
と、かぎをポケットにしまって言いました。スパゲッティーのある場所に入ったら、たくさんの種類がありました。その中でも、一番安いセービングのスパゲティーを買いました。
「ぼくは、これでいいんだなあ。」
と、かごにポイッと入れて言いました。次はしょうゆのある所に行きました。しょうゆがある所には、めんにつけるつゆやソースやマヨネーズがありました。しょうゆでも、一番安いキッコーマンのしょうゆを買うことにしました。値段は、百四十八円でした。
「これでいいんだな。」
とぼくは、ふたたび言いました。しょうゆは重いので、横にして置きました。次は、とうふがある所に行きました。しかし、どういうとうふを買えばいいのかわからなかったので、とうふは後回しにしました。すぐにそばにあるキュウリを買うことにしました。そばには、きゅうりをいれるふくろがありました。それを引っぱったら、ブチっという音がしました。二本百円のキュウリを三本買ったので、百五十円分キュウリを買いました。その時、島田さんと小野さんがぼくを見て言いました。
「主婦だ、主婦。」
と笑いながら言いました。
「うるさい。」
と、ぼくは横を向いて言いました。今度は、ハムがある所に行くことにしました。その時今度は、希君に会いました。(略)希君もぼくの後についてくることになりました。ハムがある所に行ったら、いつも買っているハムがありませんでした。その日は、ハムが安売りでした。ぼくは、榎本先生が言ってたことを思い出しました。
「ハムはあんまりキラキラ光っているのは、やめといた方がいい。なんでキラキラしているのは、キラキラ見せるためにハム一枚一枚に薬がぬってある。」
と言ってた事を思い出しました。それで、キラキラ光ってないハムを買う事にしました。うちで何回か買った事のある、ボンレスハムというのを買いました。値段は、二百五十円位でした。さっき後回しにした、とうふを見に行きました。でもやっぱりとうふは種類が多すぎるので、何を買えば良いのかわかりませんでした。
「あ〜。どういうとうふを買えば良いのか聞けば良かったなあ。」
とぼくは、困った顔をして言いました。ぼくは、いい大豆を使っている、きぬと木綿と言うとうふを買うことにしました。
「あと、おやつ買おう。」
と、元気に言いました。希君も、
「じゃあ、おれも買おう。」
と、ポケットから小銭を出して言いました。ぼくは、母が言ってたとおり、三十円のすももを買いました。希君は、セービングのレモンライムというかんジュースを(四十円)と小さなプリンとうまい棒を買いました。レジに行ったら、八百三十二円でした。千円札をレジの人に渡して、お釣り、百六十八円受け取りました。セイフーの時計を見たら、六時でした。
「もう六時。」
と、ぼくは大きな声で言いました。自転車に乗って家に帰ったら、母が、
「おそかったね。」
とおどろいた顔をしてぼくに言いました。お使いのおかげで日記のいい材料になったし、おかしも買ってもらったし、希君ともおしゃべりができてとても楽しかったでした。


はじける芽(91)

六月の指導題目
 『梅雨(つゆ)から夏へ』の季節感を感じる詩を読み味わい、自分の身の回りの中での出来事を詩に書こう!
 

あめ
東京都 一年
みずたまりがありました。
どうろがねずみいろになっていました。

のあざみ
東京都 二年
のあざみは
花の下が
ちくちくして
はりみたいに
さわるといたい
ちがでてきますよ
のあざみのはっぱは
ぎざぎざで、
ポンポンダリアのはっぱみたいです。
のあざみは
おこっているみたいです。

シャワーみたいな雨
東京都 三年
学校に来たら、
まるでせんたくものをほさないで、
着ているみたいです。
雨がひどいので、
かばんもずぶぬれになりました。
レインコートは下の方が
びしょぬれになってしまいました。
長ぐつの中も、水たまりに入ったから、
くつしたがぬれてしまいました。
まるでシャワーみたいな雨でした。

あじさい
墨田区立 小
三年
ベランダのはちの上の
あじさいの花が
雨にうたれて
気持ちよさそう。
母は、
「雨に咲く花だよ。」
と言った。
しずくがたくさんついて
気持ちよさそう。
一九九一年 六月作

ありの行列
墨田区立 小
三年
かくれんぼをしている時、
たくさんのありが、行ったり来たり。
何か運んでいるのかなあ。
コンクリートのあいだに、
ありの巣があった。
どこまで続いているのだろう。
一ぴきのありが死んだありを運んでいた。 一九九一年 六月作

そらまめ
長野県 四年
そらまめのかわをむいたら
ポッキンと
指がなったような音がした。
中の豆は
ぬれていた。
大きいつぶや
小さいつぶがあった。
かわの中をいじってみたら
ふわふわしていて
ベットみたいだ。
豆がねるように
できているのかな。


雨にぬれている一輪車
墨田区立 小
五年
ガラガラ
私は窓を開けた。
細かい雨が、
ポツポツと演奏している。
雨で一輪車もぬれている。
下に一輪車のかげが映っている。
雨の日の一輪車は物足りない。
一九九三年 六月作

どしゃぶり
墨田区立小
六年
うわあ冷たい。
さっきより降っている。
外に出ながら辺りを見る。
はっぱも建物も全部びしょぬれ。
かさを開いたとたん、
ぱっと水滴がかかった。
車のライトの所を見たら、
雨の線が何十にも引いてあった。
一九九四年 六月作

からす
鳥取県 六年
ぼくの真上を
ハタハタと通るものがある。
ふりあおぐと
まっくろなからすだ。
強い日光の中を
大きく羽ばたいて
ゆうゆうと、
山の方へとんで行く。
背中が、鋼鉄のように光った。

簡単な授業展開例

Tここに乗っている詩は、梅雨の頃を感じる詩だ。何に感動しているか。
C雨や植物や動物などの自然の変化に、心を動かしている。
Tだんだん夏に近づいている。皆さんも、身近な所で感じた事を切り取ろう。何か季節を感じることはないか。
C雨が良く降る。夏らしい果物のびわやスイカなどが出回って来た。
Tでは、雨の降っている所をじっくり観察してみよう。学校の行き帰りの道の所でなにか変化することに目を向けよう。果物屋の前を通ったら、新しい季節が届いたか、確かめよう。いつも五感を生き生きと働かせて、感動したら、じっくり写生するように、書いてみよう。


はじける芽(90)

五月の指導題目
 日記の書き方を覚え、心に強く残った事を、出来事の順にていねいに思い出して、「・・でした。」「・・ました。」と書いていく事を習慣化しよう。

五年の国語の教科書の五月単元の作文教材は、『主題にそって作文を書こう』と言うページになっている。その作品は、この『はじける芽』の(13)で取り上げた『楸の読み方が分からない』という深沢良信君の日記の作品である。一九八九年四月作となっているから、今から十一年前の作品である。柳島小で五年生を担任したのが、深沢君であった。
 教科書会社から、採用したいと問い合わせがあった時に、『楸(ひさぎ)』という字が、常用漢字にないので、文章の中に書けないので、どうしたら良いかという相談であった。そこで、二年前大学二年生になっていた作者らに連絡を取りながら、教科書に出ている題名になったのである。

  木へんに秋は何と読むの
今日、何げなしに漢字の本を見ていたら、木へんに春、夏、秋、冬の漢字があった。おもしろいので、ぼくが、お母さんに、
「木へんに春、夏、秋、冬の漢字あるんだよ。知っていた。」
と言った。そしたら、お母さんが、
「知ってるわ。木へんに春は、椿(つばき)、夏は榎(えのき)、榎本先生の榎じゃない。冬は柊(ひいらぎ)、秋は…あら、何だったかしら。」
と言った。
お母さんにも木へんに秋がわからないなら、辞典で調べようと思った。お母さんから、大きな漢和辞典を貸してもらった。お母さんが、
「まず木へんのところをさがして、秋の 画数のところを見ればいいのよ。」
と教えてくれた。まず、表紙のうらに、部首のさく引がのっているから、そこで木へんをさがした。ぼくは、すぐ見つけた。四九二ページだった。
すぐに、そのページを開いて、秋の画数、九画のところをさがした。それも案外すぐ見つけた。木へんに秋の音読みは、「シュウ」、訓読みが「ひさぎ」だった。楸(ひさぎ)は植物で、「ノウゼンカズラ科の落葉高木」と書いてあった。辞典には、椿はツバキ科の常緑高木、柊は常緑低木でソロバン玉に使われている。榎はけやきににたニレ科の落葉高木と書いてあった。
ぼくは、木へんに春夏秋冬があるなら、人べんにもあるだろうと思って調べたけどなかった。でも、ぼくは、そういうおもしろい、めずらしい、こんなのあるのという漢字をどんどん見つけようと思う。   日書・国語上巻五年より

日記指導や保護者会に
教科書に採用される前からこの作品が気に入っていて、新しい学年を担任すると子ども達と読み合って来た。日記の楽しさのスタートを切る時に、この作品を取り上げて来た。二年生や三年生などの低学年を担任した時には、保護者会などで取り上げて来た。この作品に出てくるような、親になって欲しいという担任としての願いがあったからである。

母親の生活のしぶりの良さ
○常へいぜいの生活のしぶり。
 ●その時々の体や心の動かし方・行動。
 『常へいぜい』とは、その時一度だけでなく、常に毎日心が生き生きと働いているということである。
『その時々』とは、その時のその瞬間の心や体の反応が生き生きとしているということである。
日記指導を始めるときに、子どもだけががんばっても文章表現力は高まらない。 『今日宿題の日記書いたの。』などというお経のような点検はやめてもらいたいという事を強調するときに、親達に訴えてきた。
つまり、子どもの反応に素直に反応している所である。しかも、わからない所は正直に『何だったかしら』と子どもに返している。辞典の引き方もさりげなく教えている。子どもの良い『生活のしぶり』に正面向き合って、積極的に関わっている。子どもは、そのことがうれしいし、自分自身も向き合ってくれた母親以上に、その後に意欲的に調べようとしている。
この親子の関係は、その時々の反応も素晴らしいのだが、それこそ『常へいぜい』そのようなつながりが出来ているからこそ、子どもも親に働きかけたのである。
この母親は、高等学校の国語の教師をしているから、家にいて子どもとじっくり向き合っている時間はそんなにないはずである。大切なのは、関わったらその時をしっかり向き合って欲しいという事なのだ。
この母親とはその後、二年間のおつきあいであったが、子どもが書いた日記にはいつも目を通して下さった。時間がある時には、子どもの文の後に楽しい添え書きをしてくれた。日記は、子どもの成長を継続して教えてくれるが、親の添え書きの文を読みながら、子どもの見方をさらに大きく教えてくれる。赤ペンを入れながら、親とも対話をすることが出来た。

子どもの生活のしぶりの良さ
何げなく見ていた漢字の本に興味を持ち、その感動を母親に働きかけている。その母親とのやり取りの会話を、じっくりその時に耳を良く働かせている。
母親のわからなかった漢字を、今度は自分で調べようとしている。母親の教えてくれた通りに、調べて楸という字を見つけている。その読み方を調べた後に、今度は椿や榎や柊の字も辞典で調べて、どんな木なのかその意味などをついでに覚えている。そこでやめずに、さらに木へんから人べんの事にまで思いを寄せている。最後に、『おもしろい、珍しい漢字をこれからも見つけよう。』と結んでいる。
これだけその時々の物事に、積極的・能動的・意欲的になっているのは、五感(官)が生き生きとして働いているからである。それは、『常へいぜい』心や体が生き生きとしているからである。

日記指導の勧め
子ども達の『生活のしぶり』の良さを、より良くしていくためには、常ひごろ、いつも心や体を生き生きとしなやかに働かせざるをえない意識に追い込んでいく事である。生き生きとした生活と生き生きとした文章は、裏と表の関係にある。 書く事によって、より良く生きようと言う気持ちは高まっていくのである。


はじける芽( 89 )

四月の指導題目
 くらしの中に季節感を感じた場面を切り取った感動の詩をじっくり読み味わい、それを『詩のノート』に写そう。 ー春ー

☆生き生きとした詩は、リズムがあり、声に出して読むと、頭に入り安い。
☆五感(官)の何かが生き生きと働いているところを見つける。
☆作者自身の独創的な物の見方、表現の仕方が必ずどこかの行にある。
☆春の季節感を、何を通して感じているかを考える。
☆自然が少なくなって来ているというが、 都会にもまだまだ季節を感じるものがあることに気が付かせる。
☆できるならば、『詩のノート』等に写し、暗唱させるようにする。

  つくし
長野県 一年
つくしが でた。
ちいさいのが ひとつ でた。
あったかいので
「ぼく でる」
といって
でたのかな。


墨田区立 小 一年

草が土の上に はえていた。
その草はペンペン草という名前。
少し見ていたら
もう春なんだなあ。
少しすると、目がちかちかした。
それはたいようがまぶしかったから。
一九八四年 三月作

春のめ
墨田区立 小 二年

春のめを見つけた。
たんぽぽのめだった。
たんぽぽのめは、ふまれたように
しおれていた。
れなちゃんに、
「コンクリートの間に、よくさいている ね。」
と言った。
たんぽぽのめって
色んなところにさいて
生きているんだなあ。
一九八四年 四月作

春のめ
岐阜県 三年
かれ草の間から
小さなめが出ている。
かれ草を、
手ににぎると、
ガサッとくずれた。
青々としために、
そっと手をふれて見た。
ぷっくりとして、
力がこもっている。

春は、
土の中から、
おし上がって来るのだな。

川 原
東京都 四年
いいなあ
空はまっさおの
ひゅう ひゅうだし
いちょうはどんどん
緑になるし
川原に人があそんでいるし
宿題はやっちゃったし
あしたは日曜で十二天だし
あーあ
ひとつ
ひっくりかえって
ねてやろう。
*十二天(地名で十二天のお祭り)

春のにおい
墨田区立 小 五年

ベランダで
母の声がした。
「ちょっと来て。おせんたくほすの手伝って。」
屋根の上のベランダに
春のにおいがする。
気持ちいい風が、
ぼくのほっぺたをなでる。
そして、母のかみをなびかせる。
真っ青な空。
雲一つない。
ぼくのインコが、羽をバタバタさせ
気持ち良さそうに羽をととのえた。
「植木に水をあげようか。」
じょうろで水をたっぷりやった。
土が気持ちよさそうに
水を飲んだ。
「なんと暖かい光でしょうね。きょうは まるで本物の春ね。」
と母が言った。
僕のかぜも治ったし、
思いっきり背伸びして、
気分良く深呼吸して
青い空を見つめた。
「あっ。」
黒いカラスが二羽、
仲良く並んで、
真上を飛び回った。
そして
小さく小さくなって
遠くへ行った。
一九八六年 三月作

ひめおどりこ草
墨田区立 小 六年

大いぬのふぐりのとなりに咲いている
ひめおどりこ草。
葉っぱがドレスみたいで、
名前の通り、お姫様が踊っている見たい。葉っぱにかくれて、
ちょこんと咲いている。
紫色の花。
ちょっと暗い色だけど、
となりの大いぬのふぐりに負けない位に咲いているひめおどりこ草。
一九九四年四月作

簡単な授業展開例
T皆さんの周りには、『春』になって来たなあと、感じる事がたくさん出て来た。今日は、色んな春を感じた詩を読み合い鑑賞する。
 (全部の詩を読み合う。)
Tそれぞれの詩は、何に感動しているのかを読み取っていこう。
Tつくしやれんげやペンペン草などの、野草の芽が出て来た事に感動している。
T青々とした芽や太陽の光がまぶしいとか、暖かになり心がうきうきして来たとかの変化に喜んでいる。、
Tでは、自分の気に入った詩を声に出して読んでもらうよ。それを『詩のノート』に写して暗唱してみよう。


はじける芽( 88 )


二月の指導題目
 心の中に強く残ったことを、生き生きと 班日記に書いてみよう。


 休み時間になると、友達と元気におしゃべりをするが、授業中になると絶対に声を出してくれなかったAさん。その彼女が、五年間沈黙していて、ある日、突然に本当に小さな声で、授業中、声を出した。その声は、ひょっとするとほとんど聞こえないくらいであった。しかし、「先生、くちびるが、震えてかすかに聞こえました。」と、放課後の話し合いで発言した児童がいた。それは、Bさんであった。クラスの子どもたちは、初めてのことであったので、自然に拍手が起きた。
 その拍手がよっぽどうれしかったのか、やがて少しずつ、発言の声がかすかに誰にでも聞こえるようになった。その時々に、激励のエールを送ってくれたのが、Bさんであった。

二000年 一月十三日(木)
班日記より

  Aちゃんの声が教室に

一月十三日の木曜日、今日の日直は私とAちゃんでした。先生が放送で、八時三十分位に、
「えー、六年一組の今日の日直の人、今すぐ職員室に来てください。」
と言う先生の声が、放送で流れたので、急いでAさんを探していました。すると、向こうの方から、Aさんが走って来ました。私がAちゃんに、
「Aちゃーん、探してたんだー。」
と言うと、Aさんが私に、
「今、先生に呼ばれたよね。」
と言うので、私がAさんに、
「うん、行こう。」
と言って、二人で手を軽くつないで、職員室に急ぎました。職員室の戸を二回、
「トントン。」
とたたいて中へ入りました。中に入ると、先生が窓の方を向いて、何かしていたので二人で、
「先生ー。」
と呼ぶと、こっちを向いて私達に気づくと、おいでおいでと言うように、手招きしていたので、先生の所に二人で行って、荷物を渡されて、その荷物を持って、また教室にもどりました。八時四十五分位に、先生が教室に入って来ました。私が、
「しせいを良くしてください。」
と言って、次にAさんが、
「おはようございます。」
と言いました。私は、
「Aちゃん、言えた。何だかうれしいな。」
と思いました。その後、Aさんは、一時間目の算数の時間も、先生に指名されて、ちゃんと答えました。帰りの会での話し合いの司会で、
「静かに目を開けてください。」
とか、
「Sさん。」
と声を出してしめいしました。
「宿題を言います。社会科資料集、八十二、八十三。算数教科書。」
など、いろいろな事を言ってくれました。私は、
(今日は、日直だったこともあるけど、たくさんAちゃんの声が教室に聞こえたなー。)
と思いました。帰りの会がすべて終わってから、私がAちゃんに、
「Aちゃん、すごく大きな声でちゃんと言えるじゃん。すごい、これで中学だって何だって平気だね。」
と言うと、Aさんが、
「うん。」
と言って、Aちゃんが私に、
「にこ。」
っと笑いました。私は、
(今日はいい日だなあ。)
と思いました。

この班の他の人の感想

 本当に、Aちゃんいっぱいしゃべっていたよね。私も、(すごいなあー。)思ったし、今はAちゃんより、声小さい人いるし、Aちゃんすごいよね。えら〜い。

 
 うん、私も、この頃すごいと思ってたよ。この作文読んでいると、もゆちゃんのやさしいって事が良くわかったよ。
  

Aが笑うと、いい日なのか? いつもじゃないか。             

Aさんが、声を出せて良かったねえ〜。Bもやさしいねえ〜。
        

 班日記を始めて、一年間継続して来た。いろんなやり方をして来たが、四十人の子ども達の作品を平均的に読むには、五人一組の班がちょうど良い。一日八冊の班ノートを読んでいくには、楽しいのだが一時間はかかる。しかも、子どもが書いた後には、なるべく親の一言を書いてもらってもいる。それと同時に、班のメンバーは、必ず友達の作品を読み、その感想を書くようにしている。
他の四人のメンバーのコメントも的確に書けている。
この子ども達とは、三年生の時に半分の子ども達の担任をして、五年生になり再びクラス替えの半分を担任した。六年生で四十人一クラスの単学級の担任で、この一年を過ごしてきた。
 Aさんを五・六年の二年間、担任した。授業中順番に指して、彼女の所に来たときも、必ず発言のチャンスは与え、黙っていてもしばし待つことにした。ときには、一分以上かかるときもあったが、クラスのみんなも発言を待ってくれた。たまにプレッシャーをかけて、立たせて置くことも何度かあった。そんなことの繰り返しであった。いろいろ働きかけたが、最初の一年間は、結局一度も授業中は発言してくれなかった。
六年生になり、Bさんと同じクラスになり、彼女の励ましによって、固い殻が破られ、ついに大きな勢いがつき、今では何の抵抗もなく発言してくれている。 全校児童朝会の司会も、張り切って初めて声が出せた。あまりの嬉しさに、朝会の台に立ち、いきさつを全校の児童に話して、大きな拍手ももらった。卒業式の日には、胸をはって舞台の上で自分の決意を述べることになっている。


はじける芽(87)
週刊墨教組 No.1266 2000.2.25

一月の指導題目

 短歌や俳句を鑑賞し、自分でも作って、楽しさを身につけよう。

国語の六年下の三学期の最初の単元は、短歌と俳句を中心に、鑑賞するようになっている。小学校で学習するのは、この単元で終わりである。

そこで、百人一首等にも、なじみが薄くなって来た子ども達に、定型の中に入れて詠む楽しさを、俳句と一緒に学習した。俳句などは、季語も大切だが、季語にとらわれずに、十七文字に読み込むことの楽しさを学び合ってきた。

 あわせて、今やブームになっている川柳などを、新聞の切抜きなどから持ってきて、それもあわせて読みあってきた。電車の中の広告に、会社川柳などがあることも教え、そのおもしろさも学びあった。

沙季ちゃんかいなかの祖母の声聞くと

電話の向こうの景色が浮かぶ

最近は、電話によって、田舎の家にもこのように連絡を取って、心の交流を持つことが出来る。おばあちゃんの最初の言葉をうまく読み込んでいるのが、なかなか良い。

雪降りて窓の外見れば一瞬に

真っ白輝き雪景色

東京に新年に、少しばかり雪が降った。その降っているわずかの時間を、うまく切り取ってこのように詠んだ。めったに降らないので、感激したのだろう。

夕ごはん父大好きな菜の花の

おひたしが出て春の足音

菜の花のおひたしが出たことに気が付き、父親が大好きだと感じて、このように詠んだことに値打ちがある。最後の春の足音と言う言葉を選んだのも良い。

よく見れば土の上には白い物

思わずふむとサクッと音が

東京に霜柱を見るのは、なかなか難しい。白くなった霜には、このように時には出会うことがある。サクッという音を入れているのも効果的である。

少しずつ寒さやわらぐ三学期

卒業する日が近づいて来る

春の足音を、このように読み込んだことに値打ちがある。やわらぐという言葉を使っているのも良い。春と卒業をつなげて連想しているのも良い。

楽しみは夜寝る前の十時頃

机に座りしおり抜くとき

 江戸時代の歌人に、橘曙覧と言う人の『たのしみは』で始まる歌がある。そこで『たのしみは』で始まる歌を作ってもらった。色んな場面が詠めたが、この一首には、『しおり抜くとき』の言葉で下の句を結んだ所がいい。

明け方に猫がしょうじへ登りだし

母が起き出し大声あげる

情景が浮かび上がってくるような一首である。恐らく母親の声に驚いて、明け方に子どもも起き出したのであろう。その場面の瞬間を、このように素直に表現している所がいい。

学校に行くとき二人が五人増え

楽しく登校話がはずむ

立花小は公団の中にある学校なので、学区域が大変狭い。家を出てから学校までは、すぐについてしまう。その短い距離の中でも、このように友達との語り合いを楽しみにしているのが嬉しい。

オリオン座見える夜空に一時間

冬の空は、空気が乾いているので、星がきれいだ。オリオン座が見える夜空を、じっと見上げている姿が浮かんで来る。たまには雄大な空を見上げて欲しい。

北の空北極星は動かない

北極星は、二等星なので、探すのも結構難しい。その星を見つけて、このように一句詠んだことが嬉しい。

ただ今と言う母の声ほっとする

石川君のお母さんは、勤めに出ているので、帰りが待ち遠しいのだ。誰しも経験のある『ただ今』と言う声が、聞こえた瞬間は、ほっと胸なでおろすのである。

中学に入るとふたたび一年生

卒業という言葉が、実感できる今頃になってくると、中学校への思いもだんだん現実的になる。なかなかユーモアがある。俳句というより、川柳である。

班日記母の感想ひと苦労

高学年になると、必ず班日記にして、五日に一回位のわりで、順番が回ってくる。子どもが書いた文の後に、親にも添え書きをしてもらっている。

班日記机を前にひと苦労

長い文は、原稿四百字詰め五・六枚位書く子もいるので、八さつの文を読むのは、楽しいが結構時間をかけている。赤ペンだけは、大切に書いている。

朝食はパンとジャムとのハーモニー

短歌にしても、俳句にしても、言葉を

選んで組み立てて行くものである。感動をしたことを、どのように三十一文字や十七文字に仕上げて行くかということだ。

春来てもタンポポ見ない春の色

立花の近くの公園には、白梅や紅梅が満開になっている。しかし、おおいぬのふぐりの芽が、やっと日だまりに芽を出し始めたばかりだ。

制服を着る首筋が動かない

中学校に行く前に、学生服やセーラー服を試着して、注文を取る。男子の首の回りのカラーは、初めの頃は慣れずにやはり、ぎこちないものである。

よっぱらい帰ってくる父きらわれる

たまにはこのように、お酒の好きな父親なら、酔って帰る事だって時にはある。それが、女の子から見ると、やはり批判の対象になってしまうのだろう。

チョコ売り場見ているだけで腹が立つ

 バレンタインデーも終わり、子どもも大人もマスコミに踊らされて、チョコを買っている。瀧石君は、もらえない気持ちをこのように詠んだのであろうか。

卒業だ最後はサンバでしめくくる

卒業生を送る会や祝う会で、六年生はパンチの効いたサンバのリズムで発表することになっている。休み時間は、自主的に練習に行っているので感心している。


はじける芽(86 )
週刊墨教組 No.1266 2000.1.28

 下町の子の冬休み 六年生

  ミレニアム花火    
「バアーン。」
何事かと思いバッと後ろをふり向く。
夕日のような花火の光が、
障子をさしていた。
「ババババアーン。」
と何連発も続いた。
立ち上がり、窓のところに走った。
障子と窓を開け、外を見た。
雪景色が一しゅんに、
赤、青、緑、黄色など色々な色に染まった。
今、私は、
雪国で新年を迎えた。
花火の音から、書き込んでいるのが良い。二行目のたとえ・三行目の表現が良い。花火を一緒に、雪国で見ているような感じになって来る表現が良い。

寒い冬の夜空の星  
母と二人で夜空を見ると、
山の中ですっごく寒いのに、
星は数え切れないほどあって、
ピカピカと輝いていた。
「オリオン座だ!」
「カシオペア座もあるよ。」
母と私は星を見ながら言った。
少し歩いたところに、
ひしゃくの形をした、
北斗七星も見えた。
東京とちがって、
外灯がなくて、足元が見えないくらい、
外が真っ暗。
いちだんと星が、美しく見えた。
お正月に母のいなかに行った。
冬の夜空は、空気がかわいていて、東京でも良く見える。空気のきれいな自然の多い所なら、もっと鮮やかに見える。足元も見えないような暗いところで、見上げている親子。

ばあちゃんのおぞうに

僕のばあちゃんのおぞうにはうまい。
正月に行くと、いつも作ってくれる。
みんなで、
「あったまる〜。」
と言って食べる。
具は、ニンジン、大根、もちのたった三品だけど本当にうまい。
このおぞうには、年に一度の楽しみにしている。
なぜなら、お正月にしか食べられないからだ。
孫に、こんなふうに楽しみにしていると書かれて、おばあちゃんはさぞかし本望でしょう。ばあちゃんの会話が欲しい。

二千年ベイビー誕生

「あけまして、おめでとう。」
みんなで言い合った。
昨年結婚した、兄夫婦達も家に来ていた。
もう二千年だ。
急に兄は照れくさそうに、
「お父さんになりました。」
私達はみんな、
えーって顔をした。
母と父は兄達と、
「紀は、たおれるかもね。」
とか盛り上がっていた。
義理の姉は、
朝は眠たくて、気持ちが悪いそうだ。
赤ちゃんのせいなのかなあ。
私の家にも、二千年ベイビーが生まれる。
どうかかわいい赤ちゃんが、
安産ですように・・・・。
赤ちゃんが誕生すると、花崎さんは、おばさんになるんですね。お兄さん夫婦も、新年に驚かそうと、嬉しい知らせをじっとしまっておいたのかも知れませんね。おめでとうございます。

なかなか回らないこま

ウイーン。
床の上で、
ふしぎな音をたてて、回っている。
僕は、何回やっても、
あんまり回らない。
回りを見ると、こまを手に乗せたり、
思いっきり回したりしている。
投げ方を変えたりしたら、
やっと出来た。
思いっきり回すと、
スカットする。
こまが回っている音から、書き出している。一緒にやっていた友達の会話も書いてあると良い。出来ないことが出来ると嬉しい。

お年玉       
「はい、お年玉。」
母が、母と父の分のお年玉をくれた。
お兄ちゃんが、すごい速さで取りに来た。
「ありがとう。」
と言って、すぐ机に行ってしまった。
お年玉のふくろに入れず、
そのままくれた。
「ありがとう。」
そう言った後、
四つ折りにした千円札を広げて見る。
親指と人差し指で、ずらして見ると、
二枚あった。
千円札一枚をすかしてみると、
夏目さんが輝いていた。
お年玉をもらう所を、会話から書き出しているのが良い。もらった後のお金を手にして、お金の枚数を調べていく所の表現が良い。最後の一行の表現が良い。

七草の力      
一月七日、七草がゆって何で食べるのかなあ。
七草の入っていたパックに書いてあった。
「七草がゆは、万病をはらい邪気をひいたりしないようにと考えられている。」
と書いてあった。
父にも聞いて見ると、
やっぱり同じことを言っていた。
夜、七草がゆでなくて七草おじやを食べた。
「七草と言ってもやっぱり草だよね。」
と母が言った。
本当ににがくて、ただの草を食べている感じだった。
にがいけど、七草の力ってすごいんだろうな。
七草のおじやを食べている所を、もう少し書いてあると良い。また、家族の人としゃべったりしているところの会話ももう少し欲しい。

しも        
庭も畑も真っ白だった。
「あの真っ白いの何?」
と祖父に聞くと、
「しもだっぺ。」
と言った。
私は、へいと思って外に出て、
しもをふんで見た。
シャリシャリ。
足がうもれて、
足あとがついた。
なんだ?
おもしろくなって、
何度もふんで見た。
祖父が来て、
「ああ。しも柱だなあ。」
と言った。
初めての体験だった。
霜柱を見る場所が、東京には少なくなってしまった。自然の中で育つことは、子ども達の成長には、とても大切である。正月らしい遊びもだんだん失われてきてしまった。


はじける芽 85回
十二月の指導題目
 心も体も生き生きと働かせて、冬休みの暮らしの中で感動したことを詩に書いてみよう。

 休みに入る前に、このような詩を読み合い、詩心を育てておき、休み明けに詩を書く。


鑑賞のための詩

  過去の『下町の子の冬休み』の詩から

 カルタとり 二年

「あぶないよ森の中におおかみが」
と、お父さんがよんだ。
「ハイ。」
やったあ、ずいぶんとれたな。
「ねむりつづけるねむりひめ」
こんどは、お母さんにとられた。
こんどこそ。
「レンガの家ならもうあんしん」
「それっ。」
ぜったい一ばんになるぞ。
一九九六年 一月作

晴れ着   三年

正月の町は、
晴れ着を着ている人が、目についた。
花がらのふりそでの人や、
リボンのがらの人もいた。
頭には、キラキラしたかんざし。
おりがみでおったようなかんざし。
わたしだったら
キラキラした方が好き。
花よめさんになる時、
つけられるのかな。
着物を着ている人は、
ペンギンみたいに歩く。
私も、着物を着たら、
ペンギンみたいに歩くのだろうか。
一九九七年 一月作

もちつき   四年

「ドン。」
白いもちをじいちゃんがつく。
「はい。」
白いもちをおばあちゃんがつまんで
水でぬらした手でつまんで
またもちの上にのせる。
ほかの人は、じっと見ている。
「わたしもやりたい。」
もうほとんどつけている所で
やらせてもらう。
「トン。」
きねがちょっと重たくて、
「ドン。」
と言わない。
ばあちゃんが、
「うまい、うまい。」
と言ってくれた。
来年はぜったい、
「ドン。」
と言わせてやるぞ。
一九九三年 一月作

百人一首   四年

「春すぎて・・・」
父が読み札を持ちながら言う。
「夏きにけらし白たえのころもほすちょう天のかぐ山」
といっせいにみんなで言う。
兄の目の前にあった。
ヒュー
ぼくの手がその札めがけて手を出した。
なんと兄の手をたたいていた。
くっそう、次はとってやる。
「へっへっへっ。」
兄がこちらを見て笑っている。
よけいにくやしくなった。
「よを・・・。」
父が次の札を読んだ。
よしっ、ねらっていた清少なごん。
「こめて、とりのそらねははかるとも、 よにおおさかの関はゆるさじ」
ペシッ。
よしっ、ぼくの手がそのふだの上にかぶさった。
とうとう兄をぎゃく転した。
この勝負の結果は、
母は、三十六まい。ぼくは三十五まい。兄は二十九まい。
一九九三年 一月作

しも柱   五年

「あっ、しも柱だ。」
柳島アパートの近くで
島田君がさけんだ。
ぼくは、目をキョロキョロさせながら、
「どこどこ。」
と言いながらさけんだ。
「あっ、ほんとだ。」
黒っぽい土の上にあった。
小さくてとうめいなしも柱を見つけた。
ぼくと島田君とで、しも柱をふんだ。
ザクザクと音がして
パッと消えてしまった。
東京にもしも柱ができるんだなあ。
島田君とぼくでしも柱の上にいた。
くつのうらを見たら、
とけて水になっていた。
一九九四年 一月作

たこあげ  五年

プアー。
風がきた。
思い切って、たこをはなす。
たこが空の中で飛んでいる。
クンクンと糸を引っ張る。
たこは、遠くの方へ飛んで行った。
だけど、すぐ急落下した。
グアーンとうなって、地面に落ちる。
たこを見たら、
頭の紙の方がこわれていた。
しょうがないから糸を巻いた。
そしたら、風がきた。
たこをまた見たら、
地面から離れて浮いていた。
「今頃飛んでもおそいんだよ。」
と言ったら、
隣にいた担任の榎本先生が笑っていた。
一九九九年 一月作

きれいな星  六年

おばあちゃんの家に行った。
外を見た。
真正面にオリオン座が見えた。
冬の大三角形もかがやいていた。
上を見たら、東京とちがって、
山ほど星が一ぱいあった。
空気が良いから、星が一ぱい見れるんだ。今にも降りそうなほど。
ここは、茨城の麻生町。
一九九八年 一月作

暮れから、正月にかけては、東京の空が一番澄み切って見えるそうだ。広場でたこあげも楽しいものだ。夜空には『 冬の大三角形』も見える。これらの詩を鑑賞して、短い休みだが、子ども達にとっては楽しい冬休みにしたい。


はじける芽 84
十一月の指導題目

 学校や家でのできごとで、人と積極的にかかわったことを、会話を大切にして書いてみよう。   

推敲指導の大切さ

 ザクロ取りのカリスマ
六年

十一月二日、六時間目の委員会が終わり、音楽の先生とみんなで、マリンバを体育館へ運び終わりました。体育館から出て、くつにはきかえて校庭にでました。みんなで帰る時、担任の先生が、ウサギ小屋のとなりにあるザクロの木を棒でつっついていました。みんなが、
「先生、何やってんの?」
と言いました。私が、
「先生、ザクロ取っちゃいけないんじゃないの?」
と言いました。私は、
(学校になっているくだものの実は、勝手に取ってはいけない。)
と思ったからです。
 すると、
先生が、
「ザクロ酒、つくるんだ。」
と言いました。
先生自分でつくれるのかなあ。)と思いました。同じクラスのAが、
「先生さん。ざくろって食えんの?」
と聞きました。先生が、
「食べれるよ。みんな食べたいか。」
と聞きました。みんな、
「うん。食べる。」
と言いました。十人位で、木の棒を持った先生について行きました。ついて行ってる途中で、ああちゃんが、
「先生って、酒好きだね。」
と言いました。私は、笑ってしまいました。先生とみんなで、体育館の裏のザクロの木の所へ行きました。そのザクロの木は、さっきの木よりたくさん実がついていました。先生がが木の棒で、つっついて見ました。でも、ザクロのつぶばっかり落ちて、実は落ちて来ませんでした。だから、しょうがなく、先生が木に登りました。そして、みんなの分の実を次々と手で取って行きました。私達は、ザクロを割って、中のとうもろこしの実みたいな大きさの赤い実を口に入れました。最初はすごくすっぱくて、あとから甘い味がして来ました。みんなで食べながら帰りました。家に帰ると、高三の姉がテーブルの椅子に座ってテレビを見ていました。私が、
「ただいまあ、ねぇねぇ。今日、先生にザクロを取ってもらった。」
と言って、テーブルの真ん中にザクロを置きました。姉が、
「えっ、ザクロう。好きなんだよ。」
と言って、ザクロの方に目を向けました。
「じゃあ、食べる?」
と言って、パキっと割りました。中からたくさんの赤いつぶが見えました。四、五つぶ下に落ちてしまいました。姉が、
「お母さんにも、取っておこう。」
と言って、私が、半分にしたもう一つを、また半分に割りました。お母さんの分を残して、二人で食べました。姉が、
「お姉ちゃんの時は、学校でザクロ出たのになあ。」
と言いました。私が、
「ええ、どこで出たの。」
と聞きました。すると、
「給食の時、出たよ。」
と言ってくれました。

「えっ!私、給食でザクロ食べないよ。」
と、言いました。私は、
(あ〜ざくろ食べ終わったら、せっかくの記念が〜。)
と思い、私が、
「ねえねえ、お姉ちゃん。写真撮ろう〜よ。」
と言いました。カメラを持って来て、一人ずつ、ザクロと一緒に写真を撮りました。
夕方、父が帰って来て、私が、
「ねぇねぇ・・・じゃ〜んザクロ。」
と言いました父が、
「おっ。なつかしいな〜。」
笑いながら言いました。父が、四粒くらい実を取って食べて、
「うん。おいしい。」
と言いました。母が帰って来て、私が、
「お帰り〜。あのね、ザクロ先生が取ってくれたんだ。みんなで持って帰ったんだよ〜。お母さんの分、残しておいたよ。」
と言いました。母は、
「ありがとう。」
うれしそうに言いました。母は、その時にすぐに食べずに、私が班日記を書き終えた時に、私のそばで、小皿にザクロのつぶを全部入れました。その後、母は、小皿から取って一つぶずつ食べました。食べながら、
「これって、食べると、健康に良いんだよ。」
と言っていました。

 ザクロなんて、食べたの初めてで、おいしかったなあ。今頃、先生は、ザクロ酒作りしてんのかなあ。

イタリック体で書かれた文章は、推敲によって、書き加えられた文章である。
 教師の膝元に呼んで、書き足りないところを指摘して、思い起こしをして書き加えさせることをしている。
 推敲の授業として、書き膨らます前の文と後の文をこのように比較させることによって、『詳しく書く』ことの大事さを、具体的に考えることを勧めたい。
 毎年、鳥に食べられてそのままになっていたので、今年は、このように活用させてもらった。「ザクロの味を初めて」にも驚いた。


はじける芽(83)

週刊墨教組 No.1253  1999.10.14

指導題目

 ある日ある時、家に帰ってから、友達や家族や見知らぬ人との事で、

 心の中に強く残った事を生き生きと書いてみよう。   

生活態度・姿勢

認識のし方・操作

○常平ぜいの生活のしぶり。

●その時々の心や体の動かかし方・行動。

○父親の一言を、題材を書くきっかけとしている。

●母親と目を合わせている。

●最近の父親を分析している。

●すぐに反論している。

●父親のしている事を良くみている。

●その時の、自分のかっこうを良く覚えている。

●おかしいと感じて、すぐに反論している。

●母親の会話を良く聞いている。

●父親の姿を良く見ている。

●すぐに反論している。

●はっきりしない事を、心の中で思っている。

●母親の会話を聞いている。

●自分の気持ちを正直に、話す。

○いつもそう感じていたと日頃から思っていた。

●父親のことを、『この人』と、思うようになる。

●次第に、ぶっきらぼうになる。

●母親の爪を見ている。

●すぐに反論している。

●その時の、気持ちがわかる。

●おかしいと思った事に、すぐに反撃している。



●父親の弁解に、あきれている気持ちがわかる。

●母親の助け舟の会話を良く聞いている。

●母親は、父親の立場にもなっている。

●父親は母親の考えには、素直に応じている。

●自分の今の気持ちを正直に、その時に考える。

○最後にまとめている。


   清潔感っていったい何    墨田区立小 

 六月二日水曜日、夜九時頃の事だった。私は、お風呂からあがって、着がえてかみの毛をふきながら、リビングに行った。リビングでは、おそく帰ってきた父が、夜ごはんを食べていた。私は、大きいタオルを首にかけて、父の近くに座った。私が本を読んでいると、父が急に私に向かって、

「もっと清潔感のあるかっこうをしろ!」

と言い出した。私と同じリビングにいた母と、目が合った。母は、

(何言ってんてんの?)と言う顔をしていた。私は、

「また始まったよう。最近多いねえ〜。」

と言った。最近父は、私に対して、小言が多いのだ。「部屋を片付けろ。」とか、「言葉使いが悪い。」などなど、いちいち口を出してくる。私は、前から、

(言葉使いが悪いのは認めるけど、部屋は私のものなんだから!うるさいなあ〜。)

と思っていた。私が、

「せいけつかんって何?」と聞くと、まだごはんを食べていた父が、

「かみの毛。かみの毛ちゃんとしろよ。」

と言った。私は、

(何が言いたいのかなあ。)と思っていた。その時の私は、お風呂上がりで、かみの毛がバサバサで、顔に少しかみの毛がかかっていた。私は、

(かみの毛、洗ったばっかりなのにっ。)と思って、父に、

「かみの毛、洗ったばっかりなんだからしょうがないんじゃん。」

「あなたの言っている『清潔感』って、何を基準に言っているの?」

「かみの毛がちゃんとしてて、つめもちゃんと切ってあって、つまりそういう事だよ。」

と答えた。私は、

(つまりどういう事だよ。)と思った。母が、

「今日の夕方位に、南の前がみ切ったし、お風呂上がりだから、かみむすべないし。」

と言った。私も、

「そうだよ、そうだよ。」と言った。私は、

(いっつもいちいちうるさいなあ。)と思っていた。今までに、同じ事が何度も何度もあった。父が私のつめを見て、

「ああ〜のびてる〜っ不良〜っ。」とさけんだ。私が、

(何い〜?まだあるの〜っ、しつこいなあ〜っこの人は。ところで何の事言ってるんだろう。)と思い、

「何言ってんの?」と聞くと、父は、

「つめだよっ、つめ!」

と言った。私は、母のつめを見た。母のつめは、けっこうのびていたので、父に、

「お母さんのつめは長いよ。」と言った。私は、

(ふっ、勝ったあっ!)と思っていたら、母が、

「つめが長いと不良なの?」と聞いた。父はすぐに、

「不良。」と答えた。私は、

(意味がわかんないよう〜っ、つめぐらいみんなのびてるって!)と思ったから、

「つめぐらいみんなのびてるよ!それに、お母さんもつめ長いんだから、お母さんだって不良じゃん。」

と言ったら、父が、

「お母さんはいいんだよ。特別なんだよ。」と言った。私は、

(なんだそりゃ。)と思っていた。母が、

「かみの毛ちゃんと洗ってるし、つめも一応切ってるし、そういうことだったら、南は清潔じゃん。」

と言った。続けて、

「つまりお父さんが言いたいのは、『身ぎれいにしろ』ってことなんでしょ。」

と言ったら、父は、

「そうそう。」と言っていた。私は、

(自分では、きれいにしているつもりだけどなあ……。お父さんは、そんなに私の事が気になるのかなあ。)

と思った。

 でも、あんまりしつこく言われると、私でもいやになるなあ。

 あとで、母から聞いた話だと、いつの時代でも、お父さんはうるさいらしい。




表現の方法・技術

○ 文章の組み立て方。

● 細かい書き綴り方。

○ 父親のひとことから、書き始めている。

● いつ、何時頃の出来事なのかが書けている。

● 父親の最初の会話を、しっかり受け止めて書いている。

● 最近の父親が、小言が多いことの説明を書いている。

● その時、心の中で思った事を正直に書いている。

● 父親とのやりとりを、会話できちんと書いている。

● 父親のしている事や自分のしている事をその通りに書いている。

● おかしいと心の中で感じ、すぐに反論した事を、会話の形にして書いている。

● 母親の反論を会話の形にして書いている。

● 父親のしている事を良く見た通りに書き、会話もその通りに書いている。

● 心に思い、会話も書く。

● 母親の応援の会話に、一緒に反論して、心に感じた今までの事を書いている。

● 父親の会話と自分の正直な気持ちを書く。

● 父親の会話を確かめた事を会話で書いている。

● 父親の会話から母親の爪を見て、すぐに反論した事を会話の形で書いている。

● 自分の心の中を書き、母親の会話も聞き逃さずに書く。

● 父親の言う『不良』の意味がわからないので、さらにその矛盾をつく会話を書く。

● 父親の苦しまぎれの会話とその時思った事を書く。

● 母親の応援の会話を書く。

● 母親が父親の立場になっている会話と父親の会話を書いている。

● 父親の事を、改めて自分に引き寄せて考えている。

○ 終わりに、父親というものをまとめている。


週刊墨教組 No.1248  1999.7.9  82号


はじける芽(81)

週刊墨教組 No.1242  1999.6.3

書く事は、自分の感動をくぐり抜けて、

本物の「生きる力」をつける事に繋がる

  ━━━新指導要領を読みながら━━━

  題材指導に関わって その2  

(4)大きな国語科教育のすすめ

 日記に限らず、作文(つづり方)教育の独自性をと言う事を、文部省の「小さな国語教育」に対して、「大きな国語科教育」を民間教育の先輩達は訴えて反撃してきた。

 自然や社会や人間の世界の意味や美をとらえさせると言うときの「意味」や「美」とはなんであるか。子供がとらえたものの「意味」の豊かさ、正しさ、値打ちの高さを評価していく基準は、どこからでてくるものであるのか?それは全体の教育の目標から出てくるとしかいいようがないのであって、ここに、「つづり方教育」が、「教育」であると同時に、正しい「国語科教育」であることの真骨頂があるのである。そしてこれは「生活つづり方」というばあいでも例外ではないのである。

(生活つづり方Π「国語教育とつづり方」国分一太郎文集6『新評論』より)

(5)書き方の大事な方法を教えていく

 何回かの作文の授業をする中で、文章を生き生きと書く大事なマニュアルがあるんだと言う事も、わからせていく。それは、この「はじける芽」でも、何度か強調した事である。

文章を生き生きと書く六つの大事なこと

@いつ、どこで、だれが何をしたかが、はっきりわかる文にする。

Aその時、思ったり、考えたりした事は、(……。)を使って文にする。

Bその時に、自分がしゃべったり、相手がしゃべったりした言葉は、「……。」を使って文にする。

Cその時の自分や相手の動きや、回りの様子にも、気が付いたら書くようにする。

D自分はわかっていても、読み手がわかるように説明もいれて文にする。

E必要なところは、物の形や色や大きさ、手ざわり、においなど、五感(官)を働かせたことをていねいに、よく思い出して書く。

(6)時間割りの中に、作文と位置づける

 現行の指導要領でも、高学年は週一.八時間をとらなければならない。来年度からの新指導要領の中でも、一.五時間程度は取るようにと書かれている。そこで、最低一時間は時間割の中に「作文」と入れておくべきである。昨年度も、また、本年度も一時間を必ず取るようにしてきた。「日記」は、子供達が自主的に書き上げてくる作文であるが、クラスの子供達全員に授業をしていかなければ、題材の広がりも、豊かな表現力は育たない。

          

(7)指導題目をたてた二例

 学期に一、二回位は、指導題目をたてて一斉指導をしてきた。何年生を担任しても、一学期の始業式の日の事は、子供達には忘れられない日なので、このような題目をたてて書かせている。

@四〜五月の指導題目(一学期)

 五年生なった日の事で、心の中に強く残った事をじっくり思い出して、出来事の順に「…でした。」「…ました。」と過ぎ去った書き方で、書いてみよう。

 *「いやだった転校が」はじける芽72号参照

A十月〜十一月の指導題目(二学期)  自分の身の回りの出来事で、困った事や不満に思った事や疑問に感じた事を生き生きと書いてみよう。

 表現意欲喚起・題材指導のために、子供達と話し合いを持った。消費税の問題・ゴミ問題・野菜の値段・商品券・交通事故・水不足問題などの環境問題と、幅広く題材は広がった。自分たちの身の回りには、様々に題材が起きていることに気付くようにした。

 年刊文詩集のいくつかの作品も読み合う。「和歌山のヒ素カレー事件」や「北朝鮮のテポドン」のような、取り上げても良いのだが、そこに子供の視点や生活感覚の入り込める余地のあるものを、選ばせてきた。

 *「ボーナスが出た」の作品挿入          はじける芽79号参照

 なお、恩給法は、一九二三年にでき、一九四五年には、共済年金法に切り替えられて、今はないことも、子供と学び合った。

(8)「総合的な学習」は、作文教育で

 二00二年度からの目玉になっているのが、「総合的な学習」だ。ねらいが次のように書いてある。

@自ら、課題を見付けて、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。

A学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的に、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにする。

 この文章を読むと、作文教育で十分達成できる。私達が、戦前から現在に至るまで大事にしてきた「生活綴方=作文教育」の精神を受け継ぎ発展させ、今まで通り実践していけば良いのである。

 墨田区の教育研究会の社会科部会では、「問題解決学習」をずっと大事にしてきた。また、区の教育の中心の柱に「人権」をすえて、どこの学校でもそれを根底においてきた。また、教員組合の教研の柱に、「同和教育」「平和教育」「作文教育」「障害児教育」などをずっと追求してきた。作文教育では、地域の年配の人から値打ちのあることを聞き書き作文にしてきた。東京大空襲の話や「原博おじさんの戦争体験」など、平和追求の作文教育などは、「総合的学習」に十分絶えうる実践であると自負している。

(9)おわりに

 来年から教科書が新しくなる。一学期中にどこの学校でも、内容を検討して各教科の推薦をすることになっている。国語の教科書を読ませてもらったが、作文教材の扱いが会社によって見事に違っていた。明らかに作文を軽視しているという教科書も見られた。自分の感情を潜り抜けた言葉を再現するには、『一回限りの出来事を、あった順に表現していくこと』がやさしく、また大事な方法である。それを繰り返すうちに『生きる力』を身に付けていくのである。

 この頃の子供達が、思い起こしをするのがにがてである。短作文を奨励したり、ありもしない事でも勝手に想像していく作文を勧めている教科書もある。一時的には飛び付くかもしれないが、作文の本当の力は付かない。

 じっくり思い起こしをして『ひとまとまりの文章』を書かせることをしなければ、表現力は豊かに育たない。(『小学校教科書批判分析特集』参照)

 国際理解教育があるので、「英会話教育」を試行で取り入れている学校がある。全国一斉に同じようなことに取り組んだら、「特色ある学校作り」にはならないのである。薄っぺらな「学校作り」を今から心配している。


はじける芽(80)

書く事は、自分の感動をくぐり抜けて、
本物の「生きる力」をつける事に繋がる
  ━━━新指導要領を読みながら━━━
題材指導に関わって

(1)はじめに
 教課審(教育課程答申)のねらうもの
 一人の人間が死に追いやられた。日の丸・君が代をめぐって、卒業式前に自殺をしてしまったのは、広島の校長先生だ。その背景を探っていくと、昨年七月に出された教育課程答申の「国旗および国歌の指導の徹底を図る」の明記に辿り着く。
 実施率の低い都道府県の教育長に対して、文部省初等教育局長などの幹部が機会あるごとに是正を求めてきた。
 答申をほとんどそのまま受けた「学習指導要領」を読んでいくと、教育の価値観の多様性をしきりにいう。「個性の尊重」を大事にしながら「特色ある学校作りを」と叫んでいる。卒業式は、最後の授業である。その基本を全国一律同じにしておいて、良くもぬけぬけと書き上げたものだ。

(2)小学校学習指導要領の中身
 書くことを中心に
 昨年度は、五年生を実践してきたので、改めて、高学年の項を広げてみた。(今回から学年別になっておらず、低・中・高学年という記述に変わっている。)
 「第五学年及び第六学年」の書く事の項目の目標のところには、次のように書かれている。
(2)目的や意図に応じ、考えた事などを筋道を立てて文章に書く事ができるようにするとともに、効果的に表現しようとする態度を育てる。
 ここには、子供の興味や関心、現実生活からは遠く離れたものになっている。形式的な練習、社会で行われてる様々なジャンルの文章の書き方の練習をしているにすぎない。
 さらに、内容の所では、こう書かれている。
(1)書くことの能力を育てるために、次の事項について指導する。
ア、目的や意図に応じて、自分の考えを効果的に書くこと。
イ、全体を見通して、書く必要のある事柄を整理すること。
ウ、自分の考えを明確に表現するため、文章全体の組み立ての効果を考えること。
エ、事象と感想、意見などとを区別するとともに目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること
オ、表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること
 ここに書かれていることは、子供達の身近な所で起きる出来事からの出発は微塵もない。それは,
「各教科の指導に当たっては、児童がコンピューターや情報通信ネットワークなどの情報手段に慣れ親しみ、適切に活用する学習活動を充実するとともに、……。」
{学習指導要領の総則の第五の(8)}
を意識した上での「目標と内容」の合致である。子供達の作文力が低下しているといわれているのに、このようなねらいを達成すれば小学校の高学年は十分であるという姿勢が許せない。「ひとまとまりの生き生きとした文章」を誰もが書けるようにさせて、中学生になってほしいという願いとは、およそかけ離れたねらいではないだろうか。
では、どのようにして子供達に指導させていくべきかを、この「はじける芽」でこの一年も訴えていきたい。

(3)まず「日記」指導から
 私は、どの学年でも、心や体を通して、五感(官)から感じる感覚を大切にしながら「事実」を丹念に「ありのままに綴る」方法を大切にしてきた。
 高学年を担任すると、最初に読み合う作品がある。それは、十年前に担任した五年生の児童が、日記指導を始めて間もない頃に書き上げてきた日記の文章である。
          
 木へんに秋ってなんて読むの
 五年       
 きょう なにげなしに、漢字の本を見ていたら、木へんに春、夏、秋、冬の漢字があった。おもしろいので、ぼくがお母さんに、
「木へんに春、夏、秋、冬の漢字あるんだよ。知っていた?」
と言った。そしたらお母さんが、
「知ってるわ。木へんに春は椿(つばき)、夏は榎(えのき)、榎本先生のえのじゃない。冬は柊(ひいらぎ)、秋は……あら、なんだったかしら。」
と言った。お母さんも、木へんに秋もわからないんなら、
(辞典で調べてみよう。)
と思った。お母さんから、新しゃく漢和辞典というのを貸してもらった。お母さんが、
「まず木へんの所をさがして、秋の画数の所を 見ればいいのよ。」
と、教えてくれた。まず、表紙の裏に、部首のさく引がのっているから、そこで木へんをさがした。ぼくはすぐに見つけた。四九二ページだった。すぐに、そのページを開いて、秋の画数、九画の所をさがした。それもあんがいすぐに見つけた。木へんに、秋の音読みは、シュウ、訓読みが、ひさぎだった。楸(ひさぎ)は、植物で、ノウゼンカズラ科の、落葉高木、と書いてあった。他にも、椿は、ツバキ科の常葉高木、柊は、常緑低木で、ソロバン玉に使われている。榎は、けやきに似たニレ科の落葉高木と書いてあった。ぼくは、木へんに春夏秋冬があるなら、人べんにもあるだろうと思って調べたけどなかった。でも、ぼくは、そういうおもしろい、めずらしい、こんなのあるのという漢字をどんどん見つけようと思う。
一九八九年六月 発行「はじける芽 」より

 このようにして、日記に書く題材は、ふだんの何気ない暮らしの中から、心の中に強く残った事を書けば良い事をわからせる。
 同時に、日記の題材は、大きく分けて三つあることも強調しておく。
☆人との関わりを書く(友達・家族など)
☆自然との関わりを書く。
☆社会との関わりを書く(世の中の出来事)
 また、文章を書く時に、一番書きやすく、誰でもできる書き方がある事も教える。それは、日本作文の会で出している「生活綴方教育=正しい作文教育における『指導段階の定式』」というのがある。その第一段階は、
  自然や社会や人間にまつわる一回限りの過去の経験を再現するように各文章表現のちからと方法とを、すべての子どものものにしていく指導の段階。あるいは、ある日、ある時、あるところで見聞きし経験したことの中で、とらえた事実、それについて考えたこと、感じたことを、「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」と、過去形表現を主にして綴っていく文章の書き方に十分に慣れていく指導(展開的過去形表現形態の表現の指導)
と書かれている。
 なお、この作品は、墨田区で使用されている日本書籍の国語教科書五年上に、来年度からのる予定である。
 今は、大学三年生になっている彼に、検定に出す前に連絡すると、お母さんが電話に出て感激してくださった。

はじける芽(76)

鑑賞のための詩




11月の指導題目
季節の変わり目に敏感に反応して、身近な生活の中から、感動したことを切り取って詩に書いてみよう。

★ 人間の暮らしの変化。★自然の移り変わりの変化。★世の中の出来事の変化。
★ 人々の会話から。★動植物の泣き声・しぐさから。★店に並ぶ、品物の変化。


こおろぎ
東京 1年


こおろぎがね、
ころころと、ないてんのがね、
はじめはね、
つんころりんと きこえたのよ。
だから
あたしの 耳のせいかと おもったの。
そのつぎは、
ころころと きこえたのよ。
そのつぎはね、
つくりつくりと きこえたのよ。


きんもくせい
えひめ 2年


うちのにわに
きんもくせいの木がある。
学校から帰ると
プーンと いいにおいがする。
わたしは、すぐ
きんもくせいの木の下に行った。
ジュースの においだった。
たべてみたくなった。
こっそり えだを おってたべた。
にがかった。うしろで おじいちゃんが
見ていた。


あき
東京 2年


ひまわりがかれた。
くきをおると、
木のえだのように
パキンと 音がする。
やっぱり 秋だ。


ひまわり
墨田区 4年


八月のむしあついころ
お日さまのほうをむいて
元気にさいていた夏の花。
でもだいぶすずしくなったから
しおれておじぎをしている。
しゃがんでのぞいたら
黒い点になっていた。
種がいっぱいついていた。
うずまきを作って進むので
風景はぐるぐると
いつまでもまわている。


赤トンボ
墨田区 5年


夕焼けにかこまれた空を
ふっと見ると、
赤トンボが 夕日いっぱいにとんでいる。
トンボの親や トンボの子をつれそって
どんどん夕焼け空に とんでいく。
それを 小さな子が おいかけて行った。
トンボは 空高く 小さくなった
子どもは まだ走り続けた
秋は もう私の前に来ている

このような、秋を切り取った感動を読み合い、生活のしぶり・書きぶりの良さを学び合う。自然の変化の中から、季節を感じる心を少しでも育てたい。次の詩は、鑑賞をしてから、一,二週間の間に「詩のノート」に書いたものだ。

ぎんなん
墨田区 5年


いちょうの木から
丸い実が地面のあちこちに落ちていた。
実を足で、そっとふんでみた。
グニャとして、
実の中から、かたい皮のついた
ぎんなんが出てきた。
つぶしたぎんなんを拾ったら、
手がすごくくさかった。
ぎんなんを木の下の所になげた。
急いで水で手を洗った。


紫のあけび
墨田区 5年


「なんだこれ?」
校長先生が言った。
私と○○ちゃんとで、
「なんだ?」
となやむ。
「やおやさんで売っているよ。」
ヒントが出た。
「やおや。?」
「中には、白い実があって、種がいっぱいあって甘いの。」
二つ目のヒントを言うと、
「あけび。」
と答えた。
「あたり。」
校長先生が言った。
きれいな紫色のあけび。
あきのフルーツ。


いいにおい
墨田区 5年


プーンと
甘くていいにおいがした。
「いいにおいするけど、何のにおい。」
すると母は、
「きんもくせい。黄色の花のにおいじゃない。」
花の方に指をさした。
木はものすごく大きかった。
近よって、におおいをかんだ。
あっそうだ、このにおいだ。
今日、同じ道を通った。
でも、いいにおいがしなかった。
「どうして、いいにおいしないの。」
と、母に聞いた。
「雨がふって、ちっちゃったんじゃないの。」
と言った。
ずっとずっと、いいにおいがあればいいのに。


秋の朝
墨田区 5年


「早く起きなさい。」
と母の声。
朝が寒くなって、
ふとんから出たくない。
中に丸まって、
みの虫みたいになる。
ふとんの中で、とうみんしていたい。
どんどん寒くなっていく。
もう秋がきた。


どんぐり
墨田区 5年

学校の帰り、
五号とう公園を通ったら、
坂道にどんぐりが落ちていた。
一つは、ぼうしつきのどんぐり。
もう一つはぼうしなしのどんぐり。
茶色と黒っぽい色。
ぼうしつきのどんぐりを手にとって、
ポケットに入れた。
もう一つは、足でけった。
コロコロ坂道をころがって行った。
ひらたい場所でとまった。
もう秋だなあ。


真っ暗
墨田区 5年

ジージジジパパパと
電気が光る。
あれ、まだ五時だよ。
空を見上げると、
もう真っ暗だった。
私は、こわくなって、
少しいそぎ足で
家に向かった。